セイレーンの歌声が聞こえない。
何人たりとも生存することを許されない絶海、アイレスカ。そのほぼ中央に位置する名もなき孤島に古城が一つ、悠然と居を構えていた。荒れ狂う潮流を背に吹き荒ぶ風を一身に受けてなおその形を保ち続ける不気味な城である。
纏う黒。
放たれる彩は血よりも濃い真紅。
誰もがその存在を知っている。その位置を知っている。しかし、決して目にすることはできないその城の名を魔王城と云う。
「よし、これが最後の戦いだ! みんな準備はいいか」
神なる巫女から譲り受けた聖剣を高々と上げて勇者は雄叫びを上げた。
「俺はどこまでもお前についてくぜ」
続いて重戦士が足を踏み鳴らした。
「しっかり暴れてください。死してなお貴方達の体に傷を残すようなことはしません」
僧侶も最終決戦を前に士気は最高潮のようだった。
頼もしい仲間たちである。長く困難な道のりを経て手に入れたものは力でも名誉でもなく、絆そのものだった。勇者は誇らしい気持ちでいっぱいになったが、同時に寂しさも感じていた。
「お前の分までオレ達は頑張るから。だから、応援していてくれ……」
勇者は、人一倍懐っこく、弱虫だった魔法使いの顔を脳裏に思い描いた。本当はここにいるはずの四人目。しかし、魔法使いがこの場に降り立つことは叶わなかった。昨日まで元気だったのに。どうして。勇者は自問したがやはり答えはでなかった。昨日一日中毛布に包まって「怖い゛よぉ! 海ごわいよぉう゛!」と連呼していたこととなにか関係があるのだろうか。まさか。栄えある勇者の仲間が好き嫌いなど。オレだって高いところ嫌いだったけど聖なる塔を頑張って登ったもん――勇者は大威張りである。
「行くぞ! 躊躇うな! 歩みを止めるな! 仲間のために! そして世界のために!!」
魔法使いはきっと呪いをかけられたのだ。そうだ。きっとそうに違いない。そう考えるとますます魔王を倒す気持ちが強くなった。
勇者が聖剣を一振りすると七色のオーラが燦然と輝いた。直撃を受けた巨大な門が轟音とともに木端微塵に砕け散る。逆巻く粉塵を振り払い先陣を切ったのは重戦士だった。続いて勇者が、最後尾は僧侶だ。戦闘に特化した重戦士が道を切り開き、万能タイプの勇者が臨機応変にそのスタイルを変える。あらゆるサポートを一身に担う僧侶はその後ろから全体の様子を伺い、適切な処置を施す。このコンビネーションで幾多の困難を乗り越えてきた。しかし、一番遠距離まで目の届く魔法使いがいないことは初めてのことである。いつもとは違う間合いに勇者の心は嫌な感じに締めつけられた。
城の中は思ったより明るかった。魔法によって一定の明るさに保たれているのだろう。一向は緊張しながらも魔王城の奥へと足を踏み入れた。
絢爛豪華に装飾された大広間から二階に上り、まず始めの関門は碑文を頼りに四つの宝玉を集めるというクエストだった。てこずったが僧侶の活躍もあってどうにか三階へ続く階段を見つけることができた。三階では点在するスイッチをいじると道が開くという古臭いダンジョンが待っていたが立ちはだかる壁も同じように古くなっていたので力に任せて通り抜けてしまった。ここはちょっと脚色して国王に報告しようと心に誓う勇者である。
続く茨の道では重戦士が大活躍だった。
棘で人間の体を傷つけ、そこから無理やりねじ込んだ蔓で生き血を吸う世にも恐ろしい植物を前に重戦士は恐れることなく自慢の大剣で右へ左へ縦横無尽に薙ぎ払い、道を切り開いてくれた。このとき重戦士がブツブツと「マチルダの野郎、それにリーナにナルにローザ! なんで俺を捨てるんだ!? このっ、このっ、みんな死んでしまえ!」と呟いていたことは気にしないでおく。そっとしておくのも優しさだ。ちなみに、マチルダとローザが重戦士を振った理由は勇者のことが好きになったからである。ナルは元々勇者が好きで知り合うきっかけが欲しくて重戦士に近づいたにすぎない。すまん。勇者はそっと心の中で詫びた。
なにはともあれ。
前を行く重戦士の肩の広さを感じる。後ろからふわりと抱きしめてくれる僧侶の優しさが嬉しい。自ずと聖剣を握る手にも力が入る。魔王を倒して世界に平和を。それが勇者の望みだ。
そして、遂に三人は魔王の間へとやってきた。
暗闇そのものが質量を持ったような密な空間の先、錆色の宝玉に彩られた玉座に腰を下ろして魔王はこちらを睨みつけた。その毅然とした態度は勇者たちの初手を封じるに十分だった。
急襲を仕掛けそこなった勇者たちは魔王と適当な距離をとって対峙した。
「あ、どうも……」しかし見た目とは裏腹に魔王は低姿勢だった。「ようこそ魔王城へ。お待ちしておりました」
思いもしなかった丁寧な言葉遣いに勇者たちは面食らった。
「えぇっと……。ごめん。ちょっと訊きたいんだけど」
勇者の口調も幾分か穏やかになる。
「はい。なんでしょう」
「君が魔王でいいんだよな?」
「えぇ。一応魔王をやらせてもらってます」
やっぱり。
改めて魔王を前にして俄然やる気が出てきた。「うぉぉおおぉおおぉ!」重戦士は頭上で大剣を振り回すと切っ先を魔王へと向けた。少し身を引く魔王。顔も心なしか青く見える。小癪な。勇者は鼻で笑った。演技をするとはどこまでも油断ならないやつだ。
「覚悟しろ、魔王! この『マチルダ』でお前を真っ二つにしてやる!」
