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 こうして、クリフトフ王はうまい自己弁護を思いついてまたしても自分の息子と対峙する機会を避けました。王の顧問であるエズラにはそのことがすぐわかりましたが、あえて王には忠言せず、暫くの間様子を見守ることにしようと思いました。

  メアリが王宮の東翼にある王子の部屋に出入りするようになると、確かに少しずつダニエル王子には変化の兆しのようなものが見えはじめましたが、それでもメアリの愛情は彼の孤独な心を完全には癒すことができませんでした。

 初めて王子がメアリと会った時、彼女は涙を流しながらひしと彼のことを身分もわきまえずに抱きしめたのでしたが、その意味がダニエル王子にはさっぱりわかりませんでした。やがて彼女が昔自分の母である王妃に仕えていた侍女であること、面差しがあまりにポーラさまに似ているので思わず抱きしめずにいられなかったことなどがわかりましたが、ダニエル王子はただ単に(変な女だ)と思って冷たく彼女のことを眺めやるばかりでした。何故といって、ダニエル王子は小さな頃から「クリフトフさまのお小さい頃にそっくり」という話をおべっかを使う貴族たちに耳にたこができるほど聞かされてきたからです。

「メアリは変なことを言う。俺は母上にはちっとも似ていないという話だぞ。それに、肖像の間に一枚だけある母上の肖像画を見ても――俺とは全然似ていない。かといって俺は、自分が父上に似ているとも思わないがな」

「あらまあ」メアリはくすくすと笑いだすと、まだあまり背の高くない王子の黒髪を撫でながら言いました。「王子さまは、おふたりにとてもよく似ておいでですよ。わたしは毎晩寝る前にポーラさまの御髪を梳りましたが、あの方の髪はちょうど、今のあなたさまのように深緑がかっていて、黒絹のように本当にお美しゅうございました。瞳だって、あの方と同じように深い海の色をなさっておいでです。でも鼻の形や輪郭などはお父さまのクリフトフさま譲りでございますわね。本当に、お懐かしゅうございますわ。おふたりは心から愛しあっておられて、どれほどダニエルさまがお生まれになるのを心待ちにしていたことか……」

「本当か!?」

 ダニエル王子はにわかに動悸が打つのを感じました。平生彼は、無口で無愛想な顔をしており、滅多なことでは微笑みさえ浮かべませんでしたが、今はメアリの話に心が震える思いだったのです。

「よし、メアリ。今日からわたしが直々におまえの家庭教師になってしんぜよう。なんでもおまえは、自分の名前さえ書けないそうではないか。ここは王宮だが、なんでも世間ではサインのかわりにXと書くような人間は騙されやすいという話だからな。さあ、こちらへきてもっと詳しく母上の話を聞かせなさい。そのあとに褒美として勉強を教えてやろう」

 メアリは本棚に本のぎっしり詰まった王子の部屋で、黒檀の飾りテーブルに差し向かいになると色々な話をダニエルさまにお聞かせしました。ポーラさまがどんなにお優しい方だったか、クリフトフさまが王妃さまをどんなに大切になさっていたか、そしてそれほど愛しておられた王妃を失って、どんなにお悲しみになったか……ダニエル王子は、それまで誰も話してくれなかった自分の父と母の本当の姿について知ると、ますます自分の父である王への尊敬を深めました。

 ダニエル王子は御自分のお父上であるクリフトフ王のことをとても尊敬していたのですが、王さまが本当には自分のことを愛していないということを知っていました。もちろん欲しい物はなんでも買い与えてくださいますし、公式の行事などで顔を合わせる折々に優しい言葉をかけてもくれるのですが、王子にとって王さまは、いつもどこか遠い人でした。時には自分のことを嫌っているのではないかとさえ思っておりましたので、メアリが話してくれたことは、彼にとっては一生を変えてしまうほどの、大きな出来事だったのです。

(そうか。父上はきっと俺のことを見るたびに、大好きだった母上のことを思いだすので、それでなかなか小さい時から俺の部屋にきてはくださらなかったのだ。でも今は、俺にも父上の気持ちが少しはわかる。もし俺がもう少し大きくなって、肖像画の母上のような美しい人を妃に迎えたとしたら――そしてその人を結婚してからたったの一年ほどで失ってしまったら、今の父上と同じようにしか、子供と接することはできなくなるのかもしれない……)

