表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/15

 サイオニア王国のクリフトフ王子は、船室のベッドに腰かけて、両手の指を組み合わせながら、自分のしたことは本当に正しかったのだろうかと、ひとり思い悩んでいました。

 すぐ隣の船室からは、葡萄酒やラム酒をたらふく飲んだサイオニア王国の司祭たちの高いびきが聞こえています。王子は、自分の国の堕落した宗教状態に憂いを感じ、この度七十の群島をまわってダゴン崇拝をやめるようにと民衆に説いてまわったのですが、効果のほどはさほど上がってはいませんでした。特に本土の人間以上に島の住人たちは、キリスト教の神ではなく半神半魚の姿をしたダゴンこそが魚を大量に採らせてくれたり海の災害から守ってくれるのだと信じて疑っていないために――ダゴンの神殿を破壊する王子の一行を少しも快く思っていなかったのでした。

 クリフ王子がキリスト教の神の愛について説いたあと、ダゴンの神殿を軍の隊長たちに命じてロープで引き倒し、ハンマーなどで木っ端微塵に砕きはじめると、民衆はこぞって泣きはじめました。みな口々に「海の神の祟りが……」とか「これで来年の漁は全滅だ」といったようなことを呟きはじめ、最後には「ダゴンさま、どうぞ何卒お許しください」と数珠を手に海に向かって祈る者まで現れる始末でした。

 つまり、クリフ王子が説いた神の愛とはこういうことだったのです。キリスト教というのは一神教であり、他の神の存在を認めていませんから、この方だけを信じて礼拝するようにとクリフ王子は説いてまわったのですが、漁師たちはみなキリスト教の神のことを日

曜日だけ礼拝される神であり、地上のことをすべて支配なさっておられるけれども、海中のことを支配しているのは海の神ダゴンである、というようにしか決して理解しようとしませんでした。

 もちろん島民の中には、クリフ王子や神父たちの説教を聞き、心の底から悔い改めて地に涙を流し、平伏してイエス・キリストを礼拝する者も現れましたが、そうした人は本当に極少数だったのです。

 クリフ王子はダゴンを崇拝するのをやめてイエス・キリストを信じさえすれば、今よりも暮らし向きがもっと豊かになると説いてまわったのですが、漁師をはじめとする島民たちの頑なな心を真の生ける神ご自身に向けることはほとんどできなかったのでした。

 王子が今のサイオニア王国の堕落した宗教状態に憂いを感じ、王に宗教改革をすべきではないかと進言したところ、サイオニアの現国王、ラドクリフさまはこうお答えになりました――「まあ、よいではないか」と。

 クリフ王子は父君のこの「まあ、よいではないか」という口癖が大嫌いでした。クリフ王子の母君である王のお妃が自分の廷臣と浮気をしているにも関わらず、「まあ、よいではないか」と見て見ぬふりをし、富裕な貴族たちが農民や漁師たちを圧制して重税をとり立てていても「まあ、よいではないか」と軽く受け流す ――それがクリフ王子の父君、ラドクリフ王の国の治め方でした。

 お陰で金持ちの貴族たちばかりが私腹を肥やし、貧しい農民や漁民たちはますます貧しくなるばかりという大きな悪循環が国土のすべてを覆い、不正をする者の悪はいつまでたっても裁かれず、正しい者が代わりに鞭打たれねばならないという悲劇が国内のそこかしこに横行していました。そこで国のそうした悪い状況を打開するために、クリフ王子が考えだしたのが『宗教改革』であったというわけです。

 クリフ王子の宗教改革の第一の目的は、貴族も含めた国民の道徳心の向上という点にあったのですが、王子は民衆の心の拠り所であるダゴンの像を打ち壊しただけで、結局のところ自分は何もしなかったのではないかという罪悪感に苦しんでいました。ダゴンの像の安置された神殿が破壊される時の、漁民たちの恨みがましいような、抑圧された表情を思いだすたび、国は税金だけでなく我々の心の拠り所まで破壊しようというのかと問い詰められているような気がして、王子はその夜、なかなか寝つかれなかったのです。

 そしてクリフ王子がベッドの上で手の指を組み、「おお神よ、わたしは果たして本当に正しいことをしたのでしょうか?」と心の中で祈りながら神に問いかけていると――ググッと船体が大きく斜めにかしぎました。それから、パタンパタンと天井に大粒の雨が当たる音が聞こえ、その音の量が次第に大きくなってきたのです。クリフ王子は外の様子がどうなっているかを見るために、一度甲板へ上がることにしようと思いました。

