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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

恋愛じゃないやつ

影 修正ver

以前投稿した影という作品のいらない部分を削除して読みやすくした(つもりの)ものです。

内容は以前のものと違いはありませんので、ご注意ください。

序章 赤い柄の短剣


 空は鉛色に染まり、空気は湿っていた。降雨前特有の土の匂いが鼻孔をつく。けれど、雨は降り出さない。

 一人の少年は立っていた。何をするわけでもなく、ただ立っていた。

いや、実際には何もしていないわけではない。彼は待っていた。けれど、それは意味のないことであり、少年も意味のないことであると知っていた。だからやはり、何をするわけでもなく、ただ立っていた、のだ。

「ここで待っていて」

 少年の母はそう告げた。そして、一度も振り返らず、少年のもとを去って行った。つい先日、七歳になったばかりの少年は、母の言葉に従ったところで、何があるわけでもないことが分かっていた。それほど、聡い少年であった。待っていたところで、母は二度と少年の前に現れることはなく、待っていたところで誰かが手を差し伸べてくれる筈はない。

幼い我が子を捨てなければ、生活をしていけないほど、この国は逼迫していた。

心優しい誰かがいても、拾って育てるなど大抵の人には無理な話である。拾われるようなことがあれば、売り飛ばされ、重労働を課されることは必至であった。

だから、そうなれば、腰に付いている護身用の短剣で喉を一突しようと少年は考えていた。血のように赤い柄の短剣。

 この国には、生まれてきた赤子に護身用の短剣を贈り、成長を願うという伝統がある。そのため、この国で生まれた全ての者は、己の身を守る短剣を常に身に付けていた。

 少年は、そっと、自分の短剣に手を触れる。それだけが少年のために与えられたものだった。少年には四人の兄と二人の姉がいた。服は全て兄と姉が使い古した物。食事も年長者から好きな量だけ取っていくため、年少者である少年にはいつも余り物しか残らなかった。水だけの日が続くことさえあった。

 少年にとって、腰に付けている短剣だけが、自身の存在を肯定してくれるものだった。だから、手入れは欠かさなかった。切れ味は鋭い。掠っただけで、赤い血は流れ、痛みを与えた。

 少年は、早くその剣を使いたかった。その剣に存在意義を見出してあげたかった。短剣の存在を証明するために、その剣を血で染めたかった。けれど、少年は聡く、自分の力では誰も傷つけることができないことを知っている。幼い力では、人の心臓に剣は刺さらない。だから、自身を傷つけたかった。生きるために、自分を殺す。それが少年の考えだ。だから、少年は立っていたのだ。しかし、継接ぎだらけの汚れた服を身に付けた少年を拾おうとする者はなく、だから少年は何をして良いか分からなかった。

父や兄達に言われたことをこなしていただけだった少年に「自ら動く」という発想はない。

だから、母が言ったようにただ「待って」いたのだ。

「誰を」なのか、少年にも分からない。

 風が吹く。先ほどよりも湿ったが風が少年の短い髪を揺らした。

少年は空を見上げる。空の色はさらに濃くなり、全てを覆っていた。それでも不思議と雨は降り出さないことが少年には分かった。

 

 馬の蹄の音がする。少年は視線を空から真正面に戻した。目の前から仰々しいほどの行列。少年は後ろを振り返った。少年の後ろには大河があり、そこには立派な橋が架けられている。その橋の向こう側には城が建っていた。

サラサ国の王の城。

 少年が誰にも攫われなかったのには、少年が立っている場所にも原因があった。みすぼらしいこの少年が王の関わりのある人間である筈はなかった。しかし、「もしも」の可能性を考え、城の前に立つこの少年に誰も近づかなかったのだ。

 馬の蹄の音が少年の前で止んだ。少年は目線だけそちらに向ける。

馬の上に乗っていた王が地面に足を付けた。その周りを屈強な男達が囲む。後ろで従臣達が籠の用意をしていた。

王は城へ続くこの橋を馬から降りて渡る。揺れや水に馬が驚き、暴れ出す危険があるからだ。この大きな橋が揺れることはなく、馬が水を恐れることなどほとんどないのだが、王の御身は王だけのものではなく、この国のものである。それ故、慎重を期す必要があった。

 突然、一人の兵士が、腰から剣を抜き、少年に突き付けた。

少年はただ、剣先を眺めている。

「王の御前だ。頭が高い」

 その声は少年の耳に届いていた。届いてはいたが、少年は対処を迷っていた。

剣を突き付けられているということは、命の危機に晒されているということだ。それならば、短剣で喉を掻き切っても問題はない。

けれど、この兵士がしているのは、「忠告」であり、命の危機に晒されているとは言い難かった。

その時点で短剣を用いれば、短剣の存在意義を汚す。

だから出方を待つつもりで、少年はその剣先をただ見つめていた。

少年に己の命を守ろうとする意志はない。

「頭が高いと言っているだろう!」

「…」

 しびれを切らした兵士が剣を振り上げる。その好機に少年は笑みを浮かべた。

しかし、短剣に手をかける前に王がその兵士の動きを止めた。

「止めろ」

「ですが…」

「止めろと言っている」

「…はい」

 少年は王を見つめた。歳は、四十代後半といったところか。黒髪は後ろで一つに括られている。髪は肩に付くまでの長さであった。

端正な顔立ち。中でも茶色がかった目は美しかった。

けれど、それ以上に冷たい目。少年の意識はそこにいく。人を射抜く目とはこういう目を言うのだろうと少年は思った。

 七歳になったばかりの少年の身長は、王の腰ほどだった。

王に見降ろされる形。けれどそれでも足りない気がした。

片膝をつき、身を屈める。目の前にいる人物が「王」であったからではない。

理由などはなく、本能に従っていた。

 王は感心したように「ほう」と呟く。

「顔を上げよ」

 言われて少年は王の目を見た。数秒時が止まったように沈黙が訪れる。

「名は?」

 短く王が問うた。

少年はその時初めて母の意図に気付く。

少年が「待って」いたのは、「母」ではない。「王」だった。

この国の経済状況では、幼子を拾い育てることは「大抵」の人には不可能である。

けれど王ならば、話は別だ。

 少年は聡く、頑強だ。それだけで王の目に留まる、などとは思っていなかっただろう。

しかし拾って育てられる可能性があるのならば、一番幼く一番聡いこの少年であったのだ。

「愛されていた」とは言い難いかもしれない。

与えられる食事はほとんどなく、重労働を課され、憂さ晴らしに殴られ、その果てに捨てられたのだから。

けれど、少年が思うより、ずっと「愛されていた」。

存在を認めていてくれたのは、腰に付いている短剣だけではなかった。

王の目に留まること、そうすることで新たな存在意義が見つかる。母もそれを望んでいる。少年は、そう思った。

「名は、ありません」

 再び王が「ほう」と漏らす。顎に手を当てた。

「名はない、と?」

「はい」

「では、お前を呼ぶ時はどうすればいい?」

「カエルム王が、新たな名を付けてくだされば。それで、御呼びください」

「お、お前!失礼ではないかっ…!!」

 初老の男性が声を荒げる。それを王は片手で制した。

「俺が勝手に付けていいのか?それに、お前は従うのか?」

「はい。貴方様に従います」

「全て無にして、新たに書き換えろ、と?」

 楽しそうに言うカエルム。少年は、顔を伏せたまま、微かに笑みを浮かべた。

目の前の男は相当聡いらしい。

「はい。お好きなように」

「くくっ。お前は、面白いな。そして、聡い」

「いえ。勿体無い御言葉」

「歳は?嘘は許さん。正確に答えろ」

「先日、七つになりました」

「そうか。まだ若いな。俺の息子の三つ下か」

「…」

「剣は使えるか?」

「いえ」

「そうか」

「…」

「おい。もう一度、顔を上げてみろ」

 言われて、少年はその通りにする。

視線が重なった。茶色がかった瞳が少年を射抜く。それでも、少年は、視線を逸らさない。

 音のない時間が流れた。周りの兵士達も、王とみすぼらしい少年の会話をただ、聞いている。

それは長い時間であった。しかし、それは短い時間でもあった。

 カエルムは、顎に当てた手を外す。

「そうだな、名は『   』でどうだ?」

 少年はゆっくり頭を下げた。聞いたことのない名であった。

それでも、初めからその名であったような錯覚を覚える。先ほどまで少年を称していた名を、少年は本当に忘れた。

「お前は、〝影″というものを知っているか?」

 カエルムが声を少し抑え、問う。

「カ、カエルム様。な、何を仰いますか!それもこんな所で!」

 初老の男性は、首を忙しなく左右に動かしている。しかし、カエルムの言葉が届いたのは、この初老の男性とみすぼらしい少年の耳だけだった。

「爺。少し黙っていろ」

「で、ですが。こんなどこの馬の骨とも分からない子どもに…」

 初老の男性はまだ何かを言っていたがカエルムは気にせず、少年を見た。

「いえ、存知上げません」

 首を振る。王は、少年に歩み寄り、身を屈めた。少年にしか聞こえない声で言う。

「〝影″は、この国の重要な役職、王の右腕だ」

「…」

「俺は表で働き、〝影″は裏で働く。才能と、知能、武術、格闘。全てにおいて強くなくてはならない。他国では、隠密と呼ばれている。要するに密偵だ」

「…」

「俺が、お前を教育してやる。なるか?〝影″に」

 王は片頬を上げた。

「厳しいぞ。覚えることはたくさんある。先には茨の道しかない」

「茨の道でも、道は道です。道ならば通り抜けられる。通り抜けろと仰るのなら、通り抜けてみせます」

「くくっ。そう来るか」

カエルムは片手で髪を掻き上げる。再び立ち上がり、初老の男性に告げた。

「爺。こいつの目が気に入った。これほど冷たい目ができる奴はそういない。それに聡い。この若さで。…面白いとは思わないか?」

「で、ですが…、こんなみすぼらしい少年…」

「みすぼらしくなければいいのか?なら、俺が召し物をくれてやる」

「…今し方会ったばかりの、それも少年にそのような大役は、」

「俺が良いと言っている。…俺に付いてくるだろう?茨の道を通してやる」

 カエルムは少年に視線を向けた。その顔には笑みが浮かべられている。

答えは聞かずとも分かっていた。少年は頬を持ち上げそれに応える。

「〝影″、俺はお前を一から書き換える。俺は、お前を信じてやる。だから、お前は護れ。俺でなく、〝この国″を」

「仰せのままに」

 カエルムは少年の言葉に頷くと、従臣が用意した籠に乗った。少年は横に立つ。

少年の存在意義が、腰の短剣とこの国になった瞬間だった。



第二章 呪術


 サラサ国は、三つの季節を持つ国である。温暖な気候が続く暖季。厳しい暑さの暑季。凍える寒季。

暑季には、雨が良く降るが、サラサ国は、全体を通し、乾燥している。寒季の乾燥は特に激しい。暖季、暑季、寒季の割合は二対一対一であり、サラサ国には、比較的過ごしやすい気候が続くのだ。

 しかし、暑季から寒季への急激な温度変化は、人々は勿論、作物にも大きな影響を与えている。

けれども幸いのことに、サラサ国は後ろに海を構え、大陸の最南東端に位置していた。航路を用いた交流により、港は栄え、他国から作物を輸入できている。

 サラサ国の周りにはいくつかの国がある。その中でも特に警戒をしなければならない2国があった。北に位置するオレイノス国、南に位置するアクシオス国だ。

オレイノス国は、広大な森林を持つ国だ。国の中央部に首都を構えるこの国の歴史には、多様な民族の名が並ぶ。統一と崩壊を繰り返し、力を付けてきた国であり、今でも数多くの少数民族が混在している。現在では、オレイノス民族が国民の大半を占めるが、少数民族は、独自の言葉、宗教、文化を持っており、それ故に、オレイノス国内部の民族同士の対立は根強く残っている。

 サラサ国にも少数民族は存在するが、その数は少なく、オレイノス国と比べると対立はほとんどないと言っていい。

 オレイノス国では、民族間の紛争を避けるために、オレイノス語を公用語と定めながらも、独自の言語の使用を認め、宗教への規制もかけないなどの懐柔政策を取っている。その成果により、一定の一体感が生まれていた。水面下での対立はあるものの、現在では国の情勢は安定している。しかし、いつ暴動が起きるかわからないため、武力は常に揃えられていた。そして、その武力は他国に警戒心を抱かせる要因となっている。

 アクシオス国は、中央を流れる大きな二本の川を中心に、栄える国である。幾つかの都市国家が寄り集まって構成されているその国の情勢は不安定だ。

都市国家とは、一つの都市とその周辺地域が、独立した国家として成り立っている状況を指し、アクシオス国では、その国家同士が互いにいがみ合っている。

また、アクシオス国は、好戦的な国であり、国民の気質は激しい。その上、国民の識字率は極めて低く、読み書きをできる者は、一部の権力者だけである。

それ故、一部のサラサ国の民は、彼らのことを「蛮人」と蔑称で呼んでいる。

アクシオス国が、サラサ国に攻め入る計画を立てているという噂は、遠い昔から幾度となく流されていた。好戦的なアクシオス国と武力のあるオレイノス国が手を組めば、挟まれているサラサ国は、簡単に制圧されるだろう。

しかし、海に面していないオレイノス国は魚介類や塩をサラサ国との交易によって手に入れていた。オレイノス国にとって、サラサ国は重要な貿易相手なのである。

また、サラサ国にとっても、外交面、軍事面から考えて、オレイノス国との友好関係は必須であった。

そのため、両国の間では、いつの頃からか、政略結婚が行われるのが常となっていた。共に、王女が嫁ぎ合うのだ。王家に女の子どもがいない場合は、有力な貴族の娘が嫁ぐか、王家の男児が高待遇の人質となった。

サラサ国の前王であったカエルムの下に嫁いできたのも、オレイノス国の王の娘であった。黄金色の髪を持つ、美しい女性。

政略結婚ではあったが、カエルムと妃との関係は良好であった。そして、カエルムの代に、サラサ国とオレイノス国の間で、永遠の友好関係が約束された。   

 その出来事に警戒を抱いたのが、アクシオス国であった。両国が手を組めば、アクシオス国がどんなに武力を持っていようとも、簡単には攻め入ることはできない。

また、アクシオス国が、オレイノス国と交易をするためには、サラサ国を経由しなくてはならず、現在では、三国の間でも、友好を約束する条約が交わされている。

外交関係は、表面上は良好であった。

 その良好な関係故に、交易は上手くいき、国民の生活は安定していった。それを導いたカエルム王は、この国始まって以来の大成の世を築いた賢王と呼ばれている。

 そのカエルム王が病に倒れたのは、五年前。そして、この世を去ったのが三年前だ。

カエルム王は、病に倒れると同時に、政権を息子である現王ソルに譲った。

歴代の王は、数名の妃を娶っていたが、カエルムは妃を一人しか娶っていない。その妃が生んだ子は男児一人、女児一人であった。ソルより一年後に生まれたその女児も十六歳になる前にオレイノス国へと嫁いでいった。故に、後継ぎ争いなどの混乱はほとんどなかったのである。

当時、ソルはまだ二十歳にも満たない青年だったが、聡明であった。また、カエルムはソルを政の場に良く連れ出しており、民はソルの顔を知っていた。

髪の色こそ違え、カエルムに瓜二つのその顔は、それだけで血の繋がりを感じさせた。

賢王と崇められるカエルムへの信頼は、ソルに引き継がれ、ソルが王になることを拒む者はいなかった。民は王を信頼し、国の情勢は安定していた。


 しかし、ソルには一つ奇妙な噂が囁かれている。ソルの重臣の中に、呪術と呼ばれる不思議な力を使う術師がいる、というのだ。

 ソルがまだ王ではなかった数年前。他国を訪問した際に、その不思議な力を使う民族に出会ったという。

直にその力を見たソルはその力に魅入られた。高い金を払い、一番優秀な術師を国に招き入れ、要務に付かせたというのだ。

 その力は星の巡りなどによって与えられる者が決まると言う。ソルはその術師の意見を聞き入れ、一定の特殊な力を持つ者達を集めているらしい。術を用い、この国を動かそうとしているという噂がどこからか湧いている。

ソルの人気の高さ故に、その力を悪用しようとしているという噂は出ていないが、妙なものに惑わされている、という見方は皆無ではない。

その術師がこの国にやってきたのが、五、六年前のことであり、前王が倒れたのはその術師のせいだ、と声を荒げる者もいる。

しかし、この国の平均寿命は六十歳であり、前王が病に倒れたのは五七歳。

ただの寿命だと言われればその通りであった。また、術師の存在自体噂の域を出ていないことから、一部の声が取り上げられることはない。

 しかし、火のない所に煙は立たないものである。

この世界には、特殊な力を持つ人間がいる。星の巡りによって、与えられる人間が決まるその力は、生まれ持った才能と教育でいくらでも伸ばすことができた。

ある者は人を呪い殺し、ある者は人の心を操る。

 呪術とは言葉を用いて使われる力だ。必要な呪術を使用する時、術師の頭には言葉が浮かぶ。それを唱えることで、力を使用する。その言葉は、「呪文」と呼ばれていた。

呪術は使えば使うほど強くなる力だ。経験値が影響する力。経験値が上がればより強力な呪術を使えるようになる。逆に全く使用しなければ、簡単な呪術しか使うことができない。

大抵の術師は、初めて呪術を用いる時にはひどい疲労感を抱く。呪術という存在を知らず、無意識に術を使えば、その疲労感のため二度と術を使おうとはしない。それ故、呪術の存在を知らない者にとっては、才能も宝の持ち腐れとなるのだ。


 ソルの下に仕える術師の名をモンドという。モンドの民族であるグラード族にとって、呪術の存在は周知のものであった。呪術を使える者を「神に選ばれた人間」と崇め、頭の中に自然と浮かぶ呪文を「神の声」と呼んでいた。

グラード族は、年長者が民族の長となる決まりがある。そして、その長は「神に選ばれた人間」でなくてはならない。それほどまでにグラード族の中で、呪術の存在は大きなものであった。

