26・蠍の鉤は猛毒ですか?
ある日は仕事へ行き、ある日は草原や町の片隅で観察をし、オキシは日々を満喫していた。取り立てて特記すべきことがないと言うことは、いいことだ。だいぶ異世界での生活に馴染んできたということかもしれない。
日常というやつは、変わり栄えがしない方が平穏ですばらしいものである。
しかし、日常は永遠と続かないのも、常。今までいくら平和な日々を過ごしてきたからといって、これからも何事も起こらない保証はない。その身に降りかかる非日常は、常に、突然、不意に、姿を見せるものである。
そう、本来なら何の変哲もない一日のまま、今日という日も終わる予定であった。
「相変わらず、月は大きい……」
一息ついたオキシは天を仰ぎ、この世界において当たり前のことをつぶやいた。
見上げる月は、太陽を隠し始めている。地球においては皆既日蝕と呼ばれる非日常的な現象であるが、この空では毎日起こる日常の出来事である。
「ほら、現実逃避していないで、早く帰ろう?」
今日も、いつものようにロゲンハイドが帰る時刻を知らせに来た。
キセノンから注意を受けて以来、ロゲンハイドは夕方になるときっちりと知らせている。そのおかげか、日が完全に月に隠れる頃までには部屋にいることも多くなった。
「本当に、一日は何時間あっても本当に足りないな……」
地球よりも一日が十時間ほど長いにもかかわらず、すぐに終わってしまう。オキシは毎度のごとく不満たらたらと文句を言いながらも、ロゲンハイドの言葉に従い帰路につく。
日が暮れはじめると町の雰囲気は変わる。夕時の色に染められた大通りでは、道ゆく人の影が長く長く伸び、壁に地にその色を落としていた。
オキシはモモーロが引く幌車が通り過ぎる大通りから、家と家のすき間を縫うように通る道へと入る。地元民でも、この周辺に土地勘のあるものだけが使える抜け道である。
「おや、今日は早いね」
今では近隣住民と軽くあいさつをする程度の交流であったが、この町にもだいぶ馴染みの顔も増えてきた。町の片隅や草原でじっと地面を見ているといった奇妙な行動に加え、髪や目の色が珍しいこともあって、ひと月も経たないうちに「どこどこでよく見かける」という程度の知名度は確立していた。
声をかけてくる人の中には、オキシにはまったく面識のないこともあるのだが、それは仕方のないことでもあった。ただ単に観察に夢中であったオキシが覚えていないだけなのである。
話し掛けてきたこの婦人もそんな一人である。
「最近、物騒なので」
オキシは無難に答える。
この周辺で起きていた残虐な犯行も、かの蠍種が指名手配されたからなのか、最近はぱったりと起きなくなっていた。
彼がどこか遠い場所へ行ったのならばいいのだが、それは誰にもわからない。何も動きがないことで逆に不気味な静けさとなって、不安が町を覆っているのは確かであった。
それに加えて最近はロゲンハイドは「妙な感じがする」とか「あんまりいい感じはしない」と言い、オキシに特に早く帰るように促していた。不穏な気配に敏感な精霊の勘は無視できない。オキシが比較的素直に帰宅しているのは、それが大きかった。
「そうよね、最近物騒だものねぇ。気をつけて帰るんだよ」
「はい。ではまた」
オキシはすれ違いざまに行われるたわいもない会話を適当にこなしつつ、入り組んだ細道を進み、部屋を借りている虎狛亭に向かった。
