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微生物を愛でたいのだよ!  作者: まいまいഊ
1-a『間違いなく彼らはそこにいる』
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3・草原は生き物の宝庫。

 最初に目に入った景色(いろ)は、青い空、黄色に輝く太陽、そして深く揺らめく暗緑の地平線であった。今まで無彩色の景色の中にいたので、この鮮やかな(けしき)は非常に目にしみる。

 最近まで雨が降っていたのだろうか、水分を含んだ湿っぽい空気を吸い込むと、豊かな草から生まれたような開かれた大地の香りがする。このような雨の後に立ち込める土の匂いは、微生物たちの働きによる香りである。間違いなく彼らはそこにいて、確かに生きていることを感じ取ることができる。

 土の地面はだいぶ乾いていたが、ところどころに水たまりが残っており、雲の流るる空を映していた。腰のあたりまでの背丈がある細長い草、その周りに点々と散らばる白く小さな花弁をつけた背丈の低い草、様々な植物たちが高級な絨毯のように美しい模様を描いて、風に揺れていた。

 そこはまさしく草原だった。吹きぬける風が短い黒髪を左右にやさしく揺らす。風に遊ばれ頬にかかる髪を右手で耳にかける。その広大な草原の緑に圧倒され、ぞわりと粟肌が立つのを感じずにはいられなかった。


「おお、どこまでも草原だ! 雰囲気は地球の草原と似ているけれど、日本では見たこともない世界が広がっている。地平線だ、何処までも広がっている地平線があるぞ、こんな地平線は初めて見たぞ! おおっと、地平線に感動している場合じゃない、とにかく早速調査開始だ!」

 そう空に向かって叫び、左手の人差し指で鼻の辺りに触れた。それは長年眼鏡をかけていたものの宿命。眼鏡をかけていた者がそれを外した時、もれなく訪れると言うその動作をしてしまったのだ。

「って、眼鏡の幻影をあげてしまったぁぁぁぁ!」

 テンションがおかしいのは仕方のないことだろう、欲しかった能力を手に入れ、この場所へ来たのだ。そこで出会うだろう生物(主に微生物)たちに心が踊らないはずはないのだ!


「……ひとまず落ち着こう。あぁ、周りに人がいなくて良かった」

 あたりを見回して人影がないことを確認する。もし誰かいたら通報モノの奇声である。怪しい薬やっているだろうと、連れて行かれかねない言動をしていたのだ。


「さてさて、さっそく水たまりでも覗きこんでみよう」

 大気中にもたくさんの微生物はいるが、水の中に住まうものたちの造形が特に好きなのだ。

 草原にはちょうどよく水たまりがあったので、数歩先のそれを覗きこむ。空に浮かぶ雲が揺れ、自分の影が映る。水は透き通り水底までよく見えた。一見きれいに見えるこの水たまりにも、必ず何かいるものなのだ。


「さてさて、水たまりを『見て』みよう。愛しの微生物たちが待っている!」

 この草原に、水たまりに、どんな微生物がいるのだろうか、はやる気持ちが収まらない。

 早速、頭の中で『水たまりの中を見る』と強く思う。すると視野が狭まっていくのと同時に視点が迫ってくる。一瞬にして動き回る微生物らしきものの一端を捉え、そしてあっという間に水溜りを構成している水分子の構造の世界にまで到達した。

 規則正しくくっつき、まるで微生物の群生がひしめくようにゆらゆらと、たくさんの結合した水の分子たちが不思議な挙動を起こしている。

「うわわ!」

 水の中に吸い込まれてしまうのではないかという感覚に、思わず仰け反った。集中が切れたのだろう、あっという間にいつもの見慣れた視界に戻った。

「びっくりした……」

 急に見える範囲が変わるのは、思っていた以上に混乱した。慣れれば平気になっていくと思われるが、倍率の加減や視野の調節は使い慣れていくしかないようだ。


(そういえば、なぜ原子の形があんなにはっきり捕らえられたんだろう?)

 確か原子の姿をはっきりと捉える事は、現代の技術を持ってしても難しかったはずだ。顕微の世界を見るために使う電子線が、原子の持つ電子に影響を与えるので、その構造まで見るのは難しいのだ。

 この眼の能力は電子顕微鏡のようではあるが、電子顕微鏡そのものではないのだろう。原子を苦も無く観測できるというのは、実は最新の電子顕微鏡よりも高性能なのかもしれない。

 化学や物理学に関しては専門外なので、自分の持っている知識では、これ以上考えても分からないものは分からない。原子まで見えることが、どんなにすごいことかはあまり理解できない。


(ま、難しいことは、この際どうでもいいか)

