8・受け答えが曖昧だったので、記憶喪失だと思われた。【※挿絵あり】
店内にはカウンター席が数席とテーブルが十程度あった。右手の奥には階段があり、そこを上がっていけば宿泊用の部屋が並んでいる。今は食事を摂るのが目的なので上階には用がないが、この町を訪れた旅人たちが宿泊のため利用しているはずだ。
まだ明るい時間ということもあってか酒場というよりは、大衆食堂のような雰囲気が漂っている。朝の時間帯はとうに過ぎたが昼時には遠く、そのような中途半端な時刻と言うこともあり、店には客がいなかった。
店に入るとすぐに従業員が話しかけてきた。
「キセノンいらっしゃい。そして、はじめまして、僕はタンタルと言います」
タンタルは常連のキセノンには軽く挨拶をし、次にオキシのほうを見て自己紹介をした。
「こちらこそ、はじめまして。沖石です」
オキシはタンタルを見上げる。黄茶色のクセっ毛からのぞく獣の耳が、興味深そうにオキシの方を向いていた。この青年に生えている、黄褐色に濃い茶の縞が入った立派な毛皮は虎によく似ていた。ここが地球であったのならば、その耳や毛皮は間違いなく作り物である。しかし、この世界には獣人が存在する、この青年は虎のような人類ということになる。
「オキシちゃんか。よろしくね。キセノン、この子どうしたの?」
タンタルはキセノンに話題をふった。
「外の草原で、何というか拾ったんだよ」
「まったくキセノンは、お人よしなんだから」
タンタルとキセノンの何気ない雑談をしている。
(この人はキセノンというのか。そういえば、彼の名前は聞いていなかったなぁ)
「どうした?」
オキシが無言のまま、じっと上目でキセノンを見ている事のに気がついて、キセノンはオキシの方に視線を落とす。
「いや、なんでもない。こっちの話。気にしないで」
今まで彼の名前を知らなかったなんて言うわけにはいかない。キセノンの名前を知ることができてオキシは、にこやかだった。
「……何なんだろう、さっきから」
何もかも、もやもやとした気分のキセノンなのだった。
「ちょっと長話しちゃったね。席は空いているから好きなところに座ってよ。品書きは壁に張ってあるから」
タンタルが指差した先の壁には、品書きらしき文字が書かれた紙が何枚か張られていた。品書き以外にも様々なチラシのような紙が貼られ、雑多としながらも、どこか心落ち着く素朴な雰囲気を醸し出していた。
「ところでキセノンさん」
オキシはキセノンの袖を引き、知ったばかりの彼の名前を呼ぶ。
「キセノンでいいぞ。どうした改まって?」
「あ、あの……僕、字が読めない」
言葉は問題なく通じているだけに、文字だけが読めないことを、改まってそう言い出すのが少し恥ずかしかった。
文字の色や太さやの配置などから、黒く太めの文字で書かれたのが品書きで、その隣に書かれた赤い文字が売り文句的な何かだろうと推測することしかできなかった。しかし、仮に文字が読めたとしても、おそらくは何の料理のことか分からない可能性もあるだろう。
「字が読めないのか」
異なる地方から来た者ならば、この国の文字が読めなくともおかしなことはない。キセノンは、オキシの本に見たこともない文字が書かれていたことを見ているので、この国の文字が読めないことに何の疑問も感じなかった。
「好きなものとか、嫌いなものはあるか?」
オキシに食べ物の好みについて尋ねた。
「食べたくないものは、たくさんある……ええと、魚とか野菜とか、さっぱりした感じのは食べる」
途中キセノンの顔が一瞬怖くなったような気がしたので、食べられるものをオキシは言った。
好きだから食べるとか、嫌いだから食べないというよりも、気分の問題で食べたいと思わないと、食べる気があんまり起きないのである。あまりお腹のすいていない今、正直なところ肉のようながっつりしたものは食べたい気分ではなかった。
「じゃあ、魚系のもの頼むぞ」
「そんなにたくさんは食べないから、本当にちょっとでいいよ」
「だめだ。しっかり食べろ」
「……善処するよ」
キセノンは品書きを一通り見たところで注文する。
「今日のおすすめの『焼肉定食』と、『焼魚定食』をひとつずつ」