グラード族は、呪術の存在を自分達の民族だけのものであると考えていた。グラード族の民だけが、神に選ばれ、伝えられた力だと。

神の与えた力は必要な時のみに用いるものであり、それ以外では呪術を高める修行以外使用を禁止されていた。

また、呪文「神の声」の後世への伝承にも力を入れていた。グラード族には「文字」という文化がなかったため、伝承は口承であった。

呪文は自然と頭の中に浮かぶ。

しかし、その場合、呪文は、己の力に合わせたものしか浮かばない。

だからこそ、グラード族は、呪術を伝承し「神に選ばれた人間」が必要な時に、本当に必要な呪術を使えるようにしていた。

伝承された呪術を口にすることで、特定の呪術を使えるようにした。自身の力を超えた呪術を使えるようにしたのだ。

しかし、呪術には副作用もある。能力を超えた力を使えば、その反動は術師に跳ね返る。

それでも、必要時に、己の限界を超えた必要な力を使うのが「神に選ばれた人間」の義務であった。グラード族では、自身の命を懸けて、民族を守ることが英雄の証。

また、力を上げるためには、大きな力を使うことが危険だが一番の早道であった。若きグラード族の「神に選ばれた人間」は、こぞって、その修行法を求めた。

誰よりも、力を付けるために。

勇敢な「神に選ばれた人間」達にとって、古代から先人達が残した「神の声」はまさしく、自分を導く神の声だったのである。

グラード族には呪術に関して、もう一つ禁止していることがあった。

民族以外の人間に呪術の存在を知らせることは絶対的なタブーであり、民族への裏切りを意味していた。グラード族の民はそれを堅く守っていた。自分達の民族への誇りは高い。

呪術を使えない者は「神に選ばれた人間」を神のように崇め、「神に選ばれた人間」も、自身を選んでくれた神に恥じない行動を常に心がけている。彼らは、山の奥地で自然と共存し、呪術を守っていた。

 けれど、モンドは違った。彼は野心家で、山の奥地に、民族に縛られることを嫌った。

 彼の呪術は、強かった。人より強い力を行使でき、疲労感も少なかった。物心付く頃から知っていた呪術の存在。それを自在に操れる自分。

呪術を使えば、人を操ることができた。殺そうと思えば、簡単に人を殺せた。

いつからか、モンドにとって、呪術は、「守るべきもの」から、「利用するもの」になっていた。

 だから、彼は山を降りた。それは、グラード族の掟を破る行為であったが、モンドにとってはどうでもいいことであった。民族も掟もモンドを縛ることはできない。モンドを縛ることができるのは、モンド自身だけだった。

誰も彼を止めることはできなかった。民族の中でも、モンドの力に敵う者はいない。

 モンドは、聡明な男である。山を降り、文字を学ぶと、すぐにそれを身に付け、覚えていた呪文を記録した。

彼は、文字と同時に様々な事を学び、身に付けた。山の奥地では知らなかった知識。

「国」という存在。「王」という絶対権力。

 モンドは、自分の力の有益な使い道を考えていた。そんな時だった。モンドに転機が訪れたのは。

ソルがグラード族の潜む山に調査しにくると言う噂を聞いた。


 色素の薄い茶色い髪が風に揺らされる。

ソルは馬上から、辺りを見渡していた。その前を二人、後ろを五人の男が固めている。彼らは、ソルを護る兵士達だ。

ソルは、カエルムの命で山を訪れていた。まだ若いソルは政には参加させてもらえず、未開の地への視察などの命しか与えられていなかった。しかし、ソルはそれでも、命を与えられることに満足していた。

 一番前にいた兵士が急に左手を上に挙げる。

馬の脚を止めた。

「アステラ」

 ソルか小さく兵士の名を呼んだ。

細身の身体にも関わらず、彼の力はソルの従臣の中でも一、二を争うほど強い。三十代手前の彼は、ソルの側近である。

 アステラは何も言わず、振り向きソルを見た。

ソルは、馬から降りる。その周りを兵士が囲った。

アステラは一人の男と目を合わせる。名をイオというその男は、ソルのもう一人の側近であった。三十代半ばである髭を生やした男の洞察力は鋭い。頭脳も高く、彼はまだ若いソルの教育係でもあった。

 イオが頷いて見せる。アステラは腰から一番軽い剣を取り出し、木の茂みに投げた。

 甲高い音が鳴る。アステラの剣が弾かれた。兵士たちが一斉に剣を構える。

 一人の男が両手を挙げ、茂みから出てきた。短く揃えられた黒い髪が視界に入る。

茶色い肌を覆う衣服は、安い物ではなかった。

「別に、危害を加えるつもりはありません」

「お前は、何者だ」

 イオが冷たく放つ。男は片膝を地面に付け、落ち着いた口調で告げた。

「モンドと申します。ソル様をお待ち申していました」

「私を待っていた…だと?」

 ソルは眉をひそめる。しかし、モンドは構わず続けた。

「はい。貴方様に呪術をお見せしたく、待っておりました」

「呪…術?」

「人を操ることができる、不思議な力」

「そのようなものがあるのか?」

「ソル様」

 イオがたしなめるように声を上げる。まだ若いソルは、好奇心によって動かされやすい。

「国を治めていく上で利用価値があると思いますが」

 イオの存在を無視し、そう繋げる。ソルは少し考える素振りを見せた。

イオがモンドを睨む。しかし、モンドは構わず続けた。

「見ていただくだけでも結構です。もし、利用価値があるとお思いになるのなら、私をお連れください。私は貴方様に仕えたいのです」

「…見るだけなら」

「ソル様!」

「見るだけなら、いいではないか」

 真っ直ぐイオを見るソルの目を見て、イオは気付かれないよう息を漏らした。

その目に揺るぎはない。一度決めたことをやすやすと変える御方でないことは、イオが良く知っていた。

「やってみろ」

「それでは、雨を降らせましょう」

 空を見上げ、モンドが言った。

「雨だと?」

「ええ。それも、ここにだけ」

 モンドは手を空に伸ばし、呪文を唱え始めた。

兵士達は空を見上げる。ソル達が立っている場所の上にある空だけが灰色に変わった。

上を見上げている兵士達の頬に冷たい雫が落ちる。しかし、ソルとモンドにその雫は当たらない。

 雨が降った。視線を少し逸らせば、青空が見える。モンドが言ったように、「ここにだけ」雨が降っていた。厳密には兵士達の所にだけ。

兵士は歓声を上げる。その中でも側近の二人だけはただ、雨を見上げているだけだった。

ソルは静かに手を叩く。モンドは頭を下げた。

「何を望む?」

「先ほども申し上げたように、私は貴方様に仕えたいだけです」

「…なぜだ?」

「この国が、好きだからです」

「…」

「この国のために、何かをしたいのです。そして、私には、それに必要な力がある。だから、貴方様に仕え、この国の役に立ちたいのです。この力を、この国のために使いたいのです」

「…」

「ソル様」

 諌めを含んだイオの声。しかし、ソルは、モンドに放った。

「ついてこい」

「ありがたき幸せ」

 イオとアステラは何も言わなかった。否、何も言えなかった。その力は国の役に立つ。間近で見た二人にもそれは分かった。けれども、会ったばかりの者を信頼するなど、できはしない。彼らは、様々な逆境に耐えてきた。だからこそ、信頼できる者は僅かである。

しかし、主であるソルがモンドを信頼した。目を見れば、それは確かだった。

ソルは若さ故の信じやすさを持つ。だから、彼らは何も言えなかった。ただ、モンドに冷たい視線を送ることしかできない。その視線に気付きながらも、モンドはソルを見ていた。

微笑む。


モンドはそうして、自分を売った。噂で流れているように、大金を積まれ、ソルに連れてこられたのではない。自分の有効性を伝え、自分から従臣になることを志願したのだ。自分の力を、国のために使うことを望んで。

モンド、三十八歳の時のことであった。



「父上。只今戻りました」

 視察から戻ってきたソルは、その足で王であるカエルムに報告をした。

「…今回は、食料などの関係から山の奥まで行くことはできませんでしたが、おそらく、奥地には人が住んでいると考えられます。開拓を進めていくのならば、反発は必至でしょう。慎重に計画を立てなければならないと考えます」

「そうか。あとはこちらで考える」

それだけを言うと、カエルムは視線を少し逸らした。低い声が響く。

「…それより、それはなんだ」

 顎でソルの後ろに座っているモンドを差した。モンドが、深々と頭を下げる。

「数日前に私の従臣になったモンドです」

「従臣?」

「はい」

「お前にそんな権限を与えた覚えはないが」

 カエルムの言葉に、ソルは口を閉ざした。視線が無意識に下がる。

「アステラとイオは?」

「部屋の外で待機しています」

「アステラ!イオ!」

 カエルムが声を張り上げた。存在を主張する声が二つ重なる。

「入ってこい」

「はっ」

 カエルムの命を受け、アステラとイオは中に入ってきた。ソルの後ろで両膝をつけ、座る。カエルムに深く頭を下げた。

「ソル。お前の側近は、アステラとイオだな」

「はい」

「アステラとイオは有能だ。それは俺も認めている。そして忠誠心もある。…そうだな?」

「はい」

 カエルムの問いかけに二人は声を合わせた。ソルは、カエルムの言葉に知らず唇を噛む。

カエルムはお世辞を使わない。そもそも、国の王が家臣にお世辞など言う筈がない。

だからこそ、「認めている」とカエルムが言うのなら、本当にアステラとイオを認めているのだろう。

ソルはその言葉をカエルムから貰ったことはなかった。

「優秀な側近が二人いる。それで十分だ。あとは己が強くなればいい」

 ソルはただ、下を向いていた。噛む力が強くなる。赤が滲んだ。

「恐れながら申し上げます」

 ソルに代わってか、モンドが声を発した。カエルムは、ソルに向けていた視線を動かす。

「カエルム王は呪術というものをご存知ですか?」

「…それが何だ」

「呪術とは、人を操ることもできる巨大な力です。私にはそれが使えます。雨を降らせることも、人を操ることも、私には容易です」

 カエルムは沈黙を創った。先を促すように、ただ、モンドを見ている。

「呪術は、国を治めていく上で重要な力となるでしょう。水不足を解消することも、他国を攻撃することもこの力があればたやすい」

「呪術が重要なのは分かった。…で?お前は?」

「…と、申しますと?」

「お前は有益なのか?この国にとって」

「はい」

「どうしてそう言い切れる?」

「呪術を思うように使えます。私ほどの術師はなかなかいないと自負しております。それに、剣術の腕も立つつもりです」

 その言葉に、カエルムはアステラを見た。意を汲んだアステラが応える。

「本当です。手合わせをしましたが、私と同等の力があるようです」

「そうか。それならばなかなかの強さだな。…だが、肝心なことをお前は応えていない」

「私はこの国を大切に思っています」

「模範解答だな」

「本心です」

 間髪入れずに応えた。

「私は、この国の役に立ちたいと思っています。だからこそ、今後この国を引っ張っていくであろうソル様について行きたいのです」

「老いぼれの俺では、不満か?」

「この先長く、この国の役に立つことを考えるのならば、今後長く政権に就くソル様について行きたいとは考えております」

「貴様!」

 イオが声を張り上げた。剣に触れる。

「くくっ」

 カエルムが吹き出すように、笑った。イオの視線が、モンドから逸れる。

カエルムは片手を上げ、イオを制した。

 剣から手を放し、座り直す。モンドも剣に触れていた手を前につき直した。

「俺を前に、それだけ言えるその根性は褒めてやる」

「光栄です」

 急にカエルムが、笑みを消した。部屋を照らす灯りが心なしか暗くなる。

「ただ、その目。…冷たいな」

「それが、何か問題でも?」

「気に食わない」

 静かに放たれた言葉に、ソルは立ち上がった。拳を握り締める。

「父上!貴方は、冷たい目を買ってあいつを連れてきました。それと何が違うんですか?」

「違いが分からないか?」

「分かりません。貴方の考えていることも、貴方の行動も。…父上があいつを買い、信頼しているように、私もモンドを買い、信頼しています。アステラとイオと同じくらい。…自分の従臣は自分で決めます」

「そうか。それなら、俺に相談する必要はないだろう。好きにしろ」

 それだけを言うと、カエルムは背中を向けた。身構えていたソルの力が一気に抜ける。

「大丈夫ですか」

思わずしゃがみ込んだソルに従臣たちの声が重なった。姿勢を正す。

こちらを見ていないカエルムに深く頭を下げた。三人を引き連れ部屋を出る。

「ソル様?」

 イオが呼びかけた。

「大丈夫だ」

 気丈な声。ソルは、振り返りアステラ、イオ、モンドの三人と目を合わせる。

「私は、お前たちを信じる。お前たち三人は私の信頼できる者達だ。…私を失望させるな」

 まだ、十代半ばのソルはそれでも力強く告げた。国を背負う人物として恥ずかしくない強さ。

 アステラとイオが片膝をつき、頭を垂れる。一拍遅れて、モンドも片膝をついた。

 ソルは満足そうに頷く。空を見上げた。鳥が高い空を目指し飛んでいた。



第三章 第一部隊


 太陽の熱は、程よく、サラサ国は過ごしやすい暖季に入っていた。ほのかに潮の香りを運んでくる風か吹く。木々が揺れ、花は笑った。

太陽が、人々に時刻を教えた。女たちは仕事をする手を休め、昼食の支度に入っている。

「ユイン、スキア。そっちは終わったか?」

 一人の青年が声をかけた。短く揃えられた栗毛の髪を持つ、端正な顔立ちの青年。二十六歳になった彼は、名をグロームと言う。

グロームは、青年の隣に行き、同じように腰を降ろす。

 漆黒の長い髪をゴムで結わえていた青年は座った状態で、左を向いた。その視線の先には、もう一人の青年が立っている。

彼は、両手を縄で縛られた者たち頭に手をかざし、その口で何かを唱えていた。その姿を確認すると、漆黒の髪を持つ青年はグロームに告げる。

「僕の方は終わったけど、ユインはもう少しかかるみたいだね。グロームの方は?」

「俺の方は終わった」

「だよね。…ユイン、手伝う?」

「…いや、それはあいつにやらせよう。あいつが俺らの中で一番呪術が弱いからな。手を貸していたら、あいつのためにならない」

「そうだね。それにしても、まだ結構いるね」

「…当初よりは確実に減った。それでも、まだこんなに残っている。俺たちがどんなに頑張っても」

 グロームは、辺りを見渡した。

グローム、スキア、ユイン以外の人間の手は太い縄で括られている。捕えられた犯罪者の証。

 グローム、スキア、ユインは、サラサ国の従臣であった。

尤も、剣を使う兵士ではない。呪術という不思議な力を用いて、王に使える術師である。

 ソルの重臣となったモンドという名を持つ最高の術師は、ソルが王の地位に付くと、術師で構成する部隊の創設を要請した。

ソルは間近で見た呪術の威力の大きさを知っていたため二つ返事でモンドの要請を受け入れたのだ。

 そして構成された部隊は五年で二十に達した。とは言っても、一部隊に術師はたったの五人しかいない。

それは術師の数と能力の問題からだった。サラサ国では、呪術の存在は公になっていない。呪術の存在が王の権威を下げるかもしれないとの恐れからだ。

 だからこそ、術師を集めるのに、必要以上に骨が折れた。存在が知られていないため、術師側から志願してくることは皆無である。

それ故に、直接赴き探さなくてはいけない。

呪術の存在を隠しながら、才能がある者を探すのは想像以上に困難を伴うのだ。

また、モンドの民族、グラード族のように小さい頃から呪術の存在に触れているわけではない。そのため、術師を一から教育をする必要があった。

故に、若い術師の存在が必要となる。数は必然的に限られた。その中で、才能のある若者だけが求められる。

 術師は、術師を見分けられる。モンドはソルにそう伝えた。

それは、ごく小さな違和感であり、呪術の存在を知らなければ見落としてしまうようなものであった。だからこそ、術師を探す一番初めの作業はモンド自身が行わなければならなかった。それ故に、年月が必要であったのだ。

 しかし、それでも、五年で百名の術師を集めることができたのはモンドの力量からであろう。

集まった部隊は依然として全体的に戦力は劣る。しかし、術師とそうでない者の差は激しい。

 グローム、スキア、ユインの三人もモンドの眼鏡にかなった者達であった。

グロームは、五年前、モンドが重臣になったと程同時期に、田舎で農業をしていたところを、

モンドに声をかけられた。

その半年後には、城の中で重労働に勤しんでいたスキアが部隊に入り、ユインもまたその半年後に部隊の隊員となったのである。 

グロームは、正義感が強く、王のために働けることに、誇りを持っていた。

スキアは多少気が弱いという欠点はあるものの誰よりも聡明で、モンドの信頼を得ている。

ユインは二人に比べ、遅れて部隊に入ったため、呪術の習得が遅いがそれでも素直な彼は誰からも好かれていた。

彼らは、この国の術師の中で最も強い呪術が使える人物である。彼らは、第一部隊として、王の身辺の警護にあたっていた。

第一部隊はもう二人存在するが、彼らは新たな術師を見つけるため、国の中を駆け巡っている。

第一部隊の彼らに与えられた要務は、王の警護だ。

それは、嘘ではない。しかし、建前ではあった。

一番の力を持つ第一部隊の本当の要務は、犯罪者に呪術をかけることである。



 六年前、まだカエルムが病に倒れていなかった時。ソルはモンドに尋ねたことがある。

「最近、犯罪者が多くて困ると父上が仰っていた。何か策はないか?」

 経済の逼迫が招いた状況は、犯罪者の増加という現象を引き起こしていた。当時サラサ国は、カエルム王の政によって復興期には入っていた。しかし、それまでに罪を犯した者は多く、牢獄は犯罪者で埋め尽くされていた。

彼らに与える水や食料の負担も数の増加と共に増え、サラサ国にとって、犯罪者は悩める種であった。

 ソルは父の役に立ちたかった。自分のことをカエルムに認めてもらいたかった。加えて、モンドのことをあまりよく思っていなかったカエルムにモンドの重要性を知らしめる良い機会だとも思っていた。

だからこそ、ソルはモンドと二人で知恵を絞ろうと考えたのだ。

ソルの言葉に、モンドはしばらく黙ったが、すぐに顔を上げた。ソルに進言する。

「…ソル様、私に良い考えがございます」

「それは、誠か?」

「はい。しかし、それは一朝一夕でできることではございません」

「どういうことだ?」

「人手が必要となります」

「人手が必要なら揃えよう」

 ソルの言葉に、モンドは小さく首を横に振った。ソルの眉が上がる。

「私の部下では力不足とでも言うのか?」

「いえ。そうではございません」

「だったら、どうしてだ」

「ただ、私が必要なのはただの兵士ではないのです。…私の策のためには、術師が必要なのです」

「…術師?」

「はい」

「しかし、どうやって集めると言うのだ?サラサ国では、術師の存在は公になっていない。お前たちの民族のように、周知のものではないのだぞ。術師自身、呪術を使えるということを知らない者が多いのだろう?」