両側を高い木造の建物で囲まれて、その間から覗く空は狭い。空はまだ薄明の色を残し幾分か明るさを感じるが、壁にさえぎられ光の届かない通りはすっかり薄暗い。しかし、この狭い通りを満たしている空気は、暗くなりゆく空とは裏腹に明るく優しい。立ち並ぶ家から聞こえる包丁とまな板が奏でる小気味よい音、漂う食べ物の匂い、その家庭的な雰囲気はどこの世界においても温かく感じた。
そんな夜の迫りくる様相の道を歩いていると、オキシを呼び止めるものがいた。
「久しぶりだな」
その声に振り返ると、視線の先には不気味な人物がいた。長くゆったりとしたローブを身にまとい、顔を隠すようにフードを目深にかぶっている。一言で言ってしまえば不審者である。
「僕に何か用ですか?」
聞き覚えのない声に、誰だろうとオキシは首を傾げた。彼はオキシを知っている様子だが、オキシには思い当たる人物がいなかった。見知らぬ人から声をかけられることはよくあったし、平和ボケした日本に住んでいた影響もあるだろう、明らかに不審者なのだが、何の警戒心もなくその人物に何用かと問うた。
「くくく、俺のこと、忘れたかい?」
男はうす気味悪い笑みを浮かべながら、顔を隠していたフードを取った。甲殻を身につけた赤い色、地球人類とはかけ離れた造形の顔立ち。そこには見覚えのある顔があった。
「うあ……」
そこに立ちはだかっている人物を見て、オキシは思わず微妙な声を出してしまった。心臓が口から出なかったことを褒めてあげたいくらいだ。
忘れるはずはない。
彼は一番遭いたくない人物である。
何人もの人を殺してきた連続殺人犯、名前は確かアーゴンといっただろうか。オキシは指名手配の紙に書いてあった情報を思い出す。
彼と最初に遭遇した時、あの時は観察に熱中していたせいか、周囲の出来事にほとんど意識を向けていなかった。死んでいたかもしれない、というものすごい体験をしたわりに実感も自覚もかなり薄かった。
とはいえ、その残された手掛かりから何が起きたのか容易に推察できたし、その危機的な状況に後になってから恐怖したことは間違い無い。
オキシは微生物の事になると手がつけられなくなるが、基本的な部分は普通の一般人と大差はない。怖いものは、やはり怖い。人を殺すような人物を目の前にすれば恐怖を感じるのだ。
「なんで……」
自分を一度殺傷した者にこのような人っ気のない場所で出会ってしまった。
突然のことに、言葉が出てこない。逃げようにも、足は地面に縫いつけられたように動かない。動揺しないでいられるはずもない。
「ゆっくりと話をしたくってな。ここいらで張っていれば、いずれチャンスはあると思っていたんだ」
アーゴンはここ数日、オキシを尾行し行動パターンを調べていた。そして、オキシがよくここを通ることを知り、人通りが途絶えるこの時をまっていたのだ。
(つけまわしていたのか。まったく気がつかなかった。そういえば最近、ロゲンハイドは「不快な感じがする」と言っていたが、彼のせいだったのか)
オキシは精霊は不審な視線を感じることができることを思い出した。
広場で発見した時のように精霊の感知能力を持ってしても見つけられなかったのは、アーゴンが身を隠す魔法が得意な種族ということに起因する。本気で身を潜めれば、あの小さな精霊の目をもごまかすことなど、たやすいことなのだ。
(そういえば……ロゲンはどこだ?)