 ダニエル王子は母上のポーラ王妃がとても気に入っていたという侍女のメアリのことがすぐに気に入りましたし、彼女は王子にとって生まれて初めて心を許した女性かもしれませんでした。ダニエル王子の乳母はひどく神経質な女性で、王子が授乳を必要としない歳になると王大后の命令ですぐに首になりましたし、カミーラさまは独占的ともいえる愛情をダニエルさまにお注ぎになられましたが、王子さまはあまり自分のおばあさまのことを好きになれずにいました。幼少の頃、厳しい英才教育をダニエルさまに施したのもカミーラさまでしたが、彼がほんの時々スペルを間違えただけで彼女が自分をつねってきたことを、今も王子は忘れていませんでした。

 またダニエル王子は、小さな頃から従姉妹やら貴族のお嬢さまやらが大嫌いでしたし、あんな気どった連中と話をするくらいなら、池の鴨を相手にしていたほうがよほどましだとさえ思っておりましたので、本当に親しいといえるほどの女性との接触は、メアリが生まれて初めてだったのです。

 もっとも、メアリは農村の生まれであり、自分の名前も書けないような貧しい家庭で育ちましたから、王子は彼女が何度教えても簡単な数式さえ解けないので呆れましたが、そのうちそんなこともどうでもよくなり、もっぱら彼女が読みたいという本を朗読して聞かせてあげるようになりました。そしてダニエル王子の心の飢えは一旦、それで納まったかのように見えましたが、実はそうではなかったのです。ダニエル王子はメアリが自分の三人の子供たちの話を笑顔でするたびに、顔の表情にこそ出しませんでしたが、ひどく苦しい思いをその度に覚えていたのでした。自分は王の子供であるかもしれないけれども、この女にとっては自分の三人の子供のほうがよほど大切なのだ……そのことを身にしみて感じるたびに、王は心からメアリに甘えるということができなくなりましたし、それどころか、彼の本当に欲しいもの――「お母さん!」と叫んで甘えられる膝は、いかに自分が王子といえども手に入れられるものではないのだと思い知り、時にメアリのことを憎らしく感じることさえあったのでした。

 そしてメアリが再び王宮に出入りするようになって、三か月ほどが過ぎたある日のこと――メアリの三人目の子供が風疹にかかって、彼女が暫くの間王子の部屋へやってこれないことがわかると、ダニエルさまは癇癪を起こして部屋中の本という本を床の上に放りだしてしまいました。

「ちくしょう!どうしてなんだっ!どうしてなんだっ!」

 ダニエル王子は地団駄を踏んで悔しがったあと、王宮の廊下を走って外へ出てゆきましたが、誰も止める者はありませんでした。王子を追いかけようとする従者のことをエズラが止め、「暫くの間ひとりにしてあげなさい」と言ったからでした。

 このエズラの言葉の裏には王子がどこかにいくとしても、せいぜい王宮の裏庭くらいのものなのだから、ということが含まれていたに違いありませんが、そんなのはとんでもありません!ダニエル王子は王宮を抜けだすと、自分だけの秘密のルートをつたって海港ダニスの波止場へと向かっていたのですから!彼は以前からたびたび、自室に引きこもって勉強している振りをしては外へ抜けだし、息抜きに波止場からボートに乗っていたのです。

 その日も彼は、日暮れ前には王宮へ戻るつもりで、小舟の櫂を漕いでサキュバス海門のほうへ向かいました。そして夏の陽射しを浴びながら舟の中に寝転んで、自分の行き場のないやるせない気持ちをもてあましていたのだった。

(あーあ、死にたいなあ……)

 ずっと前から時々、王子は真剣にそんなふうに考えるようになりました。もしこれで自分以外に男の兄弟がもうひとりいたら、誰に遠慮するでもなく好きなように自殺できるのになあ……王子はそんなことを考えながら、いつも海の上をたゆたい、死への憧憬を胸に思い描きました。

「もし俺が死んだら、父上は悲しんでくださるだろうか……」

 思わず誰にともなく王子がそう呟いていると、どこかから返事が返ってきました。

『そんなことは絶対にしてはいけませんよ、王子さま。そんなことをしたらお父さまがどんなにお悲しみになられることか』

 ダニエル王子は自分の心に直接語りかける者の声を聞いて、飛び上がりそうになるくらい、びっくりしました。

「だ、だれ?」

 身体を起こして周囲を見渡してみるも、当然ながらそこには誰もいはしません。王子から見て右手には海門が、左手には遠くサイゴン島の賭博場が見えるだけです。他にあるものはといえば、ゴツゴツとした岩場に真夏の太陽、青い空と海、彼方の水平線くらいなものだったでしょうか。

