ハアハアハア…。
ぽかぽかとした日差しが心地よい、うららかな春の朝。塀の上で気持ちよさそうに居眠りをしていたまるまると太った黒猫が、目の前を必死の形相で自転車を飛ばしていった学ラン姿の高校生にその眠りを妨げられた。その猫はしばらく高校生が走り去っていった方を睨んでいたが、やがて大きな欠伸と伸びをするともう一度眠りについた。
武内亮太は自転車を飛ばしていた。だが、坂道故にそのペダルは重く、自転車はなかなか前に進んでくれようとはしない。まるで普段、ロクに手入れもしていない事へのささやかな復讐であるかのように、時折きしんだ音を立てながらのんびりと坂を上っていくばかりだ。
亮太はちらりと腕時計に目をやった。
時刻は午前八時三十三分。亮太の通っている私立藤ヶ谷高等学校は、八時三十五分に始業のベルが鳴るのだ。
亮太の家は学校から歩いて五分ぐらいのところにあるのだが、学校が小高い丘の上に建っているため、そのたった五分の道のりの大部分は坂だった。
しかし、学校側が植えたものか、それとも街が気を利かせたのか、そこには桜の木が植えられ、ちょうど今頃はちょっとした桜色のアーチが出来ている。毎年、新入生や卒業生達はそのアーチを様々な思いでくぐっていくのだが、もちろん、今の亮太にそれを眺めている余裕などあろうはずもない。
(お、遅れてたまるかぁーっ!!)
心の中でそう叫びつつ、緩くなってきた傾斜に合わせて自転車のスピードを更に上げる。同じように遅刻ギリギリで走って校門に駆け込もうとしている生徒達を抜く度に、彼らの羨ましげな視線が背中に痛いほど感じられた。
亮太は普段は歩いて学校まで通っている。どうせ歩いても大してかかるような距離ではなかったし、往きは登り坂ばかりなので却ってかったるいのだ。だが、今日のように遅刻ギリギリで一分一秒を争う時には自転車をかっ飛ばす事になる。最寄り駅からは直通バスで約十分程という、いささか駅から離れた立地条件ため、生徒の大部分が駅からバスで通っており、学校側は自転車登校者についてはあまりうるさく言う事はなかった。
春。季節のはじまり。
今日は新しいクラスが発表される日なのだ。今頃、学校の校庭にはクラスを発表した長い紙が貼り出され、みんな一喜一憂しながらそれを眺めている事だろう。二年生になり、クラスも新しくなって心機一転、というその初日から遅刻をしたくはない。
もっとも、いつだって遅刻をしたくてしているわけではないのだが…。
キーンコーンカーンコーン…。
チャイムが鳴り始めるのとほぼ同時に、亮太は校門をくぐった。
「…ギリギリセーフ」
校門を入ったところで自転車から降り、ホッとして亮太が呟くと、
「…また貴様か、武内」
という、怒りを押し殺したようなドスの利いた声が聞こえる。ギクッとして振り返ると、案の定、そこにはジャージ姿の小柄な、だががっしりとした体格の男が立っていた。
生活指導と柔道の先生、村上武雄だ。先生は『生活指導』などと言う事をしている者のお約束とも言うべき竹刀をきちんと装備して、怒りの炎がめらめらと燃えている目で亮太を睨んでいた。一年生の頃から遅刻常習犯だった亮太はすっかり名前と顔を覚えられてしまっているのだ。
「あ、どもー」
引きつった笑いを浮かべ、そそくさとその場を離れようとする亮太。だがその亮太の学ランの襟をガシッと掴み、先生はまるで猫の子を拾い上げるような仕草で亮太を引き戻す。
「貴様…新学期早々…」
「あーっ! ほら先生、早くしないと朝礼始まっちゃいますよ!」
何かを言いかける先生を遮るようにそう言うと、亮太は校庭を指さした。
確かに、校庭では朝礼の準備が整い、後は肝心の生徒達がきちんと並ぶだけとなっている。暫くの間、亮太の引きつった笑顔と校庭を交互に見比べていた先生はやがて
「…ぬぅ…とっとと行け!!」
忌々しそうにそう言って亮太を突き飛ばすように開放する。
「すいません、今度からは気を付けますので…」
亮太は去年の入学当初から何度言ったか知れないその台詞を呟くと、にこやかな笑顔でそそくさと自転車を止めに自転車置き場の方へ向かった。
校庭の隅や校門の近くに植えられた桜の花びらが舞う中、校庭ではたくさんの生徒達が校庭と校舎を仕切っているボール避けのフェンスの近くに集まっている。そこに貼られた紙に、クラスと名前が書いてあるのだ。
亮太は自転車を自転車置き場に止めると、鞄を持ったまま校庭に向かって駆け出し生徒の群の中に加わった。これから始業式が始まるというのに、生徒達はまだ全然並んでなどいない。ほとんどの生徒は既に自分の名前をどこかのクラスの中に見つけ、今度一緒になった仲間や離れてしまった仲間たちと興奮気味に話しているのだ。
亮太は半ば強引にその中に割り込み、端から自分の名前を探しにかかった。
「相変わらず寝ぼすけね、亮太」
そんな亮太を見つけて、一人の女の子が呆れたような声をかけてくる。肩にかかるぐらいのきれいな髪が風にそよいだ。ほっそりとした身体つきだが、それが弱々しい印象ではなく、却って活発そうな印象を与えている。
彼女の名は、加藤典子という。
亮太の幼なじみで、亮太が一人暮らしになってマンションの今の部屋に越すまでは、亮太と家が隣同士だった。今でも時々亮太のために亮太の部屋に食事を作りに来ている。趣味が料理と言うだけあって典子の作る料理はとても上手なのだが、少し口うるさいのがたまにキズだ。
「ほっとけ」
亮太は典子には構わず自分の名前を探し続けた。
「C組よ、あたしたちと同じ」
と、典子が得意げに亮太の求めている答えを出す。
「またお前と一緒だ、うんざりするぜ」
いつの間にあらわれたのか、典子の隣に片桐真吾もいる。相変わらず詰め襟の制服の第一ボタンを開け、その下の真っ赤なTシャツをのぞかせていた。真吾は亮太とは中学の頃からの悪友で、口が悪くめんどくさがり屋の上に昼寝が趣味という変わり者だが、根はいい奴で、ルックスが良いせいか女の子たちにやたらにもてている。
「またおまえらとかよ、ったく。腐れ縁って奴だな」
亮太はうんざりしたようにそう言ったが、内心では少しホッとしていた。
「ちょっと亮太、『お前ら』とは何よ、『お前ら』とは。あたしを真吾と一緒にしないでよね。こっちこそ亮太と一緒なんて願い下げよ」
典子がふくれっ面で言い返す。それを見て真吾がニヤニヤ笑った。
「何よー、真吾まで」
「別にぃ」
急に矛先を向けられた真吾は大げさな仕草で肩をすくめて見せる。
「こら! 貴様ら! 何をぐずぐずしとる、さっさと列に並ばんか!!」
いつの間にこっちに来たのか、先程の村上先生が周りの生徒たちに怒鳴り始めていた。
だが、久しぶりに仲間に会って、ただでさえ『つもる話』もある上に、新しいクラスになって興奮気味の生徒たちがなかなか話をやめるはずもない。話しながらのろのろと移動するばかりだ。
亮太たちも今度のクラスの話をしながらそれにつられるようにして移動する。
二年C組の担任の先生は岩口政晴といい、四十過ぎの小柄な先生だという。真吾の話によると、なかなか『話のわかる』先生らしい。亮太が、
「それってどういう意味だよ」
と訊くと、真吾はニヤッと笑って
「色々な意味さ」
とだけ答える。女の子達と仲がいいせいか、真吾には意外な程情報収集能力があるのだ。
時折、見知らぬ女の子たちが真吾に声をかけていく。その中には上級生や下級生も混じっているようで、真吾は学年を越えて女の子に人気があるようだ。部活には入っていないはずなのに、一体どうしてそんなに女の子の知り合いが多いのかと亮太は時々不思議に思う事があった。
「おはよう、典ちゃん」
C組の生徒たちがたまっている辺りから、一人の女の子が親しげに声をかけてきた。
サイドの部分だけを三つ編みに束ねた、腰に届くほどの長い艶やかな髪が時折吹いてくる風に揺られ、朝日を反射してキラキラと輝いている。亮太はまぶしそうに目を細め、不意に自分の表情がこわばっていくのを感じた。その女の子に会うといつもそうなってしまうのだ。そして、とうとう目を逸らしてしまう。別にどうというわけではないはずなのに、その女の子の事をちゃんと見ていられなかったのだ。