 よくよく考えてみれば、見たいものが見れれば、性能がどの程度で、どんな原理で働いているのかはあんまり興味が無い。

 思考を切り替えようと、左手の人差し指で眼鏡を上げる動作をして気がつく。

「おおっと。また、眼鏡をあげようとしてしまった!」

 眼鏡をかけていた時の無意識で行っていた癖は思っていた以上に根深かった。


「……さて気を取り直してっと」

 白衣が土まみれになるのも構うことなしに、再びじっと水たまりを見つめ始める。

「あぁ、今は水の構造といったまで細かいところ見なくてもいいから。微生物、微生物、水棲微生物。微生物が見える程度で……おおっと、このくらいがちょうど良いか。ちょうど良いね」

 傍から見れば本当に奇行以外の何物でもない。

 単なる水たまりを覗き込んで、時に驚嘆の言葉を発し、何やら狂熱を上げているのだ。それこそ怪しい薬を飲んだ疑いで連行されかねない行動をしていた。しかし、そんなことはもはや頭の中にはなかった。


「そうだ、折角だから微生物をスケッチしよう」

 せっかく記録するのに丁度良い本を持っているのだ。使ってみようと思い、本に触れる。

 ページをめくったときの触り心地は、少し質の良い紙のような感触であった。この本に不思議な力が備わっていると知らなければ、何の変哲も無い普通の本だと思ってしまうだろう。


「そうだ。左目だけ顕微鏡化ってできるのかな。試しにやってみよう」

 左目だけ集中し『見よう』とする。思ったとおり左目だけが顕微鏡の視界になる。

「おおおおお! これならアレができる、できるぞ!」

 早速ペンを握る。

「必殺っ! 顕微鏡写生!」

 なんてことは無い、顕微鏡で見えた対象物をスケッチするときに行う、片目で顕微鏡を覗きつつ、もう片目で紙を見て絵を描くだけの単なるひとつの技法である。


「ああ、これは楽で良い」

 ストレス無く思い通りに観察できるとは、「すばらしい」の一言である。顕微鏡で見える範囲外へ出てしまった生物を追うのは、慣れていても難しい。ほんの少し動かしただけでも、予想よりも動かし過ぎてしまうことがあり、時には観察対象を見失ってしまうことさえあるのだ。


「うあぁ、繊毛がびっしりと!」

 顕微の世界では視線を移すたびに、見たことがない生物に遭遇する。見つけたその生物の詳細を観察し、気がついたことを次々と走り書いていく。きちんとした形にまとめるのは、落ち着いてからでいい。今はただひたすらに微生物たちを描き、思いつくままに書きなぐる作業をしていた。

 瞳を輝かせているその表情は、美しい加工をされた宝石を目の前にした女性のようにうっとりとしていた。実際、顕微鏡で見る世界は、芸術品と言っても遜色はない。ガラスのように光を透す綺麗な細胞内基質、そこに浮かぶ細胞内小器官。まるで測ったかのように秩序ある造形は、一日中、眺めていても飽くことはないのである。


(ああ……自然というものは、なんて美しい芸術品を、こんなにもたくさん作り上げるのだろうか)


 マクロな視点で見れば地球と大差ない景色でも、ミクロな視点で見れば星を構成している物質や環境は異なっている。ほんの些細なことが違う(たがう)、それだけで生物の起源や性質は大きく隔たるものになるのだ。

 たとえば、この星の植物のもつ色素分子(クロロフィル)は、海松色(みるいろ)に近い黒味がかった黄緑色をしている。葉緑素と言うよりは、葉灰緑素と言った方がしっくりくるような色をしているのだ。そういう少しくすんだ色素を持っているので、草原に生えている野草たちの色は、地球のそれと比べると少し深い緑色をしている。


「灰色、と言うことは、満遍なく光を吸収する必要があるのか?」

 空を見上げ太陽を確認する。直接見ると目を痛めるので、直視はしていないが、太陽はまぶしいくらい輝いている。明るく見える太陽だが、地球の太陽よりもずっと弱く暗いのかもしれない。

 地上に降り注ぐ光の性質が地球と異なっているのか、生物を構成している物質の違いか、それとも大気中の成分の違いか。とにかく、恒星から放たれる光のエネルギーを最大限に効率よく吸収するために、光を使って栄養を合成する植物たちは黒っぽくなっている可能性がある。

 それでも緑が強いということは、地球の植物が行う光化学反応と基本は同じで、青と赤の波長を吸収して光合成を行うのが効率が良いのかもしれない。


「光合成と言えば、彼ら植物が光化学反応で栄養を合成するときに使うのが二酸化炭素で、その反応の副産物が酸素とは限らないな」

 それらを確かめる手段は今は無いが、いずれにせよ、この星の大気の成分が地球と同じ割合である可能性は低いだろう。

 地球人は地球の大気の性質上、窒素には比較的耐性があり中毒症状も他の物に比べると軽い。しかし、その窒素も限度を超えれば呼吸ができなくなり死んでしまう。そして生きていくのに必要な酸素でさえ高濃度の中にあればやはり中毒を起こし死に至る。