「どうかしたのですか、船長」

 クリフ王子は甲板へ続く階段を上ると、白い髭を生やした、恰幅のいいスティーブ船長にそう聞きました。

「いえ、なんでもないのです、クリフ王子。どうか王子は何も心配なさらずに、船室のほうでゆっくりお休みになっていてください」

 そうは言いながらも、スティーブ船長の顔色は明らかに優れませんでした。それでクリフ王子も何か不測の事態が起きたらしいと直感したのですが、かといって王子には船の操縦について特別知識があるわけでもありませんでしたから、その場はとりあえず船長の言

葉を信じて、彼の言うとおりにしようと思いました。甲板上で忙しく立ち働いている乗組員たちや水夫の姿を眺めていると、どうもただごとではないらしいという張り詰めた空気が漲っているのを感じはしたのですが。

 赤い十字架と双頭の鷲の描かれた帆はすべて下ろされており、いざとなったらメインマストを残して他のマストはすべて切り倒してしまおうといったような話が、水夫や乗組員たちの間ではなされているようです。

「さあ、王子。王子はどうぞ船室のほうへお戻りください。こんなことは船乗りたちにとってはよくあることなのです。遅くとも明日の正午までには、我らが誇りとする港町、ダニスの岸辺に無事たどり着くことができましょうから……」

 クリフ王子はスティーブ船長に促されるまま、階段を下りて上甲板にある自分の船室の前まで来ていましたが、隣の部屋では相も変わらず、司教や司祭たちの高いびきが聞こえています。船長は船長で、見るからに落ち着かなげに船長室を出たり入ったり、甲板へ上がったかと思うと今度は中甲板のほうや大甲板のほうに下り、何やら船員たちにしきりと檄を飛ばしているようです。

 クリフ王子はランタンの明かりに照らされながら、甲板に上がった時に濡れてしまった髪を白いタオルで拭いていましたが、いかに航海に不慣れな王子といえども、嵐が近づいてきているらしいということくらいは、甲板に上がった時にわかっていました。船上で焚

かれていたかがり火は大粒の雨によってすべてかき消され、水夫や乗組員たちはみな、真っ暗な闇の中、ほとんど手探り状態で作業を行っていたのです。

 ああ、あの空の闇の色の、なんと濃かったことでしょう!月の光も星の光も何もなく、ただ不気味な波のうねりと風のうなり声だけが、ギイギイと船体のどこかを軋らせていて――あんなに不気味で不吉な音は、これまでに一度も耳にしたことがない、王子はそう思

いました。そして自分がほんの数分程度甲板に出ただけでこれほど濡れたのだから、甲板上の船員たちは冷たい波をかぶって、ほとんどずぶ濡れになりながら作業を続けているに違いないと、水夫たちのことをとても気の毒に思ったのでした。

(自分だけ、このように立派にしつらえられた船室で、のんびり休んでいてよいものだろうか)

 クリフ王子がそう思い、もう一度甲板へ上がろうとした時、激しく大きな縦揺れの衝撃が、船に襲いかかってきました!

 クリフ王子は壁に体を張りつけて、転倒しそうになるのをなんとか回避しましたが、机の上にあったまだ封の切られていないワインボトルなどは、床の上で勢いよく割れてしまったくらいでした。

 王子は次にきた横揺れの大きさにもなんとか耐え、船室の外へ出てみると、呆れたことに隣の部屋からはまだ大きな高いびきが聞こえています。

(なんということだ。このような時に神に祈ることこそ、聖職者の務めではないのか)

 王子が苦々しい思いで唇をかみしめていると、食堂からはガラス食器や陶器の皿などが割れる音が響いて来、外では乗組員や水夫たちの慌ただしい足音が上へいったり下へいったりしていました。

「船長、船はどうなるのですか!」

 クリフ王子は操舵室に飛びこむなり、そうスティーブ船長に訊ねました。操舵室では副船長が舵を波にもぎりとられそうになりながらも、まだなんとかこらえている様子でした。しかし船長はといえば、必死に踏ん張っているそんな副船長のことを、まるで他人ごとのように横で眺めているだけなのでした。

 その顔は色を失って青白く、唇などは青紫色をしており、船長はただひたすら「神よ、助けたまえ、憐れみたまえ」と唇の端に泡をためながら唱えるばかりでした。

 そしてクリフ王子が操舵室を出ると、下甲板のほうから水夫の一団が甲板目がけて突き進んできました。

「ポンプがやられた!もう終わりだ!」

「船倉にはもう半分以上、浸水しているぞ!」

 水夫たちは誰に言い聞かせるでもなく、口々に絶望的な言葉を吐きながら甲板へと上がっていきました。そしてずぶ濡れになっては中甲板や下甲板へおりていくというのを何度も繰り返しているのです。クリフ王子には何故彼らがそんな意味のないことを繰り返して