とうの精霊はどこへ行ったのだろう。
オキシはロゲンハイドに助けを求めてみるが、近くにいるはずのロゲンハイドの気配は非常に弱々しく感じた。近くにいることは感じる気配から確実なのだが、どうも何かがおかしかった。
『どうしたんだよ、ロゲン?』
オキシのその言葉に反応するように、どこかから小さくロゲンハイドの声が聞こえたような気がした。
「精霊を呼んでも無駄だぞ。ここにいるからな」
アーゴンは口を歪ませうすら笑いを浮かべる。彼の赤い甲殻の指につままれたロゲンハイドがいた。力が抜けたように手足が揺れ、彼の指の先で抵抗することなくぐったりとしている。
本来、精霊は物理的な干渉は受けない。しかし、蠍種の毒鉤は魔力に干渉し乱す成分が含まれている。魔力の塊である精霊にも多少影響が出てしまうのだ。
『ご、めん……油断、した。おいら、役立たず』
ロゲンハイドは平和な町生まれであり、荒事の経験も少ない非戦闘系の幼い精霊だ。相手に先手を取られると対応が遅れてしまう。奇襲を受けたロゲンハイドは、毒鉤の餌食になってしまったのだ。
毒の働きにより魔力が乱されているため、ロゲンハイドは思うように体が動かず何もできない。消え入りそうな「声」をオキシに届けるので精いっぱいだった。
「さすが精霊様だ、意識は失わないみたいだな」
アーゴンは己の手のうちにある小さな精霊の頭の先からつま先まで嘗めるように凝視する。
この精霊はたいした魔力を持っていないことがわかる。精霊の中には、瀕死の生物を癒すことができる者もいるというが、己の麻痺状態もすぐに解毒できない弱そうなこの精霊が瀕死の人間を回復できるほどの魔法を扱えるとは考えにくい。
(失血死してもおかしくなかったアレが生きているのは、この精霊とは関係のないところに秘密があるのだろうか)
アーゴンは視線を対峙する小さな人物に向ける。黒い髪と黒い瞳という珍しい色を持つその人物は、ただただ精霊を見ていた。精霊を使って何かを仕掛けようとしているのだろうか。この精霊の力は未知数だ。動けないとはいえ油断してはならない。
「どちらにしろ……この精霊は目触りなんで、少しの間ご退場願おうかな」
アーゴンは用なしとばかりにロゲンハイドを屋根の向うへと投げた。精霊は何の抵抗もできずただただ飛んでいく。ロゲンハイドは木か茂みのある場所に落ちたのだろうか、かさりと葉がすれる音がして静かになった。精霊は地面に叩きつけられたとしても怪我はしないが、毒が消えるまでしばらくその場から動くことはできないだろう。
「さて邪魔者がいなくなったところで、さっそく本題だ」
精霊を使って何か企んでいたとしても、近くにいなければ、どうすることもできないだろう。しかし、先ほど放り投げた精霊がいつ復活するかも分からない。それに己は手配中の身、もともとあまり長居はできない。ここは人通りが少ない往路とはいえ、いつ人が来るかもわからないのだ。
さきほどから黙ったままのオキシに構わず、アーゴンは早々に要件を済まそうと本題に入った。
「単調直入に問う、おまえは魔物の類なのか?」
アーゴンは短くそう問うた。彼の赤く鋭い瞳には、疑惑というよりすでに確信しているかのような光が宿っている。
「……は?」
魔物か否か、オキシは彼が何を言っているのか分からなかった。
突然現れた恐怖の対象に思考が止まり真っ白になっているのはもちろん、なぜそう問われているのか混乱していることも要因だ。
急な質問にオキシはどう言葉を紡いだらいいのか、わからず黙りこむしかなかった。
小さな沈黙が、薄暗い路地に静かに落ちた。
アーゴンは赤い瞳を細め、対峙する者を見た。見た目は猩種の子供であるが、それが持つ色はかなり珍しい。その珍しい色の、闇からにじみ出たような眼は揺れて視線が空を彷徨い、明らかに落ち着かない挙動をしている。口をつむぎ沈黙するオキシを見て、アーゴンは息を呑む。
人の形を模す魔物は存在するが、これほどまで人に似せ、人里まで現れて人の生活に溶け込めるほどの知性ある魔物は確認されていない。魔物でありながら人である、それが成り立つのならば、その存在は最悪であろう。