 他にも、二酸化炭素やヘリウム等のように濃度が濃くなれば単純に窒息してしまう気体や、一酸化炭素やシアン化水素のような呼吸色素(ヘモグロビン)等と化学的に結びついて呼吸を阻害してしまう気体、塩素や二酸化硫黄と言った呼吸器系を刺激する気体の割合が一定以上の星だったら、あっという間に中毒症状が出て最悪そのまま死んでしまうだろう。

 環境循環系が地球と異なっていると仮定するとやはり『苛酷な環境でも耐えられる体』を願っておいてよかったのかもしれない、とふと思う。しかし、言葉のときと同じように、願わなくとも適度な環境適応くらいは既定値(デフォルト)で設定されていてもおかしくはないと、思わないこともなかったが。


 さて、大気の成分や環境うんぬんはとにかく、少なくともこの星も、地球と同じように豊かな生命を生むのに適している、ということだけは確かだろう。地球とこの星のさまざまな事象を色々と比べることができるならば、生命の発生に必要な条件とは何か、その手がかりがわかるかもしれない。しかし地球に戻れない今、自分の知っているほんの少しの知識だけでは到底足りず、ひとつひとつ検証していくのは不可能に近い。せっかく比較の対象ができたのに、それができないのは残念である。

 あるいはその部分は永遠の(テーマ)としてロマンを含ませたままにしておくのも、いいのかもしれない。そう思うことで惜しい気持ちをだいぶやわらげる事に成功した。



「ううむ。僕は微生物(マイクローブ)と呼ばれる生物の中でも、真核生物(ユーカリオート)が好きで、細胞核を持たない原核生物(プロカリオート)や、生物かどうかあやふやな生命体の非細胞性生物(ウィルス)は専門外だからあんまり詳しくは無いのだけれど……この大雑把な生物分類でさえ、果たしてあてはまるのかどうか怪しいところだ」

 地球の分類学の形式には様々な説があるが、おおむね『動物』『植物』『菌類』『真正細菌(バクテリア)』『古細菌(アーキア)』『原生生物』、そして厳密には生物ではない生命体の『非細胞性生物(ウィルス)』というように分けられる。

 単なる物質や、物質と生物のハザマにある非生物(ウィルス)系統のものが多くなるのは仕方ないにしても、動物か、植物か、はたまた菌類か、判別が難しい生物も多いように感じた。やはり環境が異なれば、地球とは全く異なった生物界を持っているのかもしれない。


「それにしても、だ。……まさか細胞核の見当たらない多細胞生物がいるとは思わなかった」

 地球の生命は、ある程度の大きさを持つ生物ならば核を持っている。多細胞の生物ともなると、間違いなくそれは存在している。

 核を染める染色液か何かがあれば、ただ見えにくいだけなのかがわかるが、そのような薬品は手元にない。仮に核として分かる形を成していないとしても、生殖の様子を見れば何が遺伝情報を持っているのかということが、突き止められるだろう。

 生物であるにも関わらず繁殖しないなどと言うことは、環境が異なるとはいえ、さすがに無いだろう。生殖をしないものは、生物の定義からはずれてしまうのだから。


 生物とは何か。

 いまだに様々な議論がされているが、「遺伝子を持ち自己増殖すること」、「代謝を行うこと」、「自己と非自己を隔てる明確な境界を持つこと」が主に挙げられる。生物の最小単位である「細胞から成り立っていること」も重要だ。

(ちなみにこの定義に当てはめると、ウイルスは細胞の構造を持たず、代謝もしない、その上、自己増殖は他種の細胞がないとできないので、生物ではないことになっている)

 このような定義は定められているものの、確実に「生命とはこれだ」と言うのは難しいというのが現状なのである。

 それに加えここは地球ではない。地球とは異なる進化をしてきた生物たちからは、地球とは異なる定義が見いだせる可能性もあるのだ。


「本当に興味深いことばかりだ」

 地球とはまったく違う造形の微生物に感動しっぱなしだった。

 今は実験もできない環境なので、詳しいことを調べられないのは、歯がゆいがそれは嘆いても仕方がない。それを補うためにも、もっと観察して、それぞれの相違点、行動、成長過程、ありとあらゆる状態を『見て』検証していかないといけない。

 まだまだ観察の数が足りないが、時間だけはたっぷりとある。思うような実験のできないその不便さを差し引いても、いつでもどこでも微生物が見ることができるのはうれしい限り。それに本音を言えば実験よりも、ずっと眺めていたり、描いているほうが好きなのだ!


 微生物を見ることができる。このような素晴らしい能力を得て、レポート提出も試験もない、何のしがらみもなく好きな微生物を観察することができる。それは非常に幸せなことであった。

 異世界に来た院生は、時間も忘れて初めて目にした微生物たちを観察しまくる。


「あぁ、神様。ありがとう! 大好きだ!」

 何もかもから開放され、気分はますます晴れやかに、意気揚々と草原にあふれる生命たちを観察した。

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