綾瀬美雪。
それが、その女の子の名前だ。
「あ、おはよう、美雪。今度同じクラスになったね」
典子が答える。典子と美雪は同じテニス部で、親友同士なのだ。
「よう、綾瀬。これからよろしく」
真吾までもが知った仲という風に声をかける。どうやら彼女とも知り合いのようだ。つくづく、顔が広いと亮太は思う。ただし、女の子に限っての事ではあるが。
「武内…亮太君、でしょ? これからよろしくね」
美雪がそう亮太に挨拶し、にっこりと微笑んだ。どうやら亮太の事は典子から色々聞いて知っているらしい。
「あ、どうも」
亮太もぎこちなく挨拶を返した。別に、知らない人だから緊張したというわけではない。もともと、亮太はあまり人見知りなどしない方だ。むしろ、亮太はある意味で美雪の事をよく知っていた。
そう、ある意味で。
「何よー亮太、その挨拶は。…あ、照れてるんでしょ? だめよ、美雪って倍率高いんだから」
典子が悪戯っぽく笑いながら亮太の頬を突っついた。
「な、何言ってるんだよ」
うるさそうに亮太がその手を払う。亮太は典子に言われるまでもなくそんな事はわかっていたのだ。
「もう、やめてよ典ちゃん」
美雪がはにかんだ様子で典子を軽く叩いた。
「は、早く行かないと怒鳴られるぞ」
亮太は憮然とした表情でそう言うとさっさと歩き出した。
「…へんなの。ムキになっちゃって。どうなってるの?」
きょとんとして典子が真吾の方を振り返る。
「さあ。虫の居所が悪かったんじゃない?」
真吾はオーバーに肩をすくめてそれに答えた。
「さ、行こうぜ。ほんとに怒られちまうよ」
真吾がそう促して、三人はまだとても列とは呼べそうもない人だかりの方へ歩き出す。だが、何か考え事でもしているのか、美雪はそれに応えなかった。
「綾瀬?」
それに気づいて立ち止まった真吾が怪訝そうに声をかける。
「え? ううん、何でも」
美雪は曖昧に微笑むと、そそくさと思い出したように歩き出す。
だがそれは、心ここにあらずといった様子で、ひどくギクシャクしたものに真吾には思えた。そう、ちょうど亮太がそうであったように。
「…」
暫く、美雪の後ろ姿を眺めていた真吾だったが、やがて軽く肩をすくめると再び歩き始めた。
あっという間に、それから一週間が過ぎようとしていた。
この時期は風景や、そのほかいろいろな事がめまぐるしく変化していく。まるで冬の間動かずじっとため続けていたエネルギーを一気に発散させるかのように。一週間も経つとそれまで見慣れていた風景ががらりと変わっていたりするものだ。つい最近までは薄ピンク色の花を付けていた校庭の桜の木々も、今は淡い緑に彩りを変えようとしている。
「も少しだからね」
台所で典子がフライパンを片手に振り返った。台所といってもLDKなので振り返っていくらも行かない所にローテーブルがあり、そこに亮太がいるのだ。
「んー」
某パンダのようにぐてっとしてローテーブルにもたれかかった亮太は、口を利くのもかったるいとでも言いたげに気のない返事をする。
何を作っているのかは、亮太は知らない。においなどから判断して、多分ハンバーグか何かだろう。本当はもっと凝った料理が作りたいらしいのだが、それにはここのガスレンジでは火力が足りないだとか何かとあるらしい。自分の部屋の事なのに『らしい』とは何とも頼りなげではあるが、亮太は台所関係に関してはすっかり典子に任せきっていたのだ。
ここは、学校から歩いて五分ぐらいのところにあるマンションの亮太の部屋。両親が仕事の都合で引っ越す事になり、当時高校進学が決まったばかりだった亮太は同じ市内のこのマンションに引っ越したのだ。それまで亮太たちが住んでいた家は今は叔父夫婦に貸しに出されており、ここの家賃はその賃貸収入から出されている。
亮太がこっちの部屋に移ってからというもの、典子は時々こうして料理を作りに来てくれていた。それがなかったら、亮太はコンビニ弁当かカップ麺、時にはバイト先のファミレスの残り物、といった食生活でとっくに身体を壊していただろう。口やかましくはあるのだが、亮太は典子のこういった世話好きなところにかなり助けられている。
しかし、典子が亮太の部屋に料理を作りに来るのは何も単に料理が好きだから、とか、幼なじみだから、という理由だけではない。典子は亮太の母親から時々亮太の面倒を見てやってくれるようにと頼まれていたのだ。おそらく、当時から生活能力ゼロの亮太を一人残していく母親は亮太の事が心配でたまらなかったのだろう。そして、典子にとってもその心配は同じだった。幼い頃から亮太を知ってはいるが、昔から亮太は料理、洗濯などということはからっきしダメだったのだ。
だが、いくらそういう事情があったとしても、時折(と言うよりはほぼ毎日)亮太のためにお弁当を作っていったり、仲睦まじく(?)口喧嘩などをしていれば周囲は黙っていはしない。まして、恋愛事に敏感な『お年頃』なのだ。亮太は男子から、典子は女子から、と、色々とからかわれる事もある。
だが、それに対して典子はいつもこう答えている。
「亮太ったら、あたしがいないと全然ダメなんだから」
これは、いつの間にか典子の口癖にすらなっていた。
「はい、お待ちどうさま」
典子が、料理を載せた皿を亮太の前に並べた。ブロッコリーの緑、人参のグラッセのオレンジ、その真ん中に目玉焼きを乗せたハンバーグ、と白い皿に色鮮やかに料理が盛られている。
「お、あんがと」
気のない返事をして亮太はナイフとフォークを手に取るが、すぐには料理に手を付けずにそのままぼーっとしてしまう。
「どうしたのよ。熱でもあるの?」
典子が心配そうに訊いてきて、亮太のおでこと自分のおでこに手を当てて熱さを比べた。
「…特に熱はないみたいだけど」
気遣わしげな顔をして亮太を見つめる典子に、
「んー」
と生返事をし、ぼんやりとしたまま亮太はまるで条件反射のようにハンバーグに載っている目玉焼きの端をつまみ上げ、ひょいと口に入れる。
実は、ある後輩の事で亮太はがっくりと落ち込んでいて、わざわざ気を遣って典子が作ってくれた大好きなハンバーグに対しても反応がいまいちだったのだ。
「…例の久美子っていう後輩の事?」
亮太のこの反応を見て相当重傷だと思ったのか、典子が心配そうに尋ねる。
ハンバーグに乗っていた目玉焼きを口にくわえたまま、亮太は糸の切れた操り人形のようにがっくりと肩を落とした。
「あいつ…よりにもよって綾瀬さんがいる時に…」
俯いたまま呻くように亮太は呟く。
「何? 美雪がどうしたって?」
典子がのぞき込むようにして亮太に尋ねる。亮太はぼんやりとした表情のまま、ぽつりぽつりと今日の出来事を話し始めた。
現在、学校は各クラブの新入生勧誘の期間の真っ最中だ。この期間に一年生たちはあちこちの部活などに仮入部してみて最終的に自分の希望する部活を決める事になっているのだが(実際には初めからどの部活にはいるか既に決めている生徒が多いのではあるが)、困った事に亮太の所属している漫画研究会に仮入部してきた、一年生の高梨久美子という女の子が亮太をすっかり気に入ってしまったらしく、毎日毎日学校で会う度に色々と振り回されて亮太はほとほと困り果てているのだ。漫研のほかの部員やクラスの男子たちからは『モテモテじゃん』などとからかい半分、やっかみ半分で言われているのだが、亮太としては代われるものなら代わって欲しい、と思っている。
そして、とどめの一撃は今日の放課後に起こった。もともと亮太は部活がない日はさっさと帰ってしまう方なのだが、最近は特にそうするようにしている。あまりもたもたしていると久美子に捕まってしまうからだ。
下駄箱に行き、久美子がいない事を確かめ、革靴に履き替えて帰ろうとした時、誰かが近づいてくる足音が聞こえた。
(久美子ちゃん!?)
