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微生物を愛でたいのだよ!  作者: まいまいഊ
1-f『常なる日々の記録』
31/59

31・服屋へ行く時には、着せ替え人形になる覚悟が必須。

 ――祭り当日。


 この日のために用意したらしき真新しい日よけの布が鮮やかに通りを飾り、遠い国からもたらされた珍しい品がその下に並ぶ。

 まるで美術品のような小物や、挿絵の美しい本、有名料理人が作ったという菓子など、普段見ないような品物たちが山積みになっている。首都で流行りだという服や装飾具が華やかに輝いていると思えば、その隣で怪しげな薬草などを扱っている少し胡散くさい店が開いていた。

 それらの品々に目移りしながら、人の波はざわざわと流れていく。


 活気にあふれているのは大通りだけではない。町の中央広場に設置された特設ステージでは赤や青の派手な光が踊り、心が躍るような音楽が流れている。大道芸人たちによる躍動的な演目に観客たちは歓声をあげ、祭りはますます熱が入る。老若男女、そして様々な種族が入り混じり、フェルミの町はいつもとは異なる活気であふれていた。


 オキシは虎狛亭を出てその大通りへ出る。ここを通らなければ待ち合わせの場所までは行くことができない。オキシは人波を縫うように、広場へと向かう。

 テルルとの待ち合わせの場所はその広場にある時計塔だ。しっぽ側と決めてはいても、たくさんの人が待ち合わせの目印に使う時計塔周辺は、すでに多くの人で賑わっていた。広場は広いだけあって通りに比べれば人の密度もいくらか低かったが、それでも人々の波に埋もれてしまい遠くまで見渡せない。

 オキシはテルルの姿を探したが、この混雑の中で特定の人を探すのは一苦労だ。


「おーい、オキシ!」

 先に見つけたのはテルルの方であった。子供の声というのは、よく通る。オキシはすぐにテルルの姿を認め、駆け寄った。


「あれ、なんでサルファさんもいるんですか?」

 待ち合わせの場所には、テルル以外にも組合(ギルド)の受付嬢のサルファがいた。偶然待ち合わせ場所が一緒だったという雰囲気ではなく、どういういきさつがあったのかは不明だが、すでに一緒に買い物へ行くことが決定事項のような、そんな気満々の気配が漂っていた。

 なぜサルファが一緒にいるのか、オキシのその疑問にテルルが答えた。


「成り行きで一緒に行くことになったよ。実はあたいとサルファは従姉妹なんだ。家も近所でさ。オキシと祭りに行くって言ったら、一緒に行こうってなって。サルファと一緒なんて、本当に久しぶり」

 テルルが上機嫌な様子で言う。流行の先端を行くお洒落なサルファは、女の子たちの間でも憧れの的であった。親戚であるとはいえ、そのサルファと祭りを見て回れることが、テルルには嬉しいことなのだ。


「従姉妹だったのか。でも、本当にいいんですか? 一緒に行く人たくさんいそうなのに」

 サルファほどの器量の好い女性ならば、祭りに誘う(おとこ)など手に余るほどいそうなものである。


「うふふふ、たまにはこういうのもね。昼食くらいはおごるわよ。『それに買い物して嫌なことパーと忘れちゃお、ね?』」

 テルルはオキシの身に起こったことを知らない、サルファはテルルに気付かれないような小声でオキシに囁く。彼女もまた、連続殺人犯に遭遇してしまったオキシを心配する一人だっだ。


「まぁ、はい……」

(買い物なんかで気晴らししなくとも……嫌なことを本当に忘れるくらい熱中できることが、僕にはあるんだけれど)

 オキシはそう思いながらも、肯定の返事を返しておく。


「さぁ、人も揃ったことだし、さっそく行きましょう。今日は本当に人が多いから、はぐれないように気をつけてね」

 サルファはまるで保護者のようにオキシとテルルの手をしっかりと取り、人の流れに乗って露店の並ぶ大通りへ向かう。

 こうして予定にはなかった新たな同伴者と共に、オキシは祭りをめぐることとなった。


「この祭りは、今年でもう二百五回目なんだよ」

 テルルが得意げに、壁の歴史について語りだす。おおよそ二百年前、魔王が復活し魔物があふれた時代。町に魔物による甚大な被害が出てしまったことを教訓に、今後の魔物による被害を減らすために、十五年の歳月をかけて建てられたものらしい。

「壁の完成を記念して、この祭りが始まったんだ」

「あの壁は、そんなに歴史があるんだ」

 二百年のうちに何度も修繕され、当時のまま残っている場所は少ない。しかし、それでも二百年もの間人々の生活を守ってきたのだ。


「テルル、よく知っているわね」

(昨日、珍しく書物庫にいたのは、これのためだったのね)

 サルファはテルルの密かな努力の理由を知ったのだった。


「あたいだって、これくらいは知っているよ」

 テルルは大きく胸を張って、昨日仕入れたばかりの町の歴史を、話して聞かせるのだった。



 騒々とした人々の喧騒に混じり、己の店に呼び込もうとする売り子たちのよく通った声が耳に届く。通りに連なる露店は、良い香りを漂わせていたり、やたらと人が並んでいたりと、興味を引く店がいくつかあった。しかし、まずは服を買うことが第一の目的。三人は素見す(ひやかす)のもほどほどに服屋へと向かう。


 商店が並ぶ通りの一角にこじんまりと木造の建物がある。それが目当ての服屋だ。祭りの華やかな飾りを軒下から吊り下げ、小さな店なりに、この祭りへの意気込みを主張していた。