――オキシは何となく「弱肉強食」とベタなボケを言いたくなったが、すんでのところで堪えた。
注文し終え、キセノンはさっそく本題に入った。
「オキシは親とはぐれたのか? それとも家出か?」
オキシの持っている持ち物からしても、旅をしているという雰囲気はなく、その身一つで出てきたという気配が強く漂っていたのだ。
「もう独り立ちはして、親元からは離れて暮らしているから……はぐれてもいないし、家出でもないよ」
大学へ通うことになった時点で一人暮らしは始めていた。
「そうか。一応、巣立ちはしたんだな」
「うん、巣立ったねぇ」
「しかしお前の場合、乳離れの方がいいな」
キセノンは唇鱗をくいっとあげる。キセノンのその言葉には大人になって独り立ちしたという意味合いよりは、どこかまだ子ども扱いな語感がひしひしとにじみでていた。
「同じような意味なのに、なんか嫌だな、それ……」
オキシはおもしろくなさげに、唇を尖らせた。すっかり機嫌を損ね左手で頬杖をついて、右手人差し指でテーブルの上に意味もなく円を描いては、その中心を指先で軽く叩く行動を繰り返している。
「そうふてくされるな。ところで出身はどこだ?」
「出身? ええと……遠いところにある小さな国? 本当に……とっても遠いところにあるんだ」
その遠さは距離ではなく時空をも超えた、この世界に住む人は誰も知らない本当に遠い場所に故郷はあるのだ。
「ここにはどうやって来たんだ?」
「……どうやって来たか? なんて言うのかな……徒歩?」
すねているオキシは、キセノンと目を合わせずに言う。
キセノンは当たり障りのない基本的な質問をいくつかする。しかし、オキシの回答はどこか要領を得ていないようにキセノンは感じた。オキシが何かを語るのを隠すためと言うよりも、どうやって説明したらいいのか戸惑っているような、そんな印象をキセノンは受けた。
「もしかして……記憶喪失なのか?」
キセノンはひとつの憶測に行き着いた。
「いや、そんな大それたものじゃないんだけれど……」
地球から来たことはあんまり明言したくないと思いつつも、今いるこの場所が世界的に見てどのような地域にあるのか、この世界にはどのような移動手段があるのか、そんな基本的な事が分かっていないので、嘘をつくにしても持っている情報が少なすぎた。
仮に地球から来たと言ったとしても、電子顕微鏡を覗いたら白い空間に行き、そこで神に出会い、そして神の力によって、気がついたらあの場所にいたのである。あの草原に一個体の生物として、突然自然発生したといってもいい。生命の創成を研究する学者が聞いたら気絶しそうな現象によって、今この場にいるのだ。
自分でも理解していない現象をどういう風に説明したらいいのか、分からなかった。地球から来たこと抜きで説明するにしても、含めて説明するにしても、どちらにしろ、どう答えらいいのか分からないのだ。
「別に記憶が無いから、どうのこうのという感じではなくて。本当に何て言うのかな、よく分からないと答えるしかないんだ。実際のところ……記憶の喪失とまではいかなくても、何が起きたかなんて詳しく分からなくて……今現在の状況に混乱することがあるのは事実だし」
地球の日本にいた感覚が残っているからこそ、急に訪れることになった異世界との競合において、いくつかの物事にずれがある。自分の置かれている境遇に対しての調節がまだできていない部分があるのだ。
(あぁ、むしろ本当に記憶喪失でもいいような気がしてきた)
頭の中が本格的に混乱しだしている。何を言いたいのか、何を考えたいのか、よくわからなくなってきた。
「わけが分からなくて、ごめん。とにかく、今はそこらへんの状況の説明がうまくできないんだ」
「記憶の混乱か……」
むしろ、そういうのを記憶喪失と言うのではないのだろうか。とキセノンは思った。
オキシがよくわからない不思議な現象によって異なる世界から来たことをうまく表現できないだけという事を知らないキセノンは、記憶を失ったためにあやふやだから説明できないのだと勘違いし始めていた。