亮太があわてて外に出ようとすると、後ろから、
「待って、武内君」
と言う女の子の声が聞こえた。
美雪だ。
(な、何っ!?)
美雪とはあの始業式の日以来、同じクラスにいながら全く話す事がなかったのだ。正確に言えば、話す機会があってもことごとく亮太の方が避けていた。美雪の方もそんな亮太の様子を感じてか、最近ではあまり話しかけようとすることもなくなっていた。信じられない気持ちで振り返ると、下駄箱の側に、手に何かを持って確かに美雪が立っている。
「武内君、これ落としたでしょ」
そう言って美雪が差し出したのは亮太の生徒手帳だった。どうやら、きょろきょろと下駄箱の陰から辺りを窺っていた時に落としたらしい。美雪はそれに付いた土埃を払い、亮太に手渡した。
「あ、ありがとう」
ぼーっとして突っ立ったまま、亮太はとりあえず礼を言う。内心では、あの怪しげなこそこそした姿を美雪に見られたのではないかという事が少々気にかかっていたのだが、それについて尋ねようというところまでは思考がまとまらなかった。
「そういえば、武内君って典ちゃんの幼なじみなんだよね。いいな、そういうのって」
「うん…」
完全に舞い上がってしまった亮太はほとんど条件反射のように返事をする。そして、それからハッとして
「あ、でも、そんなにいいもんじゃないよ。あいつ、何かと口やかましいから」
と、慌てて付け加える。美雪は楽しそうにクスリと笑った。
亮太はその笑顔に見惚れてしまう。
(世の中、やっぱりつらいことばかりじゃないよなぁ…)
思わず、亮太は天に感謝していた。
「あーっ! センパイ、浮気してるぅー」
と、突然辺りをはばからない黄色い声が響き、亮太は天国から地獄へ一気に叩き落とされたような気分になった。
言わずと知れた久美子だ。いきなりあらわれた久美子は、亮太と美雪が話している中に強引に割り込もうと、わざと亮太の腕を抱きかかえるようにしてよりかかってくる。小柄で華奢な久美子はちょうど顔が亮太の肩の辺りに来るのでこうすると亮太の胸の辺りに寄り掛かる格好となるのだ。何とか腕を放そうともがく亮太に、子犬のようにじゃれる久美子。ショートボブにした髪が久美子がじゃれるたびに元気良く揺れる。
「やめろって! 俺は今日は真っ直ぐ家に帰るんだよっ!!」
「じゃあ、久美子、今日はセンパイの家へ行くーっ!」
「じょ、冗談じゃなぃ!!」
亮太が久美子を相手に苦闘していると、美雪は
「それじゃ」
と言ってそそくさと帰ってしまった。
(くぉの、せっかく二人っきりになれたというのにいぃ!!)
心の中で亮太は叫ぶ。いや、もしかすると美雪に色々な誤解をされてしまったかも知れない。
(は、破滅だーっ!!)
「ね、センパイ、久美子これからお買い物に行きたいんですけど、一緒に行ってくれますよね?」
頭をかきむしって叫びたい亮太の気持ちなどお構いなしに、美雪がそそくさと行ってしまうと、急に大人しくなった久美子は腕を絡めたままにこやかな笑顔で言った。
(何が『お買い物』だ! 君のせいで…俺は…俺は…綾瀬さんに…)
胸の内で悔しさがこみ上げてくるのを亮太は感じた。
(今日という今日こそ我慢ならん、いい加減にしろ!! と怒鳴りつけて…)
「…ね? センパイ?」
亮太がなかなか返事をしないためか、久美子が今にも泣き出しそうな顔で亮太を見上げている。
「…」
その表情を見て、開きかかっていた亮太の口がこわばる。
「…う、わ、わかった…」
しばしの逡巡の後、結局亮太の口をついて出たのは『いい加減にしろ!!』でも、その他の罵声でもなく、消極的な肯定の返事だった。
「やったー! きっとセンパイならそう言ってくれるって思ってましたよ!!」
(…俺って馬鹿…)
はしゃぎながらそう言う久美子を横目で見ながら、亮太は深刻な自己嫌悪に陥っていた。
「ハァ、そりゃ大変だわ」
話を聞き終えた典子が、テーブルの上に頬杖をついて溜め息をつくかのように言った。
「でもさ、亮太が美雪の事そんな風に思っているなんて知らなかったな」
そう言って典子が悪戯っぽく微笑み、亮太の頬を軽く突っつく。
(げ!! しまった! 言うんじゃなかった!!)
長年の付き合いから典子のこの表情が意味している所を良く知っている亮太は、今更ながらに後悔したが後の祭りだ。
「じゃあ、今日はご飯を食べながらじっくりとその話を聞かせてもらおっと」
「何いぃ!?」
「言わないんだったら、ご飯あげない」
朗らかにそう言って典子は亮太の前から皿を取り上げる。亮太にとって今日はまさに厄日だった。
「それじゃ、夜更かししないでちゃんと歯を磨いてから寝るんだぞ」
そう言って悪戯っぽく笑うと、典子は亮太の鼻をツンと突っついた。
「うるせーなぁ。俺は小学生じゃないっつーの」
亮太はうるさそうにその手を振り払う。
「じゃ、お休み」
典子はそう言うとくるりと踵を返して歩き始める。その後ろ姿を見て、亮太は怪訝そうに首を傾げた。
(…典子の奴…何であんなに機嫌良さそうにしてんだ? ひょっとして、俺の秘密を言いふらすつもりじゃないだろうな…?)