「あたいのおすすめは、ここ」

「この店か……」

 オキシたちが入ったその店は、いわゆる子供服の店である。オキシは年齢的には成人していたが、この世界において子供と変わらぬ小柄な体格をしている。それだけはどう頑張っても覆らない。そのため、ちょうど良いサイズを探そうとすると、どうしても子供のものになってしまうのだ。それは仕方のないことだった。

 オキシは妥協して、趣味にさえ合えば別に子供服でもかまわない、と諦めにも似た感情で、今この子供服の店の前にいた。


 子供服屋はその性質上、客層が限られる。そのせいもあるだろう、店内は外に比べると人は(まばら)だ。肩もぶつかりそうなほど密集した人の流れにげんなりしていたところだ。のびのびと買い物するには丁度よかった。


「ふたりとも私のことは気にしないで、ゆっくり選んでね」

 大人であるサルファは、この店で得られる物はない。しかし、かわいいものが好きなので、見ているだけでも十分に楽しめた。


「あ、これ、かわいい」

「こういうの、今、はやっているのよ」

 テルルとサルファは今期の流行について語りながら、服と服の合間の通路を歩いていく。流行とは無縁なオキシはそんな二人についていきながら、店内を見回していた。

 様々な子供服の中に、許容範囲にある服があるかどうか、それが問題であった。

 女の子用の服をざっと眺めて見る。無地で飾りっ気のない服ももちろんあったが、フリルのついたかわいらしい服が多かった。やはりここにあるのは女の子の服なのだなと改めて認識する。

 それに加え、スカートはあんまり好みではないので、女の子用の服はほとんどが趣味に合わない。この際、男の子用でも構わないと思い始めていた。


「僕は、向こうの方へ行ってくる」

 オキシはさっさと男の子用の服がある場所へ移動する。ゆったり大きめのを選べば、胸が多少膨らんでいる人間でも問題なく着ることができるだろうという目論見だ。


 男の子の服、こちらもかわいらしい服はあったが、女の子ものよりも幾分か好みの色の服が多いように感じた。オキシは無難に無地で濃い目の服を選ぶ。基本的に白衣の下に着るものなので、淡い色よりは濃い色の方が映えるだろうという、安易な理由だ。味気ないといえばそうなのだが、服飾に興味のないオキシはその程度しか思いつかないのだ。


 そしてオキシは部屋の隅にある試着室で、大きさが合うか確かめることにする。子供の、しかも男の子の服なので実際に合わせてみないことには、不安があった。

 布で仕切られているだけの簡易的な試着室には全身が映る姿見がある。オキシは試着し、その姿見の前で回転しつつ具合を確認する。

 悲しいことに、やはり子供服はちょうど良い大きさだった。

 オキシはため息をつきつつ元の服に着替え、購入を決めた子供服を抱え試着室から出た。




「オキシはどんな服選んだの?」

 試着室からオキシは出るのを見計らったかのように、テルルが話し掛けてくる。彼女は、いくつかの服を持って様子を見に来ていた。

 オキシはテルルに、己が選んだ服を見せる。

「ずいぶんと素っ気ない服を選んだね」

「動きやすさ重視だから」

 どこかかわいらしい造形をしているものが多い中、無駄な装飾のついていないデザインの探し出し選んだのだ。


「オキシはこれが似合うよ」

 テルルが選んでいたのは自分の服だけではなかったようだ。彼女は生成のような黄みがかった白のワンピースを、オキシに見せるように両手で持っていた。そのワンピースの袖と裾先には、若草色と赤褐色の二色の布を使ったぎざぎざ模様がアクセントとしてあった。風をやさしく受ければ、裾はさぞかし綺麗にそよぐだろう。


「それ、ちょっとひらひらしすぎ」

 そんなかわいらしいものを着るような年齢ではない。

「いつも着ているのとそんなに変わらないでしょ。同じ白だし、丈も同じくらいの長さだし。それにあんな味気のない白いだけの外套よりも、こっちの方がかわいいよ」

 そう言ってテルルは手に持っていた服を揺らす。


「いやいやいや、その服はテルルの方が絶対に似合う」

 オキシはそのような服は無理だとばかりに首を振る。


「あら、それ、かわいいわね。絶対にオキシちゃんに似合うと思うわ。試着だけでもしてみたら?」

 サルファもテルルに同意し、いらぬ助け船をだす。


「で、でも、さ?」

 記憶もうろ覚えな幼少期を除けば、ワンピースなどという服は着たことがなかった。オキシの人生においては、ほぼ初めてとなるだろう。しかも、高校は私服でも可能な学校へ行ったので、スカート自体も中学の制服以来だろうか。普段からユニセックスな感じの服装で過ごしていたので、そのような格好をするのは非常に勇気がいるのだ。


「試着、試着!」

「別にわざわざ着なくとも……それに、店、混でいるし」

 姿見の前で軽く当ててみるだけでもいいのではないかと、オキシはあれこれと言い逃れようとする。


「つべこべ言わない」

 即、却下された。オキシは渋っていたが、テルルもなかなか引かない。テルルの強い要望に、オキシの抗議も空しく着てみることとなった。



 数分後。

「……僕は、こういうのはあんまり着慣れていないというか、変な感じがする」

 慣れないワンピースの裾が膝やら腿やらに擦れて、何だか心地悪い感触がした。普段とは異なる勝手に体全体に妙な力が入ってしまう。


「やっぱり、似合う似合う」

 テルルは飛び跳ねて褒め称える。


「じゃあ、こんなのはどう?」

 サルファの手にはかわいらしい子供服があった。オキシが着替えている間に、彼女も服を見繕ったのだ。

 それはゆったり目のズボンで足首の部分で絞ってあるオーバーオールのような服だった。木登りや探検大好きな、やんちゃでおてんば娘が着ても大丈夫というような動きやすさを優先した服だ。胸元に花をモチーフにした不思議な模様の刺繍してあるのが非常にかわいらしい。


