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微生物を愛でたいのだよ!  作者: まいまいഊ
1-b『水をさし、水を向ける者あり』
9/59

9・2H₂ +O₂→2H₂Oの契約。

 機種によってはサブタイトルの「2H₂ +O₂→2H₂O」表示されなかったり、小さくて見えにくいかも。

 ちなみに「 2H2 + O2 →2H2O 」(水素と酸素で水になる)という化学反応式が書いてある。

 少しくすんだ赤色や青色をした布製の日よけが大通りに沿って群れをなし、ずっと遠くまで続いている。たくさんの露店が所狭しと並んでいるさまは、それだけで非日常的であった。

 良い匂いのする小さな露店には、白い粉をまぶしてあるパンや薄く焼いた菓子があふれんばかりに積まれ、その隣で赤く磨かれた果物が蜜に浸され星の散るように浮かんでいた。甘党の友人が一緒にいたのならば、狂喜乱舞しそうな品ぞろえである。

 その隣の露店には、風にふわりと揺れる蒼の羽根やら、ぼうっと光に散る碧の鉱石や、銀の蔦で編まれた御守りや籠や装飾品が目を引いた。

 オキシはこのように並んだ屋台は、祭りの時くらいしか見たことがなかった。色々と見慣れないものを見つけ好奇心があふれ出てくる。答えを求めているわけではないのだが、オキシは無意識のうちに「あれはなんだろう」「これはなんだろう」と言葉が表に出てしまう。


 その疑問の多さにキセノンは始めは茫然としていたが、オキシのその単純な問いかけは別に答えを求めているわけではなく、「不思議で面白くて興味深いモノをみつけた」という意味合いで使われていると、そこはかとなくではあるがすぐに感じ取った。

 オキシが本当に尋ねたいと思っていることがある時は、袖を引くなりキセノンの名を呼ぶなりして、気を引いてから問うという傾向があったので、「これは」「あれは」とただ言っている時は、適当に相槌をうって乗り切っていた。もしかすると相槌さえいらなかったのかもしれないが。


「ねぇ、キセノン。そういえば、ここはなんていう町? なんていう国?」

 向こうの露店の主がこの町の名物を売っている。店主は「……の町に来たら、これ!」と、叫んでいるのだが、人の喧騒に流されうまく聞き取れなかったのだ。そして、そう言えば、ここがどこなのかまったく把握していないと気がついたのである。

 それに加え、先ほどまで観察していた微生物の生息域のデータを書き込んでおきたかったので、町をぶらついているのを良いことにキセノンに尋ねた。観察場所を記すことも、その生物を知るうえで大切なのだ。


「ここはアクチノ国で、この町はフェルミという名だ」

 オキシに問われ、キセノンはそう答えた。

「ふむふむ、アクチノ国のフェルミか。ありがとう」

 オキシは脳内にしっかりと記録した。

 フェルミという単語を知ったことにより、向うの露店主が叫んでいた言葉は人のざわめきの中でも「フェルミの町」と補完されて聞こえるようになった。


「おぉ? あれはなんだろう。すごく真っ青な色で動いている」

 そして、例によって興味の対象はすぐに別のものに移るのだ。


 南国の海のような色をした透明な石が糸につるされ、規則正しく左右に揺れている。石に何か仕掛けがしてあるのだろうか、その振り子に合わせ、小さな音を奏でていた。オルゴールの金属の弾けるやわらかな音と、笛のような澄んだ音がする。音が鳴るたび、そよぐ風が踊るように石をまわり駆けていく。



「あぁ、なんだかお祭りみたいだ。露店ってあるだけで、ちょっとどきどきする」

 神社を中心として栄えた門前町生まれのオキシにとって、この活気はどことなく地元のお祭りの時期を思い出してしまい、どうしても心が躍るのだ。

 天幕の下に雑多に山積みになっていると言うだけで、普段見かけるものでもどこか違うような不思議な雰囲気に染まってしまうように感じるのだ。

 しかもここは異世界、積み上げられた物たちは本当に見たことがない物ばかりで、非日常的な景色だ。妖しい輝きの果物やお菓子や雑貨は、異彩を放ち見ているだけでも満たされる。