「まさか本当に魔物なのか? 黙っていないで、何か言ったらどうだ」
アーゴンは繰り返し同じ質問をする。
「ぼ、僕は……ひ、人を、殺すような人間を目の前にして……な、仲良くお話できるほど、呑気じゃない」
オキシはなんとか絞りだすように、かろうじてそうつぶやく。恐怖によるものなのか声はかすれ震え、口も思うように動かない。
怖くて今すぐに逃げ出したい。頭にあるのはそれだけだった。しかし、逃げようにも足もすくんで動いてくれなかった。のどの奥から飛び出さんばかりに波打つ心臓を、あふれそうになる涙を、なけなしの自制心で抑えこむ。自分がそう簡単に死なないと言うことだけが、心の支えだった。それが無ければ、もっとパニックを起こしていただろう。
「くくく、今はそういう気分じゃないから安心しな、と言っても普通はそうだよな」
彼の中では特定の夜以外は「食事」はしないと決めていた。今はその時間ではないのだ。しかし、そのようなことを他の者が知るはずもない。
「それにしても、魔物でも恐怖は感じるんだな」
アーゴンはなぜオキシが黙り気味なのか、やっと納得した。魔物でも高度な知性があれば、なるほど、死への恐怖という感情があってもおかしくはない。アーゴンは感心する。
「なんで僕が魔物だと……そう思うんだ?」
魔物と決めてかかっているアーゴンに対し、なんとか疑問を口に出せた。彼がなぜ魔物ではないかと思うに至ったのか、気になるのはその一点。オキシにはそれが分からなかった。
オキシはこの世界の人間ではないが、だからといってもちろん魔物でもない。この世界ではたった一個体の生物、つまり本来、何物にも属さないのだ。
「なぜか、だと?」
アーゴンはなぜそう考えるに至ったかを思い出し、顔をしかめ苦い顔をした。
――あの日、草原に現れた治安組織の者から逃れ、ついてないと思いつつ隠れ家に帰った。
今回のことで町の警備も厳しくなり騒がしくなるだろう。逃走時に顔が割れてしまったので、手配書が出回ることとなれば、明るい時間帯は素顔をさらして町を気軽に散策できなくなる。ある程度ほとぼりがさめるまで外出は控えようと決めた。しばらく退屈な日々になるとうんざりしていた矢先だった。はじめは気のせいとも思ったが、体にだるさを感じたのだ。
(うまく振り切れたが、危うく御用になりそうになるところだった。さすがに精神的にも肉体的にも疲れているのか)
そう思い、寝床に横になった。
この程度の不調なら数刻もすれば治まるとたかをくくっていたが、その見積もりは甘かった。時間が経つにつれ徐々に調子が悪くなってきたのだ。
体は熱っぽさにけだるく、起きあがればめまいに襲われ、飢えを感じるが食物は受け付けず食事もままならない。水に薬草を溶かしたものを口に含み、かろうじて過ごしたのだ。
その現れた症状は間違いなく魔物中毒症のそれ。しかもかなり重症で数日の間、寝込み苦しんだのである。
これほどまでの症状が出るということは、かなり高濃度に汚染された物に接触したということになる。しかし、アーゴンは魔物や魔物に汚染された物に触れた覚えはない。
潜伏期間を踏まえ怪しむとすれば、前日の夜に行った狩りの対象。あの黒髪と黒い目を持つ人間の血を吸ったこと。思い当たる原因はそれしかなかった。
血液を摂取し魔物中毒症を発症したこと、普通の生物であれば死ぬ状態であったはずのものが生きていたことから導き出されるのは、アレはヒトではなく魔物だからではなかろうか、という憶測だった。
魔物は核を破壊しない限り、どんなに瀕死の状態であってもいづれ回復し、元気に活動するものなのだ。
アーゴンは収まらない症状に苦しみながら、その血の味を思い出していた。
(特に危険を感じるような味ではなかったが……変わった味であったのは、あれが魔物だったからではないだろうか)
ますますそう疑念を抱くようになっていた。
毒の塊である魔物を取り込む、これは自殺行為である。世の中には魔物を食らう物好きがいることにはいるが、食用に使う魔物の種類は決まっており、手間暇かけ害の出ない濃度まで毒を薄める処置をしている。とはいえ、毒はやはり毒、完全に無毒化するわけではない。魔物中毒症にかかる危険は常にはらんでいるのである。