「サルファさん……こう見えて僕はもう大人。そんなかわいらしいのは、ちょっと」

 小声でサルファにささやく。オキシを同年代と思っているテルルは仕方ないにしても、サルファが手に持っている服はどう見ても、幼い子供が着るようなかわいらしい服であった。

 彼女は組合(ギルド)の職員、しかも、オキシの登録証を作った人間だ。オキシの年齢は当然知っているはずである。


「でも、こっちの方がかわいいわ。着てみて」

 オキシの言葉、そんなものはお構いなし、サルファはオキシに着せるという目的が最優先だった。


「次はこれね!」

 テルルは次なる服を手に持っていた。次に着なくてはいけない服が予約された。


「だから、僕はこういうのは……というか、僕ってそんなに幼く見えるのか?」

 この世界においては子供に見られている事実をオキシは受け入れてはいる。しかし、彼女らが持ってきた服たちは、少し過剰装飾気味な子供服。ただでさえ子供に見られているのに、より子供に見えるものを持ってくるのだ。

 しかし、抗議空しくオキシは次々にかわいい子供服を試着する羽目になった。




(疲れる……)

 試着室の中でだけ、ほんの少しの時間、ほっと一息つける。たかが買い物で、こんなに疲れるとは思ってもみなかった。

 同性だけでのこのような買い物は、本当に久しぶりだった。「これ、かわいい」「あれもいいね」と、ああだ、こうだ、とおしゃべりが大半で、そういうところはさほど変わらなかったが、今回のように着せ替え人形にされたのは初めてであった。


(やっぱ、これ、着なくちゃいけないよね)

 オキシの手にある服は男の子用の服だ。白く艶のあるシャツ、その上に着る繊細な刺繍がされたベスト、同じように意匠の凝ったズボン、まるで結婚式か何かそう言う特別な場所へ行く時に粧し込むような衣装で、普段着にするには少しばかり洒落すぎていた。

 そう、彼女らはオキシの普段着を買うという当初の目的を忘れ、もはや、着せてみたい服を選ぶという目的に変わっていた。オキシもここまで来ると、恥ずかしさよりも諦めが優位に立ち、言われるままに着替えていた。


(……着るか)

 こうしていつまでも試着室に篭っているわけにはいかない。意を決するため息を吐き、オキシは服のボタンに手をかけた。




「それもいいね。かわいいわぁ」

 何着目になるかわからないその服を着て、試着室から現れたオキシに、サルファはうっとりと熱のこもった視線を向けている。

「でも、これは少しきつい、かも?」

 オキシは胸のあたりにそっと手をおく。

 着れないことはないのだが、ほんの少し窮屈に感じるのだ。やはり子供服では体形的に無理なものもあるだろう。小柄とはいえ、オキシは立派に成人した女性である。この世界においては決して大きいとはいえないまでも、向うでは平均的といえるほどにはあった。そのため、体にぴったりとして合うような、特に男の子用の衣装は、体の構造上、どうしてもきつくなってしまう部分があった。


「……オキシって女の子だったんだね。『僕』って言っているからずっと男の子かと思ってた。どおりでワンピースとか、あんまり抵抗なく着てくれると思った」

 オキシの性別は女で、しかもすでに女性としての特徴が出ている、この衝撃的な事実にテルルは驚いた。オキシは自分より少し幼いくらいだと、そう思っていたのだ。テルルはその事実に驚きつつも、つまらないとばかりに唇をとがらせた。


「一応抵抗はしていたけれど」

 それは女性ものだったからではなく、子供服だったからだが。

(というか、テルルよ。男と思っていたんなら、なぜ最初に持ってきた服が明らかに女性もの、というか、女の子向けの物を持ってきたのでしょうか)

 オキシはそう指摘したくなった。


「まぁ、僕は女だけれど、故郷ではほとんど女性らしい服なんてあんまり着なかったし、周りに男が多い環境にいたから。自分を『僕』って言うのもその影響というか、何というか」

 別に隠していたわけではない。そもそも誰も、性別のことを話題にしなかっただけなのだ。

 オキシは中性的な顔立ちで、ぱっと見、どちらの性なのか惑う人も多い。しかし、性別がよくわからない人を見かけ「どっちだろう」と思うことがあったとしても、そう思うのはその瞬間限りのこと、男か女かと後々までずっと気になったり、尋ねてしまうような状況というのは、ほとんどないと言って良い。

 普通に生活している分には、性別がどちらであるのかという話をする事態は、そうそう出くわすものではないのだ。声を聞いたときや、名前を聞いたとき、お手洗いに行くときどちらに入ったかを見てなど、何頭の原因があって、そういう限定的なときに現れるものである。

 今回の場合も、オキシが試着した服がきつかったという事実があって、発覚したようなものである。

 こういう出来事がない限りは、なかなか事実というものは表に出てこないものだ。


 しかもオキシは身だしなみに無頓着であったり、一人称が「僕」であったり、おおよそ女性とは思えない思考だったりするので、おそらく身近にいる人ほど、年齢と同じように性別の方も誤解している可能性は高い。テルルがそのいい例だろう。