いるのか理解できませんでしたが、彼らはみな明らかに混乱していたのでした。

 クリフ王子は航海に不慣れだったせいか、航海術に長けた彼らよりも、むしろずっと冷静でした。水夫や船員たちには「もはやこうなってはおしまい」と思える状況でも「いや、まだなんとか持ちこたえられるはずだ」という希望を持ち続けることができたのです。

 クリフ王子は意を決して甲板に上がりましたが、それと同時に大きな波が、甲板へと続く階段の入口にまで押し寄せてきました。おそらく、このままでいけば、下の船倉からは水がせり上がって来、また上甲板のほうも上からの波で水浸しになることは間違いなかったでしょう。

 クリフ王子は舷側の柵に必死でしがみつきながら、暗闇の中、海兵隊の隊長の名を呼びました。

「クロイツネイル将軍!」

 クリフ王子が上からの波にもまれ、また激しい雨に口の中を塞がれそうになりながらそう叫ぶと、甲板の上を滑るようにしてやってくる、ひとつの濃い影がありました。

「クリフ王子!このようなところで何をしておられるのですか。救命艇の準備が整い次第、お呼びしようと思っておりましたのに……」

「救命艇?こんなにひどい嵐の中、救命艇などに乗ったとして、果たして助かるものだろうか?それよりも混乱している水夫たちを落ち着かせ、船が沈まぬよう神に祈りを捧げてはどうだろう」

 黒く波打つ髪の、美丈夫として知られる若き将軍は、暗闇の中で失笑しましたが、王子にはあたりが暗かったため、クロイツネイル将軍の表情がわかりませんでした。

 気をとり直した将軍は、王子に答えました。

「わかりました。兵士や水夫たちの全員を、一度食堂のほうへ集めましょう。もしや神が我々のことを憐れんでくださり、奇跡的に助かるやもしれません」

 上甲板にある食堂に集められた兵士と水夫の数は合計で七十七名でした。この三本マストのロイヤル・サイオニア号には、陸を離れる前には全員できっかり百人乗船していましたが、死人のようにいまだ眠り続ける神官たち七名と、甲板で作業中に不幸にも波に飲みこまれた者十三名、それから操舵室に閉じこもっている者二名を除くと、合計の人数が七十七名でした。

 クロイツネイル将軍とスティーブ船長はメインマストを切り倒すか切り倒さないかで激しい論争になっており――というのも、すでにフォアマストとミズンマストはとっくに切り倒された後だったので――兵士たちや水夫たちはみな、死人のような顔をしながらも、かろうじて狂気に駆られそうになるのをこらえているといったような表情で、船長と将軍の激しい論争を聞いていたのでした。

 クリフ王子もまた、船体が波にかしぐたびによろけそうになりつつも、クロイツネイル将軍とスティーブ船長のそれぞれの言い分に耳を傾けていましたが、王子の心はメインマストを切り倒す、切り倒さないということではなく、七名の神官たちのほうに向かっていました。

 クリフ王子は甲板からずぶ濡れになって戻ってきたあと、神官たちの部屋の中へ入り、彼らひとりひとりの顔をはたいて何度も起きるように言ったのですが、彼らは酔いつぶれていて誰ひとり目を覚まそうとはしなかったのです。船の揺れが激しいために、みなほとんどベッドから転がり落ちているという始末でしたが、それでもまだいびきをかいて床の上で大の字になって寝入っているのでした。

 王子は兵士や水夫たちの中に、海水でずぶ濡れになっていない者がひとりもいないのを見てとると、自分が連れてきた神官たちのことがとても恥かしくなりました。そして自分がしようとした宗教改革が誤りだったのではなく、司教や司祭をはじめとする神官たちの宗教心が腐り果てていることのほうにこそ問題があったのだと、初めて気づかされたのです。

「我、たとい死の陰の谷を歩む時も!」

 クリフ王子は突然立ち上がると、右手を突きだして叫びました。

「我、たとい死の陰の谷を歩む時も!」

 すると兵士と水夫の全員が、ある者は力強く、ある者は小さな声で、王子に続いて唱和します。

「我、決して災いをおそれず!」

 そしてクロイツネイル将軍もスティーブ船長もハッと我に返り、聖書のある詩篇の句を大きな声でともに唱和したのでした。

「神が我らとともにおられるゆえに!」

 この詩句を全員が言い終わるか終わらないかのうちに――ドーン!という鈍い垂直的な衝撃が、船全体に走りました。

 兵士たちも水夫たちもみな、一様に甲板へ駆け上がり、メインマストが雷に打たれて真っ二つに裂け、荒波の中へと消え去るのを目撃しましたが、不思議と誰も神の怒りの結果であるというようには感じていませんでした。むしろ神は確かに間違いなく存在しておられ、我々のことを今まさに稲光の彼方からごらんになっておられるのだと、そのように感じたのです。