ときに毒を食せば非常な旨味を感じ、虜になるという。一部の人間にとって中毒の危険を犯してまで食したいほどに魔物の肉は魅力的な食材なのだ。
――確かにそのとおりだった。
魔物を食らう者たちが、病みつきになるのもわかるような気がするほどに、味わったあの血は美味なものであった。しかし、このように一度酷くあたってしまっては、いくら美味であったとはいえ、もう二度と口にしたくはない、というのも正直なところでもあった――
「俺はお前の血を吸ってから、ひどく体調を崩したんだ。人の血でこんなことが起こるわけない」
アーゴンはあんな体験はもう二度とごめんだとばかりに顔をゆがめた。
「き、吸血動物だったのか……」
アーゴンの語る話を聞いてオキシは絶句した。まさか血を吸われていたとは思ってもいなかった。しかしその一方で腕が取れるほどの状態だったにも関わらず、あんなにも出血が少なかった理由がわかり納得もした。どれくらいの血を失ったのかまではわからないが、流れ出るほどの血流がなかったとしたら当然といえば当然だ。
オキシは無意識に右腕をつかむ。状況から確かに1度失っているはずだが、違和感なくそこに腕はある。体の一部を失っても再生する能力があることを知った事件ではあるが、殺人といった死の臭い漂う危機とは無縁な世界で暮らしてきたオキシには、いささか刺激が強すぎる出来事でもあったのだ。
「ど、動物?」
アーゴンは眉間にしわを寄せますます怪訝な表情をする。
吸血鬼と言われるのはまだ理解できるが、いくら嫌われているとはいえ、まさか動物呼ばわりされるとは思わなかった。おとなしそうな外見に反して、到底、人とは思えない発言である。
「あ、いや……」
地球には人間といえば猿から進化した一種しかおらず、そのような環境に慣れてしまっている。目の前の者が人型で会話可能とはいえ見た目は巨大な蠍、甲殻の生物。哺乳類とも程遠い生物の特徴を持つそれを無意識に、人よりも動物寄りに認識していてもおかしくはなかった。
しかも、もともと邪魔者が現れて気持ちが高ぶると地球人類でさえ哺乳類扱いするようなオキシである。無意識に遭いたくない者を、そのような邪魔者と同列のものとして認識していてもおかしなことはなかった。
「えっと……で、でも、中毒死しなくて良かったと思えばいいよ。得体の知れない『異物』を直接体内に取り込んで、その程度で済んだんだから。僕の内にここの生物にとって、どれだけ危険なものが含まれているか、未知数すぎて自分にも分からないから」
オキシはごまかすように、体調を崩したというアーゴンに慰めの言葉を投げた。
まったく異なる環境から来た生命であるオキシは、この星の住人と根本的に性質が異なる。自分の体内にはこの世界に住む生物にとって有害な物質が含まれていたり、微生物を宿している可能性がないとは言えないのだ。
それは地球人にとって危険な病原体とは限らない。進化の過程が異なっていてお互いの性質がかけ離れていれば、いくら同じ人型で姿が似ていようとも、病原菌の作り出す物質が毒素として反応せず、無害なこともある。逆に地球人にとって害のない物質が、異世界人の体内に入ることで過剰に反応してしまうこともあるだろう。
どちらにしろオキシがこの世界において異物である時点で、この世界に及ぼす影響が「まったくない」とは言い切れないのである。オキシが今ここに存在するだけでも、物質や微生物は大量に行き来し、影響し合っているのだから。
(すっかり失念していた)
そういえば、あの時、視界に入って邪魔だったので右腕をどこかに投げた。その行為はまずかっただろうか。オキシは投げ捨てた自らの腕が生態系に与える悪影響を心配する。しかし、今さら探しに行き、見つけたとしてもオキシにはどうすることも出来ないだろう。
安定した生物圏の中に少量の侵入者があった場合、根付く前に在来生物の安定した数の暴力に負け、いずれ淘汰されてしまう。しかし、自然は常に予測できない変化をする。時に外来生物は少数であっても思わぬ繁殖能力を発揮し、生態系を狂わすほどに在来生物を危険にさらすこおもある。
