2・真空世界に存在する神は微小の生物なのか。
なぜ自分が今ここに存在するのか考えたことはあるだろうか。
その問いは決して哲学や宗教の求める「自己の在り方」の問題ではなく、「任意の場所に存在している」という物理的な意味において――
今現在、己の体があるこの空間は見知らぬ場所、眼に映る景色は無彩色で何もない虚であった。白亜のような無機質の暗闇が満たし、無限に広がる空間全てが渦を巻くかのように波打ってる。ゆらゆらと揺らめく霧に包まれ、いくつもの光の粒子が落ちていくように、白に吸い込まれていく。
すべての現象が停止したように静かな音を響かせ、不純物を感じないあまりにも澄んだ大気の味は、まるで毒物のように痺れを伴い正常な思考を奪っている。
それは突然のことで、一体何が起こったのか、わからなかった。
あたりを見回すが何も存在しない。自分の目がおかしくなってしまったのかもしれないと、恐る恐る手のひらを裏に表にひらひらさせて確認してみるが、いつもと変わらぬ5本の指が見えた。どうやら目が見えなくなったわけではないらしい。変わってしまったのは風景の方である。
体は無事だろうかと視線を下に移し、爪先まで観察をする。身を包む白衣が世界を満たす色と似ているために、体の大部分が溶けてしまっているような錯覚に陥いる。思わず胸や腰骨のあたりを触って確認したが、さらりとした綿布のなじみの感触にほっと胸をなでおろす。体と空間の境界は確かに存在しているようだ。
自分の身体に目立った異常がないことが確かめられると、思考することを放棄していた脳もだいぶ落ち着いてきた。こういう異様な事態の時はいかに落ち着きを取り戻すかが重要である。
(……もしかすると、ここは顕微鏡の中なのか?)
そのまま無意識に左の人差し指は、眼鏡をくっとあげた。
果ての見えないこのがらんどうの世界は、まるで何も乗せていない電子顕微鏡を覗き込んだ時の世界に似ていたのだ。
しかし仮にここが顕微鏡の中だとすると、なぜこの中で生きていられるのだろうかと疑問に思う。電子顕微鏡というのは、電子を扱うという性質上、電子に影響を与えない環境、つまり真空に保たれている。真空という空気の存在しない世界は生身の人間が生きていられるような所ではないのだ。
(ここが顕微鏡の中なわけがない。何を考えているんだ、僕は……)
そんなはずはないと頭を振って、この馬鹿げた仮説を振り払った。
突然訪れたこの異変に戸惑っているとはいえ、冷静に考えてみれば、いくらあの顕微鏡が巨大な機械であっても、このような目もくらむような広さがあるはずがないのだ。
世界は変わらず白に覆われている。
何もない。
いや「何も見えない」から「何もない」と決めつけるのは早計だ。何もないと思い込んでいるだけであり、実際には何か物質は存在しているはずである。
たとえば空気。この空間に適切な量の酸素が含まれていなければ、呼吸困難に陥り死んでいるだろう。しかしそれは「呼吸の必要のない性質のもの」になっている場合は、当てはまらない話ではあるが。
「実は死んだとか……ないよな」
不吉な予感が言葉となって、口から漏れる。音が耳に届くということは少なくともこの空間には音が伝わるだけの空気はあることを示している。常時であればそれに気がつくのだが、今はそのようなことに気を止める余裕はなかった。
どうしてこのような場所にいるのだろうかと、思い出せる最後の記憶を浮かべてみるが、脳裏に映るのはのは顕微鏡を覗いていたということだけである。それ以外の、毎日繰り返されるあまりに日常的な行動は詳しく思い出せなかった。このような事態になったその原因を導き出せるような特別な材料は特にないように思えた。
しかし、その日常に埋もれた当たり前の中に、思い当たる要因がまったくないといえば嘘になる。思い出せないからこそ、それが原因であることもあるのだ。
たとえば今日はしっかりと食事を摂ったろうか?
そもそも食べた記憶がない。
最近、ゆっくり睡眠を取っただろうか?
