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古き雨、新たな風

作者: ジョシュア

比恋乃様が主催されている百人一首アンソロジー『さくやこのはな』(http://sakuyakonohana.nomaki.jp )の参加作品です。

担当和歌番号〇七一:夕されば 門田の稲葉 おとづれて 蘆のまろやに 秋風ぞ吹く(大納言経信)

 琵琶の音がよく響くのは、秋から冬であると詩をたしなむ者であればよく知っている。

 季節により弦の奏でる音は違う。秋が近づくこの頃は、風によく琵琶の音が乗るのである。その喜びたるや、楽師であるならば意識するだろうし、聴く者であったとしても、自覚せずとも知ることであろう。

 琵琶を持つ男にとって、それは喜ばしいことであった。女を口説きやすくなるのである。

 とりわけ優れた家の生まれでないこの男にとって、女を口説く手管として用いるのは相棒たる琵琶である。

 寒さは人に、寂しさをもたらす。寂しさというものは厄介なもので、いくら熱をあげようとしても冷めるものは冷めてしまう。それは恋であった。愛と恋は別物である、というのが男の理論であった。愛であれば、いくらでも待てよう。しかし恋であれば、一度火照った体が冷めぬように思ってしまうものである。

 さながら日と火である。


 さる僧より譲り受けたこの名器の琵琶に銘はなかったが、男は女を扱うかそれ以上に大切にしている。

 この琵琶は、宮廷にて余人を楽しませ、女たちの耳を心地よくするものであった。男は政も上手くできるが、それ以上にこの琵琶によって身を立てていた。

 身も心も満たす、大切な道具であった。


 ある晩のことである。

 男は貴人の女性の元へと訪れた。その女性はすでに三十を過ぎており、芸に優れたその道では知られた聡明な者だった。

 聡明な女というのは厄介なものだ、というのが男の思うところである。

 それは見た目に女が出ないからだ。愚鈍なものであれば、女として花の時期はあっという間に過ぎてしまうものであるけれども、聡明さを持つ者というのは、歳を重ねれば重ねるほどに味が出てくる。精力的な者ほどよい。

 そして、そういう女こそ、相手にこだわらないのだ。身分が好みであれば、相応の名乗りをあげればよい。若い者が好みか、あるいは年上が好みかわかれば、相応の振る舞いはしよう。だが、聡明な女はそうではない。相手がどのような者であっても見極め、対等に見た上でその者を盛り立てるかこき使うかなど決めるのである。

 これが、男が厄介と思うところであった。

 けれども燃えてしまうのが、この男の性質だろう。


「もし、姫よ、聞こえていますか」


 男は縁側に座って、御簾越しに声をかける。

 事前に文を送り合って、この日にくると伝えているのに、男は言った。

 まあ、と中から声がする。


「姫だなんて、人の女に言う悪い人はあなた?」

「そうだ。わからなかったか?」

「だって、琵琶が上手いと聞いていたのだもの。言葉より先に、琵琶の音が聞こえるとばかり思っていたわ。ねえ、あなたは本物なの?」


 男は参ったな、と笑う。こんなところで琵琶を鳴らせば、ここに訪れているのは自分だということの証明にはなるが、それを大きな声で喧伝しているようなものだ。それも、今日が初めての訪れであり、お互いがきちんとした相手がいる者同士である。恥をかくのは目に見えていた。

 それをわかっていて、女は言ったのだ。なるほど、一筋縄にはいかない相手だ。


「確かに琵琶に優れた我が身ではあるけれども、得手としているのは琵琶のみではなく、歌や舞だってこなしてみせる」

「けれども、それはあなたの正体を明かすものではありません。歌であれば、誰かからもらえばいいでしょう。舞の所作など、御簾越しではわからない。であれば、琵琶で証明をするのが筋ではなくて?」


