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願いの竜の、沼の向こう。
作者:光太朗
 沼の向こう側に行っちゃあいけねえ──オトナたちはいつだって、口を揃えてそう繰り返す。
 コドモたちは従順に、疑問も抱かず頭を垂れる。
 それがあたりまえの世の中で、あるとき、一人のコドモが声をあげた。
「どうして、行ってはいけないの?」
 オトナたちは顔を見合わせた。彼らは皆、そういわれて育ったし、それはその親もそのまた親も、誰もが同じことだった。どうして、という問いに、答えられるものはいなかった。
「じゃあ、ぼくが、確かめてくる。本当に、行ってはいけない場所なのかどうか」
 そういって、オトナたちが止めるのも聞かず、小さなコドモは村を出た。

   *

 オトナたちはなんだって、あれはだめこれはだめと、コドモの動きを制限する。
 それは安全を思ってのことなのだと、理解する心を持ち合わせてはいたが、それでもカナテは不満だった。
 いけないことも危ないことも、自分で考えて、決めたかった。
 だから竜の沼の向こう側に、必ず行くのだと決意した。
 向こう側は、ニンゲンたちの暮らす世界。ニンゲンは恐ろしいとオトナはいうけれど、どれもこれも伝承だ。実際のニンゲンの話なんて、聞いたこともなかった。ニンゲンの姿も仲間のケモノが化けたものしか見たことはなく、接したことなどもちろんない。ならば、会ってみなければわからないじゃないか──カナテは、常々、そう思っていた。
 狸の里を出て、いったいどれぐらい歩いただろう。
 仲間たちに出会わないままに、ずいぶん長い距離を来た。
 志を同じくするコドモに出会ったら、オトナは腰抜けだと声を大にして、手を取り合って進む気でいた。
 本当は、もう一度オトナに止められたら、やめてもいいかという気持ちもあった。
 けれど、現実には、誰にも出会わないまま、もう森を抜けようとしていた。
 森の向こうは、竜の沼。
 緑の竜の眠る、恐ろしい沼だ。
「沼の向こう側になんて、本当に行けるのかな」
 沼が近づくにつれ、だんだんと不安になってきた。カナテは思わず、小さくつぶやく。
「おや、君、向こう側に行くの?」
 応えるように、不意に声がかけられた。カナテは、慌てて茂みに身を隠した。
 息を殺してときを待つ。けれども声の主は、迷わず茂みをかきわけた。
「驚かせてしまったね。怖がらないで。ぼくは君の仲間だよ」
 その姿に、カナテは心底驚いた。
 しばらくは声を出すのも忘れ、そのままじぃっと見入ってしまった。
 やがて感嘆の息を吐き出して、小さな手を懸命に叩いた。
「君は、変化が上手だねえ! ニンゲンかと思ったよ。君なら、向こう側へいっても、きっとケモノだとは気づかれない」
 思うままにカナテが賞賛すると、ニンゲンの姿の少年は、ちょっと困ったような顔をした。
 くるりと背を向け、尻を見せる。着物の隙間から、橙色の尾が飛び出していた。
「どうしても、うまくいかないんだ。これでも、気づかれないと思うかい?」
 しかしカナテは、少年の持つ狐の尾に、かえって安心した気持ちで笑顔になった。確かに狐の尾を見せてはいたが、少年にはケモノ臭さがなく、それは本当に驚くばかりだった。
「ぼくなんて修行をさぼってばかりだから、ほらこのとおり、狸のままさ。だから向こう側に行くのは、本当は少し怖いんだ」
「うん、とても愛らしい。だいじょうぶだよ、一緒に行こう」
 少年が笑う。それから、狐のヨシガと名乗って、右手を差し出した。
 よろしくと答え、狸のカナテはその手を握りしめる。
 自分よりもよほど大きなヨシガを見上げ、気恥ずかしいような気になりながらも、茂みから足を出した。彼は仲間だといった。ともに進めるのなら、これほど頼もしいことはなかった。
 
