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シーポーラは美しい海の娘でした。世界に七つある海底神殿のひとつ、ミドルネシアで何ひとつ不自由のない暮らしをしておりましたし、その上シーポーラのお父さまとお母さまは世界の海の支配者、シーボルグとシーゲイルだったのですから。
美しい海の娘シーポーラは七人姉妹の末っ子として生まれたのですが、六人のお姉さま方はみなそれぞれ、エルヴァルト海、セスアラシア海、デュークセヴァリア海、サンエマルト海、カイスヴィリーフ海、ノヴァールスヴァルト海の王の元へと嫁ぎ、残る娘はシーポーラただひとりだけということになりました。
けれども七つの海を治めるミドルネシア海の王、シーボルグは末娘のシーポーラのことが殊の外可愛くて仕方ありませんでしたので、シーポーラに相応しい人魚が現れるまではと、海底神殿の奥深くにシーポーラのことをずっと隠したままでいたのでした。
ところがある日、海の大王のお妃であるシーゲイルが、そろそろ末の娘も嫁にいく時期ではないかと判断し、七つの海に住むすべての人魚たちに伝令を発信したのです。それは『海の大王の後継者として我こそはと思うものは、貢ぎ物を持ってミドルネシアのアクアポリスに集うべし』というものでした。男の人魚たちのうちでまだ自分の伴侶を探しだせていないものはみな、「もしかしたら……」と思って遠くの海にいるものも近くの海にいるものもすべて、こぞってミドルネシアのアクアポリスまで泳いでやってきました。
あるものは近海から海の果実を携えて、またあるものは遠洋から珍しい海の宝石を携えて、また別のものはシーポーラの目を楽しませようと、踊りの達者な魚たちの一群を引き連れてやって参りました。
心優しい海の娘シーポーラは、石造りの海底神殿にある一室で、毎日のように花婿候補と向きあってはテレパシーによって会話をしましたが、「この方こそは間違いなくわたしの伴侶」という人魚はなかなか出会えないでいました。もちろん毎日会う花婿候補の方の中には、家柄のよい方もたくさんいらっしゃいましたし、黄金の珊瑚やルビーのヒトデ、海の涙と呼ばれるサファイアなど、珍しい貢ぎ物をたくさん納める人魚もいたのですが――シーポーラはそのうちの誰にも心の中にときめきの炎が宿るのを感じませんでした。
そうなのです。一年中のほとんどを海の中で過ごす人魚たちにとって、炎の熱さを理解できるのは恋をした時だけなのです。だからシーポーラのお姉さんのシーマリアもシーデリラもシーエルザもシーケイトもシーローラもシーセイラも、みな相手が王さまだったか
ら恋をしたのではなく、恋をした相手がたまたま王さまだったという、ただそれだけだったのでした。
海に暮らす人魚たちは地上に暮らす人間とは違って、<本当に恋をしないと>決して排卵したり射精したりできないよう、生物としての本能をそのように組みこまれているのです。ですから、三百年もの長い時間を生きる人魚にとって、恋は一生に一度、一体いつ訪れるのかわからないという代物でした。つまり、七つの海を支配する大王以外の人魚たちは一生に一度しか排卵・射精ができませんから、世界中の海を巡っても伴侶が見つからない場合、まだ自分の生涯のパートナーが生まれていないという可能性もあるということなのです。七つの海の大王シーボルグは、この広い海のどこかにシーポーラの伴侶となるべき人魚がいるのなら、シーポーラがどこにいようと必ず運命の導きによって出会うことになるはずと心の底で確信していましたが、それでもできるかぎり自分のそばに可愛い娘を置いておきたいという親心から、なかなか積極的に縁談話を進めるということはしなかったのです。けれども大王のお妃であるシーゲイルは、そろそろ娘も百十歳、もしこの広い海のどこかに娘のよき伴侶となるべき人魚がいるのなら、一日でも早く出会わせてあげたいと、お母さんとしてそんなふうに思ったのでした。
そしてシーポーラ自身、六人のお姉さんたちが実家へ帰ってくるたびに必ずする、「背びれにビビッ」とくる話を、自分も早く実際に経験したいものだと思っていました。毎日新しい花婿候補と虹色の貝模様のテーブルを挟んでテレパシーでお話するのですが、姉たちのいう「背びれにビビッと電流が走る現象」には、結局最後まで出会えずじまいでした。
