6・竜の鱗には常在菌が住んでいる。
青白い太陽は空高く昇り、草原にまたたく光の波を起こす。光の波は地平線へ揺れて消えていく。時間的に見ればキセノンが最初にオキシを見かけてから、もうすぐ一昼夜が経とうとしていた。
朝の色から昼の色へと移り変わる空をただ眺めているのにも飽き、キセノンはオキシの方を見た。依然として静かな寝息を立てており目覚める気配が無い。
オキシの傍らにはあの本が無造作に開かれている。先ほどまでオキシが描き込んでいたページが開いたまま、ただそこに置いてあった。この本の持ち主は泥だらけだったが、本自体は全く汚れていない。やはりこの本は魔道具、しかもかなり高度な魔法が施してあるとキセノンは感じた。
視界の端にあの本がちらりと入るたびに、キセノンはその本がどうしても気になってしまう。本が目に付くたび本から目をそらし、何度か草花を抜いては投げたり、眠っているオキシにちょっかいを出して遊んだりして気を紛らわせていた。しかし遠目に少ししか見ていない、あの奇妙な絵が頭から離れないのだ。
勝手に内容を見るのは失礼とは思ったが、開いたまま放置しているのが悪い、とキセノンはその本を覗き見た。
花の絵、混沌と並んだ右上がりの記号。
昆虫の絵、混沌と並んだ右上がりの記号。
小動物の絵、混沌と並んだ右上がりの記号。
あの奇妙な図形、混沌と並んだ右上がりの記号。
「絵画と言うより、何か図鑑を見ているような気分だな。しかし、この不気味な絵は一体何を描いたんだ」
植物や動物の絵はわかる。この草原に住まう生物たちだ。しかし、この奇怪なものは何なのだろうかと、やはり頭を悩ませる。
草原に生きる生物たちと共に描かれているということは、この奇妙な形をしたものが草原にいるということなのだろう。だがキセノンは一度もこのようなものを見たことがなかった。自分の見ている世界と、オキシの見えている世界は違うと言うことだろうか。
キセノンは本から視線をはずし、再びオキシの方に意識を投げる。オキシは「さっきここへ来たばかり」だと言っていたが、実際にいつからこの草原にいたのかは分からない。もしかすると思っているよりも長い時間この草原にいるのかもしれない。
「こいつは普段どんな生活をしているんだ?」
このまま放っておいたら二日でも三日でも、ここに留まりそうなそんな気配さえする。それどころか倒れるまで作業をやめないのではないだろうか。そう言う懸念が脳裏に浮かぶ。
憑かれたようにひたすらに打ち込む姿を目の当たりにしているので、全くありえないことではないと、キセノンは直感で感じていた。
「こいつが目覚めたら町へ引っ張っていこう……というより、そろそろ起こすか?」
睡眠を邪魔されたオキシの行動を思うと寝起きは悪そうだが、どんなに遅くとも昼下がりを告げる月が顔を出す前にはここを離れたい。日の照らし出しているうちはいいが、夕刻が近くなれば冷え込んでくるのだ。それにいい加減腹も減ってきた。
「おい、起きろ! オキシ!」
キセノンは、草原で泥のように眠っているオキシの体を優しく揺さぶった。
「ん……やだ。起きない、もっと寝る!」
一刀両断、即答だった。しかも寝返りに見せかけて蹴られた。全く痛くは無かったが、蹴りが来るとは思わなかった。
「こりゃ、起こすのは苦労しそうだな」
キセノンは諦めず、ささやかな抵抗を受けながらもオキシを目覚めさせようとゆさゆさと揺り動かし続けた。
「何だよぅ、本当に」
少しかすれた寝起きの声と、まだ少し目覚めきっていないどことなくぼんやりした瞳が、キセノンを攻め立てている。キセノンを睨みつつも「メガネ、メガネ」とわけの分からない言葉を発しながら、何かを探しているように顔に触れたり、前髪に触れたり、落ち着き無く両手を動かしている。
「あった、あった」
オキシがポケットに入っていた物に触れそれを取り出そうとしていた。
「あ、もういらないのか」
何かを思い出したのか、その奇行をやめた。
「……で、何かよう?」