「ええ。そうでしょう。けれど、術師であれば、同じ術師の存在に気付くことができるのです。だから、私に術師を集めさせてはいただけないでしょうか?そして、その集めた術師で部隊を創りたいのです」

「…それが犯罪者の削減とどう関係する?」

 その言葉に、モンドは片頬を上げ、微笑みを浮かべた。



「でも、良く考えるよね。犯罪者に呪術をかけて操るなんて」

 スキアがため息交じりに言う。

モンドは、ソルに進言したのだ。術師の部隊を構成し、犯罪者に呪術をかけよう、と。

そして組まれたのが、グローム、スキア、ユインのいる術師の部隊。

「『操る』は言い過ぎだろう。一定の怒りまで達すると、怒りが収まるようにしてあるだけなのだから」

「それは、そうだけど。でも、記憶の操作もしてるじゃないか。彼らは全員、王の従順な部下だったと思っている」

「仕方ないだろう。ここにいる連中の『人殺し』の記憶を消して、労働をしてもらうためには必要な事だ。それに、軽犯罪者には記憶の操作はしていない」

「軽犯罪者にまで、呪術をかけるほどの労力がないだけだろうけどね」

「軽犯罪者ならば、魔が差した、ということもある。だから、記憶を操作する必要はない。けれど、人を殺すというのは正気の沙汰ではない。だからこそ、記憶を操作し、操る必要があるんだ」

 グロームの言葉に、スキアは肩を竦めて見せる。

「…なんだか、お前らしくないな」

「何が?」

「そのような事を言うことが、だ。犯罪者に呪術をかけ、同時に記憶も操作する。それは、スキア、お前も了解していることだろう?モンド様の一番弟子であるお前がモンド様の意見に反対するようなことを言うとは思わなかった」

「モンド様の一番弟子は、グロームだろう?僕はせいぜい二番弟子だよ」

「一番でも二番でも、一番信頼を得ているのは紛れもなくお前だ。そうでなければ、お前とルス様の関係をモンド様が許す筈はない」

 スキアの顔がほのかに赤く染まる。

「なんで知っているの?」

「ルス様とお前が恋仲であることを、か?」

「…」

「見れば分かる。特にルス様は本当に幸せそうな顔をしておられるし、それを見ているモンド様も嬉しそうだ。…というか、隠しているつもりだったのか?」

「…」

「それなら、ルス様にも伝えなければ意味がないだろう。お前と話している時の嬉しそうな御顔を見れば、誰でも分かる」

 ルス様とグロームが呼ぶのは、モンドの一人娘である。モンドが山を降りたあと、同じように山を降りたモンドの妻によって、連れられてきた娘だ。

グラード族の民にとって、山を降りることは、タブーである。しかし、それ以上に、一度結ばれた者同士が離れることがタブーであった。

グラード族には、結ばれる者は男女でなくても良いという特徴がある。同性でも祝言を挙げることが可能であった。

グラード族は、血縁に重きを置かない。血の繋がっていない者同士の繋がりである夫婦関係に重きを置いているのだ。

グラード族の繁栄は望むものの、それぞれの家族の繁栄にはそこまで執着をしていない。故に、同性同士の関係も生まれる。子孫を産まないその関係は、しかしそれ故により強固な関係を創るのだ。また、その数は全体数から見ても少数であり、グラード族の繁栄に大きな影響を及ぼすことがないため許容されている。

グラード族の掟では、異性同士であろうと、同性同士であろうと、一度結ばれると、死ぬまで添い遂げなくてはならないとされているのだ。一方が亡くなり、死別した場合でも、一人で生きていかなくてはならない。

その掟故に、三年前に亡くなったルスの母は、一人山を降りたモンドを追ったのだ。そして、ルスと共に、ソルによって受け入れられたのである。

ルスは、現在、モンドと第一部隊との伝達役を賄っていた。そして、その関係で、グローム達三人と仲良くなっていたのである。  

彼女は、スキアより一つ歳が上の優しく美しい女性であった。

「……僕は、モンド様のやっていることに反対をするつもりはないよ。けれど、知らぬ間に過去を変えられて、操作されているなんて、僕は嫌だなってちょっと思っただけだ。…それとさ、そうまでしなくちゃ、やっぱり人手が足りていないんだな、この国はって、改めて思っただけよ」

「あからさまに話題を変えたな」

 グロームが片頬を上げる。

「う、うるさいな。でも、グロームもそうは思わない?」

「ま、この国は、逼迫していた状態から急に復興したからな。随所で人手が必要だろう。それこそ、犯罪者の手も借りたいほどに」

「そして、逼迫していた時に増え過ぎた犯罪者がごろごろいる、か」

「そうだ。ま、国の情勢が安定したことで、犯罪者の数は少しずつ減ってはいるがな」

「それでも、こんなに多いんだけどね」

 スキアは少し呆れたように辺りを見渡した。グロームも同じように首を動かす。二人の間に、知れず重い空気が流れた。

 視線を動かす。その先に、グローム達の方に手を振る一人の男性が目に入った。

「お~い、こっち、終わったよ!」

 急に耳に入った元気のある声。換気したように、空気が変わる。それが、ユインの不思議な所だ。

グロームとスキアは共に笑みを溢す。声の方に体ごと向けた。

「お疲れ。ユインもこっちでちょっと休もうよ」

「うん!今行くね」

 グロームは近くにある井戸の所まで行く。慣れた手つきで、水を汲んだ。

「ほら、水だ。疲れただろう」

「うん、ちょっとね。でも、だいぶましになったよ」

 水の入った陶器の入れ物を受け取り、笑顔を見せる。

「そっか。ユインの呪術も上がってきたってことかな?」

 スキアが微笑みかけた。

年齢で言えば、ユインはスキアより二つほど年上なのだが、その素直さからか、スキアはユインを弟のように扱っていた。

「そうだといいな。でもさ、本当に思った通りの呪術がかかっているのか心配になる時があるんだ、俺」

「呪文を間違えて覚えているわけではないのだろう?」

「うん。それはちゃんとしているよ。だけどさ、あれってモンド様が考えたっていうか創った呪文だろう?こう、さ。頭の中に呪文が浮かぶわけじゃないから。…頭の中に呪文が浮かぶ時はさ、どういう風になるっていうのが分かってて、結果とちゃんと一致するから安心なんだ。でも、頭の中に浮かぶ呪文じゃないものを唱えると、なんか本当に自分が思い描いている通りの呪術がかかるのか心配になるんだよね、時々」

「…」

「…あ!でも、別にモンド様を信用してないとかそういうのじゃないからね!」

「大丈夫。ユインがそんなこと思ってるなんて誰も思わないから。…でも、実際に、与えられた呪文を唱えるのって少し不安になるのは僕も一緒かな」

「…でも、それは仕方がないだろう。俺たちにとって、犯罪者を操り記憶を変えることは『必要』ではないのだからな。だからこそ、俺たちの頭に呪文は浮かばない。それに、例え、必要だったとしても、おそらく俺たちでは、呪文は思い浮かばないだろう。まだまだ、未熟なのだから。モンド様なら可能だろうが、モンド様にはやらなくてはならないことが山ほどあるからな。だから、俺たちでやらなくてはいけないんだ。…モンド様が二年以上も考えて創った呪文だ。実験もしたと仰っていた。俺たちはモンド様を信じよう」

「そうだね」

「うん」

「モンド様は、ソル王の絶対の信頼を受けている。モンド様への信頼はそのままソル様への信頼に繋がる」

第一部隊の彼らは、名目上王の擁護に当たっているため、グロームたちはソルと会う機会が比較的多かった。

サラサ国の全ての決定権は、王にある。それでも、ソルは、些細な事でもモンドへの相談を欠かさない。それをグローム達は知っていた。

モンドはソルが絶対的な信頼を置くほど、聡明であり、その賢さは国の財産と言える。

また、サラサ国の術師は、呪術の修業をモンド自身に付けてもらっている。

今では、部隊の隊員が新たに入ってきた者に伝えていくという形を取っているが、第一部隊は国の大きな戦力であり、モンドが付きっきりで呪術を教えていたのである。

部隊創設当初に部隊に入ったグロームはそれこそ、モンドの一番弟子と言っても過言ではない。モンドは彼らにとって、尊敬できる師であった。彼らのモンドへの信頼は高い。

「グローム。さっきは色々言ったけど、僕もちゃんと信じてるよ」

「そのことに関しては心配していないさ。ただ、不思議に思っただけだ」

「え?何の話?」

一人だけ話の内容が分からないユインが首を傾げる。ユインの黒とも茶色とも称せるような柔らかい髪をグロームが撫でた。

「なんでもないさ」

「俺だけ仲間はずれ?」

「そういうわけじゃないよ。本当に他愛ない話をしてただけ」

「…なら、いいか」

 まだ少しだけ拗ねたような顔をしながらも、ユインは頷いた。

ユインは知っている。二人が大切な事を自分に隠す筈はないと。だから、二人が「他愛ない」と言うのなら、それは本当に「他愛ない」ことであるのだろうと。

 呪術の使用には何とも形容し難い疲労感を伴う。それは、経験したことのある者でしか分かりえないものであった。それを共に乗り越え、今のようにやってこられているのは、仲間で支え合ってきたからである。だからこそ、彼らは互いを信頼していた。

「休憩か?」

 突然、低い声が耳に入る。グロームとユインの肩に重みがかかった。後ろを振り返る。

「よ!」

「頑張っているか?」

「アステラ様!」

「それから、イオ様も!」

 第一部隊はソルと接触する機会が比較的多い。それは、ソルの重臣との接触頻度にも比例していた。

 三人に声をかけたのは、顔見知りのソルの重臣。

アステラと呼ばれた長身の男は、柔和な笑みを浮かべ、イオと呼ばれた理知的な男は、軽く手を上げた。

 二人の姿に三人は立ち上がり、背筋を伸ばした。

「おいおい。いいぞ、座っていて。休んでいたんだろう?」

「そういうわけにはいきません」

 間髪入れず応える。二人は笑みを浮かべた。

二人にとって、二十近く歳の離れた三人は息子のような存在だった。大人びた態度を見ると、嬉しく、そして少し寂しくなる。

「相変わらずグロームは硬いな」

「肩の力を抜くことも覚えないとこの先やっていけないぞ」

 そう言って、二人は、三人の頭を豪快に撫でる。グロームは、少し眉をひそめ、その手から逃れた。

「大丈夫です。それより、二人お揃いでどうしたのですか?」

「そうですよ。ソル様の護衛は?」

 グロームにユインが続いた。

「心配しなくても、モンドが付いている」

「俺たちは、ソル様の命で、ここにきているんだ。って言っても、イオ様は、ただ通り道にちょっと寄ったってだけだけどな」

「どこかに行かれるんですか?」

 スキアが尋ねる。

「オレイノス国との交渉にな。ソル様に代わって行ってくるんだ。オレイノス国は、馬を飛ばせば一日弱で着くからな、四日もすれば戻ってくる」

「オレイノス国まで、一日弱なんていう人、イオ様だけですよ!」

 張り上げる声に、イオは笑いを含んで答えた。

「そうでもないぞ、ユイン。アステラも一日弱で行けるし、今回は部下を一人連れて行くからな。少なくとも俺以外に二人は一日弱で行ける」

「…もしかして、二人だけで行かれるんですか?」

「心配など無用だぞ?」

 イオは片頬を持ち上げた。

イオは、サラサ国の誇れる兵士だ。頭脳は高く、力は強い。オレイノス語も、習得しており、通訳なしで交渉ができる。

「勿論心配など御無用でしょうが、一応。社交辞令ですので」

「グローム。言うようになったな。そんなに頭撫でられるのが嫌だったか?」

 図星を突かれ、グロームは、視線を逸らした。頬が赤くなっている。

「グロームの負け!」

 先ほどの仕返しにと、楽しそうにスキアが笑った。

それを見てイオも笑っていたが、すぐに表情を正し、伝えた。

「オレイノス国は、友好国だ。危害を加えられることはない。それに、この髪の人間を攻撃するほど、愚かでもないだろう」

 自身の髪を軽く持ち上げる。漆黒の髪。それは、サラサ国の民特有の色であった。

サラサ国は、他国の民の移住を許可して久しい。オレイノス国と「永遠の友」となる前から他国の民の受け入れをしている。積極的にしているというわけではないが、規制しないことで、友好国であることを示しているのだ。

今では国を超えて夫婦となる者達も存在する。それ故に、血が混ざりあっているのだ。

現在では、様々な髪色を持つ者達が増えている。それでも、黒髪はサラサ国の民であることを、表していた。

特に、イオの漆黒は濃く、一目で、サラサ国の民だと分かる。

「だから、アステラ様ではなく、イオ様なのですね」

 アステラの両親は共に、サラサ国の民だ。しかし、父親には、オレイノス民族の血が含まれていた。アステラの髪の色素は薄い。

「そういうこと。ま、外交は俺より、イオ様の方が適任であるという理由も大きいんだけどな」

「そう言えば、イオ様は、通り道だっただけと仰いましたよね?じゃあ、アステラ様はどんなご用件なのですか?」

「俺はな、スキア。お前たちの仕事ぶりを観察しに来たんだ」

「…観察、ですか?」

「ソル様の命で?」

「そう。…順調か?」

 少しだけ抑えられた口調。空気が一瞬にして引き締まる。無意識に緩んだ背筋を伸ばしていた。

「はい。問題なく進んでいます」

「どんな調子だ?」

「犯罪者の数は、数年の間に増えましたが、ここ最近の増加率は以前に比べると低く、負担にはならない程度にまで落ち着いています」

「正直、俺は呪術というものがまだよく分かっていないところがある。…ちゃんとかけられているのか?」

「はい。皆、王の部下だったという記憶の下、しっかり仕事をしてくれています。暴動、逃亡などの心配はいらないと思います。…だよね、グローム」

 グロームは、呆れた表情を浮かべ、頷いて見せた。「自信を持って答えろ」と呟く。

「そうか、そうか。それは安心した」

 アステラは、両頬を上げて見せた。一気に雰囲気が緩まる。三人は知らず、息を吐き出していた。

「それでは、俺は行くな。心配は無用かもしれないが、詰めすぎるなよ。自分の力量を把握し、その上で自分たちにできることをしろ」

「はい」

 イオの言葉に頷く。その姿に満足げに笑った。

 イオが軽く手を上げ、歩みを進める。三人は頭を下げ、その背中を見送った。

「俺は、もう少し見て行かせてもらう。けれど、お前たちの邪魔をするつもりはない。だから、俺がいても、気にせず、仕事を続けてくれ」

 そう告げると、アステラも姿を消した。

 二人の姿が完全に見えなくなると、ユインが急にしゃがみ込む。

「疲れた~」

 気の抜けた声を発した。それに頷き、スキアも座る。グロームも続いた。引き攣ったままの顔に手を当て、軽く解す。

 軽口を叩けるほどの仲ではあるが、アステラとイオはソルの重臣。三人も王の護衛をしている部隊に所属しているが、二人は三人にとって、雲の上の人と言っても過言ではない存在だ。子どものように可愛がってくれているため、時々忘れてしまいそうになるが、それでも、二人に対面する時の緊張は半端ではない。

 力の入った肩を回し、凝りを解す。

「…お腹空いたね」

 スキアの言葉と同時に、「グー」と腹の虫が三匹鳴いた。三人は、顔を見合わせ、笑い合う。

「あれ?良い匂いがする」

 鼻で匂いのもとを探りながら、ユインが辺りを見渡す。食事をお盆に載せ、それを運んでいる一人の女性の姿が三人の目に映った。

「ルス!」

 ユインが手を振り、彼女に自分たちの存在を知らせる。その頭をグロームが軽く叩いた。

「いてっ!グローム~」

「グローム~、じゃない。様を付けろ、様を」

「でも、ルスは様って付けなくていいって言ってたよ。…ね、ルス?」

 いつの間にか、三人の傍に来ていたルスに問いかける。ユインの言葉に、ルスは笑みを浮かべた。

「うん。グロームさんも別に様付けなくていいですよ?様を付けなきゃいけないのはお父様でしょう?」

「そういうわけにはいきません。貴女様は、モンド様が大切にされている方であり、私達より地位が高い」

「とは言っても、今は配給係だけどね。はい。皆、お昼だよ」

 ルスは、三人に食事を配る。自然とスキアの隣に座った。

「ルス。ありがとう」

「いいえ」

 静かに微笑むその顔はとても優しく、多くの者が彼女の笑顔に見惚れた。風が長い髪を持ち上げる。甘い香りがした。

「グローム、スキアは注意しないの?」

 少しだけ含みのある声色。グロームは、片頬を上げた。ユインは、勘が鋭い。

「そういう言い方をしているってことは、理由が分かっているのだな」

「分かりやす過ぎだよ。ね、スキア」

 急に話を振られたスキアは、食べている物を上手く飲み込めず、苦しそうに顔を赤く染めた。その背中をルスが心配そうに擦る。

スキアはそれを片手で制し、グロームとユインを軽く睨んだ。しかし、その顔は赤く、威力はない。

 聡い青年は、感情を隠すのが巧い。それなのに、ここまで顔に感情が出ることに、グロームもユインも驚き、新鮮であった。

(だからからかいたくなるんだ)