「この雰囲気は好きだなぁ」

 やはり町はにぎやかな方がいい。

 オキシは次から次に目に移る珍しいものを眺めながら、きれいな布や葉で飾られたとりどりの町を通っていく。


「はぐれないように、この手を離すんじゃないぞ」

「うん」

 オキシはぶら下がっている干物を見て、その下に並べられている貝の装飾品を見て、というように視線は忙しそうにしている。田舎者のようにおおぴろげにきょろきょろはしていないのだが、目だけはしっかりと辺りを観察していた。


「何か気になるものはあったか?」

「うん」

 すれ違う人は鎧だったり不思議な輝きのローブだったり、ちょっとすすけた外套をまとっていたり、剣や弓や杖を携帯していたり、獣耳だったり、しっぽが生えていたり、甲殻だったり、変わった者ばかりだ。もし地球であれば、全く違和感の無い素晴らしい仮装をしている集団にしか見えないだろう。


「そんなにめずらしいのか?」

「うん」

 先ほどからオキシの返事がワンパターンになってきている。かなり夢見がちな様子だ。

 混雑の中、器用に人の間を抜けてはいたが、観察に熱中すると周りが見えなくなる性質なのをキセノンは知っている。このような小さな子が好奇心が旺盛なのは、それはそれで微笑ましいが、少しでも目を話せば、この人混みの中に埋もれ見失ってしまうだろう。はぐれて迷子にならないように自分がしっかり見ていないといけないと、キセノンは強く強く思った。


「ここが町の中心の広場だ。あの中央にある塔は、町のシンボルのようなものだな」

 キセノンが指さした先に、蒼玉(サファイア)のような冴えた青をした塔があった。円錐状の立体が見上げるほど天高く伸びて、頂点には球体が浮かんでいる。その外郭に沿うように小さな球形の光が円を描きながら散っている。真下から見上げれば、原子核の周りを回る電子のような形をしているに違いない。

 光は定期的に色や形を変え、ますます不思議な様相を呈していた。そう、一言で言うと変な塔としか形容できなかった。

 この世界では何か意味のある形なのかもしれないが、いわゆる有名芸術家が設計しました的なそういう謳い文句がありそうな、何とも描写しがたい不思議な造形をしていた。

 この町のどこからでも見ることができるのではないかと言わんばかりに、そびえたっている。草原へ出て町を振り返れば、先端が街壁の上に覗いているのが見えるかもしれないほどに高層な建築物であった。町で見知らぬ場所に来てしまっても、あれを目印にすれば塔のあるこの広場まで戻って来られるだろう。



 それにしても人が多い。人の波は流れ渋滞することはないのだが、時々肩がぶつかってしまいそうになるほどに混んでいた。


「……ちょっとだけ疲れたかも」

 いつも研究室と自宅の往復くらいしか出歩いておらず、このような人の多いところは久しぶりで、精神的に疲れたのだ。

「少し休むか」

 そういえば草原で少し昼寝をしたとはいえ、一日中作業をしていたのだ。相当疲れているはずだ。オキシの特殊な体質を知らないキセノンは少し無理をさせてしまったかと反省する。



 広場にある噴水の縁の一角が空いていたので、そこに座る。

 噴水の噴出口に穴はなく、代わりに三角錐の藍玉(アクアマリン)のような透明な結晶が水に沈んでいた。その鉱石に水は集い空にしぶきを舞いあげるのだ。


「飲み物か何か買ってくるから。オキシはここでおとなしく少し待っていられるよな」

 縁に座るオキシの頭をなでながら、キセノンはそう釘をさすように言った。

 黒い髪や白い外套をまとう外見がいくら珍しいものでも、人の行きかう場所にまぎれてしまえば、体の小さなオキシを見つけるのは不可能に近い。

「もちろん大丈夫」

 オキシは胸を張って言うが、キセノンはどこか不安そうな面持ちをしていた。

「とにかく行ってくるから、ここを動くなよ?」

 子供というのは、おとなしくしていると口では言っていたとしても、ときに予想もしない行動をとる。この好奇心が旺盛なオキシの場合、気になったものを追いかけてしまう、ということが無いとはいえないのだ。