 これはしてやられた、と男は思わざるを得なかった。

 ここまで言われてしまえば、琵琶をたしなむ者としては引けないのである。この女を振り向かせるためであれば、惜しくはないだろう。

 琵琶を構え、弦をいざ弾こうと思ったときであった。


 雨が降り始めた。

 さめざめとした雨だった。水の滴る音が辺りには響く。

 男はため息をついた。


「興が削がれた」

「弾くのをやめるのですか?」

「いかな我が琵琶の音であっても、雨には敵わぬ。万変に富むこの音色を、いましばらくは聴こうではないか」


 男はそう言った。女はくすり、と笑う。


「ええ、そうしましょうか。それに、雨がこんなに降ってしまっては、濡れて帰るあなたの名誉にも関わりますから。いましばらくは、ここにいてください」


 女はここの滞在を許した。朝になって雨が止んだとあれば、濡れて帰ったあの男は何者だと笑われてしまう。そんな汚名を、女は男に与える気はなかった。男はほくそ笑む。


「では、そうさせてもらおう。だが、こう薄ら寒いと、これから先のことまで恐ろしく思えてこないか?」

「例えばどのような? 我が子のことは、確かに不安ではあるけれども、恐ろしさなど感じることはないわ」

「ゆめゆめ、伝えるがいい。これから先、この世の栄華などなくなると」


 女は怪訝な雰囲気を醸し出したが、けれども聡明な彼女はその話への興味が尽きなかった。


「栄華、と言いました。藤原の治世は未だ続いております。かの御仁が築き上げた栄華が立ちゆくなど、どのように思えるでしょうか」

「それはどうかな。宮を見てみよ、ついに皇子を授かることは叶わなんだ。しぶとくも長く生きていた者たちも次々と逝った。残ったのはいくつも別れたかの家と、その家によって追いやられた者よ。栄えたものはやがて朽ちるというのを、まざまざと感じさせる」


 それは春に咲いた花が夏に葉となり秋に実を落とすも、冬には枯れてしまうように。

 いま、ここに降る雨や吹く風が、そんなものを持ち去っていってしまう。


「過去の夢に魅せられた者たちの、いかに多いことか。夢は叶いはすれど、覚めぬ夢のなんとむなしいものよ」

「まあ……」


 女は笑った。それはもうおかしそうに。

 それを聞いて男はいたたまれなくなった。女にこんな講釈を垂れていては、底が知れるというもの。

 けれどもこの女は許した。そのことがますます、男の肩身を狭くする。


「ええ、そうね。物語は物語でしかないの。夢見る時代は、終わってしまったわ。でも、そうじゃない人が多いことは疑いようがないわね」


 でもね、と女は言う。


「夢はね、託されるものなのだと思う。言われて気づいたわ。風は冬を連れてくるけど、春だって連れてくるわ。それを目で追って、楽しむのもいいもの。そういうものじゃないかしら」


 男はそれを聞いて、はっとする。なるほど、座して歌を考えるのみではわからぬことである。

 去るものあれば、来るものもある。去るものを追いかけて、失われては儚んでというのも世の常であるが、来るものへ思いも馳せるというのは、いかにも聡明であり母でもあるこの女の考えそうなことだ。


 琵琶の弦を、軽く爪で弾いた。腹に響くような音。外に漏れ聴こえるほどではない。


「ふむ、雨はそう強くないようだ。直に止むだろう」

「え? そんなことは……」


 言いかけて、女はやめる。

 雨はまだ強いままであった。むしろ、これからどんどん強くなるだろう。


「では、くれぐれも琵琶を濡らさぬよう。あなたの大切なそれが濡れてしまえば、名が泣きますわ、桂の君?」


 桂、というのは男の異名であった。

 男が持っている別荘には、桂が植えられていた。その美しさは有名であり、ときに男を指して桂と呼ぶこともあった。

 苦笑して、男は言い返す。


「願わくば、次は琵琶の音を聴いてほしいものだ」

「ええ。でも、ここで弾いてもらえなかったから、もしかすると他の方の音と聴き間違えてしまうかもしれないわ」


 女はそう言った。二人で笑って、別れの言葉もなく去っていく。

 男は女の屋敷をあとにする。雨は一層強く降って、身も凍えるようであったが、いまはどうにも心地よいものであった。

 まるで開いた心に、新たな風が吹き込んだかのようだった。


 果たして、この二人は以降、出会うことはなかった。

 一方は弦が切れるとともに事切れ、一人は長く生き過ぎ悲しみのあまりに出家した。

 男女の行き違いというものは、交わることを知らなければ先まで交わらぬものである。されど、互いが見るその行き先を眺めることを、幸せというのを酔狂と言わないだろう。

お読みくださり、ありがとうございました。

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