暫く考えてみたが、亮太は首を振ってその考えを退ける。典子の性格から考えて、およそそんな事をする可能性がなかったからだ。
(…変な奴)
心の中でそう呟くと、亮太はぱたんとドアを閉めた。
亮太の家から典子の家までは歩いて十五分ぐらいの距離だ。暫くの間まるでスキップでもするかのように歩き、亮太のマンションから完全に見えなくなった所で典子は不意に立ち止まって夜空を見上げる。都心からそう遠くはないのだが、この街では夜になると随分とたくさんの星を見る事が出来た。
「…美雪、か…」
誰に言うとはなしに、典子は呟いた。
「いい子だよね…あの子なら。きっと、亮太を幸せにしてくれるよね…」
不意に、瞬いていた星達がぐにゃりと滲む。典子はその滲んだ星空を閉め出そうとするかのようにぎゅっと目をつぶる。そして、何かを振り払うように頭を左右に振った。それにあわせて典子の目から閉め出された星々が、きらきら輝きながら辺りに舞っていく。
「…応援してあげなきゃ。亮太ってば、あたしがいないと全然ダメなんだから…」
もう一度、自分に言い聞かせるようにそう呟き、頷く。そして、まるで何かから逃れようとするかのように、駆け出していった。
(今日もまた遅刻かしら…)
美雪は空っぽの机を見てそう考えていた。
もっとも、まだ始業時刻まではだいぶ間があるので、教室にはそう人は多くない。
廊下側から三列目の前から三つ目。
毎朝学校に来るとまずそこに目をやるのが最近の美雪の日課になっていた。といっても、美雪が学校に来る時間にその席に主がいた事はまだ一度もなかったのだが。
「おはよう、美雪」
典子が教室に入ってきた。
「おはよう、典ちゃん」
美雪も答える。
「また遅刻かしらね、亮太の奴」
自分の席に鞄を置いた典子が美雪の席までやって来て、しかめっ面で空っぽの席を見て言う。
「え? …そうね、今度から典ちゃんが起こしに行ってあげれば?」
悪戯っぽく笑いながら美雪が応える。
「遠慮しとく。あいつ、寝ぼすけだから。っとに、亮太ったらあたしがいないと全然…」
「ダメなんだから?」
典子が言うより早く、美雪が先を続け、クスリと笑った。
「もう、美雪まで」
ぷくっと頬を膨らまして典子が言い、それからふと何かに気づいたように悪戯っぽい表情になって続ける。
「そだ、何だったら美雪が行けば? 合鍵渡してあげるから。きっとあいつ、驚いて飛び起きるわよ?」
「やだな、何言ってんのよ」
典子の突然の提案に驚いたのか、それとも別の理由からか、一瞬ひるんだような間の後、美雪が典子を叩き、それから二人は楽しそうにクスクスと笑う。
「…絵になるよなぁ…」
その様子を見ていた学級委員の安藤がぼそりと呟き、傍らにいる同じく学級委員の坂本女史の方をちらりと見る。坂本女史はいつも長い髪をきちんとお下げにし、銀縁眼鏡をかけ、神経質そうな表情をしていた。そのうえ痩せぎすで、洗濯板と噂されてさえいる。小柄でぽっちゃりとした体型の安藤自身、外見についてどうこう言えた義理ではなかったが、もう少しおだやかな表情をしてくれても良さそうなものだ。
「…何か用?」
せっせと日誌に記入していたはずの坂本女史が、眼鏡の奥の切れ長の目でじろりと睨んだ。
「い、いや、何でも」
蛇に睨まれた蛙のようにすくみ上がってぷるぷると首を振ると、安藤は微かに溜め息をついた。
それからすぐ、真吾が教室に入ってきた。真吾はいつもは亮太と並んで遅刻ギリギリで来るはずのなのだが、今日はどうしたというのだろう。
「あれ? 真吾? 珍らしいじゃない」
典子が美雪の側を離れ、真吾に話しかける。
「家で寝てると親がうるさくってね」
真吾はいつものようにオーバーに肩をすくめて見せ、続けた。
「だから学校で寝ることにしたのさ」
そう言うと教科書を枕に机に突っ伏して寝ようとする。
「ふぅん。…ね、暇ならちょっと付き合ってくれない?」
いつもとはちょっと違う様子の典子に怪訝そうな顔を向けた真吾だったが、すぐ立ち上がると典子と外に出ていった。真吾が珍しく早く来たので話しかけようと身構えていたらしい幾人かの女の子たちが不満の声を上げる。ぼんやりとその様子を見ていた美雪は、不意に後ろから頭を小突かれた。
「痛っ」
「痛い? そんなに強く叩いた覚えはないんだけど」
何事かと驚いて美雪が振り返ると、そこには柳井隆信が立っていた。まだ教室に入ってきたばかりらしく、手には鞄を持ったままだ。
「何だ。柳井君か。おはよう」
「何だ、とはご挨拶だね。俺は君に会いたくてこんなに早く学校に来たのに」
悪戯っぽく微笑みながら柳井が答える。
「…今まで何人の女の子にそう言ってきたの?」
美雪も悪戯っぽい表情になって尋ねた。
「さあ」
柳井はとぼけた表情でそう答えると、はにかんだように笑い、片手で髪を掻き上げる。
美雪と柳井は一年生の頃から同じクラスだった。整った顔立ちとすらりとした長身、学年でもトップクラスの成績、と、柳井は入学当初から目立った存在のみならず、あちこちの女の子との噂も絶えない男だった。それでいて結構根は誠実な人柄なのだ。現在、クラスの一部の女の子の間で密かに行われている、人気投票のランキングで真吾と票を二分しているともいう。美雪とはいつもこんな調子ではあったが、美雪が最も信頼している友達の一人でもあり、現在、美雪は生徒会の書記、柳井は副会長とお互い生徒会の役員でもある。
「あの二人、なにやら真剣そうな様子だったな…そうか、片桐め、しくじったな」
不意に、腕組みをして顎に手をやり、考える仕草をしながら何やら難しそうな顔をして柳井が言った。
「片桐君がどうしたの?」
「いや、片桐の奴、とうとうパパになっちゃうのかなぁって」
柳井はまじめな顔で言う。
「…ばーか」
呆れた表情でそう言うと、美雪は不満げにぷくっと頬を膨らまて柳井をジトッとした目で見つめた。
「あーあ、また美雪がいじめるし」
柳井はやれやれと言った表情で首を振り、オーバーな仕草で溜め息をつく。
暫く柳井を睨んでいた美雪だったが、やがておかしそうにぷっと吹きだして元の表情に戻る。どうやら、柳井とのにらめっこにはまた負けてしまったようだ。もとより柳井も本気で言っているわけではなく、相手が美雪だからこそ口にする冗談だった。
「…ねえ、柳井君」
そのおちゃらけた雰囲気が完全に消えてしまうのを待っていたかのような沈黙の後、美雪が俯き加減で机を見つめながら口を開く。
「ん?」
その躊躇いがちな声の調子に、怪訝そうな表情で柳井が聞き返した。だが、それから暫く逡巡しているかのような沈黙の後、
「…ううん、何でも」
美雪はそう言って口をつぐんだ。
「何だよ、気になるじゃん。あ、もしかして愛の告白とか?」
悪戯っぽく笑いながらそう尋ねる柳井に、
「ばーか。自惚れるんじゃありませんよーだ」
美雪はちょっと舌を出し「あかんべー」をして即座に否定する。
「そっちから思わせぶりに何か言いかけたくせに…」
恨みがましくそう言うと、柳井はまた楽しそうに微笑む。あくまでこういう態度の柳井は、どこまでが冗談でどこからが本気なのか美雪にもわからない時がある。
「ま、何にせよ話す気になったら話しなよ。話しにくいと本人が思ってても、聞かされた方は『何だそんなことかよ』って呆れるって事、いくらでもあるんだぜ」
柳井はそう言いながらまるで小さな子をあやすかのようにぽんぽんと美雪の頭を軽く叩く。
「むー、なんだか馬鹿にされてるような気もするけど、一応、ありがと」