 キセノンは念を押し、オキシを残して人ごみの中へ消えた。


「なんかキセノンって、僕のことすっかり子供扱いしているんだよなぁ」

 もうそんな年齢でもないのにと、オキシはため息をついた。

 性別不詳だとはよく思われていたが、年齢のことについては言われたことがなく年相応な外見をしていると今まで思っていた。

 こうも子供扱いが酷いと、何か幼く見えてしまう要因があるのではないだろうかと、オキシは疑問に思ってしまう。


「キセノンと僕は人種……いや、そもそも爬虫類と哺乳類。種が違いすぎる。僕だってキセノンを青年と思っているけれど、もしかしたら思っているよりもずっと年上かもしれないし……」

 そういう種族間における印象の違いだとしたらそれは仕方がないことで、諦めるしかないのかもしれない。


(ま、僕は実際には子供ではないから、おとなしく待てるのだけれどね)

 とは言うものの、何もしないのも手持ちぶさたなのは事実だ。オキシは握りしめていた右手に視線を落とす。手を開くと、そこには光沢の無い灰色の硬貨が一枚あった。新品の時はもっと輝いていたかもしれないが、長い間、人の手を渡るうちにくすんでしまったのだろう。

 この硬貨は通りを歩いている時に、あまりに物珍しそうに店を見ていたので、キセノンから一枚貰ったのだ。オキシが今持っている硬貨は一番安い硬貨で、露店に並ぶ小さな菓子程度のものは買えると聞いた。つまり飴玉のひとつでも買って楽しめという、キセノンの気遣いだったのだろう。


「ちょっとだけ五十円玉に似ている」

 この国の硬貨は総じて真ん中に穴が開いており、その周りには文字のような模様が小さく刻まれている。今オキシが手にしているその硬貨は、例えるなら古くなって光沢の無くなった五十円玉のようであった。硬貨の大きさは五十円玉よりも大きく、同じように穴も幾分か大きいが。


 オキシは硬貨に開いた穴を左目で覗き込む。

 そこから青い空が見えた。尾の長い鳥に似た生物の群れが横切っていく。視線を少し下に移すと高い石の壁が見える。この壁は魔物が侵入しないようにするためのものだ。町の外周が壁で囲まれている以外は木造の家屋が並んでおり、日本の少し昔の古い町並みが残る場所のような風景であった。

 広場には露店が立ち並び、様々な雑貨や装飾品が売られていた。それに加えて、楽器弾きや大道芸をする人などが、行き交う人々相手に己の技能を披露しており、それを囲む群衆の歓声でますます雑多としている。

 こんなに人がいるならば、紛れて絵を売っても変に目立たないだろう。絵を売るという行為はなんとなく踏みきる勇気はないが、キセノンが「良いんじゃないか」と言ってくれたので、風景画でも描いて「旅の思い出に絵葉書を一枚いかがですか」的なことを、やってみても良いかもしれないと、少し心が動く。

 しかし、ざっと眺めてみても人気のある野外芸術家(パフォーマー)は魅せる技術だけではなく、総じて話術にも長けている。客を喜ばせるという心意気がなくてはやっていけないだろう。その瞬間、オキシは自分にはやはり無理だろうとも思った。彼らと根本的に生きている世界が異なるのである。

 部屋にこもって研究し、話す相手といったら自分と同じ興味を持ったマニアックな者たちだけ。ほぼ社会から隔離されたような閉じた集合体の中で過ごしてきたオキシに、一般受けするような世間話や冗談を言えるはずがない。ましてや人間を相手にするというのは最も向かない行為で、考えるだけで非常に煩雑であるという言葉に尽きる。

「ま、あくまで選択肢の一つとして心にとめておく程度かな」

 オキシは観察を再開した。



 噴水の縁に座っているオキシは、先ほどまで町の景色に目を奪われていたが、次は通りを歩く人たちが興味の対象となっていた。

 ものめずらしそうに辺りを見る者の存在は、旅人がよく訪れるこの町においてはさほど珍しいものではない。それは単なる日常の風景のひとつであり、特にそれについて気をとめるものは少ない。

 それに興味深そうに硬貨の穴から世界をのぞいている様子は端から見れば実にほほえましく、親を待っていて手持ち無沙汰な子供の行動にしか見えないのだ。

 黒髪に白衣というオキシの容姿はこの世界においては馴染みのないものなので、町を行く人も横目にすることがあり時折視線がかち合うが、それ以上のことはなく人は変わらず通り過ぎていく。