 王子は微かにそよぐ風にぶるっと身を震わせると、急いでオールを漕いで、元きた海の道を波止場へと引き返しました。そして誰にも見つかることなくこっそり王宮の東翼の宮へ戻り、今日あった不思議な出来事を自分の日記に書き記したのでした。


(あーあ、死にたいなあ……)

 そうダニエル王子が心の中で呟くのを、ポーラはやるせない思いで聞いていました。これまで、自分の息子は王宮で何不自由なく幸せに暮らしているに違いないということが、ポーラにとって唯一の生きる支えのようなものだったのですが、十四年ぶりに会った息子が死にたがっていると知って本当にショックでした。それで思わずテレパシーで話しかけてしまったのですが、ポーラは自分の息子が不憫でならず、アクアポリスに戻ってからもただひたすら我が子のことを想い続けるばかりでした。

 あれからポーラは、セイレーンと禁じられた取り引きをした罰として、十年の間深海の牢屋へと入れられておりました。海の王である父も母も、またお姉さま方もお義兄さま方も、そのようにせざるをえないことを非常に悲しまれましたが、規則は規則、罰は罰です。ましてや王族であるポーラが禁を犯したのに罰を免れるのであれば、一族にも示しがつきませんし、ポーラは十年間深海で監禁生活を送ることを余儀なくされたのでした。

 とはいえ、それはある意味ではポーラにとって相応しい罰であり、彼女はその時もう誰とも話をしたくない、テレパシーを交わしたくないという心境でしたから、哲学者のような深海魚とだけ時たま話すような生活も、そう悪いものとは思いませんでした。時には友達のクジラが慰めにきてくれることもありましたし、番兵の地獄イカと楽しく世間話をすることもありました。

 人間にとってはどうかはわかりませんが、人魚にとって十年というのは、そんなにびっくりするような長い時間ではありません。ただ、十年という刑期が過ぎてポーラが再びアクアポリスへの出入りを許された時、彼女の全身の鱗は虹色の輝きを失っていました。クリフトフ王から受けた左肩の剣の傷から腐食がはじまり、鱗はすべてセイレーンたちの醜い鱗のように緑色に変化していたのでした。

 それはまるで、セイレーンたちとの取り引きに応じたらこのような結果になるのだという証拠が海を泳いでいるようなものでしたが、ポーラはすべてのことを少しも後悔していませんでした。彼女がおかにいた期間はたったの三年ほどであったかもしれません。でもポーラにとってその三年は、永遠にも思われるようなとても幸福な三年でした。ポーラのお父さまもお母さまもお姉さま方も、お義兄さま方も、彼女の鱗が損なわれて以前のようでないのをひどく悲しまれましたが、ポーラはちっとも悲しくなどありませんでした。ただ、他の人魚のみんなには自分がどれほど地上で幸福な体験をしたかということがうまく伝えられませんでしたので、どうして誰にもわかってもらえないのだろうという疎外感だけをポーラは悲しんだのでした。

 以来、ポーラは毎日のように朝早くにアクアポリスを出ては、サイオニア王国の近海を泳ぎまわり、時々サイネリア王宮の尖塔を眺めては愛するクリフトフ王と愛息子が今なん時どうしているだろうということにずっと思いを馳せていたのです。

 ポーラはサキュバス海門の近くをたゆたう一艘の小舟に近づいた時、よもやそれが自分の息子とは思いもしませんでした。ただおかの暮らしを懐かしく思ったので、舟に乗っている人間に接触して今王宮の様子などはどうなのだろうということを知ろうとしただけなのです。ところが……

(あーあ、死にたいなあ……)

 何ひとつ不自由なく幸福に暮らしているに違いないと信じていた息子が、死にたいと思っているだなんて!ポーラは悲しみのあまり、胸が潰れる思いでした。叶うことならもう一度人間の姿になって、我が子の口から直接どうして死にたいと思うのか、その事情を詳しく聞かせてほしいと思いました。そのためなら人魚の一族から追放されることも、死ぬことだって厭いはしないとポーラは思いましたが、もはやセイレーンと取り引きしたくても、虹色に輝く鱗が自分にはないのですから、海の深みで自分の可哀想な子供のことを思って涙に暮れる以外はないのでした。

(ああ、わたしの可哀想な赤ちゃん!おまえは今、一体どんな苦労を王宮でしているというのだろう?お優しいクリフトフさまのことだから、何も心配はいらないとこれまで思っていたけれど、もしや王さまは隣国のお姫さまとでももう一度結婚なさったのかしら?もしそうなら、あの子の居場所は王宮の中にはないのではないかしら?ああ!自分のこの魚の姿がうらめしい……せめてセイレーンたちのように、一月に一度でいいから人間の姿になれれば、王宮へ駆けてゆくことができるものを!)