 兵士と水夫たちの間からは歓声がわき起こり、クロイツネイル将軍とスティーブ船長は互いに和を講じました。とはいえ、このままいけば船が沈没するのは間違いなく時間の問題であり、事態が好転したわけでは決してないのです。それにも関わらず、水夫たちも兵士たちもみな喜び勇んでおり、王子と死をともにできることを誉めたたえあっていました。

 クリフ王子自身は「サイオニア王国万歳!」と唱える彼らの声を、内心複雑な思いで聞いていたのですが、やがて夜明け前のもっとも濃い闇の時刻が過ぎゆき、東の水平線から、太陽が白々と昇りはじめました。波はまだ荒れていましたが、嵐は太陽が昇るのと同時に、徐々に力を弱めつつあるようでした。

「王子、どうか救命艇にお乗りください」

 クリフ王子よりも頭一個分背の高いクロイツネイル将軍が、王子の御前に膝をついてそう申し上げました。

「だが、救命艇は二艘しかないのであろう。それでは助かる者はほんの二十名足らずではないのか。それよりも今のようにみなで心をひとつにして祈り、神の助けを待ったほうがよくはないだろうか」

 クリフ王子が王子らしい威厳をもってそう答えると、クロイツネイル将軍は頭を垂れたままで――将軍は内心、神にどんなに祈りを捧げたところで、この船は沈む運命なのだと思っていました――「お言葉ではございますが」と、王子に向かって苦言を呈しました。

「御自身の御身分のことをどうかよくお考えくださいませ。ラドクリフ王には今、クリフさま以外、お世継ぎがひとりもいらっしゃらないではありませんか。ここで万一王子がお命を落とされるようなことになったとしたら……政権は国王さまの弟君、カイザルベルクさまとその一派の思うがままになってしまうのですよ。よしんばそのようなことになったとしたら、国民は今以上に重税を課され、富んでいる者と不正をする者だけが得をする社会がこのまま続いていくということになるのです。王子は本当にそれでよろしいのですか」

 クロイツネイル将軍が志しを同じくする者として真摯な眼差しを王子に向けると、クリフ王子が口から何か言葉を発する前に、

「そうだ、そうだ。クリフ王子こそ我々民衆のことを本当に考えてくれる真の統治者だ」

「どうか王子、我々のことは構わずに早くボートにお乗りください」

「我々は天国で、王子がこれからなされるであろう改革のことを見守っています」

 といったような声が兵士たちや水夫たちの口から、次々と溢れでました。そしてみな「サイオニア王国、万歳!」、「クリフ王子に神の祝福のあらんことを!」と、誰からともなく声を合わせて唱和したのでした。

 実際のところ、兵士たちや水夫たちはみな、クリフ王子の神に対する信仰がうわべだけのものではなく、死に直面しても揺るぐことのないのを見て、尊敬の念に打たれていたのです。

 甲板上で王子は、自分よりもずっと身分の低い者たちに見送られながら、胸の内にあるものをぐっと堪えるようにして、舷側にロープで吊るされている救命艇の中へ乗りこもうとしました――兵士も水夫もみな、額に斜めに手をあて、直立不動で敬礼していたのですが、そんなみなの姿を見まわして、クリフ王子はそこでふと立ち止まりました。

「王子、どうかお早く」とクロイツネイル将軍が促しますが、王子は首を振りました。

「このボートは一艘の定員が十名だ。まだふたり、乗れるではないか」

 クロイツネイル将軍は内心舌打ちしたい思いでしたが、王子の気のすむようにと、最前列に並んでいた自分の配下の准尉をふたり、手招きして呼ぼうとしました――と、そこへ……。

「待ちなさい。ボートに乗るのはわしたちじゃ」

 寝乱れた僧服を直しもせずに、灰色のもしゃもしゃした髭を胸のあたりまで伸ばした僧侶ふたりが、名乗りを上げました。それはゴードン司教とサルツェル司祭でした。ふたりはようやく今に至って目を覚まし、ふらつく足で慌てて甲板へ上がってきたのです。

