23・人間とは知っている雑学を披露したくなる生き物。
仕分けの仕事も順調で資金もある程度溜まったので、オキシは虎狛亭に移ることにした。今の段階で、この町以外へ行く予定はない。オキシは女将に銀色の硬貨を五枚渡し、部屋をしばらく借りることを伝えた。
「半周期分だね。何か困ったことがあったら、気軽に言ってちょうだいな。タンタル。この子を部屋まで案内してやんな!」
女将は部屋の鍵をオキシに手渡し、息子を呼んだ。
ちなみに何の連絡もなく部屋代を二カ月滞納すると、部屋は勝手に片づけられ次の人に貸されることになる。これは、いつ死ぬかも分からない危険と隣り合わせの職業の者が多く借りるがゆえの規則である。
虎狛亭の一階にある食堂は何度か利用したことがあるが、上の階へ行くのは初めてだった。
木製の階段を登った先は廊下は続き、部屋の戸がいくつか並んでいる。
「そういえば今、キセノンはここに泊まっている?」
この町にいる時は、ここに泊まっていると聞いている。色々と世話になったし、もしも滞在しているのなら軽くあいさつしようと思ったのだ。
「キセノンは、この町にはいないよ。でも、もうそろそろ戻ってくるんじゃないかな」
長い時は一月程いないこともあるが、キセノンはこの町を拠点としているので依頼が終われば、この地に戻ってくる。
「……そうなのか。ありがとう」
知りたいことは知った。オキシは案内してくれたタンタルにお礼を言い、部屋へ入った。
壁紙は白を基調とした明るい感じで、床は木製のタイルが敷き詰められている。観音開きの窓が2つあり、朱鷺色のカーテンが片側にまとめてある。広さは今まで泊まっていたところと大差なかったが、一つだけ大きく異なることがあった。
「あ、ハンモックだ」
部屋の隅にハンモックが設置してあった。ハンモックだとベットに比べてベットメイク関連の手間が省ける。それがこの部屋の安さの秘密のひとつである。
もしもベットで寝たければ別の部屋へ行かなくてはいけないが、部屋の値段は倍近く高くなってしまう。
どこでも眠れるオキシにとっては寝具がハンモックであろうと、寝袋であろうと、草むらだろうと、そこが眠れる場所であれば関係なかった。
旅人の中には自分のハンモックを持ち運んでいる者もいるので、このハンモックを取り外して、自分の使い慣れたハンモックを使うこともできる。しかし、オキシはそのようなものは持っていないので、備え付けのものをそのまま使うことになる。
ハンモックは初体験のオキシは触ってみる。柱に複雑な結び目がしっかりと固定してある。ハンモックの吊り下げ紐を引っ張ってみてもびくともしない。
ハンモックの設置具合を確かめ終わると、オキシは乗ってみた。当たり前だが、ハンモックは慣性に従って揺れる。この独特の揺れと浮遊感は心地よく、癖になりそうだ。
ゆらゆらとハンモックを無意味に揺らしながら、オキシはこれからの予定を考える。
基本的に食を必要としないオキシは食費分だけ他の人よりも金銭的に余裕ができやすい。しばらく休み取っても宿代を問題なく支払える程度に蓄えができた。観察したいものも増えたことだし、頃合を見て数日の休日を取ろうと考えた。
そして――
休日を手に入れたオキシは部屋に閉じこもり、有意義な時間を満喫していた。
先日、採取してきた例の魔物の破片は、ドロリとした液体になっていた。死骸を分解し、しかも魔物の吐く液体に耐性を持つであろう生物が存在しているのだ。
「やっぱり、自然界はよくできている」
魔物は毒素を大地に振りまき、動植物を死に至らしめる。顕微の世界でも同じように死の気配が漂う地となっていた。しかしそれでも、その中で活発な動きを見せる微生物はいたのである。
思惑通り微生物の存在を確認でき、揚々とした気分で、観察を続けた。
微生物はどこにでもいて、この星の環境循環の一端を担っている。動物の肉を溶かし、植物を枯らすほどの毒を魔物は持っているが、もちろんそれを分解する微生物は存在しており、そのおかげで魔物に破壊された大地は再生することができるのである。