「あ、キセノン発見」

 覗き込んだ硬貨の穴の先でキセノンを見つけ、穴越しに目で追う。キセノンは露店で何かを買おうとしている所だった。

(こうやって見ると、案外キセノンの姿って溶け込むんだ)

 キセノンの緑髪や白い鱗肌は、日本であったならばかなり目立っただろう。しかし、この世界の人類は実に彩り鮮やかな色をもっているので、たとえ地球ではありえない配色だったとしても違和感無くそこに存在していた。


(それにしても、本当にみんなガタイがいいなぁ)

 通りを歩く人々は男女問わず体つきがしっかりした人が多い。特に武具に身を包んでいる者たちは立派な肉体を持っている。彼らは危険生物の駆除を生業としているので、鍛え方が異なるのだろう。

(これじゃあ、僕が子供に見えても仕方ないかも)

 オキシは日本人の平均的な体型であったが、殆ど運動もしない、食べるものも食べないという健康的とは言えない生活をしていた。この屈強な中にいては、かなりひょろひょろしているように見える。


偶蹄類(ウシ・シカ)とか、無尾類(カエル)とか。……それから、いろいろ混ざった合成獣(キメラ)っぽいのもいるな)

 外見の形は地球の人間と変わらない者が多いが、時々かけ離れた奇妙な風貌に出会う。それがなんとも不気味で幻怪でありながら、どこか夢幻的で心が弾んだ。


(獣人ってやつは、話で聞くのと実際に見るとでは、驚きも違うのだな。百聞は一見にしかず、いい体験をしたよ)

 小説やゲーム等はあまり手にしてこなかったが、『魔物(モンスター)事典』や『幻想動物博物誌』といったような、さまざまな作品に登場する生物を集めた設定集のような図鑑の類は人並みには読んでいた。

 個々の物語の内容や登場人物たちの個性についてはあまり盛り上がれなかったが、幻想的(ファンタジー)な話題についていけないほど、その世界観を全く理解できないわけではなかった。話に混ざって相槌をうてる程度の知識は一応持っていた。


(それにしても、この世界の遺伝法則がものすごい気になる。見た目が明らかに異種族なのに交配できて、しかも何の問題もないなんて、なんか変な感じがする)

 異種同士の夫婦とその子供らしき姿もちらほら見かけるのだ。

 自然の摂理が地球と違っているのだろう。彼らを見ているとそれが非常に不思議で、遺伝子はどうなっているのだろうと気になってしまう。

 それは不思議な現象ではあったが、異なる種同士で子孫を残すこと自体は、ありえないことではない。地球の自然界では細菌同士、異種で接合することがままあるのである。無論、大型の動物においても、交雑交配はできないことはない。有名なところでは、マガモとアヒルの子であるアイガモをはじめ、ロバとウマの子であるラバ、ライオンとトラの子であるライガーなどが存在している。しかし大型生物の交雑は存在()しているが、自然界で起こることは稀であるし、そのようにして生まれた子や孫は繁殖能力が低い、もしくは無いことが多い。加え、人工的に生まれてきた交配種は自然の生物と雑種が進まないよう隔離し管理されていることが多い。生まれてきた子たちが何の問題もなく子孫を残し、新たな種として増えていくことは難しいのである。

 地球においては、そのような摂理になっているが、ここは異世界。いくら外見が似ていたとしても、根本的なところで進化の過程が異なっていてもおかしくはない。そう考えた場合、異なる種に属するのヒト同士であっても子孫が残せ栄えているのは、実は何も不思議なことはないのかもしれない。


(あぁ、微生物のそういうところの遺伝形態も、もしかしたら地球では考えられないことが行われていたりするのかな。有性無性問わず生殖の様子も是非とも観察してみたいものだ。別々の個体だったものが交わって、新しい一個の生体になっていく様子なんか、本当に生命の神秘だ)



「……ん、あれは何だ?」

 その人物は楕円の殻のような頭部を持ち、貫頭衣の裾からはいくつもの触手のような細い手足が覗いていた。

(どれが手? 足? 何本あるんだろう。絵に描いたようなタコ的な火星人だな。コロっとしていて、キモかわいいと言うのか、なんと言うのか……)