「オキシちゃんは……。子供服だと、きっともうアレよね。それなら、もう少し色気のあってかわいい服を見に行きましょうか?」

 オキシの体が一応発育していると知るや否や、サルファに新たな火がともる。彼女のかわいいものに対する感情表現は並々ならない。彼女から流れてくる不穏な意気込みにオキシは身構える。


「いやいやいや。僕のことはもういいから……」

 その誘いに乗ったら一体何を着せられるか、そう考えるだけでたまったものではない。

「でも1着くらい、女の子らしいのあった方がいいわよ。ほら、さっきのこれとか」

 サルファは、テルルが最初に持ってきた白いワンピースを勧めてくる。


「その服は悪くはないと思うけれど」

 今まで様々な服を散々着てきたので、いたって普通なそのワンピースならば――たとえ本来の年齢には不釣り合いな装いになろうとも、着ても良いと思えてくるから、不思議である。


「じゃあオキシは、今日一日その服ね。はい、決定」

「ぇ、ええええ」

 同性だと知りさらに遠慮がなくなったテルルは、好機とばかりに、そう提案する。オキシが返事をする間もなく決定していた。肯定しようが、否定しようが、それはすでに決定された事項なのである。



 テルルの強引な発言もあり、結局、オキシは自分が選んだ服の他に、そのワンピースを買うこととなった。そして、テルルの要望の通り、オキシはその新品のワンピースを着て店を出ることとなる。

 着慣れない服で少し気恥ずかしさもあったものの、ともあれ、やっと終わりを迎えた服選びにオキシはそっと胸をなでおろしたのだった。




 服選びが難航したので、店を出る頃には、昼食を摂るのに程よい時間になっていた。

 三人が次に向かったのは町の中心を通る大通りである。

 木造の建物と建物の間を縫うように張ってある縄には、鮮やかな色に染められた布が取り付けられていた。風になびくそれらは天高くある太陽に照らされ、青に色づいた空を華やかに彩っている。

 その空の下に伸びる通りは、食べ物系の露店が多く並んでいた。多くの人が行き交い、通りは賑わいをみせている。

 道を歩く者たちの手には露店で買った食べ物が握られ、おいしそうに食べているのが目につく。ただそれだけで空腹感を刺激し、同じものを食べたいと思ってしまうのが人間の心理。すでに多くの集団がそんな歩く広告となっていた。


「今年も、おいしそうなものがいっぱいあるわ。色々食べ歩くのもいいんだけれど、まずはあれは外せないわね。この祭りが初めてなオキシちゃんもいるし」

「そうだね、あんまり並んでないといいな」

 サルファとテルルによると祭りの名物ともいえる定番の食べ物があるらしい。オキシはこの祭り自体初めてなので、すべて彼女らに任せることにした。先ほどの着せ替えに疲れ、その話し合いに混ざるのが面倒くさかったというのもあったが。



「やっぱり、並んでるね」

「でも、並んででも食べるべきものよね」

 香ばしい匂いで誘う露店には人の列が並んでいる。その中でも特に長い行列を作っている店が、どうやら目的の店らしい。これまた今から並ぶと思うだけでも疲れそうな、そんな長さである。

 最後尾を見つけそこに並んだが、数分も経たないうちに後ろには長蛇の列ができていた。その店の人気ぶりがわかる。

 緩やかに列は前に流れるが、順番が回ってくるのは少しかかりそうだった。


「お嬢さん方、待ち時間にお一ついかがですか?」

 長い列に並んでいると、そう声をかけられる。他の店の客とはいえ、己の店の前に立ちどまっているのだ、それは彼ら商売人にとっては恰好の客なのである。いい匂いを漂わせたり、調理を実演してみれば、ついつい購入してしまう者もいる。

 そんな行列に並ぶ客目当ての店の一つ、長々しく講釈を講じている店が、オキシの目についた。


「さぁさぁ、ウェンウェンウェム名物、白粒の妖精菓子! これさえ飲めば、一年、病気知らず! 今の時期にしか手に入らないよ。この待ち時間の間に、ついでに、いかがですかな?」

 はるばる手に入れたといった苦労話や、限定の品らしいことが、彼の長い宣伝文句で知ることができた。

 白粒の妖精菓子とは一体なんであろうと、店の奥を見てみれば大きめの鍋の中で白い液体が湯気をあげていた。あの液体が白粒の妖精菓子といわれるもののようだ。しかし、菓子というにはほんの少し違和感がある見た目だ。妖精菓子という、聞いたこともない名前にオキシは首をかしげる。


「妖精菓子?」

「妖精が作った料理は全部、妖精菓子って言うのよ。妖精の作る料理ってどこか甘いから」

 サルファが妖精菓子について説明してくれた。

 妖精菓子とは、ウェンウェンウェム地方の森に住む妖精たちが作る料理の総称であり、その地においてヒトが食べることができる数少ない謎の食物(りょうり)のことだ。

 そのすべての料理がお菓子のように甘いことから「妖精菓子」と呼ばれている。その甘味や匂いは独特で好みが分かれるところであるが、過酷な土地でも元気に生きる妖精が作るとあって、健康を願う一種の縁起物になっている料理なのだ。行列のできるような人気店にはなりえないが、一定の客は見込めるそんな食べ物だった。