魔物がいなければ存在しない微生物もいる、その微生物が存在しなければ、生きていけない生物もいるだろう。多くの生命を奪う魔物とはいえ、それでも世界には必要なシステムのひとつを担っている。世界には無駄なものなどないのである。
「すばらしい」
オキシは何か新しい動きがあるたびに、賛嘆の声をあげ、いつまでも飽きることなく瓶の中の世界を眺めていた――
「ねぇねぇ。たまには外に行こうよ」
ロゲンハイドはオキシを外へ誘っている。休日をとって以来、ずっとこうなのだ。観察に忙しいと言って、しばらく部屋からでない日が続いていた。草原にいるときのように、夜だの何だの言わなくてもすむが、こんなにも部屋に閉じこもっているのは、体に悪いだろう。本当に部屋からでないので、心配して様子を見に来たロゲンハイドはそう提案する。
「いってらっしゃい」
しかし、外に行く気など毛頭なかった。顔も上げずに断る返答をする。
「そうじゃなくて。たまには、外に出ないと」
ロゲンハイドは頬をかいて、机の前から動こうとしないオキシをどうしたものかと考えた。
「外にいたらそろそろ帰ろう、部屋にいたら今度は外に出ようって、わけがわからないよ」
「オキィシの方が、わけがわからないよ」
極端すぎる生活はもちろんのこと、ロゲンハイドにとって気味が悪くて仕方がない魔物の残骸の一部を、オキシは夢中になって見ているのだ。おかしいことこの上ない。
「少しは出歩かないと、誰かが心配して様子を見に来て……オキシの邪魔しに来るかもよ?」
オキシの扱いにすっかり慣れてきたロゲンハイドは、そう諭す。
「もぅ、わかったよ……」
ロゲンハイドがどうこう言っている事自体が邪魔であったが、ロゲンハイドの言うことも一理ある。確かにそれはそれで今よりも面倒くさいことになりそうだと思い、オキシはのっそりと立ち上がる。
「……そうだな、たまには青空の下で野生の微生物の生態観察するのも、いいかもね」
部屋の中で飼っているだけではわからない、自然の状態でこそ見ることができる発見も多い。いくら採取場所の環境に似せたとしても、その地から切り離し箱に移した時点でもはや別のものとなる。
環境は常に変化し、思わぬことが発生する。ある生物はより栄えるかもしれない。ある生物は全滅してしまうかもしれない。あるいは、紛れ込んだ生物が我が物顔で占拠するかもしれない。そうして新たな場所で、独自の環境を形作っていくのだ。その地の生態系を本当に知りたいと思うなら、野外へ行き観察する他にない。
「……外に出てもやることは変わらないんだね」
ロゲンハイドは、呆れるしかなかった。
外出の準備をするオキシは、小麦粉の入った袋を手にとり、重さを確かめた。袋はずいぶんと軽くなっている。そろそろ酵母菌のための餌を補充する必要があった。
「あぁ、外出ついでに買ってきたほうがいいかな」
よりよい乾燥酵母菌をつくるための研究は続けているのだ。
「……あのカビの粉。パンが膨らむ魔法の粉として、市場で売ったり、どこかの店に売り込んだりすればいいのに」
オキシのやっていることは、まったく魔力の感じない現象ではあったが、もたらす結果は摩訶不思議でまるで魔法を生み出しているようなのだ。
材料はとにかく、保存がきくことやパン生地を寝かせる時間が短くて済むあの粉は画期的だった。特に長旅の間は日持ちのする小麦の類を持っていけたとしても、パンの葉は数日で痛んでしまうので、長旅に持っていくことはできない。
パンの葉で包まない生地はあまり膨らまず、固めなパンにしかならないのだ。これは好みの問題であるが、旅の間もふっくらしたパンが食べたいと言う人には非常に重宝するだろう。
「量産するほど本腰を入れて作ってないし、商売なんて面倒なだけだし」
ただ単に培養と菌の保存がしたかったのであって、食品添加物としての乾燥酵母菌は副産物に過ぎない。
しかも今のオキシの技術力では、1回にできあがる量もばらばらで、何よりまとまった量を作るのが面倒くさかった。
「……商い事に無関心なそういうところって、ますます魔術師っぽいんだよなぁ」
「真理を求める者なんて、得てしてそういう傾向をもっていると思うよ」
