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 ロイヤル=サイオニア号が難破して、半月あまりが経過したある日のこと、クリフ王子は高台にある王城から入江へと続くなだらかな下り坂を、暗い面持ちでゆっくりと歩いてゆきました。

  埃っぽい道の両脇には、薄紅色のハマナスの花が咲き乱れて快い芳香を放っておりますし、遠くのほうに目をやるとそこには、夏の陽射しに照り輝く紺碧の海の穏やかなさざ波があるというのに――王子の心は急峻な坂道を転げ落ちるかの如く、どこまでも落ちこんでいました。

王子は二十一年生きてきた人生の中で、今以上につらい季節を迎えたことが、一度としてありませんでした。クロイツネイル将軍という、名門貴族出身の、これから自分の片腕となるべき友人を失ったこともさることながら、自分以外の船の乗員、九十九名の命を奪ったという罪の重さのことを考えると――瞳の中にうっすらと涙が滲み、絶望で頭の中が真っ暗になるのを感じました。

 クリフ王子はこの半月あまりの間、何度も同じことを初めから考え、冷静に、客観的かつ論理的に、何故あの夜、ロイヤル・サイオニア号が沈まなければならなかったのか、自分以外の乗員九十九名の命が失われなくてはならなかったのかについて、ずっと考え続けていました。

 まず一番最初に挙げられるのは、ロイヤル・サイオニア号が本土の海港から離れて七十の群島に向かったその目的と動機についてです。クリフ王子はこの第一の柱について考える時、一番最初の動機は間違いなく、疑いようもなく正しいものだと、そう思いました。もっとも、<宗教改革>のために船団を整えて出帆したいと父王に願いでた時、父王も貴族のみなも大反対したのですが、クリフ王子はフィッツジェラルド枢機卿を味方につけて、なんとか宗教改革法案を貴族院に押し通したのです。

 しかし、いざ実際にダゴンを祀る神殿をとり壊しにかかると、民衆は手に石を握りしめて歯ぎしりするような反応を返してよこし、本当の意味での回心の光に導かれた者は、ほんの少数だけだったのでした。この少数の人々は、キリスト教の神だけがただひとりの神であり、ダゴンというのは漁師たちが魚を大量に採らせてくれると都合よく勝手に信じているだけの、まやかしの神であるということを告白した人たちでした。彼らはみなクリフ王子や神官たちの御元にきて平伏し、回心の涙に溢れながら信仰告白しました――王子はこうした真に悔い改めた者のことを思うと、収穫は少なかったかもしれないが、自分が行ったことはやはり正しかったのだと確信することができました。けれどもその帰り道の途中で船が難破したおそろしい夜のことを思いだすと、どうして自分以外の者が全員、死ななければならなかったのかがわかりませんでした。

(神よ、わたしはあなたの御心のとおりに事を行ったのではないのですか?それともあなたはわたしの努力不足を責められようとする方なのでしょうか?一体、あの夜に死んだ水夫のひとりの命とわたしの命とに、どれだけの違いがあったというのでしょう……クロイツネイル将軍もスティーブ船長も、統率力のある、部下のみなから慕われていた人たちでした。むしろわたしのほうこそが、彼らのひとりのかわりに、海の藻屑となって消えていればよかったものを……)

 それから王子は、海港にある波止場のひとつから小さな舟に乗り、ひとり櫂を漕いでかつて自分が投げだされていた洞窟の入口へと向かいました。王子は海鳥の鳴き声とさざ波の音しか聞こえない小さな舟の中で、自分はどうやってあの時この洞窟まで辿り着くことができたのだろうと、何度考えてもわからない難問を解こうとする人のように、自問自答し続けました。