「独特、と言われると気になる。どんな味なんだろう」

 得てしてそういうものは、発酵していることも多い。

「少し味見してみるかい?」

 地獄耳な店主はそうオキシに提案する。菓子という名称のせいで、このように興味を持ってしまう子供は多い。しかし、甘いとはいえ、子供には少し向かない味なのだ。

 店主は試飲用の小さなコップに白い液体を注いで、小さな客人に手渡した。


「いいんですか?」

「お譲ちゃんには、ちょっと早い味かもしれないけれどね」

「ありがとう」

 オキシは店主から、そのコップを受け取る。鼻に近づけてみると、抜けるようなまったり甘い匂いがする。口に含めば、舌に絡み付くようなもったりとした甘さが。そして、柔らかい粒がまだ少し残っているどろりとした舌触り、確かに独特な風味の食品である。


(これは甘いおかゆ……むしろ甘酒のような味がする。この匂いこの味、やっぱり何か醗酵しているぽいな)

 オキシはじっと液体を凝視してみる。しかし、おそらく腐敗を防止するような保存系魔法がかかっているのだろう。滅菌といかないまでも菌が生きづらい環境にし、食べ物が痛むのを防いでしまうその魔法のせいで、残念ながら生きている微生物の姿を見つけることはできなかった。


「おや、お嬢ちゃんは平気なんだね」

 顔色一つ変えずに、味を吟味しているようにみえる子供に店の主人は感心する。

「はい、なかなかおいしいです。……これって、どうやって作っているんだろう」

「詳しいことは妖精たちしか、知らないんだ」

 オキシのつぶやいた小さな疑問に、主人はそう答える。

 その料理の製法は妖精しか知らない。製法が不明なのは、妖精は別に極秘にしているわけではなく、妖精の説明がものすごく要領を得ないことと、飽きっぽい性格のため途中をかなりいい加減に省略することにある。

 たとえばこの料理の材料を妖精に問えば「白いの」や「つぶつぶしたやつ」と答え、作り方を問えば「ほかほか、うまうま、ときどき、ぐるぐる」とか「蒸しって~、咀嚼(むしゃ)って~、攪拌(くる)って~」と返ってくる。おおよその作り方は理解できるのだが、妖精によってその表現がかなり異なり、その言葉の意味するところを誰も正確に理解できないため、正しい製法があいまいなのだ。

 妖精しか製法のわからない「妖精菓子」という料理は、普段、あまり出回ることもない。こういう特別な祭りのために、わざわざ仕入れるのだ。


「そうなのか……」

 白いつぶつぶの何かを、ほかほか蒸して、むしゃむしゃと咀嚼(うまうま)して、ぐるぐると攪拌して(くるって)、と、なんとなくそういう口噛み酒の工程が思い浮かんだが、それだけではやはり正しい作り方は導き出せない。しかし、想像の通りならばこれは高い確率で醗酵した食品であるとオキシは感じた。

 残念ながらこの妖精菓子には生きている菌はいないようだが、もっと詳しく探せば残骸くらいは見つけられるだろう。運がよければ、生き残りを観察できるかもしれない。

 オキシは「これはぜひとも入手しなくては」と持ち帰り用の妖精菓子をひとつ購入する。


「話には聞いていたけれど、オキシちゃんって変わったもの好きよね」

 妖精菓子の入った瓶を購入し満足げな笑顔のオキシに、サルファは噂に偽りがないことを知った。



 行列は順調に消化されて行き、三人は無事に目的のものを入手することができた。

 見た目は、楕円形の殻にご飯を詰め込んだ感じと言うのだろうか、それを油で揚げて、食べやすいように棒にさしてある。こんがり焦げ目のついた殻が、食欲をそそる匂いを発している。

 一体何の殻なのかは気になるところであるが、尋ねたところで地球には存在しない生物のもの、想像できないだろう。


「それ、殻ごと食べられるからね」

 テルルは殻を不思議そうに見ているオキシに向かって言う。そして、さっそく食べ始めた。


 考えても仕方ないので細かいことは気にせず、オキシはひと口かじってみる。食感は、月並みな表現であるが外はカリッと、中はふわっと溶ける。穀物に混ざっている野菜の歯ごたえが良いアクセントになっている。味付けは甘さと塩気が絶妙な配合で、ほんのり辛味もきいて香ばしい。


「おいしいでしょ?」

「うん。祭りのたびに、毎回食べたくなるという気持ち、何となくわかる」

 この地域はあっさりさっぱりとした薄い味付けの料理が多い。食にあふれた日本ではよく食べるような濃い味付けでも、久しぶりに食べたその味は懐かしさも相まって妙に癖になる。



「さて、次は何を食べようか」

 すっかり食べ終え、三人は本格的に食べ歩きを開始する。様々な地域の物がここに終結する。どれもおいしそうなものばかりで目移りしてしまう。

 しかしそんな中にあっても、オキシは相も変わらず「奇妙な」ものを目ざとく見つけては、そのような物ばかり購入している。

 テルルもサルファも、オキシがあまり食には興味を示さないと思っていただけに、目の色を変えてまで食品を買う姿は驚きであった。というよりも、買っている物を見て、少し引き気味だ。


「……まぁ、オキシだしね」

「だよね」

 そして、すべてはその言葉で片がついてしまうのだった。




 オキシ、テルル、サルファの3人組は食べ歩きしつつ、会話も楽しんでいた。女子が三人集まれば何とやら。定番ともいえる恋話で盛り上がっている。体験談はもちろん、フェルミの町にいる良い男といった話に花が咲く。

 オキシはあまりこの手の会話をしたことがない。何か尋ねられれば、答えられる範囲で答えることはするが、何を語ったらいいのかわからないので、自発的に口を開くことはできなかった。