 グロームは声には出さず、心の中で呟く。

「スキア、俺たち席を外そうか?」

「いいよ。…あ~、も~そうだよ。二人が思っている通りだよ。だから、これ以上からかうな」

 赤い顔を膨らまし、拗ねたように告げる。

グロームとユインは互いに顔を見合わせ、声に出して笑った。

「うふふ」

 三人のやり取りを見ていたルスは、そう声を上げる。

「ルスが笑うのはちょっとおかしいんじゃないの?」

「だって、三人ともおかしいんだもん」

 たまらない、といった風に笑いを堪えているルスに耐えきれず、スキアは与えられた食事を腹の中に詰め込んだ。

「また詰まるよ?」

 スキアは無言を押し通す。ユインは呆れたとでも言いたげな表情を浮かべた。

グロームは頬を上げる。

 しかし、すぐに表情を戻し、ルスを見た。

「そう言えば、ルス様。今日は配給だけですか?何か言伝などは?」

「お父様は、このあとも同じようにやってくれと言っていました。それから、三人とも今日の仕事が終わったらお父様の所に来て欲しいと」

「うん」

「了解しました」

「分かりました」

「あら?敬語を使うなんて、スキア、まだ拗ねてるの?」

「…もう拗ねてないよ」

「拗ねてたことは認めるんだね?」

「うるさいぞ、ユイン」

 スキアは、空になった皿を地面に置き、立ち上がった。座っているルスの手を掴み、ルスを立ち上がらせる。

「…?」

「これ以上ここにいたら、またからかわれるよ。行こう、ルス。…あと半刻したら戻ってくるから、ゆっくり飯でも食ってろ」

 そう告げると、スキアは返事も聞かずに歩き出した。ほのかに頬を染めているルスの後ろで、グロームとユインは再び笑った。

「それじゃあ、ゆっくり食べようか?」

「そうだな。半刻もあるからな。ゆっくり食べよう」

 二人の声はスキアの耳に届いていたが、聞こえない振りを決め込んだ。グロームとユインの二人が、赤くなった耳を見逃す筈はなかったが。


 静かな風が吹き、スキアとルスの髪を揺らした。スキアの漆黒の長い髪が風に靡き、ルスの頬に当たる。その感覚をルスは一人楽しんでいた。

 スキアがルスを連れてきた場所は、この城で一番風が良く通る場所。グローム、ユインと共に見つけたこの場所は、細い道を通らなくてはならず、あまり知られていない穴場である。

 スキアは勢い掴んだルスの手を離さずに、景色のいい場所に腰を下ろした。

景色に感動しながら、ルスも座る。

「綺麗な景色」

「そうだね」

「…知らなかった。こんな場所があるなんて。どうやって見つけたの?」

 視界には、一面の草原が拡がっていた。草の緑と花の鮮やかな色。赤い花、黄色い花。様々な色を持つ、花が咲いている。風に吹かれ、揺れていた。空は、青く、草原の色が映えていた。

「グロームとユインと見つけたんだ。ちょっと時間があった時に、ユインが探検しようって言い出してね」

「探検?」

「そう。もう、本当に僕より年上には思えないよ。でも、そのおかげで、ここを見つけられたんだけどね」

「そうなんだ」

「ここを見つけた時、ルスにも見せてあげたいなって思ったんだ」

「連れてきてくれてありがとう」

 微笑むスキアの表情はいつものように落ち着いていた。

ルスは、信頼している二人の前では少し子どものようになるスキアも、自分の前では冷静に振る舞おうとするスキアも同じくらい好きだった。

「本当に仲がいいのね」

「ああ。最高の仲間だよ。…えっとさ」

「何?」

「二人には知られているみたい。僕たちのこと」

「隠していたの?」

「そうじゃないけど。やっぱり、少しやりづらいかなって思ってて。…ま、取り越し苦労だったみたいだけど」

「いっぱいからかわれちゃったね」

「…そうだね」

 ルスは、そっと自分の頭をスキアの肩に載せた。スキアも頭を傾ける。

「ルス。あそこ見て」

 スキアが指を指す。ルスは視線を動かした。

 草原の中に数羽のウサギを見つけた。白い毛を持つウサギと黒い毛を持つウサギが花に囲まれ、走っている。

「野ウサギ?」

「うん。あっちには、…キツネかな?」

「遠くて良く分かんないけど、そうかな?」

「可愛いね」

「うん。可愛い」

 二人の間に心地よい静寂が流れる。スキアは、上げていた腕を降ろし、再び、ルスの手を握る。

体温が伝わる。ルスはその心地よさに、知らず笑みを浮かべていた。

「スキア、疲れた?」

 以前、スキアは無理をして倒れた経験がある。ルスもその場にいたため、ルスはよくスキアの体調を気に掛けていた。

「うん。ちょっとだけ。でも、まだこれからもあるし、頑張らないと」

「大丈夫?」

「うん」

「無理しないでね」

「心配しなくても、大丈夫だよ。本当に、ルスは心配性だな」

「倒れたことのある人に、大丈夫って言われても、信用できません」

 冗談めかしに、膨れて見せる。スキアは頭を動かし、顔を覗いた。

膨れる頬を指で押す。息が抜けた。二人の間に笑いが起こる。

「でも、本当に無理しないでね」

 声の調子を少し落とした。顔をしかめる。スキアは頭を再び、ルスの頭に乗せた。その重みをルスは心地よいと感じる。

「無理はしない。大丈夫だよ」

「そっか」

「…なんか、安心する」

「…?」

「ルスの隣は安心する」

「安心?」

「いや、癒されるの方が正しいかな?」

「何それ?」

 少しだけ笑いを含み、聞いた。視線は草原を見ているため、スキアの赤くなっている耳には気付かない。

「ルスがいれば、疲れも取れるってこと」

「…私も」

 スキアは、握っていた手を離し、腰に回した。体温が少し上がる。景色を見ながら告げた。優しい声色。

「もう少し、こうしていようか?」

「うん」

 頭上には、熱を持った太陽が上がっている。遠くから、人々の楽しそうな話声が聞こえた。

 ルスは目を閉じ、それを横目で見たスキアも同じように目を瞑る。

喧騒がより遠くに聞こえ、二人だけの空間が拡がった。

 スキアはルスの腰に当てた手に少しだけ力を込める。近かった二人の距離がより一層縮まった。


第四章 報告


 空は、夕焼けによって赤く染まり、人々は家路についていた。グローム、スキア、ユインの三人は、呪術をかけた犯罪者たちに手を振る。記憶の操作をした彼らには城の下働きとして、少し離れた借家が用意されていた。

 皆が帰ると、気を抜いたユインが地面に腰を下ろす。その顔にはうっすらと汗が浮かんでいた。

ユインは、両手を後ろに付き、空を仰ぐ。深く息を吸い込み、それを吐き出した。

「疲れた~」

 仲間内にしか見せないような気の抜けた声を発した。

「お疲れ様」

 両頬を上げたグロームとスキアがユインに言う。

ユインより幾分呪術の力がある彼らは、ユインほどの疲れは見せていない。しかし、表情にはほのかに疲労の色が見えていた。

「休憩もあるけど、さすがに一日ずっと呪術を使っているのは疲れるね」

「確かにな」

「本当だよ。俺なんか、まだまだ修行不足だから、毎日大変なんだから。あ~あ、もう少し数減らしたりできないのかな?」

「そう言うな。モンド様が部隊を編成して、俺たちを育てるところから始まった五年越しの計画なんだ。呪術をかけ始めたのは、ここ二、三年のことかもしれないが、実際には五年もかかっている。きっとモンド様も早く成果を王に報告したいのだろう」

「そうだよ、ユイン。犯罪者がいなくなったとは言えないけど、増加数は確実に減少している。僕たちがここまで忙しくしなきゃいけないのは、あと少しだよ、きっと」

「そっか。…でも、そしたら、俺たちの仕事なくなっちゃうのかな?皆やモンド様と離れちゃう?」

 また前の仕事に戻らなくてはならないのか、とユインは不安を表情に浮かべた。

ユインは以前、商人として生計を立てていた。その素直さのためか人との話が良く弾む。

ユインは商人として生きていく上で最大の特性を持っていた。それ故、彼の仕事ぶりは好調であった。

ユインは決して以前の仕事が嫌いだったのではない。人と話し、様々な話を聞けることに面白みを感じていた。商人として様々な所に足を運ぶことも楽しいと感じていた。金銭的な面でも、良い時には今より良い収入を得ていたのだ。

 けれど、ユインは今の生活が好きだった。周りには信頼できる仲間がいて、尊敬できる師がいる。

商人の仕事には人が周りに集まったが、けれど本質的な所では一人だった。

だからこそ、今のように助け、助けられ、頼り、頼られる関係を放したくはなかったのだ。また国のために働くことに誇りも感じていた。

ユイン達はモンドに教えられた。大切な誰かのために動くことの大切さとその意義を。だから、ユインは今の居場所を失くしたくなかった。

 下を向いたユインの肩にグロームが手を置いた。ユインは顔を上げ、グロームを見る。

グロームは笑みをユインに見せた。

「大丈夫。呪術の力は俺たちが良く知っているだろう?」

「…うん」

「呪術は国の役に立つ。俺たちはそのための部隊だ。何も、犯罪者対策のためだけに編成されたわけではない。今の仕事が終わればまた新しい仕事を与えられる。俺たちはまた仕事に追われるし、もし暇になれば、モンド様にまた修行を付けてもらえるかもしれない。それに、何も与えられなかったら、部隊として何ができるのかを俺たちが考えればいい。そうだろう?」

「そうだよ、ユイン。僕たちには僕たちにしかできないことがいっぱいある筈だよ。国のためなんて大げさかもしれないけど、これからも一緒に頑張ろうよ」

「まだ、今の仕事が全部終わったわけではないけどな」

「ちょっと、グローム。水差すようなこと言わないでよ」

 わざと頬を膨らましたスキアの髪をグロームが豪快に撫でた。

一つで結ばれていた髪が乱れる。スキアは文句を言いながら髪を縛っていたゴム外し、綺麗に縛り直した。

 ユインは二人を見て、笑みを溢した。勢いを付けて二人に抱き付く。その衝撃にグロームは二、三歩後ろに後退し、スキアは巧く衝撃を受け止めた。

「ちょっと、ユイン。吃驚するじゃないか」

 形ばかりの文句を言う。グロームも笑いながら「そうだぞ」とスキアに加勢した。

「ごめん、ごめん」

「それ、本気で謝ってないだろう」

「そんなことないよ。それよりさ、モンド様に呼ばれてたよね。早く行こう」

「抱き付いたままじゃ行けないぞ。早く離れろ」

「うん」

 素直に離れたユインは嬉しそうに笑う。

「本当に、ユインが僕より年上なんて考えられないよ」

 静かに漏らしたスキアの声にグロームだけが気付き、小さく頷いた。

「早く、早く!」

 先に行ったユインが少し離れた所で、叫ぶ。

「今行く。ほら、スキアも行くぞ」

「ちょっと、待ってよ」

 三人は笑いながら、モンドが待つ城の中に向かった。

頭上では、鳥が数羽、連なって飛んでいた。


 前王カエルムが建築を命じた城は、居住性が高く、日常的な住居空間としても用いられていた。外郭は堀で囲まれて、城の前には大河が流れているものの、以前の城と比べると、防御策は乏しいと言える。

それは、軍事の拠点であるというより、政治の拠点であることを暗に意味していた。

その城の中には、王の家臣とその家族も生活している。

モンドにも部屋が与えられていた。

最上階では、ソルが生活をしている。側近であるアステラとイオはその部屋に一番近い部屋を与えられていた。

しかし、共に側近であるモンドのみ、離れた場所に部屋があった。

呪術に集中したいという理由で、一人だけ離れた部屋を用意されている。

その理由から、娘であるルスは、モンドと共に生活はしていない。しかし、部屋の行き来はあり、亡くなった母の代わりにモンドの生活の世話をしている。

ルスにも、城の中に部屋を与えられていた。

一方、グローム達のような従臣には、城の隣の宿舎が与えられている。今は三人しかいないためそれほど窮屈ではないが、第一部隊の残りの二人が帰ってくれば途端に生活するのがやっとの広さである。それでも他の従臣に比べれば破格の扱いだ。

一方ルスはグローム達よりも高い位を与えられてはいたが、実質的には雑用係である。それでも、一部屋が与えられるのは、ソルのモンドへの信頼の証であった。

 空を見れば、赤から黒に色を変えつつあった。グロームが手に持っていた灯りに火を付ける。橙色が足元を照らした。

 足を進めて行くにつれてどこか闇が増すような気がした。グロームはモンドの部屋に行く度にそう感じる。その感覚が少し怖く、嫌いであった。

勘の鋭いユインも同じことを考えているのか、横を歩くスキアの衣服を掴んでいるのがグロームの目に映った。

グロームは気付かれない程度に小さく首を振る。そんなことはあり得ないのだと自分に言い聞かせた。少しだけ息を吐き、平常心を取り戻す。

 一枚の襖の前に来た。三人は片膝をつく。

「モンド様」

 グロームが代表して呼び掛けた。

「入って構わない」

 モンドの声が奥から聞こえる。グロームは、ゆっくりと襖を開けた。

尊敬する師が三人に笑いかける。先ほどの不安はグロームの中からすっかり消えていた。

「どうした?入ってこないのか?」

 笑いを含んだモンドの声に、グロームはハッとなり、急いで立ち上がった。それにスキア、ユインも続く。

「申し訳ありません」

「良いぞ。疲れていたのだろう?」

「いえ。そんなことは」

「グロームは詰めすぎる所があるからな。三人もいるんだ。助け合ってやりなさい」

「はい。ありがとうございます」

 グロームが深く頭を下げる。その姿勢に「そんなに硬くなることはない」とモンドは頬を持ち上げた。空気がほのかに軽くなる。

「ところで、だ。今日ここへ呼んだのは、これまでの成果を直接聞こうと思ってな。ルスから聞いているが、お前たちからちゃんと報告をしてもらいたいと思ったのだ。それから、実践しているお前たちから、率直な手ごたえも聞きたい」

「はい」

 三人の声が重なった。

「まずは、腰を降ろせ」

 グローム、スキア、ユインの順で横一列になって座った。手を前に付き、一礼する。

「グローム。現状報告を」

「はい。計画は順調に進んでいます。予定通りか、それより少し早く終わるかと」

「お前の感覚で構わない。いつ頃終わると考える?」

「…犯罪者は日々牢に連れてこられますが、最近ではその数は少なく、人を殺める者の数はそこまで多いわけではありません。…あと七日ほどあれば十分ではないかと考えます」

「そうか。それでも、まだ七日もかかるのだな」

「申し訳ありません」

「いや、お前たちを責めているのではない。…人を殺めた者がそこまでいたことに改めて驚いただけだ」

 モンドは少し俯いた。それを見た三人も同じように俯く。

犯罪者の数が多いということは、それだけ殺された人の数が多いということである。心苦しくないわけがない。

「すまない。私らしくなかったな。…手ごたえとしてはどうかな、ユイン?」

「呪術をかけた者は皆、よく働いてくれています。国への忠誠心もちゃんとあるように見えます。…それに、俺、疲労感が少し少なくなりました。呪術をかけて、俺自身も成長しているように思えます」

「そうか。それは頑張ったな」

 モンドに褒められると、ユインはだらしなく頬を緩めた。隣のスキアが背中を叩き、それを諌める。

「スキア、良いぞ。…ユインだけではなくスキアもそれからグロームも分かる形ではなくともおそらくは成長しているだろう。お前たちもよく頑張ってくれた」

「有難きお言葉」

「ありがとうございます」

 グロームとスキアもそれぞれ頭を下げた。モンドがそれに笑顔で応える。

「スキア、お前はどうだろうか?手ごたえは」

「良いと思います。彼らには以前、山賊や海賊をしていた者が多く、身体は丈夫で頑丈です。労働者としてこれほどの人材はいないでしょう。怒りを感じやすい者が多いようですが、呪術の成果で、ある程度まで怒りが上がれば、それ以上は上がらず、小競り合い程度で終わっています。記憶の方も巧く書き換えられているようです」

「そうか。グロームは、どうだ?」

「私も同じような手ごたえを感じています。問題はないかと」

「そうか。それを聞いて安心した」

 三人は軽く頭を下げた。モンドがそれに頷く。

「…ところで、先ほどとは少し話が変わるのだが、お前たちに聞きたいことがある。質問に応えてくれるか?」

「何でしょうか?」

「この国を護っていきたいと思っているか?」

 突然の問いに、三人は一瞬言葉を失った。しかしすぐに、スキアが声を発する。

「はい」

 短いその言葉には、重い響きが含まれていた。

明確な意思。

「勿論です」

「うん!」

 グロームもユインもスキアに続いた。

「そうか。…私もだ」

「…」

「私は、この国をより良くしたいと思っている。何があっても私を信じてついてこられるか?」

 意味深長な発言。

しかし、三人は躊躇わずモンドを見ていた。その目は濃く深い。感情を巧く読み取ることができない。

それでも、グロームは頷き、スキアは笑みを浮かべ、ユインは「うん」と叫んだ。

 モンドは三人の反応に、首を二、三度縦に振った。

「妙な事を聞いて悪かったな。今日は、もういいぞ。…悪いが、スキアだけ残ってもらえないか。少し話がしたい」

「分かりました」

 深々と頭を下げる。 グロームとユインは腰を上げ、襖の外に出た。


「モンド様、少し変だったね」

 歩きながら、ユインがグロームに告げる。辺りはすっかり暗くなっていた。グロームは微かに顔を歪め、頷いた。

「そうだな。…何か、あるのだろうか?」

「何かって?」

「さぁな。モンド様には何かお考えがあるのかもしれない。そうでなければ、『何があっても私を信じてついてこられるか?』などと言わないだろう」

「…大丈夫だよね。俺たち」

 ユインの声は少しだけ震えている。グロームはユインの頭に手を置いた。

「大丈夫。心配することなど、何もないさ」

「うん」

「俺たちはモンド様を信じて、前に進めばいい」

「そうだよね。皆で協力すれば、何かあってもきっと大丈夫だよね。モンド様を信じていれば、大丈夫だよね」

「ああ。大丈夫だ」

 グロームは、はっきりと言った。意味深長なモンドの発言は少なからず二人に不安を抱かせた。けれど、二人のモンドへの信頼はそれ以上である。

「大丈夫」

 もう一度、強くグロームが言った。ユインも「そうだよね」と続ける。

二人の顔に笑みが戻った。

「…ところで、なんでスキアだけ残ったの?」

「それは、ルス様とのことだろう。部隊のことであれば、スキアだけが残る筈がないからな」

「ルスとのってことは、もしかして?」

「そろそろ祝言のことでも考えるのではないか?」

「本当に?それなら、嬉しいな。俺、スキアもルスも大好きだから、二人には幸せになってほしいんだよね」

「そうだな」

 グロームは、昼間のスキアの赤い顔を思い出し、笑った。

「俺も、あいつに幸せになってほしいな」

「うん」

「…ほら、もう帰って寝るぞ。明日も忙しいからな」

「うん!そうしよう。もう俺疲れた。早く寝よう!」

 そう言って、ユインは一人先に走っていく。ユインも灯りを持っているが、それに火は灯っていない。この暗闇の中よく器用に走れるなとグロームは呆れと共に感心した。

「疲れているようには見えないぞ」

 小さく呟いたグロームの声は、ユインには届かなかった。


  一人部屋に残されたスキアは、硬い表情を浮かべている。そのスキアの表情にモンドは笑みを浮かべた。

「そう、緊張せずとも良い」

「はい」

「お前に残ってもらったのは、他でもないルスとのことについてだ」

 ルス、という言葉に、スキアはさらに背筋を立てる。

「まあ、恋仲である相手の父親に緊張するのは無理もないかもしれないが、何も私はお前たちの仲に異を唱えるつもりはないぞ?」

「…」

「むしろ、喜ばしいことだと思っている」

「はい」

「そこで、だ。スキア、ルスと祝言を挙げないか?」

「祝…言ですか?」

「そうだ。ルスもお前ももういい年だろう」

「…ルスは何と言っていますか?」

「まだルスには伝えていない。だが、あいつが反対する筈がないだろう」

「…」

「私の民族では、祝言を挙げる相手をよく親が決めていたものだ。私の場合もそうだった。私は、それがとても嫌だったんだ。でも…今なら、どうしてそのようなことがあるのか、少しだけ分かる気がする」