 オキシはその不思議な造形の人物を見て、そう思った。


『おしい。あれはね鸚鵡貝種(ノーティラシー)だよ。蛸種(オクトパシー)とは少しちがうんだ。おんなじ頭足族(セファロポディアン)なんだけれど、彼ら仲が悪くて間違うと怒るから気をつけてね』

 移りゆく思索をめぐらせていると、その思考の中に突然、少年のような声が混ざってきた。頭の中に直接声が響き、集中が乱される。何事かとオキシは辺りを見回すと硬貨の穴越しに目が合った。空の色を映したような薄い青緑の色である。


「君はいったい……何?」

 誰、ではなく、何、と問うてしまう。それはゼラチン質の体を持つ手乗りサイズの人型で、噴水のみずたまりから少し浮かんだところにいたのだ。

『何かと言いわれれば、おいらは水の精霊だよ』

 液体のヒトはそう答えた。

「精霊?」

 精霊は自然の具現化した形と言うけれど、なるほど、その薄く色づいた透明な体は水で構成されているようだ。

『おいらは、この町を流れる水の「流れ」から生まれた精霊。精霊の中では若い方だけど、それでも数百年はこの場所で水の流れを見ているよ』

「精霊か……」

 オキシは精霊と言う名の半透明な液体生命体が何であるか探るため、よく『見て』みようと、つまりは顕微鏡の眼の能力を使って凝視した。


 精霊の表皮は何か得体の知れない作用が共鳴して膜のようになっており、体内の液体を人型に保っていた。そして、その内部に保有している液体は不純物が一切含まれておらず、原子と原子が揺らめきながら綺麗に結びつき、ときに散りながら水の分子を作り上げていた。構造的に見ても純粋な液体しか存在しないことが伺えた。

 これほど純度が高い水はぜひとも微生物の培養の時に使いたいものである。これが生き物でなかったら、まちがいなく培地の材料として確保してしまうほどにすばらしい純水であった。


「……いいね。お手本のような理想的な状態だ。それにしても、てっきり固体のコロイド(ゲル)かと思ったんだけれど、何度見てもこれは完全な液体の状態。しかもそうでありながら、それは流動もせずそこにとどまっている。

 これは膜なのか壁なのか殻なのか、まるで分からないものに覆われている。体内に見えるのは本当に水のみで、目と口と言った顔らしき器官は体表にあるにはあるが、それはどう見ても器官というよりは表面に刻まれた凹凸でしかない。それ以外には核も内蔵もなんらかの器官も何もない、何も見当たらない。間違いなく何の雑じりっけも無いただの水だ。

 何なんだ、この水と膜だけで構成されていて、まるで水風船と何ら変わらない形なのに。到底、細胞があるとは思えないのに。あぁ、生物の定義からはずれている……だのに、生きていると分かる、しかも知的な生命体! 本当に得体の知れない不思議なところだな、ここは」

 オキシは、精霊を仔細に眺めながら己の感じたことを一方的にまくしたてた。

 純粋な水であるのは見てわかったが、その水に大きな動きが見られないにも関わらず、腕や脚のようなものが動いたり、髪のようなものが揺れたりと、外見の形が変わる現象というのは、観察していてまことに不思議なものであった。


『んん? ほとんど何を言っているのか聞き取れなかったけれど、おいらって不思議で理想的なの? すごいの? 格好いいの? おいら褒められてるの?』

 精霊は、オキシが自分の何かを絶賛していることだけは感じることができた。

「その通り、僕はとても感動しているんだ。本当にいい物を見た、ありがとう」

 できればもう少し観察をしたいところであったが、この精霊の声は頭に響いてどうにも集中できないのだ。


『どういたしまして。ところでさ、もしよかったら、おいらと契約しようよ!』

 精霊は瞳を輝かせオキシにそう誘う言葉を放った。

「……契約?」

 これはまた面倒くさそうな響きの単語に、オキシは精霊を見つめた。期待するかのように精霊の青緑の瞳が、ますます深く空の色に輝いていた。


『そう、契約しようよ』

 精霊は変わらない毎日に飽きはじめていた。若い精霊は総じて刺激的で面白そうなことが大好きである。しかし、ここしばらくはそのようなことは起こらなかったのだ。

 今日も気ままに水の流れに身を任せ、何事もなく、いつものように平凡な日常が過ぎていくのかと思っていたのだが、その水流に何か変な気配が伝わってきたのだ。

 この町を流れる水はこの精霊そのものである。何かが水に落ちれば、それを知ることができる。水に落ちたそれは、この世界になじんでいないような何か違和感を感じる気配であった。よく分からないモノが、感知範囲の中にやってきたのだ。

