20・それはカビであり、そして酵母菌です。しかし、パンは焼きませんでした。
昼間は雛を仕分ける仕事、宿舎に帰れば水で作った板の観察と、二・三日は変わりばえのしない毎日をオキシは送っていた。
(……培養したい)
先ほどから思うのはそればかりである。
今、手元にいるのは水たまりに住んでいた大小様々な微生物だけ。自然から分離し適当に育て観察することも、それはそれでいいのだが、菌の一つや二つ取り出して純粋培養したいと思い始めていた。人工的に培養するのが難しい絶対寄生菌を除けば、適切な環境さえ与えてやれば培養というものは簡単にできるのだ。
(あぁ、培養するための培地がほしい)
今日の仕事も終わりオキシは通りを歩きながら、そう考えていた。
菌を育てる培地といえば、まず最初に思い浮かぶのは寒天を使ったものである。培地に使われるのは何も寒天だけではないので強いこだわりはないのだが、特定の微生物だけが栄養にする物や薬品を寒天液に混ぜやすかったり、集合体が見やすい利点がり、もしもそれが入手できれば最高であった。
シャーレに満ちる寒天の培地に、微生物たちの作り出す美しい色の集合体。培養して顕微鏡で観察する、それがまさに醍醐味なのだ。
ロゲンハイドの魔法では無菌状態の純水は作れても、ゲル化はできない。オキシは寒天を求め、市場をうろついて探しまわった。
目についた店で尋ねてみたが、いずれの店でも同じ回答で寒天はほとんど入荷することはない品物であるということだった。フェルミの町では、寒天は一般的なものではないらしいが、店の者に「寒天」という言葉は通じたので、存在していることだけは確かである。
「乾物なんだから、ちょっとくらい流通していてもよさそうなのに」
オキシは残念そうにぼやく。
何も道具のない場所で観察を始めてみると、いろいろ不満も出てくる。代用品を探したり、道具を試作する楽しさはあるのだが、制作にばかり時間をかけられるわけではない。
(実験室は本当に恵まれていたんだなぁ)
つくづく心からそう実感する。
気がつけば、普段はあまり来ない地区まで足を伸ばしていた。このあたりは住宅街で、旅人や行商人でが行きかう町の中心に比べると幾分か落ち着いた感じがする。しかし、そんな風景に目もくれず、オキシは歩を進めていた。
「ん、これはパンの焼けるにおい」
微かに香ばしい匂いが鼻孔をくすぐった。あたりを見渡せば、カゴに入ったパンを模した看板が目に入った。もうすぐ晩の買い物時である。それに合わせて、焼きたてのパンを提供できるようにしているのだろう。
(パンの酵母菌なら、培地は麦芽の汁や小麦粉の団子でもいけるか? この世界の酵母菌はどんな形をしているのだろう。やはり丸い形をしていて、出芽するのだろうか)
酵母菌は動物性の微生物に比べると大きな動きはなく地味だが、ぽこぽこと出芽していくところが、なんともかわいいと、オキシは思っている。
「パンの醗酵、か」
小麦を水で練ったものを放置するだけでも大気中の菌の力によって発酵は進むが、今すぐに酵母菌に会いたい、まさに醗酵している現場を確かめたい、ぜひともパンを作っているところを見てみたい。と、走り出した好奇心は止まらない。オキシは行動を開始し、誘われるように匂いの発生源である店へ向かった。
オキシはパン屋の扉を開けると、カランと鈴が鳴った。
「いらっしゃいませ」
鈴の音に反応し店員は笑顔であいさつをする。店員が目をやると黒髪の子供が入ってきたのを確認した。子供の客ということで、お使いでパンを買いに来たのかと店員は思ったのだが、実際はそうではなかった。
「あ、あの。パンって、どうやって作るんですか?」
入店早々、その来客はそう尋ねたのだ。
「今ちょうど、明日の分の仕込みをしているはずだから、見ていく?」
パンを買いに来た客ではなかったが、あまりに興味津々な様子で瞳を輝かせているので、断ってしまうのもなんだか可哀想に思い店員は承諾した。小柄なオキシの外見から子供だと店員が認識したたことも幸いしたのだろう。