オキシの今までの奇怪な行動や不安定な精神状態が、失った記憶と現在おかれている状況の記憶の不一致から来るものだとしたら? そう思えば、時々口にする「そうか、そうだった」とか「こっちの話」とか、自分で納得するような言動の意味も納得がいく。あまり深く尋ねるのは良くないのかもしれないと、キセノンはそういう誤解を勝手に抱いて、そう納得してしまった。
「何があったのか分からないが、苦労したんだな」
「キセノンのほうが、苦労してそうだけれど?」
見ず知らずの人間に対しても、こんなに面倒見がいいのだ。いらぬ気苦労も多いように思えるのだ。
「分からないことがあったら俺に聞け」
「……ありがとう。でも、それは本当にキセノンが苦労しそうだよ?」
オキシはこの世界のことはまったくと言っていいほど何も知らない。この世界の人間から見たら、記憶喪失だといっていいほどに。分からないことにいちいち丁寧に答えていたら、それこそ心労ものである。
「俺のことは気にするな」
「気にするよ……その、今まで、いろいろ迷惑かけっぱなしだったし……、ええと、その、ごめんなさい、ありがとう」
異世界に来て、見たことも無い微生物に触れて異常なくらい高ぶりすぎていた感情は、冷たい水で顔を洗ったり、キセノンと会話しているうちに、だいぶ落ち着いてきたと言っていいだろう。正気に戻りつつあると言ってもいい。今更ながら、かなりキセノンに迷惑や心配をかけていたことも認識し始めていた。
「……その自覚はあったんだな」
「一応ね。しょっ……たまに、ああなって、よく後悔している」
「そうか」
オキシが「しょっちゅう」と言いかけていたのをキセノンは見逃していなかった。
もしかすると記憶喪失ではなくて、寝食を忘れるほどに没頭したために最近の行動について、わけが分からなくなった可能性も出てきたと、キセノンは考えを改める。
それは全くありえないことではないだろう。本人が混乱しているだけで記憶喪失ではないといっている以上、もう少し様子を見ないことには本当のところは分からないのだ。
「はい、どうぞ。今はお客さんがいないから、もうすぐできるからね」
丁度その時、タンタルが食べる時に使う道具一式を持ってきた。
オキシは机に置かれた道具を、じっと見つめる。タンタルが持ってきた食器の中に見慣れない道具があったのだ。
「ねぇ、これ何に使うの?」
平べったい小さなへらのような、二等辺三角形に似た細長い道具をつまみあげ、オキシはキセノンに尋ねた。
「それは、魚を食べるのに使う道具だ。ちなみに、そこは持つ所はそこじゃないぞ。こうだ」
キセノンは手本を見せた。
「こうか」
オキシはそう言ってその道具を持ち替える。その持ち方もどこか違和感があり、それこそ慣れていない子供のようだとキセノンは思った。
(これは、いよいよ記憶喪失確定じゃないのか?)
この地域、否、この世界で一般的な道具を知らないという事実に、早くもキセノンの中で記憶喪失説は限りなく確定に近い事実となり、オキシに対しての所見が「常軌を逸している子供」から「記憶喪失を自覚していない常軌を逸している子供」に変更されつつあった。
「ところで、飯を食べたらどうするんだ?」
キセノンは鱗に覆われた指を組み机に肘をつくと、オキシの方に視線を向ける。
オキシはその質問にどう答えようか考える。本音を言えば、微生物さえ観察できれば問題は無い。しかし、自分が本当に行きたい場所、例えばさっきまでいた草原とか、あの用水路の周辺とか、日陰の湿った暗がりの辺りとか、他人に邪魔されないようなあまり人気のない場所へ行きたいと言おうものなら、そんなところに何をしにいくんだとキセノンに止められそうなので、到底言えるわけがなかった。かと言って微生物を観察すること以外のことは、取りたてて思い浮かばない。
「……特には考えていない」
結局そう答えることにした。
「なら、町を案内するぞ。初めてなんだろう? この町は」
「この町は、初めてだけれど」
この町は初めてであるというよりも、この世界の町は初めてだ。観光にあまり興味がないとはいえ、しばらくこの町にお世話になるだろう。町並みや雰囲気くらいは知っておいたほうがいいかもしれない。そう思いオキシはキセノンの提案に異存はなかった。
「案内ついでに、組合にでも寄っていくかな。うん、そのほうがいいな」
