不完全な美
これまで芸術を学び、芸術に打ち込んできた人間として、ある一つの考えが私の中に出来上がっていた。
本当に美しく、素晴らしい芸術作品は、不完全であるべきなのだ。
歴史上天才と謳われた人間たちが創りだした素晴らしい創造物や芸術作品は、どれもこれも不完全なものだ。
それは技術が足りなかったというわけではない。人間自体が不完全な生物であるが故、それ自身が産み出すものも不完全になるのは必然。
しかし、人間が不完全だからこそ、その不完全さに惹かれるものがあるのだ。
ミロのヴィーナスの例がある。
古代ギリシャ時代の彫刻作品で、発見時には既に両腕は失われていた。修復するという考えもあったものの、現在もそれは行われず、腕のないままの状態になっている。
腕のないほうが美しく見えるからだ。
腕が存在してしまうと、それはもはや完全なる美。
不完全な人間にとって、惹かれるものなどそこにはない。
サモトラケのニケもまた然りだ。
翼を持ってはいるが、首を失った勝利の女神には、一種の神々しさを感じさせられる。
初めてあれを見たときには、像の前でしばらく呆然と立ち尽くしてしまったものだ。美しさに酔いしれるとは、まさにあの時の状態だったのかもしれない。
私はかような芸術作品に憧れ、自分でもなにか創り上げたいと、常々考えていた。
しかしながら、私には才能がなかった。
完成した作品は全て、その都度芸大の仲間に見せてみたものの、その反応は芳しくないものだった。
それはそうだろう。私自身、その完成度には全く納得がいっていなかったからだ。
いくら不完全が美であるといっても、不完全だらけでは、それはただの駄作だ。
私の求める美は、一部が不完全だがそれ以外は完璧になっていなければならないのだ。
そのうち、私には作品の構想さえも浮かび上がらなくなってしまった。
〇を一にするのは難しいとはよく言ったものだ。
私は半ば夢を諦めかけていた。
しかしある日、そんな私に、天啓が舞い降りてきたのである。
ネタを探しに原宿をぶらぶらと歩いていた時のことだ。
私は所謂スカウトというやつに出くわしたのだ。勿論私は即断った。
そんなものに構っていられるほど暇ではない。
私はそれまで、自分のスタイルや顔にはとんと興味などなかった。しかし、この一件があって、私はよくよく見たら自分が割と良いスタイルのほうであるという事に気がついた。顔も、割と整っている。
そこで、私は閃いたのだ。
これを使わない手はない。
確かに〇を一にするのは難しい。しかし、一を百にすることはできる。
私は、自分の身体をベースにして、自らを作品にするということを始めたのだった。
手始めは顔からだ。
自分で言うのもなんだが、傷一つないこの端整な顔立ちは、私の芸術にはふさわしくない。
多少傷がついているほうが、魅力的な作品に仕上がるはずだ。
私は、彫刻刀を手に取ると、その刃を自分の頬にあてた。
自分を傷つけるというのは、かなり抵抗があった。
躊躇った。彫刻刀を持つ手が、小刻みに震えた。冷や汗も流れる。
親からもらった、大事な身体だ。とてもそんなことはできない。
いや、これは芸術のためだ。私にはもう、この道しか残されていないんだ。
思い切って、刃に力を込めた。
鋭い痛みが、左頬からさらに顔半分に広がる。彫刻刀が手から滑り落ちた。心臓が脈打つたび、血液が切り傷から溢れ出る。
頬を触ると、手には生暖かい血がついて、びりびりとした痛みが一層強くなって、私の顔を刺激した。
止まらない血がぽたりぽたりと床に垂れた。
ティッシュを手に取って拭き取っても、また傷から流れ出てくる。白いティッシュを、何枚も鮮血に染め上げながら、血が止まるのを待った。
ようやく血が止まったようで、顔を洗ってへばりついて赤黒く固まった血を落とした。
すると、そこには、思ったよりも大きな傷跡ができていた。
斜めに頬についた傷。
私はぞくりと鳥肌が立った。
これだ。私が求めていたものは、これだったのだ。
翌日、私は大学の友達にこの傷を見せた。
「どうだい、この傷。凄いだろ?」
私は得意げにその傷を見せびらかしたのだが、友人は心配そうな顔をして、
「え、どうしたの、それ。かなり深いみたいだけど……、大丈夫?」
それだけだった。
私が予想したものとはまるで違う答えだ。彼はこれに美を感じないのだろうか。だとしたら、失望だ。
いや、違う。彼は私の芸術観をよく知る人物。これではまだ不完全さが足りないのだ。だからこそ、彼はただ心配するだけなのだ。
私は途端に元気を失くしてしまった。その上、こんな程度で芸術作品になるだなんて考えていた、昨日の自分を恥じた。急に、顔につけた傷が気になり出し、そわそわした。
私はその日、早くに家に帰って、作品改善の進捗を得ようとした。
あの傷では足りない。もっと深い傷。もっと深い傷が必要なのだ。
しかし、また顔を傷つけるというのでは、あまりに芸がなさすぎる。
私は殆どアトリエと化している、ワンルームの自室を見渡した。彫刻に使う道具が雑然と置かれている。その内の一つに目が留まった。
ハンマーだ。
私は、彫刻に使うそのハンマーを手に取って、しげしげと眺めた。