 それは水の流れを使うため、精霊の元まで情報が届くのに多少の時差がある。今そこへ行ってもそれは、もうその場所にはいないだろう。しかし、まだそれほど時間が経っていないので、その場に残っているかすかな気配をたどっていけば見つけることができるだろう。そう思った精霊は時を移さず、それを感知した場所へ向かった。

 その気配は虎狛亭裏の用水路からはじまり、その後は食堂の中を通り、町の大通りの方へ伸びている。そして、その終点の広場で見つけたのだ。硬貨の穴越しに世界を見ている『(それ)』を。

 それが近年まれに見るなかなか面白い気配の持ち主で、精霊は魂が震える思いに駆られてしまった。

 精霊は『おもしろそうなこと』に目が無い。珍妙な気配に、ついほくほくと気持ちが弾んでしまい、ぜひともお話がしたいと思ってしまったのだ。


 そして精霊は声をかけた。硬貨の穴越しに黒目が見え、しばらくその目でじっと見られたが、非常に感動しているようなので悪い気は全くしなかった。それによって気分も最高だったので、何の迷い無く「契約したい」と自然に口がそう動いてしまったのだ。


「契約、いいでしょ? しようよ」

「契約? そんな、急に言われてもな」

 オキシは眉をひそめた。

『おいら便利なんだよ。だから、契約しようよ』

 あまり乗り気に見えないオキシに精霊は自分が便利であることを主張した。

「なんというのか契約は相互の理解や合意が必要だろう? 僕は精霊と契約するということが、どういうことなのか、いまいち分からない。内容がよく分からないのに、そう契約だけ迫られても……」

 特に契約と名のつくものは意味も分からないまま軽々しく結ぶものではない。しかも精霊と契約を結ぶと言うことがどういうことなのかが、未知の領域で判断が難しかった。

 と言うよりも、神という理解の範疇を越えている存在に遭遇しただけでも納得しがたい出来事なのに、さらに精霊と言う存在の遭遇に、本音を言ってしまえばオキシは惑いを感じている。自分の中で受け入れる準備ができていない、いわゆる不可解な怪奇現象を身近に置いておきたくない心理が働いてしまっているのだ。


『あう、おいら急ぎすぎちゃった? そうだよね、理解がないまま契約を結ぶのはよくないよね。ちゃんと説明するから!』

 精霊は契約の内容と自分がいかに役に立つかを熱弁しはじめた。

 契約の基本は「魔力を報酬に精霊がそれに見合った力を貸す」と言う至極単純なもので、水の属性を持つこの精霊ならば「物体を水で濡らしたり、満たしたりすること」はもちろん、逆に「水に濡れないようにする事」もできる。『水に関することなら任せて』と精霊は両腕を腰にあて、得意げに胸を張りそう語った。


「ふむ、僕の魔力ってやつを君に与えることで、より多くの水を操るのか?」

『そうだよ』

 魔力というものが何をさしているのか、まったく分からなかったが実に興味深い内容であった。オキシは最初は気乗りがしなかったが、いつしか精霊の言葉に熱心に耳を傾けるようになっていた。


