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その夜、王子がポーラの額におやすみのキスをして寝室を出ていこうとした、ちょうどその時――クリフ王子の第一従者であるアントニオが、ラドクリフ王の訃報を王子の耳にお入れしました。
「父上が……?」
廊下の燭台の明かりの照り返しを受け、王子の顔は神妙に曇りました。
「そんな馬鹿な。今日の午前中にお訪ねした時には、実にお元気そうなご様子だったのだぞ。それが突然急に悪くなるとはとても思えぬ。まさかとは思うが、もしや……」
刺客が、と言いかけた王子に、忠実なアントニオは頭を垂れて、哀悼の意を表しました。
「はっ。それが、カリール先生のお話によりますと、ある種の急激な興奮により脳溢血でお倒れになられたのでは、とのことでした。詳しいことはまた王子が王さまの寝室に参られました時にしたいと先生は申されておいででしたので、王子はどうか、今すぐにでも……」
「無論、そのつもりだ」
王子はそう答えるが早いか、踵を返して、王の寝室のある北翼の宮殿へと向かいました。革靴の音がモザイク模様の冷たい床の上に響き渡り、廊下の燭台の明かりが王子自身の影を壁に投げかけています。
クリフ王子はまだ実感がわかないせいか、父王の死を悲しいとは思いませんでした。それより、自分がこれから王位を継承するにあたって内部にいる反乱分子がどう動くか――これからの政治情勢についてあれこれ思いを巡らせながら、渡り廊下を歩いていったのでした。
クリフ王子が赤紫色の緞子を分けて王の寝室へ入室すると、ベッドの上には両手を組み合わせた父の臨終の姿、その両脇にはカリール先生と泣き崩れている側女のカミーラの姿がありました。
「王子、この度は……」
弔辞を述べようとするカリール先生を手で制すると、王子は先に事情を聞こうとしました。何より、何故今側女がここにいるのか、そのことが気にかかりました。
「父が、もう一度脳溢血を起こしたら命が危ないということは、前から先生に聞いてわかっていたことです。以前から覚悟はしていました。ただ、今日の午前中にお訪ねした時には王はお元気であられたのに、何故突然このようなことになったのか、それをわたしは知りたいのです」
「それはですな、その……」
カリール先生が言いにくそうにちらとカミーラのほうを見やったので、王子はいかにも忌々しいといった顔をして、泣きじゃくる側女に向かって冷たくこう言い放ちました。
「もう下がってよいぞ、女。それに今宵限りでもう二度とこの部屋へは呼ばれることもないであろうから、安心するがいい」
カミーラは真っ赤な顔をしたまま、跪いて深々と一礼すると、脇部屋のほうへ下がってゆきました。そしてこの脇部屋の通路の先には、王の抱える妾たち専用の部屋がしつらえられてあったのでした。
クリフ王子は昼間と同じ、王の色艶のいい肌や上気したような薔薇色の頬を見て、なんとなく不審に感じました。あまりにも自分の父の死に顔が穏やかなので、とても死んでいるようには思われず、ただ安らかに眠っているようにしか見えませんでした。
「父の死には、先ほどの下女が何か関わっているのですか?」
「ええ、まあ……」と、カリール先生は言いにくそうに言葉を続けました。「ようするに、先ほどの女性が王のお戯れの相手をされている最中に、王は脳溢血を引き起こされたと、そういうわけですよ。わたしが駆けつけた時にはもう……王は息を引きとっておられました。彼女は最初、てっきり王が悦に入っておられるものと思って、王のご様子の変化に気づくのが遅れたようです。カミーラさまにもご連絡したのですが、今宵はもう疲れて眠いので、面倒な話は明日以降にしてほしいとのことでした……けれども逆にそのほうがよかったのかもしれませぬ。先ほどの側女はあまりにも、王妃のお若い頃に似ておりましたから」
「ふむ」
王子は顎に手をやると、目を閉じてしばしの間考えごとに耽りました。王妃である自分の母の若い頃によく似た、それも同名の側女というのがなんとなく引っ掛かったのでした。