ふくれ面をして美雪は言ったが、柳井が真面目に美雪の事を心配してくれているらしいのは雰囲気で分かっていた。
その頃、真吾と典子はあまり人気のない音楽室脇の廊下で小声で話していた。話題はもちろん亮太の事だ。典子から一通りの説明を受けた真吾は、ゆっくりと口を開いた。
「へえ、やっぱりね。それで? 向こうはどうなのさ」
真吾は廊下の壁に半ば寄り掛かるようにして立っている。
「さあ…どうかしら」
少し考え込むような表情をしてから、典子が答えた。
「ま、どっちにしろ放っとけばいいんじゃない? そんな事他人がいちいち口出すような事でもないだろ?」
頭の後ろで手を組んで、真吾は明るい調子で答える。
「そうだけど…でも、亮太って子供じゃない? だから…」
「だから?」
何か言いたげにしている典子をのぞき込むようにして、真吾が聞き返す。
典子はしばらく宙を睨んで言葉を探していたようだったが、やがて諦めたのかふっと微かに溜め息をつき、
「…ううん、何でもない」
と呟くように言い、それから急に明るい調子になって続ける。
「あたしって馬鹿みたい。小学生じゃないんだから、そのくらい自分で何とかしろっていうのよね」
「そういう事。ま、あの様子じゃ、手を握るのさえ百年先の事だろうけどな」
そう言って真吾が肩をすくめた。
「まさか」
典子が微笑む。
「それより、そろそろ戻ろうぜ。もう予鈴が鳴るだろ」
キーンコーンカーンコーン…。
そう言っている間にも、予鈴が鳴り出した。
「ほらね」
真吾が得意げな顔で天井の方を見上げながら言う。
「亮太、今日はちゃんと来てるかしら」
「いない方に百円だな」
階段を先に立って下りかけていた真吾がわずかに振り返って答える。
「せこーい。せめて昼ゴハンおごる、とか言えないわけ?」
「自作の愛情弁当持ってきてるくせに」
そう言いながら真吾はオーバーに肩をすくめてみせる。
「もう。真吾まで。分かってるでしょ、亮太ったらあたしがいないと全然ダメなんだから…」
真吾にそう言い返しながら階段を下りていく典子は、少し先を行っていた真吾の頭に何か白い小さなものが乗っかっているのに気づいた。
「あ、ちょっと待って」
そう言って真吾を呼び止めると、タタタッと階段を下りていって真吾の頭からその白い小さなものを拾い上げる。
それは、桜の花びらだった。
「ん?」
「ほら、これ」
典子は怪訝そうに振り返って頭を押さえた真吾の鼻先にその花びらを突きつけ、差し出した真吾の手のひらに載せてやる。それを見つめる真吾の目が、まるで何かを懐かしんでいるかのようにすうっと細くなっていく。典子も階段を数段下りて真吾の手のひらを見つめた。
「桜の花びらじゃない? それ。一体どこ通ってきたの?」
確か、校庭や学校の側の桜はもうとっくに散って葉桜になってしまっていたはずだ。
「…さぁ…?」
真吾はそう言って首を傾げると、その花びらをふっと息を吹きかけて飛ばす。
「あ、ゴミ散らかして」
「いーじゃんこれ位。それよりさっさと行かないとホントにやばいぜ」
そう言うと、真吾は典子の背中を押すようにして階段を下りていくように促した。
教室に入り、亮太が自分の席に鞄を置いて辺りを見回すと、珍しい事に典子と真吾、二人とも姿が見えなかった。いつも亮太と同じく遅刻ギリギリで来ている真吾はともかく、典子はもうとっくに学校に来ているはずだ。
「あ、武内君、おはよう」
典子の机を訝しげに見ている亮太に、ちょっと意外そうに美雪が挨拶をする。
「お、おはよう」
亮太は俯いて頬をほんのり赤く染めながらも挨拶を返した。今までは挨拶なんてした事がなかったが(そもそも、今までの亮太はぎりぎりの時間に教室に来ていたため挨拶などしている余裕などはハナから無かったのだが)、もしかすると昨日の下駄箱の一件は多少なりともいいほうに働いたのかもしれない。内心、嫌われたのではないかと思っていた亮太は少しホッとしていた。
「あ、あの、真吾と典子、知らない?」
ちょうどいい機会だと思って、亮太は美雪に尋ねる。
自分から声をかけるのは勇気がいるが、相手から声をかけてくれればそのあとはずっと話しやすいものなのだ。それに、真吾達がいないお陰でちょうど話しかける口実があったのも幸いした。
「さっき、二人して出ていったわよ」
「なにやら深刻そうな顔してたから、きっと子供が出来ちゃったとかそういう話だろうって言ってたんだ」
美雪が答えると、側にいた柳井がにこやかな笑顔で二人の会話に割り込んできた。
(…お前なんかに訊いてねえよ)
亮太はムッとしてその場を離れ、購買部へ行くことにした。大体において、亮太はこの柳井という男が気に入らない。気がつくといつも美雪の側にいるからだ。とどのつまりはただの嫉妬というわけなのだが、当の亮太はそれには気づかずに柳井の性格のせいだと思っている。
もっとも、亮太がそう思うのもあながちいわれのない事ではないのかも知れないが。
教室を出ていく亮太を見送る美雪の顔が曇ったのを、亮太は知らない。ただ、側にいた柳井だけがそれに気がついていた。
「…さっき言いかけてた話」
柳井はまるでなんにも気がついていないという風にさりげなく切り出す。
「え?」
いきなりそう言われて、美雪は戸惑った。自分の心の内を読まれているのではないかと一瞬疑ったからだ。しかし、屈託のない笑顔を浮かべた柳井の表情からは何も読みとれない。そんな美雪に畳みかけるように、柳井が続けた。
「話す気になった?」
「…うん…」
俯いた美雪は言いづらそうに口ごもる。
「ちぇ。気になるなぁ。あーあ、授業中も気になってこれじゃ勉強になんねーよ。もし落第したら美雪のせいだからな」
天を仰ぐような仕草で大げさに柳井が嘆いてみせる。
「知りませんよーだ」
そんな気遣いは全くないくせに、と思いながら、美雪はぺろっと舌を出してあかんべーをした。
だが、そんな柳井の軽口のおかげで多少なりとも話しづらい雰囲気が払拭されたようだ。
「…あたし、武内君に嫌われてるのかな?」
暫く迷っていたが、美雪は思い切って口にしてみた。
「どして?」
柳井はきょとんとした顔で尋ねる。
「…ただ、何となく。そう思ったの…」
言わない方がよかったのではないかと後悔しながら美雪は俯く。顔がかーっと熱くなって赤く染まっているのが分かり、恥ずかしくて柳井の顔がまともに見ていられなくなってしまった。
「…もしかして、さっき言おうとしていたのって、それ?」
俯いた美雪の顔をのぞき込むようにして呆れた表情の柳井が言った。
「…うん…」
消え入りそうな声で答え、美雪はますます下を向く。
俯いていた美雪の頬を、いきなり柳井は両側から引っ張った。
「ふぇ!」
美雪は驚いて変な声を上げる。
「ばっかだなぁ、嫌われてる訳ないじゃん。何考えてんだよ、くっだらねえ」
「ふぁ、ふぁにもふぉこぉまでふぃふぁなふふぁっふぇ(な、何もそこまで言わなくったって)…」
「…あのな、手、離してからしゃべれよ」
呆れた表情でそう言いながら柳井が美雪の頬をつかんでいた手を離した。
「や、柳井君がつねったんじゃない」
そう強く引っ張られたわけではないので別に痛みはしなかったが、頬をさすりながら美雪はふくれっ面で抗議する。
「まぁそうだけど」
まるで他人事のようにあっさりとそう言うと、柳井は美雪の頭をぐしゃぐしゃと乱暴に撫でながら続けた。