先ほどの行動はオキシにとっては、あまり見られたくないものだったのだろうか、頬を少し赤く染めながらも、それをごまかすようにキセノンに刺すような視線を放っている。何事も無いかのように振舞ってはいるが、かなりふてくされていることが透けて見えた。
不満、動揺、はにかみ、不機嫌、ころころ変わる表情に、ますます小動物を思わせ、愛くるしく、そして見ていて飽きない反応だった。
「お前、昨日から何も食べてないんだろう? それに眠るにしても、こんなところで眠るよりも、もっと安全な場所で眠ったほうがいいぞ」
キセノンは町へ行こうと説得をし始めた。オキシは煩わしそうにしているが、時折何か考えるように頭を斜めにしては、話に耳を傾けていた。
オキシは神にもらった能力により『食』は基本的にいらない体になった。が、それは特別な力である。見ず知らずの人に教える義理は無い。うまくごまかそうとオキシは思案していたのだ。
「大丈夫、心配ないよ」
寝起きだが頭は問題なく回転を始めている、食べるものには困っていないことを伝えようと考えをめぐらせ、そして口を開いた。
「野原の草や花や根っこ、それに虫とか適当に食べるよ。寝るときもここで良い。ここで充分。さっきみたいにここで眠ることに何の不便も感じないよ」
はっきり言ってしまえば、オキシは天然の部類に入る。どんなに考えをめぐらせたところで、素でとんでもないことを言うのだ。
「こんなところで寝るな! そんなもの生で食うな! 腹壊して死んでしまうぞ! それにこの地域は平和だと言っても、魔物や強盗が出ないとはいえないんだぞ。特に夜は危険だ」
キセノンはそう訴えた。もしも人を襲うようなものが現れた場合、武器も持たないこんな小さな人間が無防備に眠っていたら、格好の餌でしかない。
「魔物に強盗かぁ。そんなやつらがいるのか、邪魔されるのは確かに嫌だな」
夜でも比較的平和な日本で生まれ育ったオキシにとって、それらに対する危険の意識はとても低い。むしろ危険と言う認識よりも、それらが現れて邪魔される方が不愉快極まりないように感じた。
「邪魔……そういう問題じゃないんだが。……そうだな、オキシは作業を邪魔されたら怒るだろう? 部屋のひとつでも借りれば、誰にも邪魔されないで絵でも睡眠でも好きなだけして過ごせるぞ。なんなら俺が泊まっている格安の場所を紹介するが」
キセノンは町へ行くことを強く勧める。
「部屋か。誰にも邪魔されない場所は魅力的ではあるけれど……でも、僕はここで使えるお金を持っていない。仕方ないから節約することにする」
自分は何も持っていないことを思い出し、そして好きなこと以外は面倒になる傾向のあるオキシは早々に部屋を諦めた。
「そこを節約してどうする! 稼げば良いだろう?」
「嫌だ、興味が無い。それに、まともに働けるとも思えない。だから働くくらいなら、それなら部屋はいらない。僕は何よりも好奇心を優先する」
オキシはためらい無くはっきりとそう言い放つ。オキシはこの場所の常識を知らない。むしろ日本にいた時も常識的であったかさえ怪しいところだ。何か吹っ切れたのか、地球にいた頃はいつも抑えていた枷が外れて、ますますやりたい放題、言いたい放題になっていた。
「あぁ、もう。強制的に連れて行くぞ」
埒が明かないとキセノンはオキシの腕をつかむ。
「ちょ、待って。僕はここを離れたくない!」
オキシはつかむ腕を振り払おうとしたが、びくともしなかった。
「おい、こら、おとなしくしろ」
キセノンがつかんでいる腕は華奢で細く、ちょっと力を入れたら折れてしまいそうな印象があった。下手をして怪我をさせやしないかと冷や冷やしていた。そんなキセノンの気がかりも知らず、オキシは動揺して暴れていた。
「はなせ! この!」
オキシは足蹴りをしたり、空いているほうの手で殴りつけたり、たまに引っかきの攻撃も入れたりしているが、鱗は固くまったく効いていないようだった。
「ぬぅ、やけに硬い鱗だな」
オキシはすぐに持久力が切れ、おとなしくなった。