「水を操るということは、水を気化……つまり蒸発というのか、乾かすというか、そういう状態変化もできるのか?」

『もちろん。乾かしたり、凍らせたりもできるよ。でも、水の状態変化はおいらの性質だけじゃ限界があるから、大きいことは無理だけれどね』

 主に液体の水を操ることに長けているのである。

「だいたいわかった」

 オキシは左手の人差し指で鼻の辺りに触れる仕草をする。「おっと」と言葉を発し、何か思い出したような表情になったが、すぐに気を取り直して考え込んでいる。

 この精霊ならば、不純物のない水を作ることなど朝飯前だろう。それに、他の物事に対しても色々な場面で使えるだろうと、オキシは結論付けた。

「うん、契約しよう」

『やった』

 オキシのその答えに精霊は喜んでいる。


「それにしても、僕に魔力なんてものがあるんだな」

 地球には魔力というものは想像の世界にしか存在しない力だった。それが自分の中にもあるということは考えられる仮説は、すぐに思い浮かぶだけで三つ。もともと持っていたが地球では発見されていない未知なる物質であったか、存在はしていたが別の名前で認識されているか、この世界では必要なモノなので神が付加したかである。

 何にせよオキシには魔力が何であるか、検討がつかなかった。


『もちろん魔力の流れを感じるよ』

 精霊には、体内に魔力がある様子が見えた。

 この世界にある者たちは、少なからず魔力を持っている。魔力を魔法にうまく変換できない人もいるが、基本的には全ての人は魔法を扱えるのだ。

「そうなのか。……僕にも魔力が。しかし、僕は魔法を知らないし……しばらくは、キミの餌付けにしか使い道が無いだろうなぁ」

『おいらを餌付けするの?』

「そうだよ。餌付けされるほうはエサをもらうために気を引いて結果エサを得て腹を満たし、餌付けするほうは自分の心や好奇心を満たすためにエサを与える。お互いに満足する結果を得る、それを餌付け行為と言わないで、なんと言うのだろう?」

 オキシはすました顔で平然と言う。

『あははぁ。おいら、餌付けされちゃった~』

 なぜだか知らないが精霊は嬉しそうにしている。


「……で、契約をするには、何をどうすればいい?」

 精霊との契約はしたことがない。必要な手順などまったくわからないのである。

『まずは、おいらの名前教えるね。おいらはロゲンハイド』

「ロゲンハイド、か。……水素(ハイドロジェン)を並び替えたような感じの名前だ」

 自分の名前は酸素(オキシジェン)のような発音で呼ばれ、この精霊の名前は並び替えれば水素(ハイドロジェン)のようだ。

 酸素と水素が契約を結んで水を操る、文字だけで見れば電子を共有して結合している「一酸化二水素ジハイドロジェンモノオキサイド」、つまり「水」になりそうな組み合わせだ。まるで酸素と水素の化学反応のようではないか。まるで「神が用意した」ような、できすぎた偶然にオキシは苦笑いを浮かべる。

『おいらの名前はロゲンハイドだよ! ロ、ゲ、ン、ハ、イ、ド! ハイドロなんとかじゃないよ』

「こっちの話だから気にしないで、話の続き聞かせて」

 そして、契約についての話を続けるように促した。


「じゃあ、今度はお姉さんの名前教えてよ」

 精霊は淀み無くそう言ったのだ。

「お、お姉さん?」

 精霊のその言葉にオキシは驚いた。

 もともと中性的な顔立ちで、特に大学に入ってからは、どちらかといえば男性と思われていることの方が多かった。理系大学、特に院ともなると男性が多くの割合を占める。そのような環境の中、髪も短くし、化粧というものも面倒なのでしていない、そしておしゃれとは程遠い少しよれたシャツに履き古したズボンと言うような服装をしていれば、まず女性とは思わない。さらに自分を現す一人称が「僕」であることも大きな要因としてあげられるだろう。

 思い出してみれば、大学入学当初はまだ一人称は「僕」ではなかった記憶がある。最初は仲間内という限定的な環境で冗談半分で言い始めたことだったが、いつの間にか日常的に使うように移行していた。

 周りの環境が特殊で、そのような生活を五年近く続けていれば、人称の一つや二つ変わってもおかしくないのかもしれない。


「僕が女だってよくわかったね」

 昔から性別不詳のカテゴリーに分類され、ここ数年はおおよそ女性だとは思われないような行動ばかりしているため、精霊が迷いなく性別を言い当てたことに驚きを隠せなかった。