オキシは自分の手を『見て』みる。
なじみの微生物から、見たこともない微生物まで、地球産と異世界産入り混じっている。彼らに「仲よく」という概念があるかわからないが、お互いに受け入れ、なるようになっているように見える。
そういえば、キセノンやロゲンハイド、その他大勢の人々はオキシと一緒にいるにも関わらず平気な様子である。何より危険なものに敏感なあのロゲンハイドがオキシの存在を危険物として認定していないのだ。
たとえこの星の環境循環系に何らかの影響を与えていたとしても、きっとうまく取り込んでくれるはずだ。オキシはそう信じることにした。
――それにしてもこの手のひらにいる皮膚常在菌は美しい造形をしている。対称に整った細胞、光に透ける殻、その中にたゆとう細胞内基質の流動。見ていて飽きない素敵な世界。
オキシはアーゴンの存在を無視し、自分の思考の世界に逃避しはじめていた。
「やはりおまえは魔物の類じゃないのか?」
自らの体を毒物だと言うオキシに、疑問をぶつける。
魔物というのは有害でしかなく、存在するだけで大なり小なりの厄災を招く。実際、アーゴンにとってはオキシに接触してから災難続きであった。
魔物中毒症の辛い症状も治まり、体調も体力も完全に回復すると、アーゴンは最新の注意を払いながら町に出た。まだこの町に滞在しているかどうかはわからなかったが、他にどんな禍をばらまいているのか確かめるため、その姿を探した。見慣れない造形の白い外套をまとい、黒髪という珍しい容姿ということもあって、数日もあれば見つけ出すことができた。
種族としての特性上、物影に潜んでの尾行は得意分野である。二、三日の間、監視を試みたがこれといって何の害も出していないように見えた。他に仲間がいる様子もなく、大抵一人で過ごしていた。
しかし、草原や人気のない場所でじっとしている時などは、あまりに無防備すぎて逆に誘っているのではないかとも錯覚し、臆病というよりも慎重すぎる性格ゆえに、なかなか踏み込めなかった。
そのように潜みながら動向を伺っていた時、ふと精霊の気配がしたのだ。精霊もこの黒髪のモノを見張っているのかと思いきや、どうやら一緒に過ごしているようなのである。
精霊がなついていることは驚きであった。精霊は魔物を特に忌み嫌っている存在なのである。魔物と精霊が一緒にいる、それはありえない。常識に照らし合わせ精霊がなついているという時点で、あれが魔物なのかもしれないという仮定は揺らぎつつあった。
しかしアーゴンはその身を持って確かに「魔物中毒症」を体験したのだ。これは覆らない事実である。それがあった故に、未だにアーゴンはオキシを魔物ではないかと推測し、その考えに囚われていた。
人の血を吸うことに悦びを感じるという「この世界の住人とは異なる性質」を己が持つがゆえに、異質であることに敏感なアーゴンは、オキシの中にかすかに感じられた異質――魔物であるか否かという問題をさしひいても、それが一体「何」なのか興味があった。
「おまえは魔物なのか? それとも……魔物ではないとしたら、おまえは何だ? おい、聞いているのか?」
質問をあびせたが、反応は返ってこない。無言のまま、自分の手を見つめているだけ。問いかけても返事がないので、痺れを切らしアーゴンは詰めよった。
「うるさいな、邪魔を……じゃ、なくて……いや、その……」
オキシは逃避の観察を邪魔されて不機嫌になるが、状況を思い出す。殺人犯を前にしても、微生物を優先してしまうとは。悪い癖が出てしまったが、邪魔をするアーゴンにいらだちを覚え始めていたのも事実。しかも、馬鹿の一つ覚えのように「魔物魔物」と繰り返すのだ。
よくよく考えてみれば、身の上を知らなかったとはいえ、許可なく体内を流れる血を吸ったのだ。それで勝手に体調を崩したのだから、自業自得、当然の報いともいえるだろう。
思い返せばそうである。
何も同情する必要はないのだ。
むしろ、中毒死してしまえばよかったのにと、オキシはそう思い始めた。そうすれば吸血嗜好な殺人鬼の存在を知ることなどなかったし、今ここで出遭い恐怖に震えることなどなかったはずなのだ。
