22・魔物は害獣、毒を持っている。
魔物の脅威が去り、閉ざされていた町の門は解放された。その時を待っていましたとばかりに町を出る大小ふたつの影があった。それはオキシとロゲンハイドである。
「魔物が出たばかりなのに、草原に行くの?」
「うん、行く」
オキシは当たり前だと言わんばかりに、肯定の返事をする。
「そっちは、魔物のいた方角だよ」
そうなのだ。今、オキシが向かっている方角は魔物の群れが現れ、そして退治された場所なのだ。
「目的地はそこだからね」
町から見える場所にあるとはいえ、その場所は歩きでは少し時間がかかる。オキシは急ぎ足でずんずんと草原を歩いていく。
「何でよりによって……本当に行くの?」
ロゲンハイドはオキシに思いとどまらせようと試みるが、オキシはお構いなしだ。
「もう魔物がいないのなら、なんら問題はない」
「そうなんだけれどさ」
先ほどまで魔物がいた場所である。ロゲンハイドはあまり気が進まなかった。
「行きたくないのであれば、来なくてもいいのに」
ロゲンハイドが魔物嫌いであるのは知っているので、強制はしていないつもりである。
「だって、オキィシはけっこう危なっかしいんだもの。この前だって、危険なキノコに触ろうとしてさ」
特に湿った日陰に生えているようなキノコは、触るだけで危険だと言うことは子供でも知っている。いつの間にかそこに現れて、数日で消えてしまうキノコは「動かない魔物」という別名を持っているほど危険な存在。それなのに、見るからに危険な香りしかしないキノコに何の警戒もなくオキシは近づくのだ。
「危険なキノコがあることは知ってはいたよ」
日本で見かける危険なキノコは大抵、食べた時に危険なものが多く、触って危険なものは数えるほどしかない。オキシにしてみれば、道端や公園などでよく見かける普通の茶けたキノコが生えていたので、よく見てみようと近づこうとしただけである。
ここが地球とは異なる環境を持ち、キノコ事情も異なっている可能性があることをすっかり忘れ、ついつい地球にいるときの感覚で接してしまっただけなのだ。
「今度からは、いろいろと気をつけるから大丈夫、大丈夫」
オキシの体質上、猛毒やかぶれるような物質に触れたとしても、すぐに治るので平気なのだが、痛みや痒みといった嫌な思いをしてまで手に入れたいとは思わないので、ロゲンハイドの「近づいちゃいけない」という忠告には従うことにした。
しかし、その忠告をよそに思考の中では、「危険なものを安全に採取するための道具を準備しておかないといけないな」と、密かに考えていたオキシだった。
「気をつけるって言っても……キノコもそうだけれど、なんだか認識のずれを感じるんだよなぁ。だから心配なんだよ」
こと、危険生物に関しては、まるで何も知らない子供のようなのだ。オキシのあんまり反省していない様子に、ロゲンハイドはいつもはらはらと気が抜けなかった。
「そんな憂いた顔してないで。今日はこんなに天気が良くて、出歩くにはとてもいい日なのに」
高く澄んだ空には黄色の太陽が輝いて、果てしない草原を駈ける風も心地いい。気温も湿度も適度で晴れやかな絶好の調査日和だ。
「向かっている先が、ね……」
この心地いい天候とは正反対で、目的地はすがすがしいと言える場所ではないことだけは確かだった。
草花に覆われた道なき道を、勘を頼りに歩いていく。オキシは町の方を振り返っては、大体の方角がずれていないか確かめた。この世界に来て、自分の足でこんなに遠出したのは初めてかもしれない。
地平線はどこまでも変わりばえのしない草原だ。まるで海にも見える風景である。風が吹き波打つ草原には、木々の集まった雑木の小島がまばらに浮かんでいる。風を受けて草原を帆走る船が存在しそうなほどに、草原は風を受けやわらかな波を作り出していた。
そのような濃緑の草で覆われた絨毯をしばらく歩き続けていくと、くすんだ灰色がシミのように広がっている場所を発見した。変色したその場所は、不自然に植物たちが踏み荒らされ、焼け焦げ、枯れている。何とか原型をとどめている草花も、触れば崩れてしまいそうなほど、乾燥し萎れている。風が吹くたびに葉々がすれ、カサリと干からびた音を立てる。