シーポーラは岩盤の刳り貫かれた窓辺に腰かけてほう、と溜息を着き、わたしの伴侶となるべき方はきっとまだこの海の中に生を受けてはいないのだと、とても悲しい気持ちになりました。こんなことなら、いつものように仲良しのイルカたちと戯れたり、クジラとテレパシーで知恵比べをしたりしながら、いつかそう遠くない時に必ず理想のマーマンに出会えるはずと、淡い期待に胸をときめかせていたほうがずっとよかったのに……シーポーラはそう思わずにはいられませんでした。
お父さまお母さまもお姉さま方もお義兄さま方もみな、シーポーラのことを心から慰めてくれましたが、自分のことを慰めるための宴会が催されるたびに、シーポーラはますます惨めな気持ちになりました。そうしてそんな惨めな気持ちを紛らわすために、シーポー
ラは頭の中が海と同じ深い碧色になるまで毎日、ミドルネシアの海を泳ぎ続けました――人魚たちがみな、自分と出会うたびに「あともう十年も待てば、必ずよき伴侶に出会えるさ」と異口同音に同じことばかりを繰り返すのが嫌で嫌でたまらなかったからです。
そしてそんなある日の夕方のこと、シーポーラがサイオニア領の七十の群島の間を泳ぎまわっていると、その中の無人島の岩山のひとつに、セイレーンたちが何人も上陸しているのが見えました。
「ああ、今夜はきっと時化になるに違いないわ」
そう思ったシーポーラは、水平線に沈みゆく、紅玉髄のような夕陽に背を向け、早くアクアポリスのみんなに知らせなくちゃと海に潜りかけたのですが――その時、大きな三本マストの、船首に美しい女性の像をいただいた壮麗な帆船が落日の方向からやってくることに彼女は気づきました。ここから本土のほうまで帰るには、順調にいって明日の明け方近くということになるでしょうから、船はきっと真夜中あたりに波でもみくちゃにされ、難破してしまうに違いありません。
そしてシーポーラが船の乗組員である人間たちのことを大変気の毒に思っていると、セイレーンたちのおしゃべりが、海の風に乗って彼女の耳に聞こえてきました。
「あの飛びきり豪華な帆船は、サイオニアのクリフトフ王子が乗っている船じゃないかえ」
「そうだとも。なんでもあの王子は大変に信仰深くて、この七十いくつある群島のひとつひとつをまわって、そこに住む住人たちに『神の愛』とやらを説いてまわっているそうだよ。何しろ島の住人ときたら、そのほとんどが漁師だからね。みんな心の半分ではキリスト教を信奉し、もう半分では海の守り神ダゴンを信奉してるっていうありさまだからねえ。なんでもあの王子は海の神であるダゴンを崇拝するのをやめさせるために、方々にあるダゴン神殿の像を壊してまわったという話じゃないか」
「なんだって!?あたしたちの神、ダゴンさまを壊してまわったっていうのかい?」
「まったく、キリスト教が本土のほうで盛んになるのは、あたしたちにとっては迷惑千万な話さね。あの宗教の思想はあたしたちのような神話的存在をみな、駆逐しちまうんだから」
「ふふふ。でもまあいいじゃないか。今夜半にはあの豪華な帆船は海の藻屑となってわだつみに消えてしまうんだから。あの王子が泣いて叫んで縋っても、キリスト教の神とやらは決して助けてなんかくれないよ。そのことを思う存分、味わわせてやろうじゃないか」
「くくく。それはそれは楽しみだ。さあみんな、竪琴の調弦はすんだかい?あの信仰深いというサイオニアのクリフトフ王子の死を祝って、今日は夜通し饗宴を張ることにしようじゃないか!」
シーポーラはセイレーンたちが楽の音に合わせて、淫靡な性的儀式を思わせるおぞましい歌声を合わせているのを見ると、海の中で両足の尾びれをぶるるっと震わせました。
(――こうしてはいられないわ!)
そう思ったシーポーラは、三本マストの豪華な帆船を追いかけて、紺碧の海の中をどこまでもどこまでも泳いでいきました。もちろん、シーポーラには俄に荒れはじめてきた海を沈める力もなければ、帆船に乗りこんでいる乗組員たち全員を助ける力もありません。でもシーポーラは、せめてそのとても信仰深いというクリフトフ王子だけでも助けることができたならと、そう思ったのです。
シーポーラたち人魚は、<造物主>(エホバ)と呼ばれる、海の中のすべてのものを造られた神を信仰していましたが、ダゴンというのはこの<造物主>に逆らって海の中を勝手気ままに荒らした神話的海獣なのです。ですから、遥か昔に海底深くに封印されたこの海獣の像を破壊してまわるということは、シーポーラたち人魚にとってもとても喜ばしいことだったのでした。