「ありがとうございます」
忙しい時間帯に突然申し出にもかかわらず快諾してくれたことにオキシは感謝した。
案内された厨房では、生地作りが手作業で行われていた。
「この子が見学したいんだって」
「忙しいところ、突然ごめんなさい。よろしくお願いします」
作業を見せていただくので、オキシはそれなりの礼儀を払う。
「礼儀正しい子だね。ゆっくり見ていっておくれ」
パン職人が作業台の上で白い生地をこねている。粉や水を使ってパンの生地を作る工程は地球と大差ないように見えた。
材料をある程度こね終えると、職人はつやがある緑色の大きな葉を取り出た。その葉は二又脈系の葉脈を持つ扇形で、大きさは違えど地球の植物で言えばイチョウの葉に近い形状をしていた。
職人は慣れた手つきでその葉をパン生地を包むようにやさしくかぶせ、出来上がったものを木箱の中にしまい始めた。
「その葉は何?」
おそらく今からしばらく放置して醗酵させるのだろうが、見知らぬ工程が入っていたので、オキシは尋ねた。
「これは『パンの葉』っていって、これは使うとパンがしっとりと膨らむのさ。柔らかめのパンをつくる時の必需品だよ」
パン生地を葉で包んだり、葉を刻んだものを混ぜたりして、箱に入れて一晩放置すれば、ふっくらとしたパンができあがると言うのだ。もしも葉を使わないで焼いた時は、少し固めのパンができるという。
「そのパンの葉って、どこで手に入るのですか?」
まちがいなくパンを強力に醗酵させることができる酵母菌がこの葉にいる。オキシは期待で胸が満たされる。
「市場で売っているよ。窯を使う時は熱くなるから、やけどに気をつけてね? わからないことがあったら気軽に聞きにおいで」
職人は、オキシが普通にパンを作りたいと思っており、窯の扱いについても忠告する。
「わかりました。いろいろ、ありがとうございます」
パンの作り方を聞くだけ聞いて帰ってしまうのもなんだか申し訳がないので帰り際に焼きたてのパンを2個ほど買い、オキシは軽い足取りで店を出た。
その足でさっそく向かったのは、もちろん市場である。夕食の時間が近いこともあり、多くの人でにぎわっている。オキシは人を避けながら露店に並ぶ品々を見てまわる。
目的はパンの葉。どの店で売っているのかは分からなかったが、野菜や根菜が山積みに並んでいる店を見つけ、オキシは足を止めた。この店なら売っているかもしれない。
オキシは店の商品を眺める。実に様々な種類の似たような葉物が並んでおり、自分で探すのを早々に諦め、オキシは店主に尋ねる。
「パンの葉ありますか?」
「アルよ! このカゴの中にあるのがそうだヨ! いくつ欲しいネ?」
店主の指さした先、天井からつるされたかごの中にパン屋で見たものと同じ葉が、束になって重なっていた。
「ついさっき届いたばかりの、取れたてのパンの葉だヨ。古いのには毒があって、食べるとお腹を壊すから気をつけなきゃだめだヨ」
どうやら新鮮なパンの葉ではないと、パンが台無しになってしまうらしい。特に葉がしなびているようなものや、変色が始まっているものはカビの生え始めている証拠であり、使用するのは危険である。と、店主は傷んだパンの葉の恐ろしさを語る。
この世界においてカビは最悪の場合死に至る毒物の一種とみなされ、カビが生えた食糧はそれだけで毒であるという認識が強いのだ。
カビの生えそうな古いパンの葉も欲しいとオキシは思っていたが、おそらくもう処分されているだろうし、そのような不良品を客に売る行為は普通の商人ならば、避けたいことだろう。
(カビのすべてが毒と言うわけではないんだけれど、仕方ないか)
店主の忠告にオキシは頷き返しながらも、心の中ではそう思っていた。