「問題は、竜だと思うんだ」
 カナテは小さな足を動かしながら、隣を行くヨシガに話しかけた。
「竜……か。うん」
 重い声で、ヨシガが返してくる。その声に、カナテはやはり簡単なことではないのだと、憂鬱な気分になった。けれどそれを悟られるのは、恥ずかしいことのように思われた。
「知ってるかい? 竜の沼は、竜のよだれでできているんだ。竜に気づかれたら、たちまちに食われてしまう。そうっとそうっと、沼を越えなくちゃ」
 涎だというのは、本当はカナテの作り話だった。それでも、沼に入ったら帰ってこられないという話を聞いたときから、沼は涎に違いないと思っていた。
「涎だっていう話は、知らなかった。どうしてそういうことになるんだろう?」
 投げかけられた問いに、得意げに鼻を鳴らず。
「沼の向こう側に行ったやつなんて、一人もいないんだ。行こうとしたやつは、みんな沼で竜に食べられてしまうから。だから、沼は、お腹を空かせた竜の涎なのさ」
「なるほど……それはある意味で、的を射ているかもしれないね」
 神妙な顔をして、ヨシガ頷いた。もっと驚いてもいいのに、とカナテがヨシガの顔色をうかがう。尾と同じ、橙の髪を風に揺らしながら、ヨシガはなにやら考え込んでいた。
 そのうちに、森が途切れた。
 森を出てしまえば、緑の沼はすぐに視界に飛び込んできた。
「──竜だ!」
 鋭く、しかし押し殺した声で、カナテが囁いた。
 沼の入り口、右手の奥に、三角の頭をした竜のような何かが、静かにたたずんでいた。
 まるで洞穴に身を隠したようなそれは、かすかに顔をのぞかせるだけで、動き出す気配がない。
 ヨシガはそちらを一瞥しただけで、あとはもう、前方を見ていた。表情は、穏やかなままだ。ヨシガの陰に隠れ、カナテが竜の様子をうかがう。
「襲いかかってくるかな」
「どうだろうね。でも、あんまり見ない方がいいかな」
 落ち着いた声で、ヨシガが返してくる。負けていられないという気持ちになりながらも、カナテはヨシガの手を離すことができなかった。変化の術をここまで使いこなすヨシガなら、きっと自分よりもうまく物事を乗り越えていくだろうと思ったのだ。
 沼の手前まで来て、二人は歩を止めた。
 ちょうどそのとき、低く地を這うような、恐ろしげな声が響いた。
『なぜ、この地に来た──』
 それはまるで、風と光と木々と、あらゆるものを思うままに操るかのような、力ある声だった。
 カナテが震え上がる。ヨシガとつなぐ手に、力がこもった。
「ぼ、ぼくたちは、沼の向こう側に、行きたいんだ!」
 カナテは震える声で、それでも確かに、そう告げた。目に映る竜頭は微動だにしなかったが、それでも空気が震える。
『なぜ、その先を願う──』
 それは単純な問いだった。カナテは思わず、ヨシガを見上げる。
 けれど、ヨシガは答えない。
 カナテは息を飲み込んだ。
「その向こうに、なにがあるか、知りたいんだ!」
 吠えた答えに、空気が凪いだ。
 声が止み、真の静寂が訪れる。
 どれほどのときが、過ぎただろうか。
 温もりを得ていたはずの手が、空気を握った。
 驚いて、隣を見上げる。けれど、視線を上げる必要はなかった。
 まるで糸がちぎれてしまったかのように、ヨシガが力なく、倒れ伏した。
 遅れて、橙の尾が、ふわりと落ちる。
「──!」
『ならば、その代償を──』
 あざ笑うように声が踊る。カナテは飛び上がった。急いで膝をつき、ヨシガの身体を揺さぶる。しかし、同士であったはずの狐の少年は、びくともしない。
『進むか、去るか──』
 声が続く。
 カナテは一目散に、里に向かって駆けだした。一刻も早く戻るべきだと、本能が告げていた。涙を流すことはおろか、恐怖に震え上がることもできなかった。ただここにいてはいけないのだと、ひたすらに、走った。

   *

 ヨシガはゆっくりと、起きあがった。
 着物の帯をゆるめると、結わえていた紐をほどく。橙の尾が、音もなく落ちた。
「これで、よかったかな」
 竜の形をした岩に問うと、かすかに空気が震えた。
 言葉は返されなかったが、風はあたたかく、慈しむようにヨシガを包んでいた。まるで礼をいわれているようで、ヨシガは小さく首を左右に振る。一度だけ、森を振り返った。
 友だちになれるはずだった相手に、さようなら、と届かない声。
 ヨシガにはもう、沼の向こう側にとどまっている理由がなかった。作り物の尾を拾い上げ、竜の涙の沼に沈める。隠してあった船に乗ると、慎重に慎重に、村への帰路を進んだ。
 村につくと、オトナたちは安堵して、ヨシガを迎え入れた。おまえみたいな小さなコドモ、帰ってこられないと思っていたと、彼らは一様に喜んだ。
 沼の向こうはどうだったかという問いに、ヨシガは用意していた答えを告げる。
「行ってはいけない場所だった。とてもとても恐ろしいところだった。ぼくは、命からがら逃げてきた。生きているのが不思議なぐらいだ」
 それみたことか、でも無事でよかった──オトナたちは口々にいい、コドモたちは瞳を輝かせ、冒険譚を聞きたがった。けれどヨシガは口を閉ざし、ただ、オトナたちのいうことは正しかったのだと、それだけをつぶやいた。
 その晩、無事に帰ったコドモをねぎらおうと、大人たちは得意げに、腕をふるった。
「さあさあ、疲れたろう。夕食は狸汁だよ。極上の狸で、久しぶりのご馳走だ。うんとお食べ」
 ヨシガは、寂しそうに笑んだ。
「うん、いただくよ」





読んでいただき、ありがとうございました。

ジャンルは「その他」か「ファンタジー」か「童話」か、迷った挙げ句に童話にしました。ジャンル設定、難しいです。

少しでも良いものが書けるよう、精進いたします。
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