微生物を見て、だいぶ落ち着きを取り戻せたオキシは、この恐ろしい邪魔者から逃れるために思考をめぐらせる。
ロゲンハイドはまだ動けそうにない。ここは自分一人でなんとか切り抜けなくてはいけない。いや、一人でどうにか対処する必要はない。とにかく助けを呼ばなくては、この状況からは逃れられない。
治安のいい日本に生まれ、今までの人生で危険な変質者に遭遇すると言った状況を体験したことはない。だが、そのような状況になった時の対策はいくつか知っている。
オキシは拳を握り締める。声は出てくれるだろうか。不安はあったが、やるしかない。
子供の頃に親に教えてもらった手段を実行するためにオキシは息を吸い、そして「その言葉」を叫んだ。
「火事だ~!」
静かに闇の降りる夕暮れの空気に、声は反響する。
未だかつてない大声でその言葉を出し切り、オキシは息を整える。できることはした。あとはこの言葉の持つ、ある種の「人を操る魔法」のその効果が発揮されるのを待つだけである。
オキシは唾を飲む。あたりの気配に気を配り、そろそろやってくるその時を待っていた。
「……何言っているんだ?」
突然何を言うかと思ったら、助けを呼ぶでもなく火事でもないのにそう叫ぶとは。アーゴンはオキシの予想外の行動に、瞳がきょとんと瞬いている。
その時である。
「火事はどこだ?」
「なんだ、なんだ。何があった?」
騒ぎを聞きつけ、ざわめきと共に人々が出てきたのだ。
成功した、とオキシは安堵の息をはく。
火事である、そう叫んだ理由はそこにあった。小さい頃から不審者が出たときは「助けて」よりも、「火事だ」と叫ぶように言われてきた。悲鳴や助けを求める言葉を叫ぶより「火事だ!」と叫ぶほうが住民の注意を引きやすく、野次馬という属性の人々が、わざわざ家から出てきてくれるからだ。
悲鳴や助けを求める声を聞いた場合、普通の一般市民はひるむ。何が起きているのかという好奇心よりも、怖さのため、やっかいごとに関わりたくないため、そういった感情が沸き起こり、確認のために行動を躊躇してしまう場合がある。何かが起きたことだけはわかるが、最悪目撃者が誰もいない事態になることもありうるのだ。
しかし火事というのならば、確認のため窓から顔を出したり、家から出てくる。この密集した住宅地での火事は場所によっては自分の身に危険がある可能性が高いからだ。
「ちっ」
アーゴンは舌を鳴らした。予想以上に人が集まりだした。このままでは、逃げるに逃げられなくなってしまう。
「どけっ」
狭い通りをふさぐ人を数人ほど鉤針で刺し、昏倒する人を押しのけ強制的に逃げ道をつくる。毒が効いて倒れる人を目撃し、女性が悲鳴をあげる。
「怪我人がいるのか?」
「誰か、向こうに逃げたぞ」
アーゴンは暗い路地裏へ姿を消したが、情報は錯綜し騒ぎはますます大きくなる。
彼の姿がすっかり見えなくなると、オキシは緊張の糸が切れ、自立しなくなった操り人形のようにその場に膝をつく。身体の芯から小刻みに震えてきた。
(本当、泣きそう。というか、涙が出てきた)
それは助かった安堵がもたらしたものか、なんとか飲み込んでいた恐怖が雪崩を打って押し寄せた。涙はあふれ出て止まらない。
「大丈夫かい? 何があったんだい?」
黒い色彩を髪に持つ子供が、地ベタにへたりこんで泣いていた。最近この町にやってきて、今は虎狛亭に部屋を借りていることは、付近に住む者ならほとんどの者が知っていた。
日常生活の行動は少しばかり変わっており、どこか危なっかしい部分もあったので、何か妙な事に巻き込まれないか心配している者も多かった。そんな中のこの騒ぎである。
どうやら火事は起きていないようだったが、とにかく尋常ではない何かが起きたことだけは確かなのだ。おそらく騒ぎの中核にいたであろうその子供に、やさしく声をかける。
「……えぐ」
起きた出来事を説明するために声を出そうと口を開いてしまうと、喉の奥から堪えていた嗚咽が出てきてしまう。白衣の裾で涙を拭くが、涙は次々にあふれでて止まらない。二十歳過ぎて、大泣きすることがあるなんて思わなかった。
今は言葉なんてつむげない。大丈夫、と頷くので精いっぱいだった。