普段は有益な働きをする微生物だったとしても、環境によっては害をなす微生物となることもある。人にとって役に立つ微生物も、何の立たない微生物も、危険な微生物も、同じ場所に生息し共存していることもあれば、競争していることもある。そうして、複雑な生態系をつくっているのだ。
パンの葉の鮮度が落ちてくると、人にとって危険な活動をする微生物が、人の役に立つ微生物よりも活発になる、ただそれだけのことである。
「そのパンの葉を一束ください」
オキシは鞄の中から財布を出す。財布といっても、それは袋ではなく、穴の空いた硬貨に紐を通してあるだけのものだ。それがこの世界では一般的だった。硬貨の種類ごとに紐を準備している几帳面な人もいるのだが、オキシはそれほど多くの硬貨を持ち歩くわけではないので、紐は1本もあれば十分だった。
袋に放り込んでいる場合と異なり、紐に通してあるのでバラバラにならず探すのも楽なのでオキシもそれを使っていた。
オキシは紐をほどき、パンの葉の値段分の硬貨を店主に渡した。
「はいヨ! まいどアリ!」
「ありがとう」
オキシは商品を受け取った。
この店はいわば野菜のみを扱う店なので、小麦粉の類は売っていない。オキシは別の店へ行き、パン生地作成に必要な材料を買ったのち家路につく。
ひとまずやることは、醗酵時に現れた菌から酵母菌の検討をつけること。そして、邪魔な他の菌を排除していき、有益な菌だけを取り出し純粋培養するのだ。
(酵母菌培養、楽しみだ。あまった葉はひたすら色々なカビを生やしてみるのも有りかな)
そう考えるだけでオキシは心が躍るのだった。
部屋に戻ったオキシは、さっそく作業に入った。
「ロゲン、水で空箱を作って。冷たいのから熱いのまで!」
パンの葉を巻いた小麦団子を作り終えると、オキシはロゲンハイドを呼び出した。そして、水で作る箱について、1つ1つ細かい指示を出した。
「いきなり何を? ……まぁ、簡単なことだけれど」
突拍子もないことを頼まれるのは、もう慣れたこと。ロゲンハイドは、オキシの望み通りの箱を数個作り出した。
「ありがとう」
箱が出来上がると、嬉々とした様子で箱の中に作ったばかりの団子を並べていく。
「この湿っぽい箱、最高だね。本当に魔法って便利だ」
魔法で作られた箱は、温度湿度はもちろん、気密性もある程度管理でき、微生物の繁殖しやすい環境を作りだせる便利な代物だ。もちろん、水は滅菌された純粋な水である。
「常温の水の箱ならとにかく、熱いのとか冷たいのは、おいらの力じゃ、手のひらくらいの大きさが限度だけれどね」
水の精霊で水に関することは得意とはいえ、火や氷の精霊のように熱を操れるというわけではないのだ。
「いやいや、この箱があるだけで、大助かりだ。あるのと、ないのとでは大きな違いなんだよ!」
培養することの怖い点は、自然界では少量なので問題が起きていない微生物でも培養すれば大集団になることである。病原性がなくとも取り扱いを間違うと環境に影響を与える危険があるのだ。
菌を育てるための培養器や、菌を隔離できる無菌実験台に匹敵する機器が、ロゲンハイドの掛け声一つで、いつでもどこでも顕現する、それは非常にすばらしいことだった。
危険な病原菌を扱ったり、遺伝子を組換えるならとにかく、酵母菌を培養する程度なら、この手乗りサイズの実験室は充分な設備であった。
「よし、これで最後だ。明日が楽しみだ」
オキシは箱の中に、生地を入れ終える。オキシができる作業はここまで。あとは一晩放置し、ただ見守ることしかできない。ここからはパンの葉に住む微生物たちの活動にすべてを委ねるしかない。
次の日。一晩置いた小麦団子に変化が現れていた。オキシは机に並んでいる様々な温度の箱を覗いていく。
「やっぱり低温過ぎても、高温過ぎても、やっぱりうまく膨らまないものなんだね」
オキシは酵母菌が一番働く環境、適温適湿の見当をつける。これは酵母菌を培養する時に必要な情報なのである。オキシは、醗酵によって膨らんだパンをさっそく観察し始めた。