 それからポーラは、サイオニア王国の近海を漂っては、もう一度自分の子供が舟に乗って出てくるのを待ち続けました。すると最初にダニエル王子と出会った場所で、一週間ほどのちに再び彼と会うことが叶いました。

 ダニエル王子はしきりに周囲をきょろきょろしていましたが、おそらくは不思議な声の主がどこからか現れはしないかと思っていたに違いありません。ポーラは舟の真下へ潜ってゆくと、彼が驚きのあまり舟ごと引っくり返ったりしないよう、竜骨キールの部分を支えながら、静かにそっと息子の心に語りかけたのでした。

『今日は一体どうしたのですか?また死にたくなって海へ出てきたのですか?』

「ち、違うよ!」王子は明らかに狼狽した様子でしたが、すぐに舟の真ん中に座り直して答えました。「今日はまたあなたに会えないかと思って、ここへきたんだ」

 ポーラは思わずも、その息子の返事に涙ぐむものを感じました。もう二度と会えないと思っていたのに、立派な青年に成長した息子の姿を見れただけでなく、話をすることまでできるだなんて!神さまはやっぱり、地上にも海中にもおられるのだと、ポーラはそんなふうに感じました。

「ええとね、僕、ダニエルっていうの。あなたはなんていう名前なの?」

『シーポーラっていうのよ、ダニエルちゃん』

 ダニエル王子は他の人間にダニエルちゃんなどと呼ばれたら腹を立てたに違いありませんでしたが、不思議と怒りがこみ上げるようなこともなく、<彼女>と話を続けました――そう。姿は見えないけれども、ダニエル王子には相手が女性的な存在であるということがはっきりわかっていたのでした。

「シーポーラ……へえ、不思議だね。僕のお母さんの名前はポーラっていうの。とっても綺麗な人なんだ。でも僕を生んでからすぐに死んでしまったの。お父さんはね、そのことがあんまり悲しくて、僕のことをあまりよく見てくれないんだ。もちろん、とてもよくはしてくれるんだけどさ……最近、メアリっていう侍女が僕のところへきて遊び相手になってくれるんだけど、メアリにはもう三人も子供がいるし、僕はその代わりにはなれないっていうことがわかっているから、とっても寂しいの。この間はね、あんまり寂しいから死んでしまおうかなって思って舟を漕いでここまできたんだ」

『そうだったの……』ポーラはダニエル王子の心に直接接触しておりますので、彼がみなまで言い終わる前に、すべてのことがわかっていました。そして自分の息子があんまり不憫で、返す言葉もなく涙に暮れるばかりでした。

「あのね、もしよかったら僕、シーポーラちゃんに僕の友達になってもらいたいの。僕は王宮に住んでいるから、なかなか会いにこれないとは思うけど、時々僕の話し相手になってくれたら嬉しいなって思うの。だって僕、友達なんてメアリ以外にひとりもいないんだもの」

『もちろんよ、ダニエルちゃん。シーポーラはいつでもここでダニエルちゃんのことを待ってますよ』

「本当!?」とダニエル王子の顔の表情がぱっと輝きました。「約束だよ。もしすぐにシーポーラちゃんがきてくれなくても、僕はずっとずっと待ってるから。僕ねえ、この間はちょっとびっくりしたけど、シーポーラちゃんはきっといい人に違いないっていうことがすぐにわかったの。なんだかとても優しくて、温かい感じがするから」

『嬉しいわ、ダニエルちゃん。でもそろそろ風も強くなってきたし、帰ったほうがいいんじゃないかしら?途中まで送っていってあげるから』

 すると、ダニエル王子が櫂を漕がなくても、スイーっと舟が波止場に向けて走りだしました。ダニエル王子はなんて楽ちんなんだろうと思いましたが、波止場が見えたところで舟は止まり、それきり不思議な声の存在の気配も、どこかへ消えてしまったようでした。

 王子は櫂を漕いで波止場に辿り着くと、舟を繋ぎ、急いで王宮へ戻ろうとしましたが、その顔はとても明るく、少年らしい輝きに満ちていました。


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◇オリジナル小説サイト『天使の図書館』
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