「みんなはどんな人が好きなの?」

 仕切り役のサルファは次に好みのタイプについての話題をふる。

「あたいは、面白くてやさしい人が良いと思う。オキシは?」

「あー、僕は……できれば同族が良いかな」

 無論、同族といっても、この世界で似ているといわれる猩族(エイプシー)ではなく地球人類(ホモサピエンス)である。もはや、叶わぬ夢であるが、高望みくらいならしても罰は当たらないだろう。

 オキシはこの地に住まうヒトと友好的な関係をもてたとしても、トラだとかトカゲだとか己の姿とかけ離れた容姿の者たちを恋愛対象にするのは、難しいように思えたのだ。


「同族がいいって、今時珍しいね」

 勝手気ままな性格の割に、「同族が良い」と意外に古風な思考を持っていることに、サルファは差異(ギャップ)を感じてしまう。

「ずっと同族しかいない場所に住んでいたから、どうも他種族と子供を作れる気がしない」

 いくら見た目が人型とはいえ、地球産の遺伝子と相いれず、繁殖できない可能性もある、とオキシは密かに思っている。異性だからというだけで繁殖できるほど、遺伝子は単純ではないはずで、己の体とかけ離れた者たちと繁殖できるのかが疑問であった。仮に愛し合えたとしても、子が成せるかどうかと思うのだ。


「子供を作るって、オキシちゃんてば、おませちゃん」

 サルファはそういって、オキシの頭をなでつける。

(ませている、と言われるような、年齢でもないんだけれどな)


「まぁ、いくら好みを並べたところで、どうせ恋に落ちる時はそんな理想なんてあってないようなものだろうけれど」

 オキシはそうあっさりと言い切る。

「オキシ、それを言ったら身も蓋もないよ」

 テルルはそうつぶやくのだった。



「ところで、告白されたことある?」

 次の話題をとばかりにテルルは、もはや鉄板な質問をオキシに対してする。

「ないな。……むしろ、僕にそういうのを感じていた人などいるのだろうか?」

 オキシは思い出すように首をかしげる。

 割と早い時期から「変わっている人」で定着するので、そもそもの話、恋愛の対象として見られていたかどうか怪しいところである。友達として付き合うことができるとしても、はたして愛だの恋だの入り込む余地があるのだろうか。


「オキシちゃん、かわいいから、ありそうなものなのに」

「僕は男だの女だの、どうでもよくって、他のことに興味があるからなぁ。それを皆、分かっていたのかもしれないな」

 とにかく人間よりも、微生物に興味がある。色恋沙汰にはかなり無関心で、察しが悪いという次元ではなく、異性が行う行動に対して少しも関心を寄せていない。

「……あぁ」

 何となくわかるような気がするサルファだった。


「そんなサルファさんは、聞くまでもなく、たくさんありそうだよね」

 オキシの言葉にテルルも頷いてみせる。オキシもテルルも組合(ギルド)に寄ったときに何度か、告白の現場や食事に誘われていたりするサルファを目撃したことがあった。


「で、サルファはだれが本命なの? あの、キザな男?」

 テルルがずばり尋ねる。テルルのいうキザな男というのは、おそらくフォスファーラスのことだろう。オキシも何度か彼とデートをしているサルファを見かけたことがあった。


「彼とは友達かしら……まぁ、いろいろとあるのよ」

「あぁもう、サルファはすぐごまかすんだから。いつまでもそんなんだから、おばさんが『早く孫の顔が見たい』って嘆くんだよ」

 どこの世界でも、親は孫の顔を見たいものらしい。

 確かに、子孫を作ることは「生物とは何か」という定義にも含まれるような重要な事柄だ。ある意味で最も本能的なことからくる願いとも言える。子孫を残したことがある個体ならば、その思いも強かろう。


「そっか、サルファさんも苦労しているんだね」

 理系大学院という場所に身をおいていたオキシは、恋愛やら結婚とは程遠い場所にいた。だから親も諦めていた、ということはなく、せっかく周りは男だらけで選び放題なのだから、将来有望そうなのを四、五人は引っ掛けてきなさいと、冗談だか本気だかわからないことを言われたことがあった。


「僕は思うに……結婚する気がまったくないなら無視をして、きっぱり忘れるに限ると思うよ。思い悩むだけ時間の無駄だし」

 あの世界は、ちょっとでも不安に思ったら負けである。結婚するにしても、しないにしても、目に見えない不安に焦りだしたら、ますます泥沼にはまってしまう。手に入れられる幸せも逃げてしまうというものだ。


「……冷めているのねぇ」

「人生、なるようにしかならないよ。いつ、どこで、何が起きるかわからないんだから」

 そう、次元の異なる宇宙(せかい)に迷いこむ、とか。そんなことが起きるくらいだ。運命の出会いや結婚という現象は、それよりは遥かに簡単に起こるだろう。


「限りあるひとつだけの(じんせい)、毎日を楽しまなくちゃ損だよ」

 この世界に来てから、ますますそう思う傾向が強くなったオキシなのだった。



「もう、オキシちゃんてば、本当に気ままだね。たまには女の子らしいことやってみたらいいのに。たとえば何か料理できる? 何か料理の一つでも得意なものがあれば、男の人はいちころよ」