「ぎるど?」
キセノンは、日本ではあまり聞きなれない施設の名前を言う。
「行方不明者や家出人なんかの捜索を取り扱う施設があるんだ。もしかしたら知り合いか誰かが探しているかもしれないし、何か手がかりが見つかるかもしれないぞ? 行ってみるか?」
オキシを記憶喪失の子供だと思いこんでいるキセノンはそう提案してくる。
「それに行くあてのない子供と言うことだったら、しばらく保護してもらえるだろうし、その間に仕事でも何でも探して金をためればいい」
何か情報があればそれに越したことはないのだが、無かった場合でも訳がありそうな子供だ、何の問題もなく寝床を貸してもらえるだろう。
「ん、あ、うん……」
記憶喪失でも、子供でもないのだが、身元不明な不審者をそういう施設に届けるのは普通だろう。オキシはそう思った。いくら調べても、自分がどこの誰だと言うのは出てこないだろうが、今はお金も全く無い。少しくらいそこにお世話になるのも悪くはないだろう。
「それに、組合はちょっとした仕事を紹介してくれるところでもある。オキシは今、金を稼ぐ当てがないのだろう? そこで組合の登場だ。それこそ家の片付けの手伝いといった雑用から魔物の討伐まで、日雇いから長期の仕事募集まで色々あるぞ」
「仕事の紹介所かぁ」
「いろいろな仕事がある。行ってみるだけの価値はあるだろう」
「そうだねぇ、行ってみるだけ行ってみよう。駄目もとで」
生活するためのお金があると便利だとは思っているが、自分の好きなことをするのに影響が出るくらいなら、いっそのことお金はなくてもいいと思っている。
好きなことをするために最低限必要な物はもうすでに持っているし、生活するうえで一番基本的で一番必要であろう食料の問題は考えなくてもいいのだから。
「仕事が無かったとしても、野宿でも良いやと思っているんだろう?」
考えていることはお見通しとばかりに、キセノンは鋭く瞳を光らせる。
「た、多少は」
心の内を見透かされ、オキシはうつむき加減に小さく答えた。
「さっきも言ったと思うが、最近は通り魔なんてやつもいて、少し物騒なんだぞ」
オキシの危機管理能力は無いに等しいことを、キセノンは分かっていた。部屋があったとしても確実に安全というわけではないのだが、無防備にそこら辺で熟睡するよりは、はるかにましだ。
「わかってる。通り魔とか魔物抜きにしても、ゆっくり休む場所があることが、すばらしいというのは」
布団のぬくもりは、何物にも変えられない心地よさを持っている。そのまどろみの中、やりたいことがあるから起きなくちゃいけないけれど、もっと夢見心地の中で寝ていたいという矛盾した気持ちと戦うことは嫌いではない。そういった意味でも、部屋があれば生活の質がさらに上がるのは間違いない。
「本当に分かっているのかどうかは、あやしいところだな」
「わかってる、わかってるよ。わかっているから、大丈夫」
オキシ自身も、あまり分かっていないことを自覚しているが、便宜上そう言っておく。そして、そんな様子のオキシを見て、キセノンはため息をついた。
「と、とにかく。そこには僕でもできそうな仕事あるかなぁ」
オキシは話題の転換を試みる。組合へ行ったとしても、それだけが心配なのだ。少しでも興味が持てれば何とかなるのだが、あまり興味がないことはやる前から飽きてしまうのだ。
「まぁ、すぐにできそうなのが無かったとしても……それだけ絵がうまいなら、広場かどこかで風景の絵とか人物とか描いて売ればいいだろう。広場にはそういうことを生業としている者も何人かいるし、お前の絵は通用すると思うぞ」
キセノンはこの町の中央広場で、観光客向けにそういうことをしている者たちがいるのを、日常的に目にしていた。オキシのあの不気味な絵はどうかと思うが、動植物を描いた絵を見る限り問題は無いように思えたのだ。
広場での活動は、毎回決まった数が売れるとは限らないので本業にするのは難しいが、天気が良い日など人が多くいる時には、うまくいけば数日分のその場しのぎの金は手に入るだろう。
「絵、ねぇ。僕はあんまり、そういうのは得意ではないんだけれど」
生物のスケッチはよくするが、だからといって絵を描く行為事態が好きかどうかといえば、どうなのだろう。と、オキシは自問する。