「もう、息が上がったのか? 食べていないからだぞ」
「もともと、あんまり運動はしない方なんだよ。あぁぁ、本、当、に、硬い鱗だな。鱗って言うのか亀の甲羅を叩いている感じがしたよ。もしかして、この鱗は皮骨とか骨と融合しているのか? 爬虫類だものな、充分にありうる。もう、亀野郎って呼んでしまおう。いや、それじゃあ亀の方がかわいそうだ」
意味不明な暴言を吐きつつも、オキシはキセノンの鱗をぐりぐりと押しまわして、未だになけなしの抵抗を続けている。
「俺は竜種だからな。鱗はもちろんそこら辺の爬虫族よりも頑丈にできているが……」
亀種は同じ爬虫族という括りに入るとはいえ、亀呼ばわりされたのは初めてだった。
「竜? 竜なのか! その鱗は、そうなのか竜なのか!」
キセノンが「竜」と言った瞬間、オキシはつかまれていない方の手でキセノンの腕をつかんだ。
竜なんて地球にはいなかった。そういう未知なるものは、観察をするに限ると、オキシはすぐに行動する。
鱗に覆われた手には指が4本あり、人差し指が一番長く、中指、親指、薬指という順に短くなっていく。この時点で、地球のヒトとは異なる形質だ。
そして、よく見てみれば彼が持っている鱗は光の具合で色合いが変わる構造色をしている。
構造色とは、例えばシャボン玉や孔雀の羽、サンマやイワシ、オパールのように、見る方向によって色が変わる特徴を持つ色のことである。それ自身には色がついていないが、光が干渉して発色して見える性質がある。
そんな特性を持つ鱗を観察できる、これはチャンスだとオキシは思った。
「このありえなく硬い鱗の構造がどうなっているのか見てやる。叩いても引っかいても傷ひとつつかない丈夫さがありながら、モルフォ蝶の翅にも似た輝きを持つこの輝きの秘密を『見て』やろう、『見て』やるぞ!」
そう早口に言って、オキシはじっとキセノンの腕に生えた鱗を見つめはじめた。
「鱗がそんなに珍しいのか? お前はどんな場所から来たんだ?」
しかし、その問に答えることはなかった。オキシの興味の対象は鱗に移り、意識から他人の存在が消えたのだ。こうなっては、何を聞いてもまともな反応は返ってこない。
「白い方も青い方も鱗自体は透明にみえるんだね。爬虫類なのに透明鱗持ちとは珍しい。白い鱗は体表の表面色がそのまま表に出ているだけで、見た感じ普通の鱗と変わらない。
青の方はこの細かな格子状の溝と、溝の側面にあるいくつもの板状の襞が光の波に干渉して青を強めて反射しているのだろう。だから、あの不思議で幻想的な色を出せるのか、たぶんそうだ。もうちょっと拡大、あぁなんてきめ細かに並んでいる構造なんだろう、この規則正しい配置にきっと硬さの秘密もあるんだろうな……おっと、これは常在菌かな、ここでも微生物は動物と共生しているんだ、素晴らしい。あぁ、もぞもぞ動いて、かわいいやつめ」
何かにとり憑かれた様に、早い調子でしゃべりだしている。
鱗を見ていることは確かなのだが、その口から出る表現は明らかにどこかおかしい。
「今度は俺の鱗に興味を持ったのか?」
キセノンはオキシにつかまれている腕を引いてみた。オキシは離そうとしない。それどころか、「動かないで」と言う始末である。
キセノンはゆっくり歩いてみた。オキシは文句を言いつつも、おとなしくその動きに合わせて歩く。
「……このまま町まで連れて行くか」
キセノンはオキシの本を閉じ拾いあげる。それを小脇に抱え、意味不明な言葉を連発しているオキシを引っ張りながら町へと向かって歩きだした。
「にしても、俺の鱗がそんなに気に入ったのだろうか?」
あまり悪い気はしないのだが、こんなにも凝視されるとそこはかとなく恥ずかしい。
「オキシのその宵闇のような瞳のほうが、俺は素敵だと思うのだが」
無論、オキシは聞いてはいない。
「……はぁ、子供相手に何を言っているんだ、俺は」
相手がまったく聞いていないとはいえ、まるで女性を褒める口説き文句のような言葉を思わず口にしてしまい、一人大きく息を吐くキセノンであった。