冷やし中華始めません
「学校はどうだ……って、今は夏休みか。夏休みだからって怠けてないか?」
「うん、でも、まだ夏じゃないよ」
久しぶりに単身赴任先から帰ってきたというのに、息子はなんだかご機嫌斜めだった。
一緒にドライブに行こう、何か欲しいものを買ってやろうと意気込んでいたのに、肝心の息子はふくれ面のまま窓の外を眺めている。
「夏じゃないってなんだよ?夏休みだろ?」俺が聞いても、息子はなにも言わなかった。
近所の家電量販店に立ち寄ると、客引きのバニーガールが風船を配っていて、妻を置いてきたのは大正解だと思った。
息子はバニーガールから風船をもらって、ちょっとにやけた。(俺もにやけた。)
クーラーが寒いくらいの店内で、俺は(エッチなやつじゃない)DVDを、息子にはゲームを買って、逃げるように駐車場へ戻る。
「あったけえ」本当ならば 焼けるように熱いはずの車内で、俺は思わず呟いた。「なんであんなに寒いんだよ、馬鹿じゃないのか」
「そりゃあ、あれだけたくさんクーラーや扇風機を売っているからでしょう……」息子がぽつりと言った。
反応に困っている俺に、「分かってるよ、ジョークだよ……」と恥ずかしそうにまたそっぽを向いてしまった。
しばらくして「昼、なに食べたい?」と俺が聞くと、すぐに「ラーメン」と返ってきた。
「いいな、冷やし中華 そろそろ始まってるんじゃないか?」
息子はハッとしたように、「冷やし中華はいつ始まるの?」と叫ぶ。
「え、夏になったらだろ?」そのあまりの勢いに、俺はたじろぐ。
「それじゃあ、いつ終わるの?」悲しげに、息子が続ける。
俺は少し考えてから、「夏が終わったら、だろうな」
気がつくと、息子は涙をこぼして 俺を見つめているようだった。
「夏が終わったら、父ちゃん また仕事でいなくなるって、母ちゃんが……」
俺は、ようやく息子が夏を毛嫌いしていた意味が分かった気がした。
「まだ、夏じゃないよ……」息子が、うわ言のように呟く。「冷やし中華、始まってないといいな……」
例え 冷やし中華が始まらなくても、夏はもう始まっているのに。
そうしていつかは終わるのに。
「……ところでさっきのバニーガール、なかなか美人だったな」
息子がまたにやけた。俺もにやけた。
そうやって、冷やし中華始めましたの看板には気がつかないふりをして、隣町までもう少し車を走らせていようと思った。