「いや、充分うまいと思うぞ」
「そうかなぁ……。そうだ、ちょっとの間じっとしてて」
オキシは胸のポケットからチラシの裏で作った手作りのメモ帳とペンを取りだした。胸のポケットに入れていたため、用水路に落ちたときに濡れずにすんだ紙類である。
黄色や橙色と様々な色がある中、オキシは一番上にあった白い色のチラシを1枚引き抜き、無言のまま何かを描き始めた。時々顔を上げては、キセノンの顔を観察してる。オキシはどうやらキセノンを描いているようだ。
「耳かと思ったら、それ角なんだね」
淡い緑の髪から見えていたのは、少し後ろに反った形の白い小型の角だった。爬虫類に耳介がないのは、ここでも同じなのだろうか。そんなことを思いながら、オキシは絵を描きあげていく。
少ししてオキシはキセノンを描きあげた。
「本当に大雑把に描いてみたけれど、人物を書くとこんな感じになるんだぞ?」
オキシはキセノンに紙を手渡した。
「これは充分に良いと思うが?」
適当に描いたとオキシが言っていたように、確かに線は荒く単純化され、輪郭のぶれも多かった。しかし、紙に描かれたそれは特徴が捉えてあって、誰が見てもキセノンであると答えるであろう。
たった数分でこれだけのものが描けるのだ、もしもある程度時間をかけて描いたのならば、例えばそうオキシの持っている本に書かれた草花のように丁寧に描かれたのならば、どんな秀逸なものが出来上がるというのだろう。
オキシの描いたこの絵のどこに問題があるのかキセノンには分からなかった。
「でも、その絵はどこか不気味だろう? 植物や建物の時はまだいいかもしれないが、生き物の場合はその構図だけではなく、その表情を見る。ただ記す観察のための写生や、図鑑にするのならばいいが……。人に贈る、その人のための絵となると、いくらそれっぽくきれいに描いても、ね。自分の絵に足りないものは、多分それなんだ」
見た目は似せることができても、自分の絵には心がない。それを写し取ることが、自分にはできないのだから。芸術家のように、心や感情を絵筆に乗せて描くということが、できないのだ。
「よくわからないが……」
言われてみればそのような気はするが、それは取るに足らない些細なことのように思えた。
「僕にもよく分からないよ。とにかく、特に人物画は得意ではないし、それに自分が納得しないものを売るなんてもってのほかだ」
まじめな日本人の性分だからなのか、職人気質だからなのかは分からないが、納得のいかないものはあんまり販売したくは無かった。
「まったく問題ないと思うのだが」
キセノンは紙をオキシに返そうとする。
「ん、それはあげるよ。せっかくだし」
描いたはいいものの持っていても仕方がない。それに、絵を褒められて悪い気はしなかったのだ。
「あ、ああ。ありがとう」
キセノンは、しばらく描かれた絵を見ていたが、ふとチラシの裏を見た。真っ黒なインクで、先ほどオキシの本を覗いた時に見たような文字がそこに書かれていた。
あの本にオキシが書きこんでいた文字は癖が強く混沌としていたが、この紙にある文字はそれとは異なり美しい直線や曲線を描いていた。型にはまった無機物のように、文字は紙の上に整然と並んでいる印象を受けた。
精霊たちが使う文字にも匹敵するほど複雑な形を持つこの文字が、オキシの国で使われている文字。オキシはこの国の文字が読めないと言ったが、改めて見てみると、これほど似ても似つかぬ文字ならば仕方がないことだと思った。
「そこには『日頃のご愛顧に感謝して』って書いてあるんだよ。半分切れちゃってるけれど、開催期間とか目玉商品とかも書いてあるね」
キセノンがチラシの裏を見ているのに気がついて、オキシはチラシに書いてあることを読み上げた。
「これはイベントを知らせるチラシか。これは、ありがたく貰っておくよ」
偶然にもオキシの故郷についての情報を手に入れた。調べてみれば何か手がかりが分かるかもしれないと、キセノンは大切にその紙をしまった。
「おまたせ」
注文した料理ができたようだ。タンタルは焼肉定食をキセノンの前へ、焼魚定食をオキシの前へ置いた。