(まず自然のうちに波に運ばれて、あそこまで辿り着いたとは、到底考えにくいだろう……貴族たちはみな、おべっかを使って『海の神の守りが王子とともにあったのでしょう』などと言うが、わたしはその海の神の神殿を破壊した張本人なのだ。国の者がみな、ロイヤル・サイオニア号沈没の報を聞いて、心密かに思っていることを、わたしは知っている。みな、海の守り神ダゴンの祟りだと思っているのであろう。ああ、わたしという人間はどうしていつもこうなのだ。わたしが正しく良いことを行おうとすると、何かしら問題が起こって躓くことになるのだから……)

 クリフ王子は溜息を着きながら、複雑な地形をしている海洞海門をくぐり抜け、海の神が祀られている洞窟の入口にまでやってきました。もしかしたらここに何度か来ているうちに、失われた記憶が少しでも甦りはしないかと、そんなふうに思っていたからです。そして王子が、今日もどうせまた何も思いだすことはないだろうと諦めつつ、舟を洞窟の入口に乗り入れてみると、どうでしょう!自分が倒れていたのとまったく同じ場所に、人が倒れているではありませんか!

 クリフ王子は驚きましたが、それというのも倒れているのが女性で、その上その女性が一糸纏わぬ姿で岩の上に横たわっていたからでした。

「君!しっかりしたまえ!」

 薄暗がりの中で王子は女性の体を抱き起こして揺すぶりましたが、女性のほうからはなんの反応もありません。王子は女性の鼻の下に手をあて、息があるのを確認すると、乳房の間に耳をあてて、心臓の鼓動を確認しました。そして手首の脈をとってみると、極端に脈が少なくなっているのに驚き、とにもかくにもこの女性をもっと暖かい場所へと移動させ、服を着せてあげなくてはいけないと思いました。

 クリフ王子はこの夏の暑さにも関わらず、身分を隠すためにマントを羽織ってきていたので、その灰色のマントを女性の体にかけて、舟の中へそっと運び入れました。そして自分も舟に乗りこむと、急いで櫂を漕ぎ、元きた海の道を戻っていったのです。


 シーポーラは夢を見ていました。クリフ王子が海のほこらの前で倒れている自分の体を助け起こし、灰色のマントを着せて舟の中へ運んでくれるという夢です。そしてシーポーラが波にゆらりゆらりと揺られながら、

(これから王子さまはわたしのことをどこへ連れてゆかれるのかしら)

 と思ったところで目が覚めたのでした。

 シーポーラは柔らかな暖かい羽毛布団の中で目を覚ますと、(ここは一体どこなのかしら)と思いました。部屋の中を見渡してみると、今までに見たことのない物が、随分たくさんあります。天蓋つきのベッドに、美しい装飾の施された壁、金箔の張られた寄せ木細工の素敵な家具類や調度品などなど……。

(わたし、まだ夢を見ているのかしら?)

 シーポーラがそう思っていると、部屋のドアをノックする音が聞こえてきました。きっとドアをノックした人は、シーポーラがまだ眠っているものと思ったのでしょう。どこか儀礼的に小さな音を二度鳴らしただけで、すぐ室内につかつかと入ってきました。そしてその途端、シーポーラの胸はどきどきと高鳴り、どうしたらいいのかわからなくなって、すっかり頭の中が混乱してしまいました。

 シーポーラは裸の胸を羽毛布団を引きよせて隠しながらも、自分が何故そんなことをしているのかがさっぱりわかりませんでした。ただたまらなく自分が裸でいることが恥かしいと思いました。虹色の鱗で体をびっしりと覆われていた時には、一度もそんなふうに感じたことはなかったはずなのに……。

「やあ、やっと目を覚ましたんだね。よかった。カリール先生も、体のどこにも異常はないとおっしゃっておられたから、あとは何か美味しいものでも食べて、もう少し横になっているといい。僕が君を見つけた時には脈が極端に少なかったからびっくりしたけど、今はもう正常な値に戻っていると、先生も言っていたし……でも一応念のために、もう一度だけ」