「ない。そんな事絶対ない。俺が無責任にも断言する。いいか、自分に自信を持てよな。そんな事グチグチ言ってんじゃねぇぜ? 分かった?」
「…痛かったけど心配してくれているのはわかったわ。ありがと」
美雪はふくれっ面でそう答えたが、柳井がこういうちょっと乱暴な仕草をする時は何とか元気づけようとしている時であるというのが分かっていたので内心では嬉しかった。
「分かればよろしい」
偉そうに胸を張りながら柳井が言い、悪戯っぽく笑う。ふと、その笑顔がどこかいつもの笑顔とは違って見えたのは美雪の気のせいだったのだろうか…。
それから、柳井は不意に深刻そうな表情になって俯いて腕を組み、こう言った。
「それよりさ、武内、俺の事嫌ってない?」
「…あ、それはあるかも」
美雪がそう答えると柳井はがくっと身体をつんのめらせ、それから美雪に縋り(すが)つくようにして訴えかける。だが、もちろん目は笑っていた。これもまた、冗談の一つなのだ。
「そういう時は『そんな事ないよ』っていうのが普通ーだろーが!!」
「だって柳井君、さっきも典ちゃんと片桐君の事変な風に言ってたし…」
(ほっぺた引っ張ったり、髪の毛くしゃくしゃにされた仕返しだもーん)
心の中でぺろっと舌を出しながら、悪戯っぽく微笑んで美雪は答えた。
それから暫くして、購買であんパン、焼きそばパン、それにカレーパンとコーヒー牛乳を仕入れた亮太は教室に戻った。さすがに、これ全部が一食分というわけではない。一応昼の分も確保しておいたのだ。学校の近所にはコンビニなどというものもロクにないため、昼時は購買周辺はさながら某イベント会場並の込み具合いとなる。さらに、人気のあるメニューは昼を待たずに売り切れてしまう事もあり、まさに『先手必勝』なのだ。ただ、昼はどうせ典子がお弁当を作ってくれているだろうから、という計算の下、おやつ用に回しても余らないだけの分量にしたのだ。典子が亮太の分までお弁当を作ってきてくれる、というのはもはや亮太にとっては当たり前の事となっている。
キーンコーンカーンコーン…。
あんパンをコーヒー牛乳で流し込んでいると、予鈴が鳴り出した。亮太にとっては教室で聞く予鈴は実に久しぶりだ。
(…たまにはいいもんだなぁ…のんびりとした朝も…)
と妙な感慨に耽っていると、典子と真吾がぱたぱたと教室に駆け込んでくる。そして、入ってくるなり典子はのんびりあんパンを食べている亮太を目ざとく見つけた。
「もぅ、亮太ったら…朝ご飯ちゃんと家で食べなかったの?」
『しょうがないなぁ』という表情の典子は自分の席には戻らず、亮太の机までやって来る。
「いーじゃんかよ、遅刻はしなかったぜ」
最後の一切れを飲み下してから、亮太はうるさそうに答えた。
「全っ然よくない。遅刻しないのは当たり前でしょ」
そう言って典子は亮太の鼻をツンとつつく。
「ほっとけ」
「あっそう、じゃあもうお弁当作ってあげない」
「…」
この一言で亮太は何も言えなくなってしまい、決まり悪そうに俯く。
「ヒューヒュー、お二人さん、朝っぱらから仲のお良ろしい事」
と、どこからか二人をからかう声が上がった。
「そんなんじゃない(わ)よ!!」
途端に、二人は声をそろえて反撃し、声のした方をキッと睨む。多分、無意識のうちにやっている事なのだろう。息もぴったりで、違うのは亮太が『そんなんじゃないよ!!』と言った所と、典子が『そんなんじゃないわよ!!』と言った所だった。
声の主は二人の剣幕に気圧されたのか、それ以上は何も言わない。辺りに重苦しい沈黙が流れた。
キーンコーンカーンコーン…。
ちょうどその時、本鈴が鳴り始める。と、途端に張りつめたような空気が和らいだ。誰も口には出さなかったが、内心ホッとしていたようだ。
「ったくもう、亮太ってばあたしがいないと全然ダメなんだから…」
典子はいつもの口癖を呟きながら自分の席へと戻っていく。
その後ろ姿を、美雪は黙って見つめていた。
その日の放課後。
漫研の部室の前の廊下で亮太は一息ついていた。廊下といってもただ校舎からそのまま上履きでいけるようになっているコンクリートの道と、雨避けのトタン屋根が張られいるだけではあるのだが。
藤ヶ谷高等学校はさすがに私立だけあって文化系のクラブにも部室があり、公認の部はそれぞれ狭いながらも部室を持っている。各クラブの部室は『クラブ棟』と呼ばれる二階建ての小さな別棟に集められていた。漫研の部室はクラブ棟の校舎から一番遠い側の一階にあり、テニスコートに隣接している。
亮太はテニス部が練習をしている様を目を細めて眺めていた。テニス部は男子と女子が一日おきに交代で練習をしているのだが、今日は女子の練習の日だ。今、テニスコートには四十人からの女の子たちが動いている。その中には、もちろん典子も美雪もおり、亮太は専ら美雪の姿を目で追っていた。美雪がコートで動くたびに揺れる長い髪と、そしてなによりその度に風になびく白いテニスウェアのミニスカートを。
白いテニスウェア姿の女子に混じってちらほらと見える体操着姿の女子はおそらく仮入部中の新入生たちだろう。藤ヶ谷高校のテニス部は男子も女子もなかなか強いので有名で、新入生の間でも人気がある部活なのだ。
亮太の所属している漫研は年に数回会誌を発行しているというなかなか活発な部で、その会誌の原稿の締切を間近に控え、各部員は皆必死に追い込みに入っている。元々狭い部室は創立以来のたまりにたまった会誌や、訳の分からないオモチャ、資料風のゴミやゴミ風の資料、それから雑誌などでよりいっそう狭くなっているのだが、ここにきて部室で原稿を書き上げようとする部員たちが大勢そこで作業をしているため、かび臭い匂いに人いきれが加わり、さながら蒸し風呂のようになっていた。
何も原稿を描くのなら家でも出来るだろうから、そんなに不快な場所で作業をする事もなさそうなものなのだが、実はみんながここで作業をしているのにはそれなりの訳がある。漫画の原稿にはスクリーントーンと呼ばれる薄いフィルムのようなものが使われる事が多いのだが、これが結構高かったりする。さて、漫研は学校から出されている補助金でこれを購入していて、それについては部員が使っていい事になっている。だがその際、家に持ち帰ることは禁止されているのだ。だから金のない部員たちは不快でも無理に部室で描いているのだ。もちろん、亮太もそのクチである。
今年は久美子という優秀な部員が加わったため、ほかの部員たちもそれに負けじとかなり熱を入れて原稿を描いている。少なくとも漫研にとっては久美子が入ってきた事はプラスに働いたようだった。
亮太は薄汚れた部室の窓から中の様子をのぞいて見た。久美子はショートボブにした髪のサイドの部分が垂れてきて邪魔にならないようにと耳にかけ、真剣な表情で丸ペンを使っている。真摯に原稿に向かう久美子の姿に、亮太は思わず見とれてしまっていた。
久美子は別にお金がないから部室に残っているのではないらしい。現に、部室にあるトーンはあまり使わず、自分で持って来ている物を使っている。どうやら、亮太に会うためにわざわざ部室で原稿を描いているらしい。
だが、いざ原稿を描き始めるとそっちに集中してしまっているようで、亮太が外に出ていったのにも全く気がついていないようだった。
「…真面目に原稿描いてるときゃ、いい子なんだけどなぁ…。何より大人しいし」
溜め息と共に亮太は呟く。
と、突然、誰かが遠くの方で悲鳴を上げるのが聞こえた。
(何だ!?)