「あぁあぁぁぁ、たくさんいる!」
オキシは、歓喜のため息をついた。
「あれ? パン焼くんじゃなかったの?」
昨晩、オキシがしていた作業はどう見てもパンづくりだった。一晩経っていい具合に膨らんだので、てっきり焼くのかと思いきや、オキシは箱から取り出さないで、いつまでもただ眺めているだけだった。
「実は、ここからが本番なんだ」
焼いて食べるのが目的ではないのである。この中に酵母菌として働くものがいるのだ。それを見つけなくてはいけない。
「オキィシが食べる物を作るなんて変だと思ったんだよ。やっぱり何かを『見る』ためか。いつも通りのことで安心したよ」
オキシの奇行に対して、「いつものことか」とその一言で片づけられるほどに、ロゲンハイドはすっかり慣れてしまっていた。
そして、パンの葉を入手してから数日後。
仕事から戻ってきたオキシは今日も微生物を観察する。箱の中で様々な菌たちはコロニーを作り、それぞれに美しい彩りをまとい、ビロード状、綿毛状、粒状、様々な形状で発育していた。
電子顕微鏡並みの倍率まで見ることができるので、小麦粉の構造だけでなく、そこに絡みつくカビの様子もよく見えた。オキシは菌たちの営みの成果を見て、思わずによりとする。
「何見ているの?」
オキシが不気味な笑みを浮かべて覗きこんでいるので、ロゲンハイドは気になって箱の中を見てしまった。
「ちょ、箱の中、カビだらけだよ! うわ、こっちのも全部カビだらけだ! これ、ずっとほったらかしにしていたでしょ?」
ロゲンハイドはぎょっとする。まだらの小麦団子は、もはや何か別の物体のようになっていた。
「放置なんてしていない。しょっちゅう様子を見ていた。奇麗で素敵だろう?」
何かに憑かれたようなうっとりとしたまなざしで、それに魅入っている。魅入っている対象が宝石か芸術品の類ならば納得が行くが、それはカビ、危険な毒物なのだ。
「す・て・き、じゃないよ。これは、もう捨てるしかないよ」
ある意味で見事なカビではあるが、だらしのないずぼらな人物でも、ここまでおぞましく繁殖したカビを見つけたら捨てることを選ぶだろう。
「これは捨てない。そんな、もったいないことはしない!」
オキシは即答する。
「なんで!」
ロゲンハイドはオキシの返答に、思わず叫んでしまう。
「これがまさに理想の姿だからだ!」
思惑通りに立派に育ってくれたのだ。捨てるなんてとんでもない。
「カビだらけなのに?」
「カビだらけだから、だ。特にこっち箱の子たちは、なかなか思うように育たないから失敗するかしないかで、はらはらしていた」
オキシが手にとったのは、鮮やかでまだら模様の団子ではなく、うっすらと膜の張ったようなカビが生えたものであった。
「僕はこの子たちが、一番欲しかったんだ」
醗酵した生地にいる菌のなかで、醗酵力のないものや危険なものは取り除き、最終的に醗酵する力の強いと思われる菌を絞り込んだのだ。そして、その菌の作るコロニーを掻き取って新しい培地に移しそれを培養した。それを数回繰り返すことによって、より菌の純度を高めることができるのだ。いわば酵母菌の有望株のみを、大切に育てていると言うような感じだろうか。
しかし、生物は気まぐれで思うように動いてくれないこともある。丁寧に育てようとしている時はなかなか育たず、必要ない時に大発生する。それが面白いところでもあり、頭を悩ませるところでもあるのだ。
「やっとパン作りに適性のありそうな菌の純粋培養がうまくいったことだし、さっそくだけれど今日は普通にパンを作ってみることにする」
オキシは小麦をこねて、最後に培養した菌の一部を切り取って生地に混ぜた。
「そ、それカビだよ? 食べ物に混ぜるのは危険だよ?」
オキシの奇行にはなれているはずであったが、さすがのロゲンハイドもその行動には目を丸くした。カビは毒があり危険なものであるのは常識である。それなのにそれを食べ物に混ぜてしまったのだ。ロゲンハイドは、オキシが何を作ろうとしているのか分からなかった。