効率の良い大量生産の方法や生活に役立つ技術の研究をしている者もいるだろうが、そういう者たちでさえ、その技術を売り込むという行為はむしろ他人に任せ、己は研究に没頭したい者が多いのではないかと、オキシは思っている。
魔法の研究を行っている魔術師という人種も、科学者と同じような性質を持っていてもおかしくはないだろう。研究や探求と名のつくものを行う者にとって、時間はいくらあっても充分ということはないのだから。
「それにパンをふっくらと膨らますだけだったら、ベーキングパウダーを使った方が楽なことを、僕は知っているよ」
ベーキングパウダーは、パンやケーキスポンジを膨らませるために考えられた、重曹を主成分とした粉である。その主成分である重曹は、それが含まれている鉱石を精製することによって手に入れることができるが、確か食塩水から科学的に合成する方法もあったはずだ。
「べーきんぐパウダー?」
「どう説明しようかな。塩水から作り出せるから……塩の親戚、とはちょっと違うけれど、親戚のようなものを使うんだよ」
食塩水の電気分解だ、二酸化炭素との反応だ、どうのこうのと科学的な反応について説明するのは正直しんどい。塩化ナトリウムと炭酸水素ナトリウム、どちらもナトリウムがつくのだから親戚でいいやと、かなり乱暴ではあるがそう説明する。
「おいら、カビなんかよりも、そっちのべーきんぐパウダーってほうがいい」
食塩から作り出せるものならば、危険なカビよりも抵抗がない。ロゲンハイドはそう思った。
「でも、残念ながら僕はベーキングパウダーなんて代物には興味はないんだ。僕は微生物がいないと嫌だからね。頼むならばパンが大好きなどこかのだれかに頼めばいいよ。数年も研究すれば、きっといい具合のベーキングパウダーが作れるよ」
オキシの目的は、パンを楽にふっくら膨らませることではない。今は特に必要性を感じないので、作り出す気など起きないのだ。
「オキシが作る気がないなら、そんなものがあるって言わなきゃいいのに」
少し期待してしまったロゲンハイドは、肩をすくめる。
「人間は、知っている雑学を披露したくなる生き物なんだよ」
実行するのが難しくとも、言うだけならば簡単なのだから。
「……それにしてもだよ、もったいないなぁ。色々なこと知っているのに」
魔法のない地域から来たせいだろうか、魔法を使わなくとも良い技術が発達しており、その中にはかゆいところに手が届くような便利なものがあるのだ。その技術を再現できれば、生活が少し豊かになるだろうと、ロゲンハイドは思っていた。
「知ってはいても、それだけじゃ実践で何の役に立たないことも多いよ?」
たとえ知識があっても、使うことのない知識は時が経つうちに簡略化されていき、どこかうろ覚えになることが多い。ある時に突然必要になっても、実際にやってみると思い通りにいかないこともあるのだ。
たとえば味噌や納豆、酒やチーズといった醗酵食品の作り方は知識としては知っているが、今この場で作るとすると妙なカビをはやして失敗する自信がオキシにはあった。
それに、菌同士の係わり合いは地球とも異なるだろう。豆から味噌や納豆のあの形状、あの風味に醗酵してくれる微生物を手探りで探すのは、途方もない時間がかかるに違いない。わざわざ、そんな面倒なことをしてまで作りたいとは思わなかった。
「豆から味噌作ろうと思って、別の菌が発生しておいしくない納豆っぽいものができたらなんだか悲しいもの。……あ、でも、それはそれで面白そうだけれど」
地球にいた時と同じような感覚で醗酵食品を作ったとしても、その方法で発生する微生物が地球と同じ働きをするとも限らないのだ。味噌も納豆も原料が同じなだけに、そのようなことがまったく起こらないとは言いきれない。
この世界のどこかに同じような醗酵食品があるのならばとにかく、一からそれらを作るとなると大変な作業である。
さらに言えば知識通りに材料を放り込んで世話をすれば、それだけで店で買うような安定したおいしさのものが毎回できるとは限らないことも、素人の手作りによくあることだ。
「みそ? なっとー?」