亮太は後ろを振り返ろうとして、ガツンという音とともに頭に強い衝撃を感じた。目の前が急に真っ暗になり、いくつもの星が瞬く。
そして、まるでその真っ暗な闇に吸い込まれていくように、全ての感覚が遠のいていき、意識を失った。
ズキズキ、ズキ…。
頭の奥で丸々と太った相撲取りがドタドタと下手くそなタップダンスを踊っている。その度に鈍痛が襲い、亮太はたまらず顔をしかめて目を開ける。
最初に目に飛び込んできたのはたくさんの穴のあいた石膏ボードの天井と、古びた蛍光灯だった。かすかに消毒液の匂いがするところからすると、どうやら保健室で寝かされているらしい。
「…あたしが…あたしがあんな…」
「大丈夫だって。大体、テニスボールが当たった位で気を失っちゃうなんて亮太がヤワなのよ」
白い衝立の向こう側から典子と美雪が話している声が聞こえる。どうやら美雪はすすり泣いているようで、典子がそれを慰めているらしい。亮太は耳をそばだてた。
「まぁ大丈夫よ。ちょっと脳震盪起こしてたみたいだけど。もうそろそろ気がつく頃じゃないかしら?」
これは保健の高倉真理子先生のようだ。それからこちらの方にやってくる足音が聞こえ、程なく衝立の向こうから先生が姿を現す。
「気がついたのね」
きょとんとした表情で先生の方を見つめる亮太を見て、高倉先生が言った。と、すぐにパタパタという足音と共にテニスウェア姿の典子と美雪もやってくる。美雪は亮太が寝かされているベットに縋るようにし、いきなり涙ぐむ。
「ごめんなさい、武内君…あたし…あたしのせいで…」
「ど、どうしたのさ、一体…」
慌てた亮太は身体を起こそうとするが、ズキッと痛みが走り途中で顔をしかめる。
「ほら、まだ急に動いちゃダメよ」
そんな亮太を先生が押しとどめ、もう一度寝かしつけた。先生の身体からほのかに香水の香りが漂い、亮太はちょっと意外な気がした。高倉先生はいつも髪をアップにし、細身の眼鏡をかけたちょっとキツイ感じの先生で、白衣の下に着ているのもいつもグレー系のぱりっとしたスーツという、どちらかというと『保健の先生』というより『バリバリのキャリアウーマン』と言ったタイプだった。もちろん化粧もかなり控え目なので香水をつけているなど亮太は夢にも思っていなかったのだ。
「美雪、ほら、大丈夫だってば…」
「彼女の打ったサーブが場外大ホームランでね、君の頭に当たったのよ」
真っ赤な顔をして時折すすり泣く美雪とそれを慰めるのに忙しい典子に代わって、自分の後頭部をこつこつと指で叩いて示しながら高倉先生が説明してくれる。亮太は頭が痛むわけがようやく理解できた。
「ま、彼女がもう少し落ち着くまで、大人しく寝てなさい」
そう言って亮太に頬笑みかけると、先生は机に戻る。
「だ、大丈夫だよ、綾瀬さん」
もう一度、今度は慎重にゆっくりと身体を起こすと、亮太は美雪を慰めた。
「ごめんなさい、武内君…」
「ね? 大丈夫よ。亮太、体が丈夫なのだけが取り柄だもの」
典子もそう言った。亮太は
(…『だけ』ってのはどういう事だよ)
と思いつつ、仏頂面で典子を睨む。典子は亮太の方に微笑んで見せ、『調子合わせてよ!』と目で訴えかけてきた。
「そ、そう、丈夫なのだけが取り柄だからね、はは…」
仕方なく亮太は典子に調子を合わせ、引きつった笑顔で答える。そうこうしているうちにようやく美雪も落ち着いたようで、涙の跡が残る顔を上げて恥ずかしそうに微笑んだ。
「ホントにごめんなさい…」
「大丈夫だって」
亮太は美雪が自分のために泣いてくれているのがうれしかった。
「どう? 気分は?」
話を聞いていたのか、高倉先生が衝立からひょいっと顔を出して尋ねる。亮太は少し嘘にはなるが、
「もう大丈夫です。何ともないから」
と答えて微笑んだ。実際の所、美雪を慰めているうちに下手くそなタップダンスもおさまり、時折思い出したような鈍痛が来るだけで、それも次第に間遠になってはいたのだ。
「特に気持ちが悪いとかそういったものはない?」
高倉先生が重ねて尋ねる。
「ええ。大丈夫です。ご心配をおかけしました」
亮太はそう答えて軽くお辞儀をし、ベットから起きた。
「よし。二人とも、もう着替えていらっしゃい」
高倉先生は宣言するようにそう言って典子と美雪を送り出した。そうしてから今度は亮太の方へ来て、
「君、駅までバス?」
と尋ねてくる。
「は? い、いえ、坂を下った辺りなんで歩きですけど」
きょとんとした顔で亮太は答えた。
「そう。もうバスはないから車で送っていこうと思ったけど…じゃ、あの二人だけでいいかな…」
先生は何かを考えているように上目遣いで唇に人差し指を当てて呟く。それを聞いて、亮太は正直に言ってしまった自分を責め立てる。自分の頭をぽかぽかと殴りたい気分だった。折角のチャンスをみすみす逃してしまったのだ。
(ああっ!! 俺のバカバカ…)
「お待たせしました」
そこへ、制服に着替えた二人が帰ってきた。
「ちょうど良かったわ、二人とも、わたしが車で駅まで送っていってあげるから」
先生はそう言って白衣を脱いでハンガーに掛けると、机の側のスツールからハンドバックを取りあげる。
「あ、あの、あたしは大丈夫です」
と、典子が慌てた様子で言った。
「どうして? もうバスはないわよ?」
怪訝そうな表情で先生が尋ねると、典子はしどろもどろになりながらも
「あたしの家、歩いて十五分位なので…いつも歩いて通ってるんです」
と答える。
「別にいいじゃない、彼女は駅まで行かなくちゃ行けないんでしょ?」
先生はそう言いながらちらりと美雪の方を見る。そして、美雪が控えめにこくりと頷くのを確認すると、続けた。
「だったら、そのついでに寄ればいいわけで…あ、もしかしてどこかに寄り道するつもりなのね?」
怪訝そうにしていた先生の表情が見る見る悪戯っぽい微笑みに変わる。典子は俯いて真っ赤になって慌てて弁解した。
「あ、あの、そう言うんじゃないんです、ただ、亮太…彼の、あ、彼って言っても別にそういう意味の彼じゃなくて、ただ代名詞として…」
だんだんとしどろもどろになっていき、何を言っているのか訳が分からなくなっていく典子。
「…で、その亮太の家にちょっと寄って行こうかと…。亮太と私はその、幼なじみで、亮太のお母さんから亮太の面倒見てくれって頼まれてて…」
必死に訳の分からない事を言い続ける典子を、先生は面白そうに眺めている。
「…失礼します」
と、その時、保健室のドアがガラガラッと遠慮がちに開いて、柔道着姿の村上先生が姿をあらわした。先生はひょこひょことびっこをひいている。
「どうしたんですか?」
高倉先生が誘導してスツールに座らせると、
「…いや、お恥ずかしい。練習中にちょっとひねってしまって…大した事はないんだが…」
「その判断は私に任せてください」
高倉先生はきっぱりとそう言うとびっこを引いていた方の足を診る。
村上先生は小声で
「…すみません…」
と照れたような笑いを浮かべながら謝った。その顔からはいつもの険しさなどは微塵も感じられない。そしてすぐに先生の側にいた亮太達に気づき、何となく気まずそうな顔になって咳払いをする。
「何しとるんだ? 武内」
「いや、あの…」
別に悪い事をしているわけではないはずなのだが、色々弱みがあり苦手意識のある亮太は返答に窮してしまう。と、足を診ていた高倉先生がぴしゃりと言った。
「村上先生、ここは私の管轄です。怪我人は大人しくしてください」
「…す、すみません」
村上先生はしおしおと大人しくなった。鬼の村上もここでは形無しのようだ。
「君たち、悪いけどこれが済むまで待っててもらえる?」
手際よく湿布を貼って足首に包帯を巻きながら高倉先生は言う。村上先生が怪訝そうな面もちで遠慮がちに尋ねた。
「…何の話です?」
「もうバスがないから、彼女たちを駅まで私の車で送っていこうと思って」
「な!? 武内もですか!?」
何が気に入らなかったのか、村上先生は亮太の方をキッと睨む。
「…いえ、彼は違いますけど。そうそう、村上先生も電車でしたよね? この子達と一緒に送りましょうか?」
作業を終え、そっと村上先生の足を下ろすと、包帯などを手早く片づけながら高倉先生が答えた。
「ええっ!! い、いや悪いですから。このぐらい何とも…痛ッ…」
立ち上がろうとした村上先生は顔をしかめて再びスツールに腰を下ろす。
「ダメそうですね、その様子だと」
「面目ない…」
言いながらも村上先生は何だか嬉しそうだ。
「あの、あたしはホントに大丈夫ですから…」
そんな村上先生の様子を見て美雪が遠慮がちに言う。
「そ、そうそう、亮太が自転車で送ってきますから」
それに典子が調子を合わせ、きょとんとしている亮太の脇腹を肘でつつく。
「え? あ、う、うん。そ、そうします」
亮太がそう言うと、
「ちょっと? 自転車って…」
三人はきょとんとして何か言いかける高倉先生にお礼を言ってそそくさと保健室を後にする。そして、暫く行った所で美雪と典子はぷっと吹きだした。後には何だかよく分からずきょとんとしている亮太が取り残された。
「どうしたんだよ、一体?」
亮太が尋ねると典子は意外そうな表情で答える。
「気がつかなかったの? 村上先生、きっと高倉先生に気があるのよ」
「ええ!? まさか…」
「『車で送っていく』って言われた時の先生の嬉しそうな顔ったら…」
言いかけて典子は口を手で押さえるようにしてまた笑い出す。
「…典ちゃん、そんなに笑ったら…わ、悪いわ…よ…」
そうは言いながらも、美雪も笑いを堪えきれないようだ。
「でさ、考えたんだけど」
ひとしきり笑った後、典子が言いだした。
「亮太が自転車で美雪を駅まで送っていったらどうかな」
「え…痛ってーっ!!」
驚いて声を上げそうになった亮太の足を典子が思いっきり踏んで黙らせる。
「あ、ごめーん」
わざとらしく謝りながら、典子は表情で
(あんたが驚いてたら美雪が悪いと思って断っちゃうでしょ!!)