 シーポーラには、ミャクヲハカルというのがどういうことなのかさっぱりわかりませんでしたが、クリフ王子が腕を差しだしてほしいと思っているらしいということはわかったので、大人しく素直に、右の手首を差しだしました――そしてあらためてびっくりしたのでした!自分の手の指と指の間にひれがないこと、それから腕にも肩にも肘にも、皮膚を守るための鱗がひとつもなく、透きとおるように美しいということに。

 クリフ王子もまた、名も知らぬ美少女の手首の脈を測りながら、(この娘はなんと美しいのだろう)と、白い肌にうっすらと浮きでている青い静脈を、見とれるようにじっと見入っていました。そして脈を測り終わってからも、自分が随分長い間ぼうっと少女の手首

を掴んでいたことに気づき、慌ててぱっと彼女の手を離したのでした。

「う……うん。もう脈のほうは大丈夫みたいだね。ところで君、名前はなんていうの?」

 クリフ王子は顔が熱くなってくるのを感じ、ベッドサイドから離れると、涼むためにバルコニーへ通じる窓を開けることにしました。

「……ポーラ」

 シーポーラは、本当は<シー>ポーラと発音したかったのですが、舌がこわばっていてうまく自分の名前を言うことができませんでした。けれども王子は、シーポーラが名前を言い直そうとする前に、

「<真珠>(ポーラ)か。君にぴったりの綺麗な名前だね。僕の名前はクリフトフ=ラヴィニエール=サイオニア。聞いたことがあるかい?」

 遠くの、光輝く青い海から流れてくる潮の香りを一息吸うと、王子は再びシーポーラのいるベッドまで戻ってきて、さっきと同じ場所に腰かけました。

「わたし……わからない」

 ポーラは美しい声で、けれどもどこかたどたどしい発音でそう答えました。知っていると答えれば、どうして知っているのかと聞かれそうでしたし、かといって知らないと答えたら、どうしてサイオニア王国の王子である自分の名前を知らないのかと聞かれそうな気がしたからです。こうした矛盾は、人魚がテレパシーで会話をする分にはまずほとんど生じるはずのない種類のものでしたので、ポーラはすっかり混乱してしまったのでした。

「ああ、ポーラ。泣かないでおくれ」

 目の前の美しい娘が突然細い肩を震わせてすすり泣きはじめたのを見て、クリフ王子はすっかりその涙に打たれてしまいました。

「怖がらなくても大丈夫だよ、ポーラ。君が僕のことを知っていようと知っていまいと、そんなのは大したことじゃないんだ。ただ僕はなんとなく、以前に一度君に会ったことがあるような、そんな気がしたものだから……」

 それは本当のことでした。でももし以前に一度、こんなに美しい娘に会っていたとしたら――決して自分は彼女のことを忘れやしないだろうに、思いだせないのは何故なのだろうとも思うのでした。

 クリフ王子はこれまで、<王子さま>という立場上、特定の女性と深いおつきあいというものをしたことがなかったせいか、女性が泣いている時、ことに彼女のように華奢で可愛らしい女性が涙をこぼしている時、どうしたらいいのかがさっぱりわかりませんでした。そしてある考えにはっと気づかされると、王子は先ほどと同じように――あるいは先ほど以上に――顔を真っ赤にしながら、後ずさりするようにしてベッドから離れたのでした。

「僕……いや、わたしは君に何もしていない。神にかけて誓ってもいいが、脈を測った以外、君には指一本触れていない。だから何も心配する必要はないし、君が裸なのはもともと君がその姿で倒れていたからなのであって……そうだ!これから侍女のひとりに頼んで、服を持ってこさせることにしよう。それがいい」

 ほとんど独り言を呟くようにクリフ王子はぶつぶつそんなことを言い、まるで盗みを働いたことがばれた盗賊みたいに慌てて<貴人の間>と呼ばれる客用寝室を出てゆきました。そして侍女頭のアメリアに、何着かのドレスと寝間着、一揃いの下着を用意するよう命じると、そのまま直接自分の足で、カリール先生のいる北翼の棟へ向かいました。

