復讐の始まり-2
「何を考えているでござる?」
その一方で、バルムンクの元から去り、誰もいないセントラルタワー内の静かな廊下をコツコツと音を起てて鏡が歩く中、鏡の頭の上に座っていた朧丸がふいにそう呟く。
しかし、鏡は何も答え返さなかった。何も口を開かず、存在しない虚を見つめながら複雑な表情を浮かべていた。
だがそれは、答えなかったのではなく、答えられなかっただけだった。
口にすれば、内に秘められたモヤモヤとしたドス黒い感情が沸き立つのを、更に加速させることになってしまうから。
「だんまりでござるか? 某にはわからんでござるよ。あの男を生かす理由もなかろうに」
朧丸の言葉通り。バルムンクを生かす理由が鏡にはなかった。メノウの命を奪い、こんな世界を作り上げるのに加担した大罪人の一人として裁くべきであるのもわかっていた。
それでも踏み切れないのは、鏡が優しいからとかではなく、人を殺めてしまうことで自分の中にある何かが壊れてしまいそうな予感がしたからだった。
人にイラついたり、人を憎んだり、人を恨んだことは何度だってある。だが今まで、人を殺したことは一度もなかった。クルルを助ける時でさえ、アースクリアの仕組みを守るために非道な行為を繰り返していたミリタリアをぶっ飛ばすだけで済ました。他も同じだった。
でも今は殺したいと思っている。明確な殺意が自分の中で渦巻いている。
だがそれが、鏡は怖かった。
自分の中に渦巻いている殺意を本能のままに振りかざせば、バルムンクは必ず死ぬ。そして、殺意を晴らす快楽を得ると共に、その行為に対する躊躇いがなくなってしまうような気がしていたからだ。
今まで誰も殺さないようにしてきたのは、そうすることで、自分という危険性を抑えるためだった。しかし誰か一人でも殺せばきっと歯止めが利かなくなる。
一人殺したことで、二人目、三人目も躊躇わずに力を振るうことになってしまうだろう。そうなればきっと、強い力を持ったが故に沢山の人間を殺してしまう。
既にアースに存在する來栖や來栖の仲間たちを含めても、全員を殺してしまいたいと思えるほどに殺意が渦巻いている。それ以外にもきっと、悪人を見ただけで自分は手にかけてしまうのだろう、鏡はそれが嫌だった。
自分の中の悪魔が囁く。『殺せ』と。
殺したところで何の生産性もないことはわかっている。悪人が新たな悪事を行うのを恐れて出来るうちに打ち止めにする行為でしかないのを鏡は知っている。だが、それでもメノウがいないという日々を過ごすことで湧き出る感情を、最早抑えられなくなっていた。
バルムンクの部屋のドアにカギをかけなかったのは、いっそのこと逃げて、目の前からいなくなってくれた方が殺意を抑えることが出来ると考えたからだ。
「俺は……甘いのかな? バルムンクを殺さないで生かしておくのはさ」
「某からすれば甘すぎでござるよ。ご主人たちは殺されそうになったのでござるよ? 実際……メノウ殿は殺されている。なのに殺さないなど……おお甘でござる」
今までも鏡は何度も殺されかけたことはあった。それでも結局助かったのだから事を荒立てる必要はないといつも思っていた。でも今回は違い、明確な犠牲者が出ている。
犠牲が出たのであれば、それに対して贖罪させるのは当然のことだった。仲間を奪った代償を支払ってもらわなければならない。自分の本能もそれを要求している。明確なのは死んでもらうこと。だがそれに大きな意味なんてない。死ねばそこで終わりで何もかもなくなる。一時の復讐心を満たせるだけで生産性なんて何もない。こんな悪人を生かすだけ無駄のように思えるが、戦いに悪も正義もない。己の主張同士がぶつかって、そこに勝者と敗者があるだけ。その主張のどちらが世間のルールに近いかどうかで正義と悪で分かれて、勝者が戦いでの損失を敗者に要求しているだけで――、
そんな無意味な問答が鏡の頭の中でずっと繰り返されていた。
それでも心の中のどす黒いモヤモヤとしたものは消えることはない。
その時ふと、鏡はずっと昔にも同じ似たような感情を抱いていたのを思い出す。そしてそれがいつの頃に芽生えたものだったのかもすぐに思い出せた。
「あの時は……どうやって吹っ切ったんだっけかな。俺」
「何の話でござるか?」
「ずっと……昔の話だよ。多分それがなかったら今の俺はここにいない」
「何かがあったのでござるか?」
「……今みたいに大事な人が殺された時のことさ」
父親が殺された時も、母親が殺された時も、今と似たような同じ感情が湧きだった。父親が殺された時はモンスターや魔族に対して、母親が殺された時は人間に対して、どす黒い感情が湧きだった。でも、その時の鏡はまだ弱く、モンスターは倒せても魔族を殺すに至らなかった。
そして、復讐のための力を着けている途中で母親が殺され、そこで人間も魔族も結局何も変わらないことに気付けた。でもだからといって憎しみや殺意がすぐに消えたわけではなかった。
その殺意を、どうやって払拭したのかが思い出せず、鏡は頭を悩ませる。だが、すぐにそんなことはどうでもいいと切り替えた。
今ここに渦巻いている感情が全てであり、それを晴らす方法は一つしかないのはわかっていたからだ。
朧丸に言われずともわかっていた。殺すのは怖い、しかしそれ以上に、この感情を抑え続ける自信が鏡にはなかった。
鏡は確信していた。今は抑えられている感情を抑えられない時が来るだろうと。
「人間は……難しい生き物でござるな」
そう、鏡はただ苦悩し、少しでも殺意を抑えようとしている自分を演じることで、正常を偽っているだけ。同じ殺意を抱く朧丸は、それを簡単に見抜いていた。
一度抱いた殺意と復讐心は、そう簡単には消すことはできない。
鏡がバルムンクを生かしている理由は、その殺意と憎しみと復讐心を薄れさせないため。先程バルムンクに対して「本当に殺さなきゃいけないのは」と鏡が呟いた瞬間に見せた醜悪な笑みは、ただただ最高の環境でその対象を潰し、己がどす黒い感情を晴らすための快楽を得るために生かしているだけなのを物語っていた。
今、鏡が見せている苦悩はただの、自分はそんな人間じゃないと思い込ませるためのアピールでしかない。どす黒い感情を必死になんとかしようと頑張っている自分を演じているだけ。
本当は最高の環境と心境で挑み、決心を鈍らせないためだけの配慮。
鏡にあるのは「來栖を殺す」という、かつて抱いたことのない復讐心を晴らす目的だけだった。