 様々なことに無頓着なオキシはもう少し女の子らしさを自覚した方がいいかもしれない、サルファはそう思うのだ。

 異性が思わず惹かれるのは、やはり料理がうまいことだろう。胃袋を掌握すれば勝ったも当然だ。


「料理、か。僕はあんまり料理をしたことがないな。最近だと、粉っぽいパンを作ったくらいで……」

 しかも本当の目的はパンではなく、乾燥酵母菌(ドライイースト)を作るため、である。その作ったパンも、ロゲンハイドがいたら『粉っぽいどころか、カビ入りのパンだよね』と、言いそうだ。

 オキシは食事といえば、基本的に学食で食べたり、安くなった総菜を買っていたので、今まで自炊(りょうり)などしたことが無いに等しかった。料理を作ったとしても、混ぜて炒めて終わりなレトルトだったり、お湯を入れて終わりなインスタントだった。目玉焼きや簡単に味付けした野菜炒めくらいは作れるが、手をかけて作るような自慢できる料理は作れないだろう。

 それでもあえて言うならば、唯一レシピがなくとも作れる料理は「ミドリムシクッキー」と「ミドリムシプリン」である。その字のごとくミドリムシが入ったお菓子である。それならば何回も作ったので、材料も工程も、だいたいのことは覚えている。一度だけ、プリンは高圧蒸気滅菌(オートクレーブ)する装置でこっそり作ったことがある。甘い匂いが残ったせいでバレて、怒られた事も含め、いい思い出だ。

 しかし、材料を頭に浮かべたところで重要な問題が。

材料(ミドリムシ)はどうやって調達するのか』

 ただ単に緑色の微生物を入れるだけではダメなのだ。植物であり動物である微生物の、栄養をたっぷり含んだミドリムシを――


「……って、ミドリムシは必須ではなかった」

 ミドリムシがなければ、使わなくても良いのだ。むしろ、使わないのが普通だ。あまりにも当たり前のようにミドリムシを入れていたので、オキシの中では必要な材料の一部と化していた。


「緑の虫? どの虫を使うの?」

 テルルは、緑色の昆虫を思い浮かべているようだ。

「名前にムシとあっても、昆虫ではないよ。目に見えないくらい、とてもとても小さい生物だよ」

 文化祭でミドリムシ入り菓子の売り子をしていたときも、たまにいたのだ。ミドリムシを昆虫だと思いこんでいる人が。ミドリムシとはこういう生き物ですと、ミドリムシの写真も展示していたが、こういう勘違いをする人は毎回いた。


 ミドリムシ。

 鞭毛で動き回る動物でもあり、葉緑体を持ち光合成を行う植物でもある単細胞真核藻類のことである。

 学名はユーグレナといい、女の子のような響きのあるかわいらしい名前がつけられている。もちろん1本の鞭毛を振り回しながら泳ぐその姿も充分にかわいい生物だ。

 ミドリムシは水と光と二酸化炭素と栄養塩だけで培養でき、人間に必要な栄養素をバランスよく作り出す。ミドリムシを数億匹ほど食品に練りこむことで手軽に栄養満点の食品が作れるのだ。

 それだけではなく、ミドリムシからバイオ燃料を取る研究も行われている。しかも光合成を行うので、二酸化炭素の削減も期待できる。ミドリムシは近い将来、食糧資源問題や環境問題を解決するかもしれない、夢のような生物として注目を浴びているのだ。


「聞いたことない生き物(ムシ)だけれど、それっておいしいの?」

 テルルはそう問う。

 ちなみに、この地域では昆虫食は一般的である。オキシも何度か虎狛亭で、調理された昆虫を食べたことがあった。

 さすがに生きているものを踊り食いする勇気はなかったが、故郷には昆虫を佃煮にした料理があるので、昆虫を食べること自体に抵抗はない。


「そういえば、ミドリムシの味ってどんなんだろう。青臭いのかな?」

 さすがのオキシもミドリムシ単体では食べたことはなかった。やはり植物のような青い葉の味がするのだろうか?

 ちなみに、ミドリムシ入り食品の味に関して言えば「普通」である。それ以上でも、それ以下でもない。色は緑色っぽいというだけで、味に関してはクッキーやプリン本体の出来に左右されるといってもいい。特に妙な味はないのだ。あまりに普通なのだ。興味本位で恐る恐る食べて、何の変哲もなく残念に思うほどに。


「ミドリムシの味……あの研究していた後輩(あいつ)に、ぜひとも聞いてみたい事柄だ」

 ミドリムシ入り食品を作った時のミドリムシの生産(ていきょう)者であり、ミドリムシの有用性を研究をしていた彼ならば純粋なミドリムシの味を知っていてもおかしくはない。

 ふと思い出す研究室の風景にオキシは目を細め懐かしむ。


「研究……そういえば、オキシちゃんは学生だったわね。研究はどう? はかどっている?」

 サルファは研究という言葉で思い出す。彼女はオキシが登録の時に、微生物というものを研究していると、そんな話を聞いたのだ。


「ええまぁ。今、他人に自慢できるような研究の成果といったら、乾燥酵母菌(ドライイースト)、じゃわからないか。ええと……『パンの葉と同じ効果のある粉』かな。それを使うと生地を放置する時間が短くすることができて……あと、パンの葉と違って粉は長く保存もできるようになっているんだ」