 王子は王の寝室のそばにある医務室で、ポーラが目を覚ましたということをカリール先生に伝え、それと何やら様子がおかしいようだということも話しました。

「うむ。もしかしたら王子が倒れていた時と同じように、精神が錯乱しているか記憶が混乱しているのかもしれませぬな。ここはひとつ、少し順序立てて色々な質問をしてみることにしましょう」

 クリフ王子は王宮の廊下を、カリール先生と並んで歩きながら、彼女が何か思い違いをしていないといいのだがと、そのことばかりをずっと心配していました。ポーラのいる西翼の宮殿の<貴人の間>から、カリール先生の医務室のある北翼の宮殿までは、歩いてゆうに十分はかかりましたが、ポーラのいる寝室では、まだ着替え中でした。それでクリフ王子は入室を遠慮したわけですが、カリール先生は医師という職業柄もさることながら、お年を召していらっしゃるということもあり、「失礼します」と言うが早いか、さっさと室内へ入ってゆかれました。

 クリフ王子はなんとはなし、そわそわしながら細かい彫刻の施された樫の扉の前をうろうろ歩きまわっていましたが、そのうち侍女頭のアメリアの甲高い声などによって、ポーラが何故「わからない」と言ってさめざめと泣きだしたのかが、次第に少しずつわかるようになってきました。

「先生、この方少しおかしいんですよ。下着の身に着け方がわからなかったり、服を後ろ前に着てみたり……ふざけているんだか、なんなんだか。あっこれ、お待ちなさいっ!」

 クリフ王子が、どうやら一応のところ着替えは終わったらしいと思って室内に入ってゆくと、途端にポーラが彼目がけて走りよってきました。そして王子の背後へ、怯えたように隠れてしまったのでした。

「クリフ王子。クリフさまからも一言、なんとかその娘に言ってやってくださいましな。まったく、この人ときたら……」

 サイネリア王宮、最古参の侍女、アメリアは両手を腰にあて、怒っているというよりは呆れたように溜息を着いていました。

「服の着方はおろか、口の聞き方すら知らないんですから。ただひたすらオロオロして、ぽろぽろ泣くばっかりなんですもの。これじゃあなんだか、あたくしがいじめてでもいるような具合じゃありませんか」

「すまなかったね、アメリア」と、クリフ王子はすっかり怯えて震えているポーラのことを振り返り、微笑して言いました。「あとのことは僕と先生でなんとかするから、とりあえず今のところは下がっていておくれ。また何かあったら呼ぶと思うけど……」

「承知いたしました。それではあたくしはこれで」

 アメリアはドアの前でスカートをつまんで会釈すると、部屋から退出してゆきました。

「大丈夫だよ、心配しないで。何も怖がることはないんだ。カリール先生は君の具合を見てくれるお医者さんなんだよ。ほら、僕がついてるから……」

 クリフ王子は、白い絹の寝間着を後ろ前に着ているポーラのほっそりとした白い手を握りしめると、安心させるように肩にも手をまわして、彼女と一緒にベッドの縁に腰かけました。

 カリール先生はバルコニーのそばから籐で編んだ椅子をベッドの前まで持ってきて座ると、何やら考えごとでもするように銀灰色の髪を何度も掻いています。

「君の名前はポーラ。それで合っているのかな?」

 カリール先生は山羊の毛のように白い眉の下から、優しい眼差しを投げかけるようにして、ポーラにそう聞きました。ポーラはこくりと頷き、それから隣のクリフ王子に向かってにっこりと微笑みかけました――ポーラの名前は本当はシーポーラというのでしたけれども、クリフ王子が<ポーラ>という名前が自分にぴったりだと言っていたのを思いだし、その名前で呼ばれたいように思ったからです。