「あぁ、とうとう来ちゃったよ。焦げているのは魔法で焼けちゃった痕だけれど、こっちの枯れているのは魔物のせいだ。仕方ないこととはいえ、やっぱりかわいそうだね」
ロゲンハイドは、死んでしまった植物たちを悼む。
「結構、枯らすんだね」
強アルカリの性質を持つであろう魔物の体液が、植物や土壌に及ぼす影響は大きいだろう。ある程度の予想はしていたことだが、ここまで植物を枯らすとなると、かなり強い毒性を持っていることがうかがえる。
「そう、だからこういう毒の強い魔物が畑なんかにやってくると、農作物なんかダメになっちゃうんだ」
ひと月も経てば大地に染みた物質も自然の力によって浄化され、また以前のように植物も生えるようになってくるが、枯れてしまったものは元には戻らない。収穫前に現れると、実った作物たちが枯れ、被害は甚大になってしまう。
「魔物は立派な害獣なんだねぇ」
オキシは気楽なことを言っている。
魔物の通った後は草木も生えないという表現が似合う。枯れた植物が小さな野道をつくり、ずっと続いている。
「魔物は向うから来たんだ。これをたどっていくと、どこへ行くんだろう?」
オキシは地平線まで続いている魔物の通ってきた跡を目で追う。
「どこかの森が林に続いていると思うな。魔物はそういう薄暗い場所で生まれるから。この草原のどこかの林からかもしれないし、あれだけの群れだと、ウェンウェンウェム地方の森から迷いこんできた可能性もあるよ。ここはウェンウェンウェム地方から近いからね、たまにそういうことがあるんだ」
魔物は森の暗がりからあまり出てこないとはいえ、今回のように害を振りまく魔物が町の近くまで出てくるようなことも起こるので、油断できないのである。
「前から気になっていたんだけれど、そのウェンウェンウェム地方って、歩くとどれくらい?」
たまに話題に出てくるその名前の土地に、オキシは興味を持ちはじめていた。人が住むには少し過酷な魔法の発現しにくい土地、魔物が多いことは気にはなるが、わざわざ訪れる人は少ないであろうまさに理想的な場所なのだ。
「まさか、行くの?」
「いや、どれくらいの距離にあるのかなと、思っただけ」
「ここから一番近い休憩地点までで、確か休憩を取りながらで徒歩半日ってところかな。魔動車とか騎乗用動物とか乗物に乗っていけば、もっと早くつくけれど」
特に休息を必要としない魔動車が普及してからは、日帰りさえできるようになり物資の運搬も昔より活発になった。
「あんがい、近いところにあるんだな」
オキシはによりと頬がゆるむ。
「やっぱり、行く気でしょ?」
オキシの笑みを見てそう確信する。
「今すぐに行こうとは思わないよ」
今はまだ、その地方についての情報が少な過ぎる。危険な場所へ行くには、それなりの準備が必要なのだ。
魔物の生まれる土地という、そのような面白そうな場所に何の準備もなく飛び込むようなまねはしたくない。様々な情報を調べ、しっかりと事前調査してからでないと、得られるものも得られなくなってしまう。
「でも……興味はあるんだね」
「もちろん」
即答のオキシに、ロゲンハイドはもはや呆れるしかなかった。
「だけれど、今日の目的地はここ。今は魔物の出所まで深追いはしないよ」
そう言いながら、オキシは枯れ方が一番ひどい付近の地面を探し始める。
「やっぱり、ここはちょっと嫌な感じが残っている」
ロゲンハイドは言う。それは魔物が嫌いという心理からくる嫌悪感ではなく、環境の状態に敏感な精霊だから感じる、魔物の残滓だった。
「それは、むしろ好都合」
ということは、魔物の何かが残っていると言うことである。オキシは不気味に笑み、瞳にはあやしげな光が宿りはじめる。
見た目がちょっと変わった動物にしか見えないのに、なぜあのような現象が起きるのか。オキシの専門分野は微生物であるが、不可思議な生態の生物を見つけ、少し調査してみたくなったのだ。