相手が知らない単語は、そのままの音で相手に伝わる。この言語翻訳機能のおかげで、ロゲンハイドの知る範囲では味噌と納豆は存在しないことが分かってしまう。
「豆から作る僕の故郷のちょっと変わった食べ物だよ。見た目はあれだし、匂いとか苦手な人もいるけれど、ね。僕らの国では、毎日食べる人がいるほどに、馴染み深い食べ物なんだ。
この町の市場では見かけないし、この辺では作られていないかもしれないけれど」
もしかしたら、どこかの地方にはそういうものが存在しているのかもしれないが、少なくともオキシは見たことがなかった。
「故郷の味ってやつ? 恋しいの?」
めずらしくオキシの口から食べ物の話題が出てきた。しかも、故郷の食べ物についてである。そのことに、ロゲンハイドは少し意外性を感じていた。
「無ければ無いで別に構わないんだ。あれらを自分で一からつくるのは非常に面倒くさいし」
世界のどこかに味噌や納豆を作り出せる微生物がいるかもしれないが、適切な働きをする微生物を探しだすだけでも何年かかるかわからない。場合によっては、数種類の微生物を組み合わせて醗酵を行わなくてはならず、となると、作業、工程の試行錯誤が大変なことになるだろう。よほど「食べたい」という情熱がなければ再現しようとは思わないだろう。
「……恋しいのは味というよりも、それに住んでいる子たちかな」
正直、味噌や納豆といった食べ物はどうでもいい。オキシの興味は常に微生物のみなのだ。
もしも、そのような醗酵をできる微生物がいるのならば「見てみたい」とは思うが、優先度は非常に低い。いるかいないか分からない微生物よりも、目の前にいる微生物なのである。
「そ、そうなの?」
生き物が住んでいるというオキシの言葉に、何だかまともな食べ物ではないような印象をひしひしと感じるロゲンハイドだった。
「僕は食事なんて活動できる程度に栄養補給できれば充分だったし」
オキシは、むしろ食事なんて面倒くさいと思うような人間だった。「食べたい」よりも「見ていたい」と思うのである。もしも「これ1本で1日の栄養が取れる!」的な食べ物があれば、ほぼ毎日それだけ摂取して生活できるだろう。そんな性格であったので、神から与えられた食べなくとも良い体質は非常に気に入っていた。
「……そんな義務的な食事で楽しい?」
「食事に娯楽的なことは求めてないから」
「そんな食べることに消極的だから、子供みたいで小さいままなんだよ」
「そんなこと言われてもな……前にも言った通り、子供みたいな外見なのは種族として仕方のないことなんだよ」
成長期はとうの昔に終わっている。どう頑張ってもこれ以上の成長など見込めないのだ。
そもそもの話、地球人類はこの世界の人々とは、間違いなく別の進化をしている。地球人類は幼形成熟の方向で進化してきた結果、生まれてきたようなものだ。
食べている、食べていないにかかわらず、成体になっても幼い形質が強く残っているのは仕方ないことなのである。
「本当なのかなぁ」
大人になっても子供のような外見の種族は、オキシがそう言っているだけなので、ロゲンハイドはやや懐疑的であった。
「こればかりは証明のしようもないし、信じる信じないはまかせるしかないな」
地球産の人間は、この世界にはオキシしか存在しない。世界にたった一人しかいない種について述べるのは、なかなかに難しい。
「……まっ、そんなことはどうでもいいでしょ。さ、そろそろ出ようか」
不都合な話題は早めに切り上げる。小麦粉を買うついでに、市場でどんな醗酵食品が売られているのか探してみるのもいいかもしれないと、オキシは思った。
オキシは椅子から立ち上がると、背もたれにかけていた鞄を身につける。
外出の準備も終えて、オキシとロゲンハイドは部屋から出た。
廊下は人っ気もなく、静まり返っている。真昼から部屋に閉じこもっているのは、引きこもり体質のオキシか、長旅の疲れを癒している旅の者くらいだ。
オキシはところどころきしむ木の廊下を踏みしめ、虎狛亭の外へ出る。空はまぶしく、大気は緑に薫っている。それはしばらくぶりの外の空気だった。