剣に自分を振った女の名前をつけるとは未練がましい奴だと思ったが、しかし勇者はあえて何も言わず重戦士の横で聖剣を構えた。一歩下がった場所では僧侶が普段と変わらない表情で杖を握り締めている。
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいよ!」
魔王は慌てたように両手を前に突き出してぶんぶん振り回した。
「今さら戦えない、なんて言うつもりはありませんわよね?」
「そうじゃなくて! いえ、そうなんですけど。僕を倒したところで世界は平和になりませんよ」
「そんなの、お前を倒せば分かることだ」
重戦士は聞く耳を持たない。
しかし魔王はしつこく食い下がった。
「よく考えてみてください。ここに来るまでに一匹でもモンスターに出会いましたか? トラップがあっただけじゃないですか? だって、今、魔王城にはモンスターが一匹もいないんですから」
「まさか」
勇者は柳眉を潜めた。
「そんな筈はないだろう?」
魔王城といえば魔王の居城と同時に悪の総本山である。海千山千のモンスターの大群が侵入してきた者を容赦なく蹂躙する魔の領域ではないのか。
「それは昔の話です。ちょっと前まで褒美として宝石や肉を与えればそれだけで良かったんですけど今じゃ……。ただでさえ軍の補強や武器の生産で家計は火の車なのにあいつらに給金まで要求されたんじゃたまったもんじゃないですよ。だって考えてみてください。魔王軍に属する魔族が何人いると思います? 東方司令部や西方司令部の魔族も加えると、全員にたった一レンス与えただけで破産してしまいますよ!」
「待て待て。そんなにまくし立てるな。――お前たちにも通貨の概念があるのか?」
「私、魔族は奪うことしか能がない木偶の坊だと思っていました」
僧侶の毒舌にも魔王は神妙に頷いただけだった。
「魔界商人との間だけでしたけど。一応は魔界という一つの世界ですから。通貨は世界の秩序を構成するために凄く役に立つんです」
それに、と魔王はため息をついた。
「こんなところにまで資本主義の波が押し寄せてきましたからね。払える賃金はないと言った途端、いきなりのサボタージュですよ。あ、この場合はストライキでしたっけ? まぁどっちでもいいんですけど。そういうわけで僕を倒したところで邪魔者がいなくなっただけ逆に士気が上がるんじゃないでしょうか」
馬鹿げた話である。
勇者は重戦士や僧侶と顔を見合わせたが二人とも信じられない表情をしていた。演技だと思って見てみても落胆の色濃いその表情はとても作りものだとは思えない。
本当なのだろうか。
本当なのだろう。
がっかりだった。
確かに最近、魔王軍の動きが緩慢だった。怪しいとは思っていたけれど。
まさかそんな理由があったとは!
構えた聖剣のやり場に困った勇者は、切っ先をコトリと床地に下ろしてため息をついた。ボロボロの姿が格好いいのだ。無傷のまま凱旋するとなると英雄ルートのフラグは立たないかもしれない。ただの勇者で終わりたくなかったのに。激戦を期待していただけに落胆も大きかった。
「あの……」錆色の宝玉に腰を下ろす魔王も今では小さく見える。「それで、どうしますか?」
「どうするって言ってもなぁ」
どうしようもない。
「魔王は魔王でいろいろと苦労があるんだな」
重戦士は憐憫の情を込めてしみじみと言った。まるで同士を見つけたかのような表情である。
「はい……。お恥ずかしい限りです」
「そんなことはありませんわ。お気にしないでください」
全員が一斉にため息をついた。
「とにかく平和が、一番だよな」
勇者の言葉に全員が一斉に頷いた。
「そうですわね。とりあえず国王には壮絶な戦いの末に異次元から真なる女神が舞い降りてきて平和的解決を望んだことにしましょう。傷はそのとき治癒してもらったと口裏を合わせればいいかと」
「うん。その案もらった。それじゃそろそろ……帰ろうか」
勇者はがっくりと肩を落した。
「おう……」
重戦士も元気がない。
「なんだかなぁ。すっきりしないなぁ」
「わざわざご足労頂いて本当にすみませんでした」
と、魔王。
「あ、いやいや。こちらこそ勝手に城の中のものを壊して申し訳ない!」
と、勇者。
「あはは。気にしないでください」
「トラップ直さないで大丈夫か?」
「なんとかしますよ」
「いろいろ大変だろうけど、頑張れよ」
「はい。みなさんもお元気で」
「それじゃ」
「さようならです」
勇者一行を見送った魔王は「ふぅ……」とため息をついて玉座に座りなおした。
「上手く……いったのでしょうか」
玉座の影から現れた腹心に向けて魔王はウィンクしてみせた。覗く犬歯がどこか悪戯っぽい。
「大丈夫だと思うよ。だってあの人、典型的な勇者だもん。勇者の条件は人を疑わないその良心、だからね」
「では貴方は典型的な悪魔ですね」
呆れているような、褒めているような曖昧な問いに魔王は「ありがとう」と答えただけだった。
「よし、これで時間は稼いだ。東方司令部と西方司令部の立て直しを早急に済ませるよう伝えてくれるかな? 準備が出来次第、進軍再開だ」
「御意」
小さな呟きを残して腹心が闇に溶ける。
「悪魔らしいだけじゃ今はダメなんだよね。今の時代、やっぱり誠心誠意、腰を低くして嘘をつかなきゃ」
天井を見上げて、魔王は悪魔っぽく微笑んだ。
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