「じゃあ、ポーラ。これが何がわかるかな」

 カリール先生は真鍮の鏡台の上から鼈甲の櫛を持ってくると、それがまるで人を叩く道具であるかのように、空中に振りかざしながら聞きました。

「先生、それはクシというものです」

 ポーラはたどたどしい口調で答えました。でも本当のことをいうとポーラは、そのクシというのが何をするものなのか、全然わかっていませんでした。けれども、クリフ王子の握った手の先から思念のようなものが流れこんできて、それが髪の毛を梳かす道具であるということがわかったのでした。アメリアの心も、またカリール先生の心も、ポーラが読もうと思って読めないことはないのですが、アメリアの心は石のように硬く強張っており、カリール先生の心は棺の蓋のようなもので閉ざされているため、クリフ王子の心がポーラには一番読みとりやすかったのです。

「ふうむ」

 さっきとはまったく様子の違うポーラのことを訝しく思いながらも、カリール先生は質問を続けることにしました。先ほど、アメリアが櫛を手にしてポーラの髪にあてようとした時には、彼女は半狂乱になって逃げだしたのですが。

「じゃあね、君が今着ているその服はなんというのかね?」

「パジャマです、先生」と、シーポーラはすぐに答えました。それから人は夜眠る時、今自分が着ているのと似たような格好をするのだということも、クリフ王子の心を読むことによって理解したのでした。

「ふむ。じゃあ君は何故、そのパジャマを後ろ前に着ているのかな?」

「それは……先生。それはアメリアさんが無理にわたしをパジャマに着せようとしたからです」

 ポーラはつっかえつっかえしながら、やっとそう答えたのですが、文法が間違っていました。それでカリール先生とクリフ王子は目を合わせて思わず笑いだしそうになってしまいましたが、ポーラには自分の言った言葉のどこがおかしかったのか、さっぱりわかりません。

「ふうむ。じゃあこれが最後の質問だよ。ポーラ、君は何故、あの海のほこらの中で倒れていたのかな?」

 固く握りしめていたクリフ王子の手をそっと離すと、ポーラは白い絹の寝間着の裾をいじりながら、黙りこくったままでいます。

「話したくないのかい?それとも……何も覚えてないのかい?」

 すぐ隣のクリフ王子が、心配そうに彼女の顔を横からのぞきこみ、優しい口調でそう聞きました。

「わたし……わかりません」

 カリール先生は立ち上がると、ポーラの頭を撫でようとしましたが、彼女は顔を両手で覆ったまま、また泣きだしてしまいました。それでカリール先生は、ちょっと外に出るよう王子に目で合図し、ドアを閉めるとポーラに聞こえぬよう、小さな囁き声でこう言いました。

「あの娘はおそらく……記憶喪失ですな」

「記憶喪失!?」と、王子が思わず大きな声をだしたので、カリール先生はしーっと、人差し指を口にあてました。

「わたしも一度しか記憶喪失の患者を扱ったことはありませんが、その患者は馬車に轢かれた時のショックで、記憶を失ってしまったのです。その男も、自分の名前以外は何も思いだせませんでした。しかし、馬の蹄の音や馬車の車輪のまわる音なんかが怖くて怖くて仕方ないんですな。他の医者仲間とも彼のことについては色々話しあったんですが、記憶喪失というのはどうも、極度にショックな出来事に出会うことによって引き起こされるものらしいのです。そして記憶を失った鍵となる現象に近づくのを、極度に怖れるのですな。その患者は結局、記憶をとり戻す前に不幸にも、もう一度馬車に轢かれて亡くなりましたが……」

「もう一度馬車に轢かれてだって?」と、王子はカリール先生に怪訝そうに聞き返しました。「だって、その男は馬の蹄の音や馬車の車輪のまわる音なんかを極端に怖がっていたのでしょう?だったら、馬や馬車のいる方へなど、自分から近づいていくわけがない。それなのに何故……」