「あの娘がいつ頃から王にお仕えするようになったのか、先生はご存じですか?」
「いいえ、知りませぬ。しかし、わたしがあの娘のことを見たのは今日が初めてですから……後宮へきて、まだ日が浅いのではないでしょうか」
クリフ王子は王の枕元にあったベルを二度鳴らすと、近衛兵を呼んで後宮の監督官である宦官のカルシュナを呼びにいかせました。あのカミーラという側女が本当にカミーラという名前なのかどうか、また彼女の素性について詳しく知りたいと思ったからです。しかし、このカルシュナという声の甲高い禿頭の男は―― 実をいうとラドクリフ王の弟で大蔵省の大臣でもあるカイゼルベルクのまわし者でした。彼はロイヤル・サイオニア号難船の報を聞いた時に自分の実の兄である王を穏便に暗殺する計画を思いついたのです。そこで後宮の監督官であるカルシュナに大金を握らせると、いかにも好色な王の好みそうな若い女性に、夜の相手を勤めさせたというわけなのでした。
もっとも、当然のことながらクリフ王子はそのような事情をご存じありませんから、宦官のカルシュナが平伏して、カミーラの素性について淡々と述べるのを、特に不審にも思わず黙って聞いていました。そして自分の杞憂だったかと思い、ラドクリフ王の死を脳溢血の発作によるものと断定し、王宮の書記官にもサイオニアの歴代誌にそう記すよう命じたのでした。
ラドクリフ王の荘厳な葬儀が終わり、クリフトフ王子が正式にサイオニア王国の王となった時、民衆は歓呼にわき返りました。クリフ王子――いえ、クリフトフ=ラヴィニエール=サイオニア王が王の就任式で民衆に語った言葉の中には、減税案を推進するという約束ごとが含まれていたからです。
このことに難色を示したのは、当然ながら事前に何も知らされていなかった貴族院の王侯貴族たちや枢密院の神官たちでした。クリフトフ王は<農地改革>の柱として小作人制度を廃止しようとしましたから、広大な領地を持つ貴族たちにはたまったものではありませんでした。当然のことながら議会は紛糾し、小作人が地主から借りた土地を七年耕して税金を納めれば、その土地の所有権は小作人のものになるという法案は、一旦見送られることとなったのです。しかし、そのかわりに王は国中の小作人の小作料を一エーカーごとに一定にするという譲歩案を議会に認めさせましたので、それまでその土地土地の地主が自分の考えによって勝手に取り決めていた小作料は、大分支払いやすくなるはずでした。
この貴族院の会議では、血こそ流れませんでしたが、毎日がそれこそ戦争のようなものでした。その上大蔵省の大臣(財政総監)でもあるカイゼルベルク卿が、何かと王と試案について反目いたしましたので、議会は常に真っ二つに割れていました。そこで動いたのが、王母であられるカミーラさまで、彼女はあらゆる情報網を駆使して、クリフ王のことを援助しました。まず彼女は大蔵省に何人かの刺客を送りこみ、財政査察官のコスティアスという男を抱きこむと、カイゼルベルク卿を公金横領の罪で訴える口実を見つけだそうとしました。また同時にこの頃、枢機卿のフィッツジェラルド卿が心臓発作で突然亡くなったというのも、カミーラさまにとってはなんとも都合のよいことでした。彼女は王である自分の息子に、フィッツジェラルド卿亡きあと彼の財産をすべて没収して国に返還させるよう助言しました。すなわち、百四十万エーカーもの土地や五千点にものぼる絵画や彫刻などの美術品、四万巻にものぼる蔵書の数々を国のものとして、新たに枢機卿に就任したモディアール卿には<宗教改革>を断固推進する熱意のみを求めたのでした。彼は枢密院で行われた投票によって選ばれた枢機卿ではありましたが、もはやなんの力もなく、司法権まで王に奪われてしまったのでした。そうなのです――<農地改革>の次にクリフトフ王が着手したのが、司法省の改革でした。それまで司法は枢密院の神官たちが裁判官としてその役職に就いていたのですが、王は自分が大法官の地位に就任すると、陪審員制度をとることにしたのです。すなわち、この陪審員には貴族や有力市民などが選ばれ、傍聴席には一般の民衆も出席することが許されるようになったのでした。