「大丈夫、大丈夫。このまま、しばらく放置して醗酵させよう」
そう言って、出来上がった生地をほんのり温かい魔法製の水箱の中へ入れた。
酵母菌の数がパンの葉にいるものとは比べ物にならないほど多いので、菌にとって過ごしやすい適温適湿の箱に入れれば、その強い醗酵力で生地はより早く膨らむことだろう。
「カビは危険なのに」
ロゲンハイドはこの世界の常識に照らし合わせ、そう発言をする。
「すべてのカビが害あるものとは限らないんだよ」
オキシは地球での常識を元に、そう発言をする。
「オキィシは、本当に何をしようとしているの?」
「簡単に言うと、パンの葉よりも生地を寝かせる時間が短くてすむもの、かな。最終的にはこれを乾燥させて、パンの葉よりも長く保存がきいて、短時間でふっくらなパンが焼ける粉、そういうのを作りたい」
オキシはここぞとばかりに酵母菌の素晴らしさについて、得意満面に長々と語りだす。
酵母菌を乾燥させたもの、それは地球で言うところの乾燥酵母である。実際のところ、オキシにとって乾燥酵母を作るのはパンを作る人のためではなく、菌の保存という極めて利己的な目的のために作ろうとしていた。
乾燥酵母が完成すれば菌を比較的長く保存でき、観察したい時に戻して実験や観察に使うことができるのだ。
「もし、それが本当だとして……パンの葉はカビが生えやすいのに、保存の魔法がうまく働かない食品の一つだから、そういう保存のきくものができるのならば画期的ではあると思うけれど」
「保存の魔法? そんなものもあるんだ」
魔法は何でもありだな、と感じてしまうオキシであった。
「あぁ、オキィシは魔法を知らなかったね。保存の魔法にはいくつかあるんだけれど、どれも食べ物を腐りにくくして、おいしさを長持ちさせる魔法なんだよ。遠くの土地に食糧を運ぶときに便利なんだ」
ロゲンハイドの話を聞いている限りでは、保存の魔法は時を止めそのままの状態で保存するといったものではなく、乾燥や冷凍など、その食品に合った魔法をかけているのだそうだ。中には純粋にカビ避けや虫避けを願うものまであるらしい。
それら保存の魔法をパンの葉にかけると、生地がうまく膨らまないことが多いらしいのだ。
「カビ避けの魔法か。殺菌や滅菌のようなものなのだろうか? ……腐敗も醗酵も微生物が行うんだから、腐敗防止なんてしたら、微生物の腐敗はもちろん、醗酵も働かなくなるのは頷ける」
オキシはつぶやいた。
微生物の活動のうち、人間の役に立つものが醗酵と呼ばれ、害になるものは腐敗と呼ばれているにすぎず、本質的に行っている生命的営みは同質の現象。魔法で腐敗防止をすると言うことは、すなわち微生物の活動を停止させることと同義、腐敗もしないが醗酵も行われない。魔法の効果が続く限り、微生物は活動しないだろう。
もし、微生物たちがその魔法で作り出された環境に耐性がなかったり、自己を維持する栄養を合成できない状態が長く続けば、最悪の場合、微生物たちは全滅することもあるだろう。
保存の魔法によって訪れた危機に対して、微生物たちが己の種を維持するために休眠状態になったとしても、その魔法を解いた時に、有益な菌よりもそれ以外の菌の方が復活が速やかな場合、有益な菌が根付く隙がなく、栄えるまでにいたらない場合もありうる。
「食品そのものの時間を止めてしまうことはできないの?」
その食品の時をそのままの状態で止めて、必要なときに戻せるようにすれば、問題は解決しそうなものであるが。
「時を止める……まるで子供の発想だね。時を自由に繰る魔法は、それこそ伝説の中でしか語られない魔術師たちの憧れる幻の現象。いまだ実現していない魔法のひとつなんだよ」
「そうか、魔法も万能ではないんだね。魔法は割となんでもできるような印象があったけれど」