どこを傷つけようか。
顔は駄目だ。手も、また後で作品を改善するのに必要になるかもしれないから、使えなくなったら困る。
そうなると……。
私は視点をハンマーから自分の脚に移した。
一回身体に傷をつけてしまえば、最早二回目は悩む必要などなかった。
私はベッドの上に座り、組むようにして右脚を左脚の膝に乗せた。
深呼吸して、手にしたハンマーを徐々に頭上に上げていく。
振りかざしたハンマーを、自分の脚の脛骨めがけて、一気に振り下ろした。
鈍い音が部屋中に響いて、骨に伝わった衝撃は、全身に広がる。
脚に激痛が走った。堪え切れずに、大声をあげる。内出血したようで、ぶつけたところが青く変色し始めている。
脚を押さえてうずくまりたい衝動に駆られたが、ここでやめるわけにはいかない。これでは中途半端だ。
私はもう一度、ハンマーで右脚を殴りつけた。
衝撃。痛み。
再び悲鳴を上げた。脚から発せられる痛みで、私はハンマーを手放し、床の上で転げまわり悶絶した。
今度こそ、骨が折れたようだ。
痛みが治まらない。
流石に私は電話で救急車を呼ぶことになった。
病院に運び込まれた私は、すぐさま手術室に連れられた。
麻酔をかけられて、気が付いたら、白い天井を見上げていた。
脚にはギプスがはめられてあり、天井から吊るされているようだった。しかし、まだ内側から刺すような痛みを感じる。
枕元に立っていた医師が何事か色々と説明していたが、そんなものは耳に入らなかった。
一刻も早く彼に私の作品を見せなくては。この作品が美しいか否か、判断してもらわねば。
一日の講義が終わる時間を見計らって、彼に連絡を入れると、事情を聞いて驚き慌てた様子の彼は、直ぐに電話を切って病院に駆けつけてきた。
「おい、大丈夫か!」
彼は血相を変えて病室に入ってくると、顔中に浮かび上がった玉のような汗を拭いながら、ベッドに近寄って私を見た。
「どう? これ、いいと思わない?」
私は嬉々として彼に尋ねた。
しかし、彼は途端に眉を顰めた。
「はあ? いいわけないだろ。何言ってんだよお前。……もしかして、お前、これ自分でやったのか?」
「そうだよ。これが新しい作品。まさしく不完全な美だよ」
こう言えば納得してもらえると思った。しかし、彼は蔑むような、異星人でも見るかのような目で、私を見下ろしながら、ベッドから一歩身を引いた。
「お前、どうかしてるよ。こんなもの、芸術でもなんでもない」
彼は吐き捨てるようにそう言うと、苦々しい顔で病室を出ていった。
またも私の作品は美しくないと評価されてしまった。それどころか、芸術でもないとまで言われてしまったのだ。
ショックだった。
どうしたらいいのだろう。私はそれからずっと、ベッドの上で思い悩んだ。
しかし、またも天啓が訪れたのである。
何をすることもできない病室のベッドの上で、暇つぶしに備え付けのテレビを見ていると、丁度ルーブル美術館の特集番組が放送されていた。
私の敬愛するダヴィンチの絵。それにミロのヴィーナスとサモトラケのニケが紹介されていた。
これだ。これしかない。
私はその日から、今までより一層リハビリに精を出した。
医師や看護師の手伝いもあって、私の脚は予想以上のペースでよくなっていった。
そうして、ようやく誰の力も借りずに歩けるようになった頃、私は病院を抜け出して、自宅に戻った。
帰る途中、必要な工具をホームセンターで購入した。病衣のままだったので、店員からは不審な目で見られたが、何を言われることもなく、すんなりと用事をすませられた。
買ってきた小型の電動のこぎりを取り出して、コンセントを繋ぐ。
ふぃいいいいいいん。
スイッチを入れると、のこぎりの刃が音を立てて回転を始めた。かなり大きな音がする。
そして、その刃を、私は自分の首に近づけた。
私が最高の芸術作品になるには、私自身がサモトラケのニケになるしかないのだ。
頭部を失ったニケ。あの神々しさは、そこから来ているのだ。
私もああなりたい。私にもあんな芸術が産み出せるということを示したい。
怖さはない。むしろ、美しい姿になれるのだから、こんなに嬉しいことはない。
これで私は、後世に語り継がれる芸術になれる。
私は目を瞑り、口元に笑みを浮かべながら、回転する刃をさらに首に近づけた。
*
「この部屋から酷い臭いがするって言うから来てみたら、この有様だったというわけか……」
若い刑事を連れ立ってやってきたのだが、彼は惨たらしい現場に一瞬でやられ、今もトイレでげーげーやっているところだ。
俺は仏さんの近くに寄って屈みこんだ。
死体は頭部が胴体から切り離され、部屋中に鮮血が飛び散っていた。その血は床や壁だけではなく、天井にまで大量に付着している。
手にはべっとりとした血で赤く汚れた電動のこぎりが握られていた。
「自分で自分の首を斬ったのか……。なんでまたこんな凄惨な最期を選んだのかねえ。酷い姿だ。目も当てられない」
数々の死体を見てきた俺でも、最初は思わず目を逸らしてしまうほどだった。
死ぬ直前は、相当な痛みや恐怖を感じたはずだ。
しかし不思議なことに、自分の血に塗れた仏さんの顔は穏やかで、笑っているようにさえ見えた。