「いえ、そうではないのです。実はその男、馬車に轢かれた時に左脚を駄目にしておりましてな、しかもその馬車の持ち主というのがどうも、地方の領主である有力貴族だったら

しいのです。それで記憶をとり戻したあとに賠償金などを請求するための裁判を起こされ

ては迷惑と、今度は事故ではなく故意に何者かの手によって消されたというわけです」

「そんな馬鹿な……そんな馬鹿な話があっていいはずがない」王子は憤激しました。「その記憶喪失の男の家族か誰か、訴訟を起こす者はいなかったのですか」

「王子、どうか冷静になって考えていただきたい。ど田舎のびっこになった記憶喪失の農夫が貴族階級の人間に対して、果たして訴訟など起こせるものかどうかを」

「だが、しかし、それは……」と、クリフ王子は喉を詰まらせました。

「いや、失礼しました。わたしはその記憶喪失の男がどうこうというのではなく、あのポーラという娘のことをくれぐれもお気をつけなさいますよう、王子に申し上げたかっただけなのです。どうか彼女が何か思いだしかけても、無理には記憶をとり戻させぬよう、お気をつけください。無理に記憶をとり戻させようとすると、廃人になる可能性もありますゆえ。それから……」

「それから?」

「あの娘は確かに美しい。ですが王子。王子は御自分のお立場というものをどうか肝にお命じください。下着や服の着方がまるでわからぬところを見ると、もしかしたら身分の高い生まれの娘なのかもしれませぬが、せめてあの娘の素性がわかるまでは……」

「わかっている」と、クリフ王子は不承不承といった体で、老侍医とは目を合わせないようにしながら答えました。でも正直なところ、内心では王子はまるで自信がありませんでした。ポーラの、自分のことを信じて疑わない純真な眼差しのことや、しみひとつなく美しい柔らかな白い素肌のことを思うと――王子はもう、あの娘がどこの誰であれ、ここへ閉じこめて王宮の外へはだしたくないと、そんなふうにすら感じていたからです。

 クリフ王子は、ポーラと出会ったその次の日には、もう彼女のことを愛しはじめていました。いいえ、もしかしたら出会ったその瞬間に、すでに恋に落ちていたのかもしれない……とすら思いました。

 王子はポーラが侍女頭のアメリアと気が合わないらしいのを見てとると、侍女の中で一番大人しくて気弱そうなメアリーを、ポーラ付きの侍女にすることにしました。

 実をいうとこのメアリーは、ひとつの仕事をするのにとても時間がかかるので、侍女たちの間では『のろまで愚図のそばかすメアリー』と呼ばれて馬鹿にされている侍女でした。

 メアリーはクリフ王子の名前でポーラのいる<貴人の間>へと呼ばれましたので、最初はてっきり首になるものと思い、内心どぎまぎしていたのですが、樫の扉を開けた先にはとても美しい女性がひとりいるきりでしたので、どうしたものかとすっかりおろおろしてしまいました。

「あっあのう……わたくし、何か王子さまの御気分を損なうようなことを、いつの間にかしてしまったのでございましょうか」

 メアリーはスカートをつまんで会釈するやいなや、ポーラの足許に身を投げだすようにして、懇願する眼差しでもってポーラのことを見上げました。

「ああ、どなたかは存じませんが、お美しい方。どうか王子さまにとりなしてはいただけませんでしょうか。我が家は貧しい農家でして、わたしの下には六人もの妹や弟がいるのでございます。ここのお給金をもらえなくなったとしたら、わたくし……身を売ってでもお金を稼がなくてはなりませんわ」

 あんまり早口にメアリーがまくしたてるので、ポーラには彼女の言っている言葉の意味が半分も理解できませんでしたが、それでも彼女が何か必死に頼みごとをしているらしいということだけはわかりました。それでポーラはメアリーのひどく荒れてごわごわした手に鼈甲の櫛を握らせますと、清冽な川の流れのような澄んだ声でこう言いました。