科学に超えられない限界があるように、魔法にも魔法なりの秩序ある理の上に成り立っているようだ。
「そうこうしているうちに、そろそろいい具合かな」
箱の中のパン生地は醗酵し、いくらか膨らんでいた。今までパンを手作りしたことはないので、どの程度膨らめばいいのかははっきりとした自信は持っていないが、オキシはこれで充分だろうと感じた。
顕微鏡の目でパンを見ても、見た範囲には目立って他の菌が大量に発生している様子もない。まずまず成功といえるだろう。
「……膨らむの早すぎない?」
普通は一晩かかる現象であるのに、膨らむのが早すぎるのだ。
「ふふふ、これは早く膨らむものだと言ったでしょ。ま、とにかく焼いてみよう」
仮に焼き具合が芳しくなくとも、それなりのパンはできあがるだろう。
「このパン、大丈夫なのかなぁ」
そのパン生地にはカビが混ぜてあるのだ。到底、まともなものができるとは思えなかった。
「大丈夫、大丈夫」
選んだその酵母菌が毒をまったく作らないと言う保証はないが、この酵母菌株を使って醗酵させた小麦団子を、部屋の中に侵入したネズミに似た小動物の親子に与える実験はしたのだ。
しばらく様子を見て、いまだに何も起きていないという結果も出ている。もちろんネズミとヒトは違うので当てにはならないかもしれないが、ひとつの材料としては役に立つ情報である。
それに仮に毒を生産していたとしても、生地に混ぜてから焼くまでの間に生産される量では、摂取しても人体にひどい実害は出ない程度だろうと思っている。毒に耐性のあるオキシには食中毒は関係のない心配事なので、その基準はかなり甘くなっているが。
もしも本当にカビ毒を心配するのならば、むしろパンが出来上がってから起こることの方が問題だ。焼きあがった直後はほぼ無菌状態であるが、時が経つにしたがって大気中に当たり前にいる普通の菌などが付着していき、パンを侵していく。数日もすれば有象無象のカビが目に見え始め、食べるのは危険な状態になるだろう。
「とにかく早くこのパンを焼こう。焼きに行こう」
宿舎の厨房にある焼き釜を借りればパン焼くことができる。見た目は何の変哲もない窯なのだが、実は魔法で動いている道具で電子レンジのオーブン機能のごとく初心者でも簡単に扱えるのだ。オキシは窯の中にパン生地を入れて、電源を入れ稼働させた。あとはできあがるまで待つだけだ。
十数分後、パンは無事に焼きあがった。窯から取り出し、でき具合を確認する。生地をこね足りなかったせいか、醗酵させすぎたせいか、微妙な焼き色で、一度は膨らんだものの空気が抜けてしまったように少しへこんでいる不格好な形になっていた。
「ちょっと、形が悪いかな」
パンづくりは初めてということもあり、最初からうまくいかないのは仕方ないと言えば仕方ないだろう。
「でも、一応、見た目は普通だね」
ロゲンハイドから見たら、パン生地にカビを混ぜて作ったパンにしては普通なのだ。
「見た目も何も、これは元から何の変哲もない普通のパンだよ」
オキシにしてみれば、パン生地に酵母菌を混ぜて作った、ごくごく普通のパンである。
「さっそく食べよう」
「待って、おいらが毒見する。もしも毒があったら、大変だよ」
精霊の身体は単なる魔力の塊である。血肉を持たないその性質上ほとんどの毒に耐性がある。そして何か物体を体に通せば、ヒトに対して危険に働く毒が含まれているかどうか、検分することもできるのだ。
「便利な体だね……でも、僕は平気だから、大丈夫なんだけれど」
この世界に来る時に、命にかかわる猛毒を食べたとしても、何の問題もない体質になったのだ。
「その自信がどこから来るのかが、おいらには理解不能だよ」
事実を知らないロゲンハイドはそう言いながらパンを飲み込んだ。その透明な体の中にパンはあっという間に溶けていく。
「……あれ? 普通のパンだね」