と告げる。それに気づいた亮太は調子を合わせた。
「そ、そうだね、俺が送ってくよ」
「べ、別にいいわよ、あたしが悪いんだし…」
「いいじゃない、歩いて帰るのも大変でしょ。もう暗いし。それに…」
案の定断ろうとする美雪を典子が押しとどめる。
「亮太だったら送りオオカミになったりするような心配はないわよ、そんな度胸ないから」
ガクッ。
思わずコケそうになる亮太。誉められたのか、けなされたのか…。亮太は仏頂面で典子を睨んだ。
「そんな事…あの、いえ、何でも…」
『ない』と言おうとしたのか、『ある』と言おうとしたのか、どちらにしてもあまり良い意味にはならない事に気づいたのか、美雪は恥ずかしそうに俯いてごにょごにょと語尾を濁す。
「じゃ決まりね」
美雪が何も言えなくなってしまったところで、典子が強引に話をそちらに持っていった。何だか妙に明るい調子だ。
(…典子の奴…わざとらしい…)
そう思って典子を睨むが、良く考えてみれば別に典子は亮太の邪魔をしているわけではなく、むしろ亮太にきっかけを作ろうとしているのだ。
結局、典子に押し切られる形で話がまとまり、亮太達は自転車を取りに亮太の部屋まで行く事になった。
「ごめんなさい、武内君…あたしがいけないのに…」
マンションに着き、亮太が自転車置き場から自転車をとってくるなり申し訳なさそうに美雪が謝る。
「気にすることないって」
笑いながら亮太は答えた。出来る事なら毎日だって送っていきたいぐらいだ。
「じゃ亮太、お巡りさんに見つかっちゃダメよ」
典子が二人が自転車に乗るのを見ながら言う。
「それじゃ、典ちゃん。今日はホントにゴメンね」
「ううん、気にする事無いって。じゃ」
二人が挨拶を終えるのを待って、亮太は自転車をこぎ出す。
「あ、亮太、あたしは部屋にいるからー」
思いだしたように言った典子の声を背中に聞いた亮太は振り返って
「分かったー!」
と言おうとしてバランスを崩してしまい、転びそうになる。
「きゃっ」
小さく悲鳴を上げて、美雪がぎゅっと亮太にしがみつく。
「ととと…」
何とか体勢を立て直した亮太は、振り返って美雪に謝ろうとしたが思い直して言葉だけにした。
「ゴ、ゴメン、綾瀬さん」
「う、ううん、大丈夫…」
そうは言ったものの、美雪の声は微かに怯えているようだ。
辺りはもうすっかり暗くなり、昼間は汗ばむほど暖かだったというのに、こうして日が落ちてしまうと風がひんやりと冷たい。
暫く二人とも無言だった。それでも段々と慣れてくると、亮太にも周りを見る余裕が出てくる。と、背中にぎゅっと押しつけられている美雪の身体の柔らかい感触と、暖かみを感じだした。
(…こ、これって…)
何を考えているのか、亮太の頬がカーッと顔が熱くなってくる。必死に気を紛らわそうと、亮太は何か話題を探す。
「さ、寒くない?」
前を向いたまま、亮太は尋ねた。後ろを向いたら顔が赤くなっているのがバレてしまいそうだったし、何よりまた転びそうになるのではという心配があったからだ。
「…」
しかし、いつまで経っても美雪からの返事はない。
「あ、綾瀬さん?」
心配になって、亮太はもう一度尋ねた。
「え? な、何? …ごめんなさい、ちょっとぼーっとしちゃって…」
美雪が慌てた様子で答える。
「さ、寒くはない?」
「ううん、大丈夫。ありがとう。…武内君こそ、平気なの?」
「お、俺? 何でもないよ…その…」
亮太は『こうしていると、暖かいから』という台詞を飲み込んだ。恥ずかしかったからと、言ってしまったら自分の感じている事が美雪にバレてしまい、変態扱いされてしまうのではないかと心配だったからだ。
またその事を意識してしまったせいか、いやに心臓の鼓動が激しくなってくる。亮太は心臓の鼓動が美雪に伝わって、自分の考えが筒抜けなのではないかと心配してしまう。
「どうしたの?」
亮太が言いかけてやめたので美雪が怪訝そうに尋ねた。
「い、いや、何でも…」
「嘘。何か言おうとしたわ。はっきり言って、武内君」
「な、何でも…」
「…何か…あたしが気分を害するような事をしてしまったのなら…ちゃんと謝りたいの…」
悲しげな声で美雪が言い、それから消え入りそうな声で
「…嫌われたくないから…」
と呟く。
「そ、そんな事ないよ!!」
思わず亮太は振り向いてしまい、すぐにハッとして前を向いた。幸い、今度はバランスを崩さずに済んだが、その一瞬美雪が強く亮太にしがみつくのを感じた。
「…ゴ、ゴメン…」
「…ううん…大丈夫…」
美雪はそれ以上追求するのを止めたのか、もう何も言わなかった。だがそれは決して亮太の言いたかった内容を理解したからではない。
話しても大丈夫だろうか? 変な風に思われるのでは? そんな思いが亮太の脳裏をよぎる。
(…でも…)
このまま黙っていたとしても、決していい結果にはならないだろう。亮太は意を決して、口を開いた。
「…あの…あ、綾瀬さん…」
「…はい」
背中で、美雪が身構えているのが分かる。
「…こ、こうしていると…暖かいからって…そう言いたかったんだ」
言ってからすぐ、恥ずかしさで耳まで真っ赤になった。
「…嘘…」
「嘘じゃないよ。ただ、言ったら、へ、変な風に思われるんじゃないかと思って…それで…」
美雪が何か言いかけるのを制して、亮太は言った。
暫くきょとんとした顔をしていた美雪は不意にぷっと吹きだしてしまう。
「…やっぱり…変だった…?」
「あ、ごめんなさい、そうじゃないの。あたし、もっと何か言われるんじゃないかと思ってたから…何だか、あたしって馬鹿みたい」
傷ついたような声でおずおずと尋ねた亮太に、美雪は慌てて答えた。
「…でも、そういう事は、やっぱりちゃんと言ってくれなくっちゃ」
それから、はにかんだような微笑みを浮かべてそう付け加え、
「…あたしも、暖かい」
囁くようにそう言うと亮太の背中にそっと頬を寄せた。
それから間もなく、二人は駅に着いた。
「それじゃ。今日は本当にごめんなさい」
駅の入り口の階段の所で、美雪がもう一度そう謝ってぺこりと頭を下げる。
「いや、もう何ともないって」
亮太は微笑んでそう答えてから、あと一言、言おうとして躊躇う。その間に美雪はもう一度、今度は別れの挨拶として軽く頭を下げると、くるりと踵を返してゆっくりとした足取りで階段へと向かう。
「…綾瀬さん」
思い切って、亮太は呼び止めた。何事かと美雪が振り返る。
亮太は口を開きかけて、また躊躇う。美雪が不思議そうな顔をして首を傾げた。
「…また明日、学校で」
やっとの思いで、亮太はその言葉を口にする。
始めはきょとんとした顔をしていた美雪が、やがて微笑んでそれに答えた。
「ええ。また明日」
右手を軽く挙げて亮太が別れの挨拶をすると、それに答えて美雪はもう一度軽く頭を下げ、踵を返して階段を登っていく。亮太は、見えなくなるまでその後ろ姿を見送っていた。
何だか最初の一歩を踏み出したような気がして、亮太は誇らしげな気分だった。
「また明日、か」
ふっと微笑みながら自転車を引いて歩き出すと、いきなりクラクションが鳴る。
「バカヤロー! 死にてえのか!」
トラックの運転手が窓から身を乗り出し、威勢のいい声を上げた。
ふと見ると、信号は赤だった。
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