「性別がはっきり分かれている種族なら、おいら達には簡単に分かるんだよ。そんなことよりも名前、名前教えてよ」

 ロゲンハイドは催促する。

「あぁ、ごめん。僕の名前は、沖石 醇奈(おきいし じゅんな)だよ」

 少し驚いてしまったものの、オキシはすぐに気を取り直し、本名を名乗った。

『オキィシジュンナちゃんか、いい名前だね』

「ちゃん付けか……まぁいいや。ロゲンハイドちゃん、僕はどうすればいい?」

 ちゃん付けされるような年齢ではないのだが、ロゲンハイドに名前をだいたい正確に発音してもらえた嬉しさに、オキシは自然と笑んでしまった。

『おおぅ。おいらも、ちゃん付けされちゃったよ』

 なぜか笑みを浮かべたオキシを見て、ロゲンハイドは照れて、少し気後れ気味になってしまう。


『ちょっと待っててね』

 気を改めた精霊は、噴水の水面に光でできた魔方陣を展開し始める。神刻文字(ヒエログリフ)に似た何かを象ったかのような文字で図形を描き終えると、それをひょいと持ち上げてオキシの前に差し出した。

『でね、「ロゲンハイドと契約結ぶ」って思いながら、ここに手を置くの!』

 ロゲンハイドは魔方陣の一番下にある空白の部分を指差した。

「これは、契約書みたいなものか」

『そうそう。それで契約は終わり!』

「かなりいい加減なんだな」

 契約はこんなに簡単でいいのだろうか。

『本当は色々儀式が必要なんだけれど、きっと面倒でしょ?』

「まぁ、そうだけど。大丈夫なのか、こんなので」

『形式にこだわるのは、大昔からいる精霊だけだよ。実は、そういうの気にしない精霊も多いんだよ。人間社会で言うと、とにかく署名さえもらえれば処理できる書類と言ったら良いかな!』

「……そういうものなんだ」

 精霊の世界でも、「近頃の若者は」とか言われていたりするのだろうか。そんなことを思いながらオキシはロゲンハイドの話を聞く。


 オキシはロゲンハイドが差し出している魔法陣に触れた。光でできている模様なのにしっかりと感触があることに摩訶不思議な力を感じずにはいられなかった。「やはり、魔法は得たいが知れない」と、考えながらもそれを受け取った。

 そして、ロゲンハイドが言うように、「ロゲンハイドと契約結ぶ」と考えながら魔方陣に手を置いた。魔方陣は光り輝くと回転しながら二つに複製し、片方はオキシの、もう片方はロゲンハイドの体内に消えていった。

「これで契約ってやつは終わりか」

『そう、よろしくね』

「ああ、よろしく。……さて、僕は観察活動に戻るよ」

 精霊についてはもう興味がないといったように、オキシは再び景色や人を観察する作業に戻るのだった。


『え? えええええ? あぁ、もう少し構ってよ』

 予想外の薄い反応に、ロゲンハイドはオキシの白衣を引っ張り気味に気を引こうとする。

『ねぇ、ねぇ。聞いてる?』

「うぅ、頭の中が、ものすごく騒がしい!」

 人一人に話し掛けられる程度であるならば、ただの雑音の一種として完全に無視できるのだが、頭の中に直接響くその違和感のせいで、どうも調子が狂う。精霊が語りかけるたび意識は乱されて、あまり観察に深く集中できないのだ。


「……ちょっとうるさい、この噴水の底に沈めるぞ?」

 少し騒がしかったので、オキシはいつものように暴言をはく。

『あ~ん、いじわる!』

 その言葉はかなり本気であることを感じた精霊は、おとなしくオキシの肩に座る。精霊の重さや感触は、意識しなければ無いに等しい。現にオキシも肩に乗っているロゲンハイドを全く気にしていなかった。


『楽しい?』

 ロゲンハイドは問う。

「うん」

 オキシは短くそう答える。

『……そっかぁ。飽きない?』

「うん」

『つれない……』

「うん」

『……あ! オキィシちゃんの知り合いっぽい人が、こっちに来るよ』

 脳内に響く声は、嫌でも認識してしまう。だから、そう告げた精霊のその声もオキシにも支障なく届いていた。

「うん……え? もう、キセノン戻ってくるのか」

 オキシが視線をそちらに移せば、確かにキセノンがこちらに向かって来るのが見えた。残念ながら観察の時間はここまでだった。

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