 他にもトルゥヨをはじめとして、得体の知れない醗酵食品の菌を持っているが、それらで食品になりうる醗酵をさせたことはまだなかった。


「パンを? ずいぶんと家庭的なものなのね」

 微生物は人の命を助けたり、兵器にもなりうるものと聞いていたので、あまりに生活的な利用法に少し拍子抜けしてしまった。


「それだけ微生物は応用が利くものなんだ。そして、これがその粉」

 オキシは鞄の中から乾燥酵母菌の入った瓶を取り出した。何も知らない人が見たら、これは単なる粉である。この粉1つ1つが幾千もの生物の集まってできているとは思うまい。

 瓶の中で眠る酵母菌は、赤子のようでかわいらしい。オキシはほんのりうっとりする。


「この粉を媒体に魔法を使うのね」

「魔法……とは、ちょっと違うかな。色々と極秘事項に触れるから、詳しくは言えないけれど。これがあれば誰でも微生物の力を借りて、単時間でふんわりなパンを焼くことができるよ」

 微生物が知られていないこの世界で、カビが危険であるというのが常識なこの世界で、これは役に立つ酵母菌(カビ)だというのは、説明しても信じられないだろう。


「誰でも使える……それってすごいじゃない」

 サルファは感嘆の声をあげた。

「趣味で作っているような感じだから、作り置きはあんまりないけれど」

 乾燥酵母菌の量産はしていないが、それをできる技術もオキシは持っている。やろうとすればいつでも可能だが、しかし、実行するかどうかは、また別の話である。


「私、パンはふんわり派なのよね。手作りしたいけれど、ゆっくりと作る暇がなくって。いつも朝市でパンを買っているのよねぇ」

 パンの葉を生地に巻いたら一晩置いておかなくてはならない。しかし、サルファの朝は大抵忙しく焼いている暇がない。だからといって夜に焼こうとするならば、仕込みは昼に行わなくてはならず、その時間は仕事のため、やはりできない。パンを作ろうとすると、休日の、のんびりできる時に作るしかないのだ。


「もしよかったら、これ、どうぞ。夕方に仕込めば、夜にはパンが焼けるよ」

 興味深そうにしているサルファにオキシは手渡した。いつもお世話になっている誼み(よしみ)というやつだ。ロゲンハイドにも毒はないことは確認してもらっているので、何も問題はないだろう。

 オキシは乾燥酵母菌の使い方をサルファに教える。地球時間で一時間ほど一次醗酵させ、ガス抜きをして、三十分ほど再び醗酵させる。醗酵の時間に関しては、地球とは異なるので大体でしか伝えられないが、パンの葉を使った醗酵に比べたら、大幅に時間短縮できることだけは間違いない。


「それだけでいいの? それで、そんなに短い時間でパンがふっくらと焼けるの?」

 サルファは驚きを隠せない。生物を操るような魔法の道具というのは、発動させる条件が厳しいものが多い。それなのに、粉に水を加えるだけで使え、あとは温度に気を使えば良いだけとは、あまりにも簡単なのだ。


「パンの葉から、この粉を作るまでが大変で。それなりの時間と技術を要するんだ」

 パンを発酵させる菌を見つけ、その菌だけを選り分け、培養して増やし、保存が効くようにする。言うは簡単だが、それなりの苦労はあった。


「パンの葉の効果を魔法(ビセーヴェツ)で取り出して粉にしたのね……そんなことができるなんて思いもしなかったわ」

 サルファは瓶の中の粉を興味深そうに見つめている。


(正確にはそんな魔法みたいなものではないんだけれど)

 オキシはそう思うが、彼女に酵母菌(びせいぶつ)の詳しいことを話しても、内容のほとんどは理解できないだろう。


「そういえば、これは完全に好みの問題なんだけれど、乾燥酵母菌(これ)を使ったパンよりも、天然で……パンの葉で作った方がおいしいという人もいるにはいるんだ。だから、もしかすると、いつものパンと味は違うかも」

 二つのパンの食べ比べをしたことはあったが、オキシにはどちらが良いパンかという判断はつけられなかった。「どちらも食べられるパンでした、以上」そんな感じである。

 それはパンにこだわりのない者の感想であるため、パン好きである彼女らの舌には何か違いが出てしまうかもしれない。


「いつものパンと味が違っていても、これが魔法の粉で作ったパンの味なのね、と思うだけよ。うまく作れたら感想言うわね」

 初めて見る魔法の道具にサルファは胸を躍らせ、乾燥酵母入りの瓶を大切にしまった。


「ねぇ、サルファ、そのパン作ったらあたいにも頂戴!」

 テルルは、新商品が出ると、ひとまず食べてみたいと思うほどに目新しいもの、珍しいものが好きである。そんな彼女が、魔法の粉を使ったパンに興味を持たないわけがなかった。


「期待しているところ悪いけれど、これを使ったからといって、食べた時にものすごく感動するなんてことはないよ? それにテルルは固めのパンが好きって言ってなかったけ?」

 変わるのは醗酵の時間だけである。作り手が何か思うことはあっても、食べる側にしてみればそれほど大きな感動は得られないだろう。


「それでも、サルファの焼くパンはおいしいから食べたいの」

 恋話はどこへやら、いつの間にか三人はパンの話で盛り上がっていた。



 ――後日。

 組合(ギルド)の受付にオキシが行くと、サルファが乾燥酵母を使った感想を教えてくれた。「とても楽で良い」と、サルファは絶賛する。

 よほど使い勝手がよかったのか、また分けてほしいと言うので、オキシは前回よりも少し多めに瓶に詰めたものを渡した。

 今回もタダで分けようとオキシは思っていたが、それでは申し訳ないとサルファは言うので、一回に使う分の量をパンの葉と同じような値段にして、譲ることにした。

 本当に微々たるものであるが、オキシにとってちょっとした小遣い稼ぎになった。

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