「どうして、ですか?」

「大抵の親は、自分の子どもの幸せを願うものだ。ルスの幸せは勿論ルスにしか決められない。けれど、私が思う幸せを歩んでほしいと思ってしまうんだ。それがルスにとって、本当に幸せだとは限らないのに。…親とは時として、勝手なものだな」

 モンドは自嘲的な笑みを浮かべた。しかし、その表情は優しい。それは、部隊の前に立つ、ソルの重臣としての顔ではなく、ルスの父親としての顔だった。スキアはそんなモンドの表情を初めて見た気がした。

「私は、ルスには、お前と結ばれてほしいと思っていた。だから、お前たちが自然と惹かれあってくれたことに感謝している。…お前は、聡い。そして、呪術の力も強い。お前より先に部隊に入ったグロームより、すでにお前の方が力は上であろう。…剣術などはからきし駄目なようだけどな」

 冗談めかした言い方に、スキアはやっと笑みを溢した。困ったような表情を浮かべ、「申し訳ありません」と小さな声で謝罪した。

 モンドは、笑みを消し、真っ直ぐにスキアを見た。スキアもそれに応えるように、気を引き締める。

「祝言を挙げるのは、まだ先のことになるだろう。だが真剣に考えてはくれないだろうか、ルスとのことを」

「はい」

 短く言うと、スキアは両手を前に付いた。額を付け、深々と頭を下げる。

 城の外に出ると、ほのかに涼しい風が頬を撫でた。温かい暖季とは言え、夜は涼しさを増す。スキアは自身で持っていた灯りに火を灯した。淡い月の光に加え、夜道を照らす。

スキアはふと、空を仰いだ。暗闇に星が映えていた。闇に浮かぶ、小さな光。それが少し儚げであった。



第五章 〝影″ 


風が吹いた。静かで、温かい風。しかし、濃い闇の中で、その穏やかな風に気付く者はいなかった。

治安の悪いアクシオス国の夜は、欲で溢れている。

ロートは、アクシオス国の中で最も有力な都市国家だ。現在ロートでは、シュヴァ公爵率いる貴族達が力を持っていた。

金と女に目がないシュヴァ公爵は、欲望に忠実だ。欲を満たすことさえできるなら、どんな相手とも手を結び、どんな汚い仕事にも手を出した。だからこそ、今の地位に上り詰めることができたのである。

「シュヴァ公爵様」

 一人の男が声をかけた。横に二人の美女を侍らせたシュヴァ公爵は渋々、顔を向ける。

「ああ。いたのか」

「はい。先ほどからずっと」

「そう皮肉を言うな。お前みたいな男に協力するのは、俺くらいだぞ。なんせ、アクシオス国は今では、サラサ国と馬鹿みたいに平和な関係を結んでいる。それはそれで、恩恵を得られているから、今更、攻め入ることを考える奴はそういない」

「分かっています。皮肉を言ったつもりはありませんよ。ただ、確固とした約束が欲しいだけです。アクシオス国は好戦的で、強い。でも、だからこそ、不安になる。自分達の都合に合わせて簡単に裏切られるのではないのか、と」

 男の声を聞くと、シュヴァ公爵は、隠しもせずため息をついた。

美女が、公爵の指示で部屋を出る。部屋の空気が目に見えて変わった。

「お前から書簡が届いたら、サラサ国に兵を出す。…これでいいのだな」

「はい」

「兵はもう揃えてある。あとは、お前からの書簡を待つだけだ」

「近いうちにサラサ国の情勢は乱れます。そこにつけ入れば、アクシオス国だけではなくサラサ国も我々のもの」

「…本当に大丈夫なのだろうな」

 男は公爵の言葉に、頬を持ち上げた。

「私に不可能はありません」

 間髪入れずに発せられた男の言葉に、公爵は、一瞬言葉を失う。

公爵の反応を無視し、男は立ち上がった。

「それでは、お願いいたします。…約束ですよ」

 それだけ残し、部屋を出た。その背中を公爵はただ、見送った。



 明かりが消され、夜は静けさを増していた。その日は、いつもに増して夜の闇が濃く、全てを隠している。

 ソルは、床に就こうとしていた。そのソルの耳が微かな音を拾う。近くにあった剣を掴み、叫んだ。

「誰だ!」

 暗闇に慣れたソルの目に片膝をついている人の姿が映る。ソルより一段下にいる。

その人物が告げた。

「〝影″です」

「…私に気配を消して近づくなと何回言わせるつもりだ」

「申し訳ございません」

〝影″と名乗った人物は低い声で形ばかりの謝罪を述べた。〝影″にとって存在を知られることは、絶対的な禁忌であり、〝影″は気配を消すことを習慣化していた。

それは、ソルの前でも変わらず、ソルの前に現れる時にも、いつも気配を消している。

いつ、命の危機に晒されてもおかしくない「王」という立場にあるソルは、いつも肝が冷える思いを感じなくてはならなかった。

反省の感じられないその声色にソルは、不機嫌を露わにしながら明かりを付ける。腰に赤い柄の短剣を差した青年がそこにはいた。

鋭く冷たい目が、ソルを見ている。ソルは昔から、その目が苦手だった。だから視線を少しだけ下げる。

〝影″とは、王の右腕のこと。王は表で働き、〝影″は裏で働く。

現在、〝影″として働くのは、前王が十数年前に連れてきた少年。

 聡明で、冷静で、冷徹で、強い少年。武術も剣術も一流であり、誰よりも前王の信頼を集めていた。ソルは、いつも羨ましく、妬ましかった。

父が、国を「護れ」と言ったのは、自分ではなく、今、目の前にいるもう青年となった彼だけだったから。

「用件はなんだ」

「彼のことです」

 〝影″の一言に、ソルは表情を歪める。〝影″が言う「彼」をソルはすぐに思い浮かべた。〝影″は以前からも、数回ソルに進言している。その度、ソルはそれを跳ね返していた。

またか、という思いと共に、〝影″の声がいつもより少しだけ低いことに気が付く。

「…警告か」

 口には出さず、頭の中で言葉を発した。以前までは「忠告」。そして、今回は「忠告」から「警告」に変わったのだと、ソルは気付く。

ソルは「彼」を信頼していた。しかし、〝影″の有能さも間近で見ている。ソルは、頭を抱えた。

 けれども、「彼」は、この国に貢献している。彼の強さ、賢さ、そして人生経験の豊富さは、まだ若いソルの足りない所を補っていた。

「あいつがどうした?」

「危険です」

 短く告げる。静かな、しかし確信を持った口調。静寂が流れた。

 外の音が、耳に入ってくる。地を叩く雨粒の音。弱いそれは、次第に強くなってくる。静寂を壊す、規則的な音。二人の間に、その音だけが流れる。

 雨により、闇は一層濃くなった。

ソルは、一拍置いて、尋ねる。

「危険とは?」

「そのままの意味です。彼は、危険です」

「お前も、あいつの凄さは理解しているだろう?…お前が一番理解できている筈だ」

「はい。それは分かっています」

「あいつは、この国のために働いてくれている」

「それも分かっています。ただ、危険なのです。彼は、誰にも従っていない。貴方様にも」

「あいつは私の誇れる家臣だ。あいつは私の命に良く従っている。あいつが私に従っていないなど、お前の思い違いだ」

「そのような事はございません」

 言い切る〝影″をソルは睨みつける。知らず、唇を噛んだ。

「……万が一、お前が言うように、あいつが私に従っていないとしても、お前とどう変わる?お前の方がよっぽど私に従っていないではないか」

 抑えた声が響く。しかしそこには確実に怒りが含まれていた。

 〝影″は王の右腕である。彼はソルの命に従い、それを見事にこなしていた。仕事はいつも完璧で、それに付ける文句などない。

しかし、彼は、ソルに忠誠を誓ってはいなかった。

だから、彼は王であるソルに何のためらいもなく進言でき、何度言われても気配を消して近づくのだ。

 〝影″が護るべきは、「王」ではなく「国」だから。そう前王カエルムに言われたから。だから、〝影″は、王に忠誠を誓わない。

彼が忠誠を誓っているのは、現王ソルでも、前王カエルムでもない。

この国だ。

〝影″の頭には、前王が彼に伝えた言葉しか残っていない。

 「〝影″、俺はお前を一から書き換える。俺は、お前を信じてやる。だから、お前は護れ。俺でなく、〝この国″を」

       〝影″と呼ばれる青年は、自分の意志で動くことを知らない。性格なのか、育った環境の影響か。彼は生まれたての雛が一番初めに見たものを親だと思ってしまうように、一番初めに与えられた命を忠実にこなしているのだ。

だから、彼は王を護らない。

「国を護る」それに必要な命しか従わないのだ。国を護るためならば、彼はどんな犠牲も、厭わない。

 ソルは、思わず、力を入れる。鉄の味が、口の中に拡がった。

ソルは、〝影″をひどく羨ましく思う。人間とは、欲を抱き、邪心を抱く。

しかし〝影″にはそれがない。ただ純粋に、ひたすらに国を護るという命だけに従っている。ソルはその心を「強い」と思った。しかし、同時に「弱い」とも感じている。

人は、何かを護ることで、強くなれる生き物だとソルは考えていた。

〝影″にはそれがない。

〝影″は確かに「国」を護っていた。しかし、その行為は誰のためでもなかった。

自分のためでも、民のためでもない。ソルやカエルムのためでもなかった。

誰のためでもないのだ。

自分のために生きることのできないこの青年は、何のために生きているのだろうか。〝影″の冷たい目を見る度、そう考えずにはいられない。

「確かに、俺は、貴方に忠誠を誓ってはいません。しかし、この国に忠誠を誓っております。それはつまり、貴方様への忠誠なのではないでしょうか」

「そのような模範解答などいらない」

「失礼致しました」

「…」

「しかし、これだけは覚えておいてください。彼は危険です」

「何を根拠にそのような事を言うのだ!私は、あいつを信じている。あいつの忠誠心も」

 ソルは言外に「お前と違って」と〝影″を非難した。しかし〝影″は表情を変えずに沈黙を守る。

ソルは再び、拳を強く握った。

「犯罪者の対策、術師を集めた部隊の編成。あれはこの国に大いに役に立つ。考えたのはあいつだ。あいつは国のために良く働いてくれている」

「…」

「それに、もし、彼が私を裏切るようなことがあれば、術師の部隊が彼を捕えればいい。……モンドがどんなに最高峰の術師だろうと、多数の術師で向かえば、」

 ソルの言葉が終わる前に、「お言葉ですが」と〝影″が遮った。

「術師には呪術はかかりません」

「な…に?」

「ご存知なかったのですね」

「…」

「ほとんど力のない術師になら、かかる可能性は大いにあります。確率を考えましても、今、呪術をかけている犯罪者の中にも、数名は術師がいるでしょう。しかし、今のところ、全ての人間に呪術はかかっているようです。しかし、モンドほどの術師に呪術をかけることは、どんなに強い力を持つことができる者でも不可能でしょう。逆に、彼も部隊に所属する程度力のある術師には、呪術をかけることはおそらくできません」

「…」

「…見た所、部隊を編成している術師は、剣も握ったことのない者ばかり。農村出の者、商人だった者など」

「……そのようだな」

「彼は、そのことを理解し、わざとそのような者ばかりを集めたのではないでしょうか?彼の呪術は最高峰です。そして、剣術にも長けているとか。彼になら、部隊の者達を殺すことなど容易な筈です」

「…それはあくまで可能性だろう。術師は見つかりにくい。それが兵士の中にいなかっただけだ」

 ソルは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ、そう答える。そんなソルに〝影″ははっきりと告げた。

「彼は、この国を脅かします」

 冷たい目が、ソルを射抜く。ソルは立ち上がり、〝影″を見降ろした。

「お前に従わない者は、この国を脅かすと言うのか?お前はいつも正しいとでも言うのか?」

「いえ、そのようなことを言うつもりはありません。ただ、可能性を述べたまでです。限りなく高い確率の可能性を。それに、彼はおそらくアクシオス国と繋がっています。確固たる証拠はありませんが、可能性は高いでしょう」

「…」

「しかし、モンドの働きには目を見張るものがあるというのもまた事実。確かに、術師の部隊の編成、犯罪者への対策はこの国に大きな成果をもたらしました」

「ならば!」

「しかし、大きな力は所有者を選びます。彼は、大きな力を持つ器ではありません」

「……私が良いと言っている。私はモンドを信じている」

「それならば仕方がありません。可能性が高いとは言え、まだ、推測の域を出ていないことです。ソル様の意に従います。それでも、頭の片隅でいいので覚えていておいてください。彼は危険です」

 〝影″が頭を上げる。ソルは〝影″に背を向け、小さく告げた。

「…もう行け」

「仰せのままに」

〝影″は再び気配を消し、闇に消えていった。ソルは明かりを吹き消す。漆黒が辺りを覆った。

雨の音が耳に入る。先ほどより、強さが増していた。ソルは、闇に慣れていない目で辺りを見渡す。闇以外、ソルには何も見えなかった。



第六章 愛の言葉


 強い風に、栗色の髪が揺れ、グロームは邪魔な前髪を掻き上げた。隣では、黒髪の青年が目を閉じ、風を感じている。グロームも同じように目を閉じた。

温暖な気候にちょうどいい冷たさの風。溜まった疲労感は一時的に消された。

 モンドへの現状報告から、忙しい日々が続き、五日が経とうとしていた。

三人の仕事は順調に進んでいる。

呪術の力が上がっているためだろうか、グロームが推測した日数より一日早く、つまり明日には終わるだろう。

犯罪者の数が少ないわけではないが、三人の活躍により牢の数に困るといった状態からは脱している。

 自分たちに初めて与えられた仕事が終わろうとしていた。そのことに、達成感と少しの喪失感を抱きながら、グロームは目を開ける。目の前で今にも逃げだしそうにしている者の前に手をかざした。

口を動かし、呪文を唱える。屈強な身体を持つ男は急におとなしくなった。その姿を確認し、グロームは手の縄を解く。

「お前の持ち場は、あそこだ。指示は、持ち場に行って聞け」

 数名が重労働をしている場所を指さし、そう告げる。

「おう。任せろ」

 先ほどまで、罵詈雑言を叫んでいた口から、友好的な言葉が飛び出した。もう長い間、同じ状況を味わっているのに、どうしても慣れない。

それはおそらくスキアもユインも同じである。

グロームは、短く息を吐き、「頼んだぞ」と言うと、男から目を逸らした。

「操る、か」

 頭の中の思考に留めようと思った言葉が小さく漏れる。数日前にスキアが言った言葉。その時否定したように、グロームは彼らを操っているのだとは思っていない。

けれど、急変する彼らの態度を目の当たりにすると罪悪感を抱かないわけにはいかなかった。

おそらく、あの時のスキアもそう思ったのだろうと今更ながらに理解する。

 罪悪感を抱いてしまうから、『必要』と思うことができないのだと、呪文が浮かばない現状を考察した。

水が枯渇している村に雨を降らせることはできて、犯罪者への呪文が浮かばない理由。

勿論、能力的な問題も存在している。それは紛れもない事実であろう。けれどおそらくそれだけではない。

グロームには、正しいことをしている自覚はあった。犯罪者への呪術も雨を降らせる呪術も、共に大切だと感じていた。

自分の行動がこの国のためになることも分かっていた。けれど、急変する態度を目の当たりにすると、胸がチクリと痛むのは避けられない。罪悪感は自然と生まれる。だからこそ、「必要」だとは思えず、呪文は頭に浮かばないのだろう。グロームはそう結論付けた。