それに何か気になるのだ。これは勘であるが魔物の生態には、『彼ら』が少なからず関わっているのではないかと、そう思うのだ。
「何か見つけられれば、良いのだけれど」
魔物の死骸はすっかり片づけられているように見える。大量に放出された魔物の塵に関しては風に飛ばされ、大気中に漂う数多の塵と区別がつかないだろう。
塵は今回は諦めるしかないにしても、回収し忘れた死骸の一部か何か、ほんの切れ端でもいいので見つけられれば幸いであると、オキシは思っていた。
最悪、魔物の体液が染み込んで汚染された土壌や、枯れた植物だけでも持って帰りたい。少しでも魔物に関連するものを手に入れて、魔物という生物が持つ性質の一端をこの目で確かめてみたかった。
「ここにあんまり長居しない方がいいよ。汚染された空気や大地は呪いが充満していて、体に良くない影響を与えるから」
ロゲンハイドは、体調を崩す可能性を示唆する。それは、おもに魔物によって汚染されたものを体内に取り込んだ時に現れる。魔物に触れたことによってかかる呪いで、発症してしまった場合、数日寝込むことになるのだ。
「僕はそんなの平気だから、心配しないで」
「もう、そんなことばかりして……いつか魔物中毒症にかかって倒れても知らないよ」
精霊の身体は血肉の存在する生物とは異なっているので、肉体の機能に直接働きかけるような中毒にはかからない。しかし、その毒素に苦しむ人々を見てきたので、その恐ろしさは知っていた。
「大丈夫、大丈夫。僕はそんなのにはかからないから」
まるで恐れを知らぬような笑顔でオキシは語る。
オキシはこの汚染地帯に長時間いたとしても体調の異変は起きない。現に体を蝕むはずの魔物の毒素は、しっかりと無害なものに分解されていた。
「あれはとても辛いものに……万が一それで倒れても軽い中毒症くらいなら、魔法で手当くらいは、おいらにもできるけれど。キノコといい、魔物といい……オキィシは時々、避けられるような小さな危険に自ら飛び込むよね。おいら本当に心配だよ」
ロゲンハイドができるのは、症状を軽減することくらいである。王都といった都会にいるような一流治療師にすぐに診てもらえるのならばいいのだが、一般の治療所での処置では軽減程度の治療しかできない。毒を中和する薬草もあることにはあるが、見つけるのが難しいこともあり非常に高値だ。基本的に庶民は治るまで耐えるしかないのだ。
(1回患って苦しさを味わえば、少しはおとなしくなるだろうか)
オキシの言葉は紛れもない事実であることを知らない、ロゲンハイドは密かにそう思ってしまう。しかし、その心配が現実となり治療の魔法を使う、そんな日が来ることは決してないのだが、それを知るはずもなかった。
「しっかし、だいぶ死んでいるな」
ロゲンハイドの心配をよそに、オキシは灰色に染まった草原を踏みしめて探しまわる。色を失った草々は踏むたびに乾いた音をたて細かく地に崩れ落ちていく。
巻き込まれ命を失ったのは植物だけではない。透明な翅を持つ細身の虫や、鮮やかな光沢の甲虫、短い毛が生えた丸い動物の死骸もいくつか見つけた。その小さな虫や小動物たちは、腹を空に向けじっと固く動かない。
環境の急激な変化に対応できなかった生物は弱り、体力尽きたものから死を迎え、最悪の場合その場所の個体群は全滅する。そこに繁栄していた生命たちがあっという間に消えてしまう。
しかし、多くの生物が死に絶えたとしても、すべてが消え去ることはないと言っていい。生命は案外しぶとく生き残り、その時その場に適している別の種が台頭し、新たな生態系が形成されていくものなのだ。
それに、この程度の損害ならば生態系は汚染される前と変わらぬ姿まですぐに回復するだろう。
「なんだろう、これ」
ほとんど原型のとどめていない草の陰で、太陽に反射して光るものがあったのだ。一見すると瓶かグラスが割れたガラス片にも見える、薄紫で半透明のものが光っていた。