多少粉っぽい感じはするが、ふんわりと焼けているパンである。予想に反して、毒はまったく感じられない。
「あんな材料なのに、危険がないのがやっぱり不思議でならない」
「危険そうな子は、排除したし」
興味のない者からしたら、カビはみな同じように見えるだろう。しかし、それぞれに個性を持って存在している。そのささいな個性を観察して違いを見分けるのだ。
古くなってくるとより活発に発生するような菌や、妙な匂いを発する菌は、危険とみなして真っ先に除外した。それに加えて熱耐性持っているような菌も早いうちから候補から外していた。パンの葉に自然発生している少数ならあまり問題はないが、人工的に培養すると言うことは、通常ではあり得ない数になる。もしかすると、パンを焼いた後も脅威的な量が生き残り、分解し続け、おいしさに影響を与えかねないからだ。
「生地に混ぜたあのカビには不思議なことに毒はなくて、すごいのはわかったけれど……これの作り方というか、材料はだれにも教えない方が良いよ。うん、絶対知らない方がいい。目の前で見ていたおいらだって、まだ信じられないもの」
ロゲンハイドは疲れたように肩を落として、げんなりしている。
あれはどう見ても、カビを混ぜこんだとしか思えなかったのだ。カビの生えている食物は体調を崩すので、カビは毒であると言う認識しかない。そのカビをパン生地に混ぜる、普通ならそれだけで毒が食糧を冒してもおかしくはない状況なのに、何の危険もない普通のパンになることを信じろと言っても、なかなか信じられないことでる。
微生物がいることを知らないこの世界で、醗酵と腐敗が実は同じ現象であると知られていないこの世界で、小さな生物たちが行う活動をすぐに受け入れるのは難しいだろう。
「説明がいろいろ面倒そうだし、そうするよ。一族の秘術ということにしておくさ」
まだこの世界に存在しない考え方の上に成り立っているものだ。「これは一族の秘術である」ということにしておけば、しつこく追及してくる者が現れるといった面倒なことはあまり起きないといっていい。
「さて、酵母菌の発見に成功したところで、今度は乾燥させてみようかな」
乾燥に耐えられるのであれば、菌の保存も比較的楽になる。オキシは、この酵母菌が乾燥に耐えられるかの実験を始める。徐々に自然乾燥させてみたり、時には魔法で水を蒸発させる。そしてその後に、糖や小麦など彼らのエサを少し混ぜた水で戻す。菌たちが活動を再開すれば、彼らには乾燥耐性があるということになる。
実験の結果、どうやら乾燥耐性は持っているようだ。しかし、あまり急激に乾燥させてしまうと菌の乾燥対策が間に合わず死んでしまうこともあることが分かった。
「まだ試作段階だから、どうしても質にばらつきがある。なかなか、むずかしい」
小瓶に入った微生物の粉を見つめるオキシは小難しそうな顔をしている。乾燥させる方法やそれにかける時間、そして乾燥から復活させる段取りの違いで酵母菌の活性具合、つまりパンの膨らみ方に差が出てしまうのだ。
酵母菌の発見と培養は地球の知識を元に比較的楽にこなすことができても、未知なる菌の性質を知るにはまだまだ観察が足りなかった。
「カビ保存の魔法、存在しないものかなぁ」
そのような魔法があれば楽できるのにと、オキシは思う。
「そんな魔法を求めるのは、オキィシくらいだよ」
微生物の存在とカビの有用性が知られていないこの世界で、その魔法の存在意義を見いだせるのは、オキシだけだった。
「でも菌の保存くらい、魔法がなくとも科学で何とかするさ」
まだ理論がよく分からない魔法で探求するよりも科学的手法で探求した方が、オキシにとっては早く答えに巡りつく。それに何でも魔法に頼ると魔法で解決できるからと考察することがおろそかになり科学的な探求の楽しみが奪われるような、そんな感じがしたのだ。
菌の乾燥保存については、まだまだ課題は多いが、その瞬間、まちがいなく異世界版「乾燥酵母」が誕生したのだ。