グロームの思考は流れ、五日前のモンドの意味深長な言葉を思い出していた。

ただ自分たちは尊敬する師を信じていればいい。それは分かっていた。けれど、グロームは微かな胸騒ぎを感じていた。

グロームの嫌な予感は嫌味なほど当たる。

「あと、一日で終わるんだ。何事もなく無事に終わってくれ」

 誰に聞かせるでもない懇願が、静かに流れ落ちた。

「グローム、スキア!もうお昼でしょう?ちょっと早いけど、休憩しようよ」

 明るい声にグロームは、ハッと顔を上げた。

ユインは何が楽しいのか、笑顔で駆けてくる。グロームは少し笑い、首を横に振った。

何もあるわけがない、全て順調なのだから。自分に言い聞かせ、スキアを捕まえてこちらへ来るユインに手を振る。

「…なんだか少し疲れているのかもしれない」

 漏らした小さな声をスキアが拾う。

「え?大丈夫?」

 心配そうな表情を浮かべた。グロームの顔を窺う。その肩に手を伸ばし、二、三度軽く叩いた。

「大丈夫だ。休憩しよう」

「うん」

 二人の声が重なった。

「じゃあ俺、井戸から水汲んでくるね」

「僕も手伝おうか?」

「一人で大丈夫だよ」

 そう告げると、ユインは走って行った。その後ろ姿を見て、二人は腰を降ろす。

「グローム、もう終るね」

「そうだな。明日には、終わる。…なんだか、感慨深いな」

「うん。そうだね。…グロームのその顔は感慨深さから来ているの?」

「顔?」

「うん。顔。なんか、いつもと違うよ。僕たち仲間だよ?気付かないわけがない」

「そうか。…そうだな」

 グロームは両手を後ろに付け、空を仰いだ。

鳥が三羽、連なって輪を描いている。

「なんだか、嫌な予感がするんだ」

「嫌な予感?」

「ああ。嫌な予感。気のせいだといいんだが」

「そうだね。気のせいだといいね」

 スキアにはそれしか言えなかった。グロームの嫌な予感が当たりやすいことをスキアも知っている。グロームが嫌な予感を感じると、雨が豪雨に変わり、川が氾濫した。

地が揺れ、穴が開いたこともある。それを第一部隊が駆け付け呪術で止めたのだ。しかし、被害は膨大であった。

 スキアは俯いたグロームの栗色の髪を撫でる。驚いたような表情を浮かべるグロームに笑みを向けた。言外に「大丈夫だよ」と伝える。

それに応えるようにグロームも笑った。

「だだいま。はい、お水」

 三人分の水を溢さないようゆっくり歩いて戻ってきたユインの声が二人の耳に入った。

「ありがとうな」

「ありがとう、ユイン」

 二人に礼を言われて、ユインは頬を持ち上げた。

それから、少し首を傾げる。

「あれ?グローム。疲れ取れた?」

「…ああ。もう大丈夫だ。お前達に心配はかけられないからな」

 温かさを含む風が吹いた。木の葉同士がぶつかり、音を奏でる。

「スキア!」

 静かな雰囲気に不釣り合いの声が三人の耳に届いた。声のした方を向けば、血相を変えたルスが走ってくる。持っている筈の食べ物も持っていない。

 呼ばれたスキアは立ち上がる。ちらっとグロームを見た。グロームは眉をひそめルスに視線を注いでいる。

「どうしたの?」

 息を切らしたルスにスキアが尋ねる。しかし、応える気はないらしく、右手を強引に掴んだ。

「ちょっと、来て。お願い」

 真っ直ぐ見つめられるその表情は「必死」としか言いようがない。スキアはグロームとユインの方を見た。

二人が静かに頷く。

「分かった。行ってくる」

 それだけを伝えると、ルスに視線を向けた。

「ごめんね」

 誰に行ったのか分からないルスの言葉がその場に残る。ルスはそのまま、スキアの手を引き、グロームとユインのもとから離れて行った。

 残されたユインは心配そうな顔をして、二人の背中を視線で追っていた。それももうすぐ見えなくなるほど小さい。グロームは安心させようと、肩に手を乗せた。そして心の中で何度も祈った。

「何も起こらないでくれ」


 ルスがスキアを引き連れたのは、ルスの部屋だった。日中ということもあってか、城の中にいる者は少ないようである。

 静かな部屋の中で、ルスが息を整える声だけが響いていた。

「どうしたの?」

 ある程度息が整った様子のルスに尋ねる。ルスは、スキアの肩を掴み、目を合わせた。

「逃げよう」

「え?」

「逃げよう、スキア!早く」

「ちょっと待って、ルス。どうして、逃げるの?」

「もうすぐ…ここで、戦争が起こる」

「戦争?」

「多くの人が混乱に巻き込まれるの!」

「どういうこと?」

「いいから!早く逃げよう。この街を出よう。…ううん。この国を出よう。じゃなきゃ、きっと死んじゃう」

「ちょっと待って、ルス」

「今なら、まだ間に合う。二人でならきっと逃げ切れる」

「ルス!」

「お願い。急いで。時間がないの。…私が、勇気がなくて、もたもたしてたから、だから、…早く逃げないと、手遅れになるよ」

 ルスの焦点は合っていない。スキアはルスを力の限り抱きしめた。慌ただしく動いていたルスの身体が止まる。頭に手を伸ばし、髪を梳いた。少しだけ、腕の力を弱める。

「ルス、落ち着いて。大丈夫。僕は、ここにいる」

「…」

「何があったのかちゃんと説明して?…ほら、息を吸って。それから吐いて。大丈夫。僕はちゃんとここにいるよ」

 ルスは大きく息を吸い、それを全て出した。身体から力が抜ける。スキアの背中に腕を回し、力を込めた。顔を肩に埋め、もう一度息を吐く。

「落ち着いた?」

「うん。少しは」

「ねぇ、ルス。何があったの?戦争って何?」

 ルスの身体が震えた。

振動がスキアに伝わる。スキアはルスを抱きしめる腕に力を加えた。

「お父様が、国を裏切るの」

「え?」

「…モンドが、国を裏切る」

「…本当なの?」

 スキアの問いかけに、ルスは深く頷いた。

「どういうこと?」

「今、スキア達がかけている呪術にはね、からくりがあるの」

 声が震えている。

「からくり?」

「あの呪文は、お父様が創ったものでしょう?」

「うん」

「皆には、あの呪文は、操作と記憶の書き換えの呪文だって言ってあるでしょう?」

「そう聞いている。僕も、そうだと思って、呪術をかけてるよ」

「でもね、本当は他にもう一つ効力がある」

「どういう?」

「ある言葉を言えば、彼らはお父様の言葉以外従わない。死も恐れないで、ただお父様の言葉だけに従う。…意志を持たない人形になる」

「…」

「彼らを使ってお父様は戦争を起こす」

 頭を肩に預けているルスの声は籠っている。しかし、それでも小さな声はやけに響いた。

スキアは唾を飲み込む。

「戦争を起こして、この国を乗っ取る。ソル様、アステラ様。イオ様を殺して。…邪魔な人を排除して。…それがお父様の長年の計画」

 ルスは自身の腕に力を込めた。しかし、その力はあまりにも弱い。

代わりに、スキアが腕に力を込めた。ルスの震えが一瞬止まる。

 溢れてくる涙をスキアの肩で拭いた。

「でも、どうしてそんなことを?だって、モンド様には、呪術があるじゃないか。ソル様達を操ることも、殺すことだって簡単だろう。なのに、なぜ、戦争なんか?」

「お父様は、とても慎重な方なの。だから、一番安全な道をいつだって選ぶ。…人を操ることや、殺してしまうことには大きな力がいるわ。お父様は、自分の年齢を考えてそれはできないと踏んだの。大きな力は、術師に跳ね返る。…そんな危険をお父様は冒さない。それに、ソル様達を殺すだけでは駄目なの。国を混乱させて、お父様が一番上に立たないと、お父様の計画は完成しない」

「…」

「…ごめんなさい、スキア。お父様は、貴方達を利用していた。自分では何もせず、スキア達に呪術をかけさせて…スキア達を危険な目に合わせていた。お父様、言っていたわ。スキア達がかけている呪術は相当な力を使うって。…そんなこと、何も知らずに、私、『頑張って』って言ってた。……そしてこれからもっと、もっと多くの人が危険に晒される」

 涙を流し、震えるルス。スキアは髪を撫で、「大丈夫だよ」と優しく言った。

「ねぇ、ルス。もう一つの効果を引き出す言葉って何?」

 スキアの問いにルスは首を振った。

「ルス?」

「ごめんなさい。分からないの」

 ルスの頭に手をやり、落ち着かせる。

「どうしてルスは、こんなこと知っているの?」

「お父様から聞いたの。もうすぐ戦争が起こるから、一時的に避難するように言われたの。七日前に、五日以内に避難しなさいって」

「…」

「でも、そんなこと納得できるわけがなかった。だから、どういうことなのか教えてくれるまではここから動かないって言ったら、教えてくれた」

「どうして僕に逃げようって言ったの?」

「貴方が好きだから」

「…」

 真っ直ぐ見つめるルス。スキアはただ、それを見ていた。

「一人だけ逃げるだけなんてできない。貴方を見殺しにするなんて、できないよ。本当は、皆にも伝えたい。…良くしてくださったソル様もアステラ様もイオ様も死んでほしくない。けど、お父様は、本気で戦争を起こそうとしている。私じゃ、止めらない」

「…ルス」

「お父様は、一度決めたことはやり遂げるわ。お父様を縛るものは、お父様しかないから。…そんなこと止めてって、言いたいのに、皆にも逃げようって言いたいのに。…でも、できなくて。一人で逃げようと考えてたの。でも、やっぱりそれもできなくて。…ひどいって分かっていても、好きな人だけは護りたくて。…スキアだけには死んでほしくなくて。だから…」

 再び混乱し始めたルスの髪にスキアは音を立てて口づけを落とす。

ルスが顔を上げた。スキアはいつもの笑みをルスに向ける。そして、再び頭を抱き寄せた。ゆっくりと撫で、落ち着かせる。

「大丈夫。大丈夫。落ち着いて」

「…うん」

「大丈夫。ルスは何も悪くないよ」

 ルスの瞳に涙が滲む。スキアは静かに髪を撫でた。

「…ルス。その言葉って言うのは、モンド様以外に知っている人はいるのかな?」

「たぶん、いないわ」

「どうしてそう思うの?」

「お父様は、賢くて、強くて、野心家で、…それでいてとても臆病だから」

「臆病?」

「うん。誰も、信じられないの。だから、きっと、一番大切な事は誰にも言わない。自分しか、信じていないから」

「そうか」

「スキア。早く逃げよう。必要な物だけ持って。…私、貴方と一緒にいたい。ずっと一緒にいたい」

 ルスは、スキアの腕から離れ、荷物を積め始めた。スキアがそんなルスを後ろから抱きすくめる。ルスは、スキアの片腕を掴んだ。

「スキア、放して。時間がないの。急がないと」

「うん。分かってるよ」

「分かってるなら…」

「だけど、そんなに急いで空回りしたら余計に時間がかかる。大丈夫。僕はずっと、ルスが好きだから。ずっと、ずっと好きだから」

 そう言って、スキアは、ルスを自分の方に向かせた。

微かに浮かんだ涙を親指で拭き取る。

啄ばむような口づけを数回繰り返した。ルスの肩から力が抜ける。ルスはスキアにもたれかかった。

「ねぇ、ルス。『スキア』って言葉の意味をルスは知ってる?」

 スキアの肩に頭を預けたままのルスに聞いた。突然の言葉に、一瞬驚き、そして首を振った。

「どんな意味?」

「〝影″」

「影…?」

「そう。異国の言葉で、〝影″という意味なんだって。…それが本当の、俺の正体」

「スキ…ア?」

「ルス。誰よりも、愛しているよ」

 スキアもとい〝影″は、ルスを抱きしめた状態から、先ほどルスの胸元から抜いたルスの護身用の短剣を手に持った。

後ろから、心臓めがけ勢いよく振り降ろす。青い柄の短剣が、ルスの背中に刺さった。

 赤い血が、そこから流れ、ルスは口からも、血を吐き出す。

「スキア…?どう…し?」

 息が絶える前にルスはその言葉だけをこの世に残した。

「俺は、〝影″。この国を護るためなら、どんな犠牲も厭わない」

 もう聞こえないそれに、〝影″は問いの答えを伝えた。


 風が止んだ。先ほどまで強く吹いていた風がぴたりと。不思議に思ったグロームは空を見上げる。それはユインも同じだったようで、ユインも空を仰いだ。

 しかし、辺りを見渡しても、何も変化はない。

グロームとユインは互いに目を合わせ、軽く頷いた。そして、再び自分たちの仕事に意識を集中させる。

スキアは、手に持ったままのルスの短剣を、その場に置いた。

もう動かないルスをただ抱きしめている。

まだ固まっていない血液がスキアの衣服を濡らした。腕の中に収まったルスは、まだ温かかった。

しかし徐々に硬直しつつある。

スキアはルスの頬に飛んだ赤い血を拭き取った。髪を整える。いつもの美しい顔がスキアの目に映った。手をルスの髪に伸ばし、優しく撫でる。

「愛していたんだ」

 スキアは、もう動かないルスに笑いかける。目元に涙が溜まっていた。口を近づけ、それを拭う。

「泣かないで」

 ルスを抱く腕に力を込める。

スキアは〝影″で、〝影″はスキアだ。どちらも本当の自分であり、どちらも本当の自分ではなかった。

それでも、「国を護る」と決めたのは自分で、「ルスを愛していた」のも自分であった。

「愛しているんだ」

 腕の中のそれは動かない。

「本当に一番愛おしいんだよ、ルス」

 スキアはまだ色を失わないルスの唇に己のそれを合わせた。もう赤く染まらない頬に、ルスの死を受け入れる。

 一瞬、上を仰ぐ。視界に木で創られた天井が拡がった。何度か訪れたことのあるこの部屋には、ルスの匂いが染みついていた。

「ねぇ、ルス。どうして一人で逃げなかったの?」

 懇願にも似たその問いの答えは、返ってはこない。けれど、スキアは、〝影″ではない今のスキアは聞かずにはいられなかった。

「一人で逃げて良かったのに。君には、生きていてほしかったのに」

 熱を失いつつあるルスに最後の接吻をし、ルスを横たわらせた。開いたままの瞼に手を当てる。

 ふと、手が青い柄の短剣に触れた。ルスを護り、ルスを殺した剣。スキアはそれを持ち上げ、自分の服で、血を拭った。

鞘に差し込み、懐に入れる。

 スキアは、立ち上がり、目を閉じた。そして瞼を上げ、周りの状況を把握する。

ルスの遺体。飛び散った血。血で汚れた自分。

手近にあった衣服で身体に付いた血を拭った。部屋の隅には、水の入った瓶が置かれている。

そこに衣服を浸し、固まった血はそれで拭き取った。

 しかし、身に付けている衣服に付いた血液は巧く拭えない。黒く変色しつつあるそれは、大きく目立ちはしないが、注意を引く可能性までは否定できない。

 辺りを見回し、羽織る物を見つけた。それを羽織り、人目に付かないように宿舎へ戻る。

まだ、太陽は傾き始めたばかりであり、人々は各々の仕事に勤しんでいた。スキアに気付く者などいない。

 誰もいない宿舎に入り、スキアは服を脱ぎ捨てる。

もう一度血を拭き、新しい衣服を身に付けた。

隠してあった長剣を腰に付ける。一度、鞘から抜いた。太陽の光に当てると、刃が光を増す。

「問題ないな」

 呟いて、剣を収める。ルスの羽織り物をそのまま身に付け、スキアは宿舎を出た。

向かう先は、グロームやユインのいる場所ではない。

「モンド」

 倒すべき敵の名前を小さく漏らした。その目は、ルスが愛したスキアの目ではない。

穏やかさを失ったその目は、冷たかった。

 風は、再び現れ、漆黒の長い髪を揺らした。血が付着し、数本の髪がくっついている。

スキアは手櫛でその絡まりを解いた。

右手の中指が少しだけ赤く染まる。スキアは、中指を口元に持っていくと、血を舐め取った。

鉄の苦い味がした。



第七章 制裁


 太陽の光はほのかに弱くなっていた。それでも、空の色が変わるまでにはまだ時間がある。雲は風に流され、少しずつ場所を変えていた。日陰と日向が忙しなく入れ替わる。グロームとユインは、額の汗を手で拭った。

 スキアはその足で、モンドの所へ向かっていた。城を駆け上がる。

モンドに与えられた部屋の前で、片膝を立てた。

「モンド様」

「スキア?」

「はい」

「どうした?」

「報告したいことがございます」

「そうか。入って良いぞ」

 モンドの許しの声を聞き、スキアは襖をゆっくりと開けた。数歩中に入ると、両膝をついて座った。手を前に出し、頭を下げる。

「報告したいこととは何だ?」

「はい。先日、現状報告をしましたが、その時グロームが予想した日程より一日早く計画が終わりそうなので、お伝えしたく参上しました」

「そうか。当初の予定より早いという予想だったが、それよりも、早く終わりそうなのか」

「はい。モンド様が先日仰ったように、私達三人の力が知らず知らずのうちに向上していた結果ではないかと思います」

「そうか。それは良い傾向だな」

 その言葉に、スキアは静かに頷いた。モンドは笑みを絶やさずに、スキアを見る。

「今日はそれだけか?」

「はい」

「ならば、帰って良い」

「はっ」

「…ただ、その前に、一つだけ質問に応えてくれるか?」

「なんでしょう?」

「どうしてお前は、そんなに血の臭いがするんだ?」

「…」

「私はある年齢まで山の中で育った。視覚、聴覚、嗅覚共に、人より優れているつもりだ。水で拭ったくらいでは、血の臭いなど、ごまかせない」

 モンドは、鞘から抜いた剣先をスキアに突きつける。

一寸先に刃先の光を見ながら、スキアは、〝影″は笑みを浮かべた。モンドは笑みを消し、低い声を出す。

「お前は何者だ?」

「〝影″という存在をご存知ですか。モンド様」

 聞きなれた筈のその声は、いつもより低く、モンドは眉をひそめた。首を軽く傾け、「否」と応える。

「〝影″の存在は、貴方様にも知らされていなかったんですね。俺は意外に信頼されているんだな」

 「くくっ」と笑いを溢しながら、〝影″が言った。

「何の話をしている?」

「これは、失礼致しました。〝影″とは王の右腕のこと。王は表で、〝影″はその名の通り、影として裏で働く」

「王の手の者と言うことか」

「はい」

「…それで、どうして私の所に?それも、そんなに血の臭いをさせて」

「貴方の企みが分かったので」

「企み?」

「しらを切るおつもりですか?」

「何のことだ?」

「犯罪者を操り、戦争を起こす。王を殺し、この国を乗っ取る。違いますか?」

 〝影″は剣を突きつけられているにも関わらず、余裕な表情を浮かべた。モンドは見下すように、膝をついている〝影″を見降ろす。

「貴方は聡い。それも恐ろしく。表の顔は完璧で、証拠は決して跡には残さない。なかなか尻尾を掴ませてはいただけませんでした。だからこそ、今までかかってしまった」

「…」

「モンド様。貴方様は、賢王であられたカエルム様を殺害しました。それだけで、大きな罪です」

「…私がカエルム様を?どうして私がそのような事をしなくてはならない。カエルム様は病死だった筈」

「呪術を使えば、病死に見せかけることも、病死させることも簡単だ。それに、操ることも。まあ、全てを意のままに操る人形にするには、術師の死期を早めるほど相当の力がいる。だから、操るのではなく、殺すことにしたのでしょう。混乱なく、ソル様に王位を引き継がせるために、病死に見せかけるなど、回りくどいことをした。貴方にとって、カエルム様が病気で死ぬことは必要だった。カエルム様は、貴方を良く思っていらっしゃらなかったですからね。それと同時に、貴方を警戒していた。だから俺と貴方を接触させたんです。そして、貴方の信頼を勝ち取らせた」