「たぶん、わたしの髪をこの櫛で梳かしてくださったら、クリフさまがなんとかしてくださることでしょう」

 にっこりと微笑んでいるポーラのことを、メアリーはとても不思議な方だと思いました。そして彼女の深緑色がかった、豊かな黒髪を一櫛一櫛心をこめて梳かしていると、何故だか自分も嬉しいような楽しいような、清らかな気持ちになり、まだポーラがどのような人かもわからぬうちから、彼女のことが好きでたまらなくなってしまいました。

 ポーラはといえば、メアリーが自分の髪をとても丁寧に梳かしてくれているうちに、彼女の心の内を読みとって、メアリーがとても清らかな、心の美しい女性であることを知りました。侍女頭のアメリアの心は石のように硬く黒ずんでいたので、ポーラには読みとることが難しかったのですが、メアリーの心を読むことは、ポーラにとってとても心地好いことでした。それで、服の着方や脱ぎ方などを、言葉によって教わる前からポーラには理解できましたし、メアリーはほんの少しお手伝いするだけですんだのでした。

 珊瑚礁のように青く澄んだ水色のタフタのドレスはポーラにぴったりでしたし、真珠の髪飾りで結った髪もとても彼女に似合っていました。今、宮廷の女性たちの間では、襟ぐりを大きく開いた形の、胸の谷間をあらわにさせるタイプのドレスが大流行していましたが、王子は首までぴったりと覆い隠すタイプのドレスを、ポーラのために特に選んでいたのでした。

「まあ、なんてお似合いなんでしょう」

 部屋のドレッサーの横にある、全身を映すための姿見をポーラの前まで持ってくると、メアリーはまるで自分がそのドレスを着てでもいるかのように、ほうっと甘い溜息を着きました。

「きっとこれなら王子さまも、御満足あそばされることでしょう」

 ポーラは、セイレーンのセイラが言ったとおり、自分が人間の美しい娘であることを再確認し、驚愕のあまり震えおののいているくらいでした。

「ああ、メアリー……」

 喘ぐようにポーラは呟くと、まるでおそろしいものでも見たように姿見に背を向けました。そしてシルクの絨毯の上に膝をつき、助けを求めるようにメアリーに抱きつきました。

「わたし、これから一体どうしたらいいのかしら?」

 メアリーはポーラの瞳にうっすらと涙が浮かんでいるのを見ると、彼女と同じように膝を屈めましたが、ドアをノックする音が響いてきたので、先にそちらへ返事をしました。

「どうやら、すっかり仲良くなったみたいだね」

 クリフ王子は、ドレスに着替えてますます美しくなったポーラに見惚れながら、ジャケットの内ポケットから金の懐中時計をとりだすと、それを褒美としてメアリーに渡しました。

「これから君には、ポーラ付きの侍女になってもらうけれど、このお嬢さんはびっくりするくらい本当に何も知らないから、どうかそこのところを踏まえて、よろしく頼むよ」

 メアリーは、王子さまのことをこんなに近くで拝するのも初めてなら、じかにお言葉を頂戴するのも初めてでしたので、

「わたくしのような者に、もったいないお言葉でございます。わたくしのほうこそ、ポーラさまには誠心誠意仕えさせていただきとう存じます」

 その場に平伏して、王子のささやかばかりの心遣いである金の懐中時計を受けとることも辞退して、慎ましやかに<貴人の間>から退出していったのでした。

 この時メアリーは、王子のお心遣いを受けとりはしませんでしたが、実際のところ、その後のメアリーのお給金は今までの三倍以上になり、仕事のほうはといえば今までの五倍以上楽になったのです。今までメアリーは、洗濯や掃除や調理や皿洗い、裁縫など、一日中目のまわる忙しさで片付けていたのですが、これからはただひたすらポーラの世話だけをすればよかったのです。しかもポーラはとても優しかったので、メアリーが早く急いで仕事をしなくちゃと、焦らなくてはいけないようなことは、一度もありませんでした。だからメアリーにとってポーラに仕えるということは、毎日宮廷に親しい友達を訪ねて遊びにきているような、そんな感じのすることでさえあったのでした。

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