 ふたりは王子の前まできて軽く頭を下げると、我先にと救命艇に足を乗り入れています。クリフ王子はそんなふたりを見て深い溜息を着き、

「君たち、乗りなさい」と、准尉ふたりに向かって合図しました。

「十人でも十一人でも、命の助かる確率にさして違いはないだろう。わたしはここに残る。もしかしたら朝一番に漁へでた漁船が通りかかり、助かるかもしれないゆえ……」

 そして王子が生きるも死ぬも神の御心次第と言おうとした、まさにその時――王子の鳩尾のあたりを、サーベルの柄が襲いました。

「どうか、お許しを」

 クロイツネイル将軍でした。将軍は顎をしゃくって自分の部下に王子を救命艇へ運ぶよう無言で指示しました。そして見送る兵士と水夫たちに敬礼を返し、断腸の思いで自分もボートの中へと乗りこんだのでした。


 クリフ王子はずっと気絶なさったままだったので、まるで王子の脱出を待っていたかのようにロイヤル・サイオニア号が波間にくずおれるように沈んでいったことも、将軍の選り抜きの将校たちが乗っているもう一艘の救命艇が転覆する様も目にすることはありませんでした。

  そしてまるで生き物のような高い波をかき分けるようにして、もう一艘の船からただひとり、こちらの船に辿り着いた兵士が、

「助けてくれ!」

 と必死の形相で、船縁を掴みながら懇願しました。

 ところが、その兵士が船の上に乗りこもうとするやいなや――他の者もオールを漕ぐのをやめ、なんとか助けてやろうとしたのですが――ぐらりと船の重心が傾き、船尾にいたゴードン司教の体が危うく、波間に滑り落ちそうになりました。

 すると、サルツェル司祭は怒りの形相でもってオールを引っ掴み、やっとのことで命からがらここまで泳いできた者の頭に向かって、それをなんのためらいもなく振り下ろしたのでした。その者が気を失って船縁から手を離すまで、五度も六度も……その時のサルツェル司祭は恐ろしい顔つきといったら、とても神さまにお仕えする信徒とは思えないくらいでした。

 オールを漕ぐ役目に着いていた六人の兵士たちはみな、胸に五つ以上の徽章をつけている、実に誇り高い勇敢な人たちであり、普段は思慮と分別のある、大変優秀な人たちではありましたが、自分たちの親しい仲間が目の前で殺されるのを目にするやいなや――ゴードン司教とサルツェル司祭のことを、逞しい両腕でもってふたりとも船から突き落としてしまいました。

 そしてゴードン司教とサルツェル司祭があっぷあっぷと溺れ――どうやらふたりとも、あまり泳ぎが得意ではない様子でした――「助けてくれ!」と何度叫んでも耳を貸さず、船べりに伸ばしてきた手を、容赦なくオールで打ち叩きました。

 ゴードン司教もサルツェル司祭も、自分たちは指一本動かさないくせに、口だけは達者で、「もっと早くオールを漕げ」だのなんだのうるさかったので、ちょうどよい厄介払いができたとしかみな思いませんでしたし、それどころかこんな奴らふたりのために、先ほどみすみす仲間の命を失ったかと思うと、悔しくて悔しくてたまりませんでした。

 けれどもみな、とても疲れておりましたし、骨の髄まで冷えきっておりましたので、このことについてはお互い一言も何も話さずに、荒ぶる波を何度もかぶりながら、ひたすら船にしがみつくようにして、オールを漕ぎ続けました。

 クロイツネイル将軍もまた、一言も言葉を発しませんでした。将軍はただひたすら王子の体のことを気遣い、黒のマントを王子の体の上に掲げ持ち、できるだけ王子が波をかぶらずにすむようにしていたのでした。しかし、将軍のそのような涙ぐましい努力も虚しく、救命艇は何度も高波をかぶったあとでもみくちゃにされ、先に転覆したボートと同じ運命を辿ることになったのです。

 クロイツネイル将軍もクリフ王子も、海軍大佐も中佐もみなも身分の違いも差も何もなく、同じように等しく紺碧の冷たい海の中へと投げだされました。ある者はオールを掴み、またある者は引っくり返ったボートにまでなんとか泳ぎつきましたが、みなそれほど長い時を隔てずして、岬に墓標を立てられている人々のところへゆきました。

 そしてクロイツネイル将軍もまた、王子を波の狭間に見失ったあと、遠くに陸の幻を見ながら、泳ぎ疲れて自分の部下たちと同じところへ下っていったのでした。

 クリフ王子は、冷たい波の中にあっても一向に目を覚まさず、もはや死んだ人のようでしたが、それでもまだかろうじて生きていました。そして彼が海に投げだされるのをずっと待っていた、虹色をした何者かが、彼のことを背中に背負い、陸地に向かって波の間を縫うようにして進んでいたのです!

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
◇オリジナル小説サイト『天使の図書館』
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