「…まんまと嵌ったというわけか」

「俺は、始めから呪術の力が強かったでしょう?貴方様が来られる前から、呪術の存在を知っていましたからね。勿論、貴方様の前では多少ですが、力は抜かせていただきました」

 〝影″の言葉に、モンドの目が見開かれる。〝影″はその様子に、片頬を持ち上げた。

「呪術は確かに、知られてはいない。けれど、貴方たちの民族だけのものではない。ならば、他に知っている者がいても、何ら不思議ではないでしょう」

「…」

「俺が知っていたということは勿論、カエルム様もご存知でした。俺はカエルム様の命で自ら呪術を学んだのですから。術師であったことは偶然ですが。…それがあの方の凄い所だ」

「独学で身に付けたとでも言うのか?」

「まさか。それほど簡単な力でないことは貴方が一番ご存知な筈」

「ならどうして?」

 その問いに、〝影″は笑みを浮かべる。

「誇りとは素晴らしいものですね。時にそれは、命よりも価値あるものになる」

「何が言いたい?」

「けれど、目に見えない誇りより、自分の命を大切にする者がいてもおかしくはないでしょう」

「…民族の者に手をかけたのか?」

 モンドの目に、冷たい光が宿る。

「何を今更。人一人殺しても、感傷を抱く心などもう、持ち合わせてはいないでしょう?貴方も」

「…」

「十人拷問して、一人が吐いてくれました」

 綺麗に口角を上げて見せる。モンドの顔に、青筋が立った。

しかし、〝影″は口を緩めない。

「カエルム様は本当に賢い方でした。そして、この国のためなら何でもする方でした」

「まさか」

モンドは驚きの表情を浮かべる。

〝影″は片頬を持ち上げた。

「ふふっ。…私の思惑を暴くために、私にわざと呪術をかけさせた、か」

 モンドは剣を持たない手で、前髪を掻き上げた。そして、もう一度声に出して笑った。

それは自嘲的な笑みでも、現状を楽しんでいるような笑みでもあった。

「俺がいるんです。貴方を殺すことも、呪術を使って、貴方の呪術を解くことも考えられた筈。けれど、カエルム様は何も命令しなかった。俺の貴方様への不信感をさらに強くさせ、それから、『国を護れ』と仰っただけだった」

「スキア。お前なら、分かるのではないか?どうして私のような者が、私のように強い力を、誰にも負けない力を持つ者が、一端の家臣でいなくてはならない?」

「…」

「私の民族では、術師のことを『神に選ばれた人間』と呼ぶ。私は神に選ばれたのだ。限りなく神に近い存在。…私こそが、この世の全てを動かすに値する人間だとは思わないか?」

「神ですか?」

 〝影″が問うと、モンドは頬を上げた。恍惚とした表情を浮かべる。

「そうだ。神だ。私にできないことなどない。お前には一度裏切られたが、それでも私はお前の力を買っている。私と共に、神にならないか?」

 〝影″はニヤリと口角を上げ、腰を降ろしたままの状態で、後ろに跳躍した。

「貴方は神にはなれない。貴方は、貴方のことしか考えることができないから。賢くて、強くて、野心家で、それでいてとても臆病。そんな人間は、人の上になんて立てませんよ」

 言い終わると、〝影″は腰から長剣を抜いた。鞘を横に放る。モンドは、手に持っていた剣を握り直した。

「剣術はからきし駄目、ではなかったのか?」

「頷いた覚えはありません」

「そうか。そうだったな。お前にはまんまと嵌められたよ」

「〝影″、ですから」

 〝影″は鋭い視線をモンドに向ける。

「あくまで私に刃向かうのならば仕方がない。『テネブラエ』!」

 初めて耳にした言葉に〝影″は、モンドを睨みつけた。その先では楽しそうな笑みが〝影″を見つめていた。

「来い」

 モンドが一言発すると、次の瞬間、二人の男がモンドの後ろに立った。

一人は、黒い髪を肩まで伸ばし、鋭い視線を〝影″に向け、茶色の短い髪を持ったもう一人の男は、理知的な顔に笑みを浮かべていた。

共に、硬い筋肉が胸に、腕に、脚に無駄なく付いている。その二人には見覚えがあった。犯罪者の中で、一番手が付けられなかった二人の屈強な男。

アステラとイオが二人揃って討伐に乗り出し、ようやく捉えた男達。

アステラもイオも、王の側近である。王を護ることが一番の役目だ。モンドがいなかった当時、側近は二人だけ。その二人が揃って王の下を離れるなど、あってはならないことであった。それでも討伐に乗り出さなければならなかったような状況だったのだ。

前者は、名の知れた海賊一味の長。後者も有名な山賊の長だった人間だ。彼らは、アステラ、イオに傷を負わせた数少ない人物である。

その危険性から、彼らには、早々に呪術をかけていた筈だった。

「今日は、不吉な予感がしたのでな」

 彼らがここにいる理由を、そう簡単に説明した。

「先ほどの言葉が、貴方に従わせるための呪文、ですか」

「ほう。そこまで知っているのか、それならば、やはり、殺さなくてはな」

 冷たい響きが部屋中を覆った。冷酷な視線が〝影″に突き刺さる。

「あいつを殺せ」

 モンドの命令が、二人の男の脳に伝達される。

二人が同時に剣を構えた。二人の持つ剣は、押収した中で一等級の品。扱いやすく、切れ味も良い。その上、実力者が三人。

「三対一か。さすがに分が悪い」

言葉とは裏腹の表情を浮かべながら、〝影″は三人を見据える。 

 二人の男がじりじりと間合いを詰めてくる。二人が一斉に攻めてきた。

〝影″は黒髪の剣を己の剣で止め、もう一人の男の攻撃を身体を捻ることでかわした。背中の服が刃先に辺り、引き裂かれる。しかし、構わず、剣をずらし、切り上げた。

〝影″の剣が、相手の腕の内側を裂く。角度が悪く、深い傷ではない。

 しかし、次の瞬間、黒髪の男は、己の剣を落としていた。

「な!」

 驚愕するモンドの声。

それを気に留めず、〝影″は軽い身のこなしで、後ろに回る。両手で、剣を持ち、剣を失った男の首元に、垂直に突き刺した。

 男がうめき声と共に倒れる。〝影″は力なく倒れた男の背中に脚を立て、強く蹴った。

帰り血が、〝影″の服につく。

深く刺さった剣を男の身体から抜き取った。

軽く血を払う。

「筋を切っただけですよ」

 冷酷な瞳が種明かしをする。

モンドは開いた口を閉じ、真っ直ぐに〝影″を見つめた。

「私は少し、お前を甘く見過ぎていたのかもしれない」

 そう告げると、モンドは傍観者として決め込むことを止め、一歩前に出た。〝影″を睨みつけ、もう一度命令する。

「あいつを殺せ」

 男の顔に恐怖は浮かんでいない。モンドの意に従うだけの男に死の恐怖など存在しないのだ。

狭くも広くもない部屋の中は、身の軽い〝影″にとって有利な条件である。

〝影″の右から男が間合いを詰めてくる。モンドも間隔を大きく開けずに、〝影″の左に位置していた。

右の男が、剣を掲げ、斬りかかってくる。左に牽制をかけ、すかさず右から切り込んできた。〝影″はそれを剣で止め、巻き込むように下へと力を加えた。

力の拮抗状態となる。

左からモンドの剣先が目に映る。それをかわすため、左斜め後ろに跳躍し間合いを取った。勢いを付けたモンドの剣が空を切る。

すかさず〝影″は半歩前に出、剣を平行に振った。   

モンドは、それを紙一重でかわし、後退する。

右の男が剣を振り降ろした。

斜めへの跳躍のため、二人の距離は思っていたよりも近い。

〝影″は軽く舌打ちする。腕を平行に自分に引き寄せた。

相手の剣を柄に近い部分で止める。刃がかち合う音が響いた。

〝影″はすかさず、男の脚を払う。

低い跳躍をし、男の背中へ剣を垂直に降ろした。 

しかし、それと同時にモンドの剣が〝影″めがけて振り落とされる。〝影″は垂直に力を入れるのを止め、男の背中に少しだけ刺さった剣を軸に、身体を右回転させる。

男の悲鳴が聞こえた。

直撃は免れたが、左腕に綺麗に一本の線が入る。赤い血がゆっくりと浮かんできた。

苦痛を感じながらも、表情は変えずに、剣に力を込める。

剣の下にいる男のうめき声が響いた。男の上に両足で立ち、突き刺さった剣を抜く。

その隙に、体制を立て替えたモンドが斬りかかってくる。〝影″は十分に溜め込み、寸でで、後ろに跳躍した。

モンドの鋭い剣が、男の頭に直撃する。

赤い血が一気に流れた。息絶えていなかった男が苦痛から解放される。

〝影″は戦闘に邪魔になったそれを脚で蹴り、場所を創った。

剣を上段で構えた状態で、〝影″とモンドが向かい合う。

〝影″は両手で剣を構えていた。しかし、左手に巧く力が入らない。添えているだけであった。

役に立ちそうもない左手を使うことを止め、右手だけで、剣を持つ。

両者は共に冷酷な笑みを浮かべていた。

「片腕で私に勝てるとでも」

 勝利を確信したような声色をモンドが放つ。

「さぁどうでしょう?ただ、俺は、この国を護らなければならない。そのために、俺は貴方を殺します」

「もし、万が一、そんなことが起こったとしよう。けれど、私ほどの男がなんの予防策もなく、計画を立てると思っているのか?」

「いいえ。貴方は、聡い。…けれど、貴方には、分かっていないこともある」

「お前の存在、とでも言うのか?」

 モンドの言葉に、〝影″は首を振る。

「サラサ国は、強い。貴方ごときに潰されるわけがない」

そこで、一度止め、〝影″は軽く息を吐いた。

「貴方は、ただ、長い物に巻かれていれば良かったんですよ。そうすれば、貴方の価値はいくらでもあったのに」

「青二才が戯言を」

 言いながら、モンドは一歩、二歩と前に出る。それに合わせて〝影″は、後退した。実力のある者同士、勝負は一瞬である。

〝影″が後退を止め、一歩前へ出た。モンドは片頬を持ち上げ、一歩前へ出る。開いている左へ、剣を走らせた。

前かがみになったモンドに合わせるように、〝影″は剣を平行に傾ける。モンドの首に刃を当てた。

 モンドが〝影″を切り上げるのと、〝影″の剣がモンドの喉を引き裂くのは同時だった。

「な!」

 喉を引き裂かれ、血を吹きながら、モンドの表情に驚愕が浮かぶ。

〝影″の身体を切りつける筈のモンドの剣が、〝影″の胸元で止められていた。

相討ち覚悟だった〝影″の剣のみが、モンドを引き裂き、〝影″は胸元に合った何かによって護られた。


 血の生臭さが身体に纏わりつく。

〝影″は深く息を吸い、そして吐いた。目を見開いたまま動かないモンドを冷めた表情で見つめながら、自分の命を護った物を見つける。

胸元に入っていたのは、青い柄の短剣。鞘に罅の入ったそれからは、甘い匂いがした気がした。

スキアは血の海と化している部屋に座り込む。まだ生暖かい血液が服を濡らした。

懐から、青い柄の短剣を取りだす。

「ルス。護ってくれたの?それとも…僕に罰を与えたの?」

 スキアは、短剣を握り、柄に口づけをした。

「僕は、君と一緒に逝きたかったのに、それでも君は生きろと言うんだね」

 空は、夕焼けによって赤く染められていた。黒い翼を持つ鳥が、城の上を旋回している。スキアはただ、空を眺めていた。何も考えずただ、眺めているだけだった。



第八章 愚問


 どのくらいの時間が経ったのであろうか。夕日は沈みかけ、辺りは薄暗くなっていた。仕事から家路へと急ぐ人々が灯りで足元を照らす。

 血が凝固し、黒さを増した部屋に静けさが増していた。

〝影″は、血で固まった衣服を脱ぎ捨て、適当な服を探した。それを身に付け、ルスの剣を再び、懐にしまう。

その目には、変わらない冷たさが宿っていた。モンドの部屋を出て、ソルのもとへ向かう。

 部屋を出る前にふと、〝影″は歩みを止めた。地獄絵図のような部屋を見渡す。踵を返し、もう動かないモンドを見降ろした。開かれたままの目に手を当てる。

 〝影″は再び、歩みを始めた。もう、振り返りはしなかった。

「ご報告がございます。ソル様」

「…〝影″か」

 暗闇の中に映る青年の名をソルは呼んだ。赤い柄の短剣を腰に付け、片膝をついている。空には月が出ており、世界を照らしていた。しかし、部屋の中の闇は濃い。

ソルは、火を灯した。橙の光に照らされたソルの顔がどこか儚げに映る。

「はい」

「モンドのことであろうな」

 ソルの言葉に、〝影″は短く頷く。

「先ほど、アステラとイオがモンドの死を確認した。今、血の海と化した部屋を片付けている」

「そうですか。お礼を伝えておいてください」

「…分かった」

「モンドは、〝影″の存在を知りませんでした。アステラ様、イオ様もご存知ではないのですか?〝影″が誰かを知らずとも、〝影″という存在くらい、知っていると思っていました」

「父上は重臣には話していたようだが、私は誰にも伝えていない。父上の重臣達は全員すでに死んでいる。だから、今〝影″の存在を知っているのは、私とお前だけだ」

「そうですか。しかし、あの部屋を見て、アステラ様とイオ様は何も聞かないのですか?」

「何も聞かなかったな」

「しかし、気付いてはいるのでしょう?」

「それは、そうだろうな。いつものお前は闇で仕事を行っている。痕跡も巧く消しているのだろう?それでも私の誇れる家臣だ。可能性の一つとしてそういう存在がいるということは思っていただろう。そして、今日、確信した筈」

「…」

「私は直接見てはいないが、報告を聞いただけでも、かなりの惨状のようだな」

「…血の海と称しても、間違いはないかと」

「そして、その処理もしなかった」

 〝影″は小さく頭を下げる。

「申し訳ございません。城の内部で屈強な男三人を運ぶことは難しく、後処理を委ねてしまいました」

「それは、良い。お前は、ちゃんとお前の仕事をしたのだから。ただ、今回のことで、アステラとイオが確信したのはまず、間違いはないだろう」

「…」

「…以前、お前は、アクシオス国とモンドとの繋がりの可能性を私に伝えたな」

「はい」

「私が、それをアステラ達に伝えた時には、もう二人は動いていた。アクシオス国の中に不穏な動きがあることを突き止めていた。黒幕までは分かっていなかったようだったがな。…今、サラサ国の兵士を総動員させている。海岸であちら側の兵士達が来るのを待つつもりだ」

「おそらく、兵士の大半は金で雇った傭兵。それを見れば、陸に上がることなく、引き返すでしょう。…イオ様の策略ですか」

「そうだ」

 〝影″は一瞬考えるような素振りを見せた。そして、口を開く。

「イオ様が、以前オレイノス国に行かれたのは、援護の要請のため…ですか」

「オレイノス国は、いつでも軍備が整っている。だからこそ、兵が集まりやすい。…それに、オレイノス国との繋がりの強さを示すことができれば、今後攻め入ろうなどと考えることはないだろう」

 ソルは、片頬を持ち上げた。

「…あの二人が、気付いていながらも、何も聞かないのは、必要な事ならば、私の方から言うと分かっているからだ」

「凄い忠誠心ですね」

「お前と違ってな」

 口を閉ざした〝影″に、ソルは「本題に入れ」と短く告げた。

「モンドは自身で創った呪文を部隊の者達に伝えました。その呪術の効力は、三つ。一つ目は、ある一定の怒りまで達すると、怒りが収まるようにするという効果。二つ目は、人を殺めたという記憶を消し、王の忠実な部下であったという記憶を埋め込むという効果。そして、三つ目は、もう一つの呪文を唱えると、モンドだけの意志に従う部下に変わるという効果です」

「…」

「モンドは犯罪者を操作し、戦争を企てていました。国に混乱をきたし、貴方様の地位を狙っていた。五年以上の年月をかけ、着々と計画を進めていたようです。…モンドが貴方様に仕えて約八年。この国を支配するという構想は、おそらくそれ以前から考えていたものと思われます」

「…そうか」

「集められた術師には、モンドへの忠誠心がはっきりと植え付けられています。呪術の効かない彼らの存在は、おそらく脅威だった筈。しかし、それと同時にこれ以上の便利な手駒はいません。彼らにはある種の操作が行われていたようです」

「操作?術師に呪術はかからないのではなかったのか?」

「呪術はかけていません。モンドは、一から教育し、何も持っていなかった彼らに巨大な力を与えただけです。その力の使い方を教え、彼らに国を護るという大きな使命を与えた」