木製の角盆に陶磁器の食器が並んでいる。使われている食器や配置などは地球のそれと変わらず見慣れたものだった。奇抜な色の食材や盛り付けで出てきたらどうしようと思っていたので、そこは安心した。しかし、見た目がまともとはいえ、皿に盛り付けられている食材は摩訶不思議な造形をしている。
「これ、なんて言う魚?」
焼魚定食の主役である二匹の魚は細身で、シーラカンスを思わせる原始的な尾ヒレを持っている。なんとなく目が昆虫のような複眼であるような気もする。地球では、お目にかかれない造形の魚である。
「それはスマニクだな」
「すま、にく。すま肉?」
翻訳されずそのままの音で聞こえる固有名詞は、発音しづらかった。
「なんか少し発音が違うような気もするが。今が旬の魚だ」
「名前はとにかく、おいしそうな焼き色だ」
化粧塩のまぶされてぴんと張っている白いヒレと、黄褐色の美しい焼き色が、見た目の不気味さを取り除き美しさを引き立てている。
一人暮らしを始めてから魚を焼く機会はあまり無かったので、香ばしい香りは懐かしく、久しぶりに食べる焼きたての魚だった。
「いただきます」
と、言ったはいいものの握りしめたこの道具の使い方がまったく分からない。魚を食べるのに使うと聞いていたものの、それだけの情報では扱うことはできなかった。
「これ、どうやって使うの?」
オキシはキセノンに救難信号を出す。キセノンは嫌な顔せず手馴れたように、一つ一つ丁寧にオキシに教える。
(キセノンは本当に良い人だ)
そして、あっという間に一匹目の魚はきれいに解体された。
「もう一匹のほうは、自分でやってみろ」
「うん、ありがとう」
「とにかくそれを食べてしまえ」
「うん」
キセノンが食べやすくしてくれた魚を片付けないことには、作業ができないのだ。
「さて、改めていただきます」
オキシは恐る恐る魚の身を口元まで運ぶ。
微かに震えるのは、使い慣れない道具のせいだけだろうか。
初めて目にする食べ物を口にするのだ。しかもそれは地球上のヒトが食べているものではなく、異なる世界のヒトが食べる食物。全く警戒しないで口の中に放り込めるほど肝が据わっているわけではない。
たとえこの魚に地球人にとって毒になるようなものが含まれていたとしても、毒に対する耐性があるので、さほど問題ではないのは分かっていた。
しかし、耐性はあっても、感覚は残っているということは味覚はそのままであるということなのだ。
一番の懸念は、含まれている毒ではなく、その味であった。
味覚、つまり摂食時に口にする物体の化学的特性に応じで認識される感覚によっては、全く受け付けない可能性があるのだ。舌にそれが接触したとき、脳がそれを不快と感じてしまえば、有害無害を問わず、飲み込むのを拒んでしまう。
見た目どおりの味でなかったり、辛味や苦味などの刺激をただ感じるだけならば、まだ無理やり飲み込むことはできそうであるが、どうにも食べ物として認識できないほどの耐え難い味が存在しないとは言い切れない。
見た目も匂いも悪くないだけに、味に裏切られた時にはもう二度とこの世界の料理には手を出さないかもしれない。
(ただし、醗酵食品は別腹だ。食べないなんてとんでもない話である)
別に食事など摂らなくとも生きていける体なのだから、無理をして食べる必要は無いのだ。
「どうした? 食べないのか?」
「ん、ああ。今、食べる」
異世界の食べ物について知る。これもひとつの研究だと、オキシは食べ物を放り込んだ。
魚は白身で、身に歯ごたえがあってなかなか滋味だった。変わった味はするが、嫌な感じではない。むしろ美味と感じるものであった。
「……あ、おいしいかも」
考えていた味とは異なるものの、食べ物としては成り立つ味だったので安心して二口目を口に入れる。次は、その魚を米に似ているが酸味が少し強い栗色の穀物と共にいただいた。
「……食器は持たないで食べるのが普通だな。あんまりうるさく言う人はいないが、きちんとするに越したことはないだろう」
迷わず碗を手に持って穀物を食べだしたオキシにそう助言する。
「おお、そうだったのか」
場所が変われば文化も変わる。ここは日本ではないのだ。オキシは茶碗をテーブルに戻す。