あともうひとつ、クリフトフ王には懸案事項があって、それは海港ダニスにほど近いサイゴン島にある王立賭博場をどうするかということでした。クリフトフ王は、前王のラドクリフ陛下が心配なさっていたように、大変潔癖な性格をしておいででしたから、賭博という行為そのものを許すことができなかったのです。けれどもこのことを母上であるカミーラさまに相談したところ、賭博場は国の繁栄しているしるしとして、廃止すべきでないと叱責されてしまいました。それに、賭博場で多額の金をするのは私腹を肥やしている貴族たちばかりなのだから、大いに散財させてむしろそれを国益としたほうがよいというのでした。
カミーラさまは正式に摂政の地位に就いておられたわけではありませんが、クリフトフ王はもうその頃には、自分の母の政治的才覚を認め、何か事が起こった時にはカミーラさまに真っ先に相談するようになっていました。実際のところ、王にとって彼女は非常に優れた影の参謀でした。クリフ王が自分の母のことを何かの役職に就けたほうがよいのではないかと考えた時にも、彼女はそれを辞退し、あくまでも政治の表舞台には出ようとしませんでした。そうなのです――彼女の母国であるカンツォーネ王国の前王は、カミーラさまにそのような政治的才覚が備わっていればこそ、自分の娘である彼女を隣国へ嫁がせたのですが、彼が望んだとおりには事は運ばなかったのです。すなわち、サイオニア王国とカンツォーネ王国との三十年戦争ののち、二国間で交わされた和平条約は次のようなものでした。これから後十二年間はいかなる理由によっても互いの国を侵略しないこと、またカンツォーネ王国のアルブレヒト王の長女カミーラ王女はサイオニア王国の現国王ラドクリフ王と婚約するが、もしふたりの結婚後に男子が誕生しない場合、サイオニア王国は再びカンツォーネ王国の領地として併合されるものとする ――カミーラ王女には当時、心から深く愛しあっていた海軍の提督がいたのですが、結局政治の道具として隣国へ嫁いでこなくてはならなかったのです。カミーラさまはそのことで大変ご自分のお父上をお恨みになっておりましたから、その仕返しにと、何がなんでもラドクリフ王との間に男子を生んでみせると意気ごんでおりましたし、またそれだけでなく、カンツォーネ王国の間者がサイオニアの宮廷に姿を見せた時にも彼らをひとり残らず血祭りに上げて、自分の父への返礼としたのでした。
そのような事情もあってか、カミーラ王大后はクリフトフ王とポーラの交際には非常に寛容でした。確かに普通に考えればこれは尋常ならざることなのですが、カミーラ王大后だけではなく、今では王侯貴族の誰もが――ふたりのことをお似合いのカップルとして公
認していました。それは何故かというと、王宮歌劇場でポーラが歌う歌声に、その秘密がありました。彼女の美しい天使のような歌声を一度でも耳にしたことがある者は誰も、ポーラはさる高貴な生まれであるということを信じずにはいられなくなり、ついにはそれが強烈な暗示として記憶の中に刷りこまれるようになったのでした。つまり、ポーラがどこの誰かは誰にもわからないのだけれど、とにかく彼女はクリフトフ王に相応しい身分を有しており、そのことについて深く考えようとすると頭痛が起きるといった具合に。
それでもふたりが御成婚されたのは、ラドクリフ王が崩御された約二年後のことでした。その間クリフトフ王は政治改革を断行するのに忙しく、御結婚の準備をするどころではなかったのです。ポーラはそのことを特に不満に感じたりするような娘ではありませんでしたし、何よりクリフさまのおそばにいられるだけで毎日この上もなく幸せでした。ただし、王宮で七日の間祝われたふたりの盛大な結婚式ののち、初めてポーラは人魚が人間になったことに対する代償について、深く自覚させられることにもなったのですが。