 ソルは、知らず唾を飲み込んだ。それは以前、ソルが間近で見てきたことに酷似している。〝影″もそれに気付いていた。二人とも何も言わず、少しの間沈黙が流れた。

「彼らを教育する師となることで、呪術の効かない彼らを操作していたのだと思われます。一種の暗示のようなものです」

「モンドを失った彼らはどうなる?」

「絶望、するでしょう」

 何の感情も含ませず、そう述べる〝影″。ソルは背筋が寒くなるのを感じた。しかし、〝影″は僅かに笑顔を浮かべる。

「彼らの絶望は避けられないでしょう。しかし、彼らにとって、モンドは良い師でした」

「…」

「国を愛し、国を護りたいと願っていた。彼らの中のモンドは、そういう人間です」

「何が言いたい?」

「心配なさる必要はないかと」

「何故だ?」

「彼らは、モンドの上辺だけだった意志を真に継いでいくでしょう。部隊はこれからも価値を持ち続けます」

「…」

「術師を招くという貴方様の行為は、間違いではなかった」

 ソルは、真っ直ぐに〝影″を見る。小さく息を吐いた。「そうか」とだけ、呟く。

「一つ、聞かせてはくれないか?」

「何でしょうか?」

「お前とモンドの違いはなんだ?」

 ソルは、カエルムの言葉を思い出していた。カエルムは冷たい目を気に入り、その日に会った少年を〝影″にした。

 カエルムは冷たい目を気に入らないと言い、モンドを嫌った。

共に冷たい目を持つ者。一人は、ただ、「国を護る」、それだけのために働き、一人は、国を裏切った。

 ソルは、カエルムと同じことをしたつもりであった。しかし、蓋を開けてみれば、結果は正反対。

「私はどこで間違えた?」

「意志の強さでしょうか」

 〝影″に似つかわしくない、小さな声がソルの耳に入る。

「お前の方が、意志が強かったといことか?」

「いえ、逆です」

「何?」

「彼は意志が強すぎた。彼は神になろうとしていました」

「神…?」

 〝影″は頷く。モンドの恍惚とした目を思い出した。

「人は、神にはなれません」

「ああ」

「どれだけの力を持っていようと。どれだけの権力を持っていようと。人には、できないことがある」

「…」

「そんな、当たり前のことを忘れるほどの意志だったのではないでしょうか?」

「強く望むことが悪いことだとは思えない。お前の『国を護る』という意志も私には十分強く見える」

「俺のは、意志ではないんです、きっと」

「…」

「すみません。望む答えを見つけられそうにありません」

 〝影″は謝罪を口にする。ソルは、「そうか」と漏らし、視線をずらした。

「私に人を見る目がなかった。突き詰めれば、それだけか」

 小さな言葉に、〝影″は肯定も否定もしない。ソルは息を吐き出した。弱い光だった瞳に強さが加わる。声を少し落とした。

「…モンドは病に倒れたと言うことにする」

「左様でございますか」

「それから、今日、若い娘の死体をイオが発見した。モンドの娘のルスだ」

「…」

「…彼女は、お前と恋仲だったのではないのか。……スキア」

「…そうだよ。ソル兄さん」

 スキアは、顔を上げて応える。ソルの口から「スキア」という言葉が出た。

それならば、スキアは王の右腕である〝影″でいる必要はなかった。

 スキアは、十数年前、前王カエルムに「影」の意味を持つ「スキア」という名を与えられて、引き取られてから、ずっとソルと共に育てられてきた。ソルはスキアを本当の弟のように可愛がり、スキアもソルを「兄さん」と呼んだ。共に色んな事を学んだ。

剣術も、武術も、政も机を並べて。

覚えが早く、才能があったスキアは、一足早く〝影″としての任務を与えられた。それ以降、兄と弟として、話すことはなく、ソルは、「スキア」という名で一度も呼ばなかった。ただ、妬みや羨望の対象として〝影″を見てきただけだった。

「ルスは、僕の一番愛している人だった」

「…そうか。すまない」

 ソルの謝罪の言葉に、スキアは静かに首を横に振る。

「彼女を殺したのは、〝影″だ。兄さんの命でもない」

「そうだが…」

「〝影″は間違ったことをしてないよ。だって、ルスは、国を護れた。護ると逃げる二つの選択肢の中から、ルスは、逃げるを選んだ。…それに、ルスは、モンドの娘だ。復讐の可能性だって、ないわけじゃない。ルスは、この国の危険分子になったんだ。僕に、逃げようと言った瞬間から。だから、〝影″は、彼女を殺した。だから、〝影″は間違ったことはしていない」

 静寂が訪れた。それを破ったのは、ソルの言葉。

「…彼女を父親の死の悲しみから、この国を出たことにしようか?証拠はイオが全て消してくれている」

「兄さん」

「どうだろうか?」

「…兄さん。その優しさは、いつかきっと、貴方を苦しめる。貴方を苦しめると言うことは、この国を苦しめることに繋がる」

「…」

「だけど…」

「スキア…?」

「だけど、どうか、お願いします。僕には、ルスの死を想って泣くことなんてできない」

 スキアは、もう一方の膝も付け、両手を前に出し、頭を下げた。

ソルはその姿に、微かな驚きを抱く。

誰かの命に従うことしか知らなかった青年が、初めて自分の意志を動かしたのだ。

ソルは立ち上がり、スキアの傍に行った。

幼き日のスキアの姿と重ね合わせ、垂れる頭に手を置いた。長くなった黒髪をそっと撫でる。スキアは少しだけ、頭を上げた。涙の出ない乾ききった目。

ソルは頷き、笑顔を贈った。少しの間だけ、そのままにしていた。

 ソルはスキアの頭から、手を退ける。

「もう、下がっていい」

 スキアはもう一度、頭を下げ、立ち上がる。襖に手をかけたスキアにソルが問いかけた。

聞き取れないような小さな声。

「私は、お前のことを、本当の弟のように思っている」

「…」

「けれど、お前は、私がもし、お前に、いや、この国に背くことがあれば、迷わずに私を殺すのだろうな。…〝影″よ」

 〝影″は、顔だけ動かし、静かに答える。

「愚問ですよ」

 〝影″はそれだけ残し、闇に消えていった。一人残されたソルは、月を見つめる。

雲が覆い、光は消えていた。


 太陽は登り、人々に朝の訪れを知らせていた。小鳥が囀る。スキアは顔を洗っていた。宿舎にスキア以外の人間はいない。耳を澄ますと、人々の声が聞こえる。その声が、徐々に大きくなっていった。

顔を拭く。

自分の名を叫ぶ声が聞こえた。顔を上げ、そちらを向く。グロームとユインが必死でスキアを呼んでいた。

「どうしたの?」

 息を切らした二人に尋ねる。脚に手を当て、息を整えた。

顔を上げた二人の顔は、醜かった。グロームの顔は憔悴しきっており、ユインの目は、赤く腫れている。

「…スキア」

 蚊の鳴くような声をユインが出す。スキアは心配そうに顔を歪めた。

「本当に、どうしたの?」

「落ち着いて聞いてくれ」

「…何?」

「…モンド様が亡くなった」

「…」

「病死だって。今、発表されてた。ソル王の名で」

「ああ。だから、おそらく真実だ」

「…そう。……ルスは?」

 不安気な声を浮かべるスキアにグロームは、視線を逸らした。そんなグロームの姿を見て、ユインが小さな声で伝える。

「この国を出たって」

「…」

「モンド様が亡くなったことの悲しみは大きかったようだ。…何も聞いていなかったのだな」

「…いや。一緒に出ようと言われた」

「あの時か…」

昨日のルスの様子を思い出し、グロームがそう漏らす。

スキアは小さく頷いた。

「けれど、断った。僕にはこの国に残ってやらなくてはならないことがいっぱいあったから」

「理由は教えられなかったのだな」

 スキアは、何も応えない。二人は沈黙を肯定と捉えた。

「それで、スキアはいいの?だって、二人は…」

 ユインがスキアの肩を掴み、揺らした。スキアが右手で、ユインの右手に触れる。静かに首を縦に振った。

「僕は、ルスを愛していたよ。…愛しているよ。でも、僕には、ルスを追っていくことができないんだ」

 ユインは、力を弱め、手を元の位置に戻した。止まった筈の涙が、ユインの目から再び流れる。目を強く腕で擦り、鼻を啜った。

「俺たち、これから、どうしたらいいの?モンド様も、ルスもいない」

 答えを求める問い。グロームは額に手を当て、目を閉じた。スキアも視線を逸らし、足元を見る。

 グロームが、不意に空を見上げる。スキアとユインも同じように空を仰いだ。

三羽の鳥が、旋回していた。三羽の前に、大きな鳥が現れる。

その鳥が、一羽に向かってきた。

残りの二羽が嘴で対抗する。攻撃を受けた一羽も、それから逃れ、大きな鳥へ向かって行った。

「大丈夫」 

 グロームが小さく漏らす。

空に向けていた視線がグロームに集まった。グロームは、いつもの表情を二人に向ける。

「大丈夫だ。きっと。俺たちなら」

「グローム?」

「一人なら無理かもしれない。けれど、三人なら、何とかやれる。…何とかしよう」

「…うん」

 グロームの言葉に、スキアが頷いた。

「俺たちは、モンド様の意志を継いでいかなきゃいけないんでよね。だって、…モンド様の愛弟子だもんね」

「愛弟子…かは分からないがな」

「そんなことないよ!愛弟子だよ。ね、スキア?」

「そうだよね。愛弟子だよね、僕たち」

 その言葉に、三人は、笑みを漏らした。

ユインは溜まっていた涙を拭き取る。そして、グロームとスキアの肩に手を乗せた。

「モンド様!俺たち頑張るからね!そこから見てて!」

 空に向かって叫ぶ。騒いでいる人々の視線が一気に集まった。

いつもなら、小言を言うグロームも何も言わず、空を眺めている。

三羽の鳥が、空高く上がっていった。

 静かな風が三人の髪を揺らす。潤んだ眼を乾かしていった。

「俺たちは、俺たちの道を進もう」

 上を見上げたまま、グロームが言った。

「俺たちにできることを精一杯やろう。この国を護っていこう。…俺たちには、その力がある。モンド様に与えられた大きな力が」

「うん。そうだよね。俺たちになら、きっとできるよね。この国の平和を、幸せを護っていけるよね」

「護っていこう。僕たち皆で、力を合わせて」

 三人の目には、鮮やかな青が映っていた。木の葉が重なり合い、音を立てる。

三人につられたのか、周りの人々も、空を見上げていた。

 真っ白な雲が浮かんでいる。風に流され、場所を変えていた。

 鳥たちは、唄う。綺麗な声で。

人々の喧騒がかき消された城には、鳥の歌声が響いていた。

グローム、スキア、ユインの三人は、目を閉じる。そこには、尊敬するモンドの姿も、愛おしいルスの姿も映っていた。

 けれど、三人は、瞼を上げる。光り輝く太陽が、笑っていた。



終章 青い柄の短剣


 漆黒の髪が揺れている。それをさほど気にせず、スキアはただ、立っていた。

いや、ただ立っていたのではない。彼の視線は、前に注がれていたのだから。彼は前を見ていたのだ。しかし、何をするわけでもない時間が流れている。

だからやはり、ただ、立っていただけなのかもしれない。

スキアの頬に当たる風がいつもより冷たい。

もうすぐ暑季に入ろうとしているサラサ国の気温は、高くなることはあっても、低くなることはないというのに。

実際、風は冷たくはなかった。

けれど、スキアはそれでも、風を冷たいと感じた。

風がいつもより冷たく感じるのは、立っている場所に関係しているのだろうか。

 スキアはゆっくりと手を伸ばした。

小さな墓石に触れる。ひんやりとした温度が伝わってきた。

川辺に咲いていた花を添えた。赤と青の小さな弁を持つ花。風に揺らされ、甘い香りが拡がった。

柄杓を手にし、足元に置いた水桶から水を汲む。墓石に水をかけ、手を合わせ、しゃがみ込む。

「ルス」

 長くはない沈黙のあと、スキアは静かに届かない声で呼びかけた。その声だけが木霊する。

「僕はね、この国を護ることしか知らなかった。…でも、君に会った」

 そして少しだけ苦笑する。軽く頬を掻いた。

「本当はね、モンドの動向を探るために、君に近づいたんだ。初めは君を愛してなんかいなかった」

 懐かしむように、スキアは目を閉じる。

初めて見たのは遠くからだった。それは〝影″として、モンドを探っていた時。

長い髪が、風に揺れ、楽しそうに笑っていたルスは印象的にスキアの目に映った。

初めて言葉を交わしたのは、部隊に入ってすぐの頃だった。

力量を誤り、呪術を使いすぎてしまった時。

気が付けば、ルスの膝の上に頭が乗っていた。眩暈を起こして倒れたスキアをルスが介抱してくれたのだ。

「高飛車な女だったら、どんなに楽だったか」

 思い出し、スキアは漏らす。高飛車な女であれば、褒めておけばよかった。そうすれば、勝手に機嫌は上がっていった。高価な物を与え、満足させてやるだけでよかった。

けれど、ルスはそんな人物ではなかった。

「手作りの物が好きだったよね?苦労したんだよ」

 冗談めかして、そう告げる。

「珍しい花を取るために、山に登ったこともあったよね。…でも、君に怒られた。無茶な事はしないでって、君は泣いたね」

言い争ったことがなかったわけではない。

大抵は、ルスがスキアの身を心配してのことだったが。気付けば、その時から、グロームとユインのからかいは始まっていた。

「そう言えば、そんなに前から、知られてたんだね。気が付かなかったなんて、僕もまだまだだな。…でも、それだけ必死だったんだね」

 照れたような表情を浮かべる。花が揺れた。

「それから、いっぱい笑ったね」

 少しだけ哀愁の色が浮かぶ。

グロームとユインを混ぜて話す時も、ルスと二人だけの時も、ルスは楽しそうに笑っていた。

「スキア!」

 笑いながら、名を呼ぶルスの声が好きだった。精一杯手を振る、その姿が好きだった。

いつまでも慣れず、口付をすると赤くなるその顔が好きだった。

「君に癒されていたんだ。当たり前に、人を殺す生活から、少しだけ、脱せた気がしたんだ。君のおかげで」

愛してはいない筈だった。

愛してはいけない筈だった。

それなのに、隣にはいつも、ルスがいた。そのことに、気付けば、癒されていた。

「幸せだったんだ。…初めて、人を愛した」

 そこで、スキアは目を開ける。真っ直ぐに前を見つめた。

ルスの笑顔がすぐそこにあるような錯覚を抱く。その笑顔にスキアは頬を上げて見せた。

 ルスがモンドの娘でなければ、と思わなかったことがないと言えば嘘になる。そう、スキアは思う。

けれど、スキアは、ルスがモンドの娘であったからこそ、彼女を知ったのだ。

彼女が、ただの娘だったのなら、声をかけることさえしなかった。

彼女が、ただの娘だったのなら、彼女の存在を知ることはなかった。

モンドの娘であったから、スキアは彼女に触れたのだ。

「モンドの娘であるルス」を、スキアは愛した。

「モンドの娘であるルス」だから、スキアは愛した。

「僕は、国を護れとしか言われていなかった。愛した人を護ることを知らなかった。護っていいと言われなかった。…僕には意志がないからね」

 虫の鳴く声。微かなその音は、どこか悲しげである。スキアは、頬を上げて見せた。

懐に手をやる。

青い柄の短剣がその手に握られていた。そして、赤い柄の短剣を出す。

「僕の存在意義は、この短剣と国を護ること。僕は、僕の命をこの剣で護る。僕は、この国のためだけに生きる」

 そう告げ、再び赤い柄の短剣を腰にしまった。

「だけどね、ルス。僕は、死ぬ時は、君の剣で死ぬよ。僕の意志で」

 青い柄の短剣を掲げてみせた。

「きっと、もうすぐだと思うんだ。その時は。この国はもう大丈夫。〝影″がいなくても、巧くやっていける筈だよ。だから、もうすぐ…」

 空には雲が浮かんでいる。風に吹かれ、場所を変えていた。

「僕に、死を与えてくれて、ありがとう」

 笑みと共に、囁く声が口から出た。

 人は、生を受け、そして死ぬ。生きる権利と死ぬ権利を持つ。

生きる権利には、死ぬ義務が与えられ、死ぬ権利には、生きる義務が与えられる。

スキアに与えられていたのは、生きる義務だけだった。自分と国を護るために生きること。その義務だけを持っていた。

スキアに初めて与えられた死ぬ権利。そこには、生きる義務を伴う。

生きなければ、死ぬことはできない。

「自害」という手段は存在する。しかし、「自害」という手段は、死ぬ権利を行使するために、人間に与えられたものではない。生きるための手段だ。

逃れるための手段ではなく、先に進むための手段。故に、やはり、死ぬ権利には、生きる義務が伴われる。

今、初めてスキアに二つの権利と二つの義務が渡った。

スキアは立ち上がる。一歩前に出た。唇に冷たい温度が伝わる。

微かに頷き、スキアは来た道を戻っていく。


モンドの死以降、部隊の隊員たちは、彼の意志を継ぐために必死で働いていた。

モンドの死後、二十の部隊が召集された。第一部隊が先頭になり、連日話し合いが続く。

呪術の弱い者には、修業を付けた。ある部隊は、水が枯渇している地域に赴いた。

ある部隊は、災害からの復興作業に手間取っている地域の手伝いに出かけた。

 第一部隊は、全体の指揮を執り、これからの指針を打ち出そうとしていた。

だからこそ、スキアにのんびりしている暇はない。

 スキアは、一度だけ振り返る。赤と青の花が揺れていた。口を開きかけて、すぐに閉じる。

何か言いたかった。言いたいことは山ほどある筈だった。けれど、どれも、口から出ることはなかった。

そんな自分に苦笑する。何も言わずに、前を見た。グロームとユインの仲間の待つ場所に向かった。

 スキアは謝罪を口にしなかった。

ルスを殺めたのは、〝影″としての自分であり、〝影″として間違ったことをしたつもりはなかったから。

スキアは涙を流さなかった。

ルスを殺めた自分には、涙を流す権利はなかったから。

けれど、雨が降ればいいのにと、心の中で思った。自分が泣いていることさえ分からないほど、大粒の雨が降ればと。

「…でも、そういう時には、雨は降らないんだよね」

 空気は暖かく、雨の兆しは見えない。だから、涙を流すことなく約束をした。

自分の意志で。それは、冷たくて、甘い約束。

「君のためだけに死ぬ」

 強く言った言葉は、静寂に飲み込まれた。

  太陽は、傾き始め、光は弱くなっている。

けれど、闇の到来はまだ遠い。

スキアは歩きながら、腰に手を触れた。赤い柄の短剣。自分を護るために使う剣。

 スキアは歩きながら、胸に手を当てた。青い柄の短剣。自分を殺すために使う剣。

 太陽の光を移すその目は、相変わらず冷たい光を放っている。それでも、その目がスキアだった。

冷たい瞳で空を見上げる。ただ、淡い青と白が拡がっていた。

「この国を護るためだけに生き、君のためだけに死ぬよ」

 もう一度、空に約束した。


ここまで読んでいただきありがとうございました。

正直需要はないと思ったのですが、自分の好きな作品だったので、修正したものを載せさせていただきました。

一応、前回のものをお気に入りにしていただいている人がいらっしゃいましたので、修正verという形で違うものとしてupさせていただきます。


感想や評価をいただけたら、本当にうれしいです。

よろしくお願いいたします。

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