「食べづらい……」
長年の習慣のせいで、どうしても違和感が拭えない。これは馴れが必要だと感じた。
1匹目の魚を食べ終え、2匹目の魚へと移行する。2匹目は自分の力で食べなくてはいけない。キセノンに教えてもらった通りに、なんとか魚の解体作業をする。使ってみて分かったのだが、先端が少し細いので箸と同じような要領で魚の骨と身の下に入れることができるし、全体的にナイフのように平たい形をしているので骨を身から削ぐ時も比較的楽ではある。小骨や内臓もがんばれば除くことができる。
洋食とは異なり、頻繁に頭が付いたような魚の丸焼き食べるような文化があって、食器はナイフ・フォーク的なものを使っているので、魚に対応した形の道具ができたのだろうと、オキシは推察する。
(でも、箸のほうが使いやすいな)
使い慣れない道具での食事は、時々もどかしくなるのだ。
「なかなかうまいじゃないか」
「まぁね。僕の国ではこれと似ているような道具を使って食べていたんだ。だいたいの要領は同じだし、完全に初めてってわけじゃないから。使い慣れた道具でだったら、僕だって頭から尾まできれいにつながった状態の骨を取ることができるよ」
ちなみにオキシが解体した魚の背骨は無残にもばらばらになってしまっている。
「そうか、早く上達すると良いな」
「うん。ところでキセノンのは何の肉を食べているの?」
何かの肉が、灰緑色の野菜と一緒に炒まっている。肉の見た目は地球のものと同じに見えた。しかし、地球にいた頃も肉はあまり食べていないこともあり種類の判別はあまり得意ではなかった。しかもこれは異世界の肉、何の動物なのかが分るはずもなかった。
「これはモモーロの肉だ」
「ももーろ、かぁ」
(うん、やっぱり知らない生き物の肉だ。肉に変な癖とかあるのかな)
オキシは羊肉はもちろんだが、牛や豚でもその日の体調によっては、獣肉特有の癖が気になって食べられないのだ。比較的淡白な鳥のささみや胸肉が、辛うじて食べられると言ったところだろうか。
「それにしても、キセノンは食べるの早いね」
道具をうまく扱えなかったせいもあるが、まだ半分ほどしか食べ終わっていなかったのだ。
「ゆっくり食べると良いさ」
急いて食べてしまっては、味も分からないだろう。
手間取りながらも食べ進めるオキシを、キセノンは微笑ましく見守っていた。
「ごちそうさまでした」
なんとか完食した。両の手を合わせて食後の挨拶をする。
「オキシのところは、食後の祈りまであるのか?」
「あるよ。外国だと食前の祈りしかないところも多いと言うのは聞いたことがあるけれど、この国もそうなの?」
「食後の祈りは無いな」
「そうなのか。やっぱり、ここは自分の住んでいた場所と違う所なんだな。そうだ、風習ついでにここら辺の地域特有のしきたりとかある? やってはいけないこととか、気をつけなくてはいけないこととか」
「聞いてどうする?」
「郷に入れば郷に従え、って言葉が自分の国にはあって。知らない土地にいる間は、その土地のしきたりにある程度従っておけば、あんまり面倒は起きないでしょ?」
「まぁ、そうだな」
「たまに……おそらくきっと、すっかり忘れちゃう事もあるけれど、知っているのと知らないのとでは、何事も違うからね……」
とにかく目立たないように、いつのまにか溶け込んでいることが、邪魔されない第一歩なのである。
「しかし、オキシが何を知っていて、何を知らないのか分からないことにはなぁ」
「あぁ、確かにそうだよね」
その都度、聞いていくことにした。
食休みもほどほどにとったので、ころあいを見て席を立つ。
「今日はいくらになる?」
「四枚と言いたいところだけれど、少し安くしておくよ」
キセノンはタンタルに食事の代金を支払う。この国の通貨は硬貨のようだ。穴の開いた銅色の硬貨を四枚支払っていた。そして、お釣りとして灰色の硬貨を二枚受け取っていた。
通貨価値についても全く知らないと言うことに気が付き、それについて聞かなくてはいけないなとオキシはそう思った。
「また来てね、オキシちゃん」
キセノンの支払いが済むと、タンタルは笑顔で見送ってくれた。こうして虎狛亭を後にし、オキシとキセノンは町へ繰り出した。。。。