「うわ。魔物の一部、見つけちゃったの? あぁ! 危ないから、触っちゃだめだよ」
それに近づこうとするオキシを、ロゲンハイドは制する。
「大丈夫、こんな時のための準備はしてきたから。それがあれば、仮に肉を溶かす液体まみれだったとしても、安全に採取できる」
こういう、ちょっとしたものを採集するための準備は万端。キノコの時の失敗を踏まえて、素手で触れられないようなものを採取する道具は、そろえてあるのだ。もちろん、この世界に専用の器具はあるわけがないので、代用品を用意したわけだが。
オキシは得意げな顔で鞄からトングを取り出した。本来ならばパンなどの食品を挟むための道具であるが、手を触れずに物を挟んで取るという用途は似たようなものなので、これを使うことにしたのだ。
「それに保管用の容器もちゃんと準備してきた」
さらにガラスの瓶を取り出した。これは仕事先でおばちゃんからいただいた物で、もともとは果実の砂糖煮が入っていた瓶である。密封できるような蓋もついており、何かと使えそうだから取っておいたのだ。
「うへぇ……やっぱり、本当に持って帰るの? 本気?」
露骨に嫌そうな顔をしてロゲンハイドはする。まだ色濃く残る魔物の気配にロゲンハイドは思わず、目を背ける。
「本気、本気。もちろん、持って帰る」
オキシは、カケラの採取に着手する。
「うぅ、気持ち悪い。そんなの持っていっても、何も役に立たないと思うけれどなぁ」
魔物の使える部位、たとえばこの魔物の場合、肉を溶かす液が溜まっている袋を採取することはある。肉だけを溶かす性質を持っているので、骨の加工製品などを作るときに、骨にしっかりとこびりついて取れない肉や筋をきれいに溶かすための処理に使うのだ。けれども、そのオキシが見つけた部分は使い道のない、本当に残骸なのだ。
「世間一般における魔物の価値なんて、僕には関係のないこと。僕にとっては観察に値するかどうかだけが重要なんだ。あぁ、この中に魔物の秘密を握るものはあるのだろうか」
オキシはそう言いながら、魔物の残骸が入った瓶に蓋をした。
この魔物の残骸は少し時間も経っており、見つけた量もほんの少しのため、魔物の消滅時の秘密につながる手掛かりを見つけられない可能性が非常に高いことを、オキシは覚悟していた。
しかし必ずしも魔物の消滅の秘密など解明できなくとも良いというのも事実。もしもそこに微生物の存在が確認できれば、普段見ているものとは異なる環境に生きる微生物の姿形を観察することができるのだ。それだけで満足が得られるである。
「嬉しそうなのは何よりだけれど……でもそれ、このまま放っておくと腐ってくるよ?」
「分かってる。(……むしろ、それが目的なんだけれど)
でも、この魔物の死臭が部屋に染みついたらいやだし、部屋では蓋は開けないようにするよ」
少量とはいえ死骸であることは変わりない。性質上、腐敗が進めば独特の臭いを発するようになるだろう。本当は皿の上に放置してどんな風になるのか、ありのままを観察したいところではあるが、人の出入りの多い宿で解放的に観察するには少し不都合が多い。普段は密閉しておくしかないだろう。嫌気状態でも、微生物たちの何かしらの活動を見ることができると思うので、大した問題ではなかった。
密封しておく場合、気をつけなくてはならないことは、中に溜まっていく腐敗ガスを逃がさないと、膨張した空気が瓶のフタを飛ばしてしまう可能性もあることだ。時々、人っ気のない風通しのいい場所で、蓋を開けて軽く換気する必要があるだろう。この魔物の残骸は少量なのでそれは起きないかもしれないが、やっておくに越したことはない。
「あぁ、今すぐにでもこれを見たいところだけれど、そろそろ戻り始めないといけない時間か。夜遅くまで草原にいたことがばれると、うるさく言う大人たちがいるからね」
多少、皮肉めいた発言をしつつ、オキシは地平線に見え始めた大きな月を恨めしそうに見やる。そして、しっかりと標本を鞄へとしまうと、大満足のオキシは町へと帰路につくのだった。