それすらも思い出せない。
あれは去年の夏のことだ。研究に熱中するあまり、ろくに寝食を取らずにいたら、いつの間にか病院にいたことがある。
基本的に冷房がきいている部屋で作業はしていたものの、湿度の高い真夏の外気の中へしばらく出ることもあった。日々の不規則な生活で体調も万全ではなく、朝から水分もあまり取らずにいて、温度差の激しい場所を行き来していれば、それは具合も悪くなるだろう。
あの一件以来、気をつけてはいるとは思っていたが、やはりもう少し気をつかうべきだったか。しかし、そうは思うものの、いくら気をつけようと意気込んだところで、熱中してしまうと周りも自身のことでさえも見えなくなってしまうその性格、抗えない好奇心や探求心の前では、その決意は意味をなさない。
やはり不摂生が祟って、ついにこんなことになってしまったのだろうか。
「脈はちゃんとあるし、痛覚もあるようだし……あぁ、夢の中では痛覚を感じないということを信じるのならば、痛みを感じるこの世界が夢である可能性もついえたか」
首に手をあて脈を測ってみたり、手の甲をつねってみたりしたが変わったところは見受けられなかった。いくら死んだ自覚がないといっても、心拍や感覚があるものなのだろうか。しかも衣服や眼鏡と言った物質は肉体の一部ではなく、独立したまったく別の存在。死んだからといって身に着けていたものたちまで、一緒に召されるとは考えにくい。
死んだ後、どのようなことが起こるのか、それは現代の科学をもってしてもわかっていないので、これらの事実が生きているという確実な証拠にはならないが、少なくとも「自分は生きている」という可能性の方を提唱したかった。
(こうして考えているだけじゃ何も解決しないか)
疑問は次から次に出てくるが、ここにとどまっていても状況は変わらない。
院生とはいえ研究者の端くれ、することはひとつである。
それはこの世界を見て回ること。
この不可思議な世界は未知なる場所である。この空間で何かを見つけることができるのならば、それだけで情報はぐっと増える。例えそれが何の手掛かりにならなくとも、観察するものがあることはそれだけで喜びとなるのだ。
そうと決まれば行動しなくては。この果てしない白の空間の正体を突き止めるのだ。
「……さて、どうやって移動したらいいのだろう。いや、この場合は自分は移動したのか、あるいは同じ場所にとどまっているのか、どうやって証明するか、だな」
新たな問題が現れ、ため息をつく。
歩くような動作をしたり、泳ぐように手足をかいてそれらしい動きをしてみるが、目印になるようなものもないので、上昇しているのか、下降しているのか、その場でもがいているだけなのか、その判断さえつかなかった。
手足を動かしても触れるものは何も無い。無重力空間に浮かんでいるような地に足がついていないこの状態では、位置に対する感覚が狂ってしまう。特に上下方向の感覚がまったくわからない。今まではあたりまえすぎて気にしたことがなかったが、重力があるというのは実にありがたいことだったのだと痛感した。
世界は、どこまでも白くある。
ここには何もない。無彩色の虚無だけがあるのだ。
膝丈まである白衣をまとっているので、体の大部分がこの白い世界によくなじんでいる。早く何か見つけなければ、自分自身も意識も全て、この世界に飲み込まれて融けてしまいそうであった。
「そういえば。ここにくる前に何か人のようなものを見たような気が……」
顕微鏡を覗いた先にひとり、誰かがいた。その詳細までは分からなかったが、白衣をまとったように全身が真っ白な人の形を見たのだ。
「あれはいったい何だったのだろう? 僕がここにいることと何か関係があるのだろうか」
半ば移動もあきらめ、再び思考の世界に入る。それは誰に聞かせるものでもない独り言、大半は言葉としての音は成しておらず、ぶつぶつと口から漏れ出すだけの侏離の音になっていたが。
「……まさかあれは自分だったりして」
ふと、とんでもない仮説が脳裏をよぎった。顕微鏡の中に見えたあれは、自分の一部が微生物のように分裂し、何らかの理由で顕微鏡の世界に入り込んで顕現したのではないだろうか、と。自分自身を観察するとは実に妙な現象であるが、分裂が完全に終わる瞬間まで、ある程度の意識と記憶の共有があってもおかしくはない。
そして、顕微鏡の外にいる自分とは切り離されてしまい、新たな個として完全に確立したため、突然ここにいたと思い込んでしまっているのではないだろうか。それならば、今も外にもうひとりの自分がいて、分裂後の自分を観察し続けている可能性がある。手を振れば外にいる自分には、それが見えるだろうか。
思い立ったら、即実行。
どの方向が外の世界なのか分からないが、両手をふって呼び掛けてみた。
「おーい、見えてるかい?」
心のどこかで、ここは顕微の世界なのではないかという淡い期待をしていた。
「……面白い考えだが、人の精神や魂はそう簡単に分裂したり複製されたりはせぬ」
「だ、誰かいるのか?」
頭の中に直接語りかけるような声が突然響いたので、驚いて思わず視線を巡らした。何もない空間で手をふっているという傍からみれば、おかしな行動をしていただけに、赤面する思いだった。
しかし、あたりを見渡しても、視界に映るのは果てのない空間のままであった。だが、確かに白の底に何かいるのだ。目を凝らしてみてもそれは見えなかったが、気のせいにしてはあまりにも存在感がある。何かの気配はするがその姿はなく、しかし、白に溶けて何か在るのだ。
「そこにいるのは、誰だ? オバケか!」
ここは非現実的な空間である、非科学的なものがいてもおかしくはない。
「驚いておるな。ここは消滅と生成がゆらぐ場所、わしはそこにたゆとう単なるエネルギー体。あると思えば在り、ないと思えば無いモノだ。ぬしがここへ来る前に見たという人型は、偶然映りこんだわしの影像だ」
声はすれどもやはり姿は見えず。その存在は明らかではない。
「やっぱりオバケではないのだろうか」
人を驚かして楽しむような見えない存在は、そういうものだという認識があった。
「……違う。このままでは埒があかない。実像を取るとしよう」
それは、白の中からゆらりと姿を表した。まるでこの白の空間から染みだしてきたかのように、ゆったりとした服を身につけた老人が視野の中に現れた。
その老人は髭も頭髪も着ている服さえも白いので、皺の刻まれた顔や、袖から見える骨ばった手の部分にしか色のあるところはないように思えてしまう。
「老人の幽霊? 幽霊がいるということは、やはりここは死後の世界なのだろうか」
一度走り出した思考は、なかなか止まらないものである。
「……違うと言っておろう。落ち着いているように見えたのだが、案外混乱しておったのか? 少し落ち着きなさい」
老人は未だ現実についていけない者を優しく諭した。
「幽霊では無いとしたら、あなたは?」
急に湧いて現れたような老人に警戒を抱きながらも、窺うように言葉を発した。
「わしは、ぬしのもつ概念に当てはめるならば『神』にあたるモノ」
「神、だって?」
神。にわかに信じられない単語が出てきた。
ここがもし地球上のどこかであったならば、自分が神であると名乗る者は、ろくなものじゃないと疑ってかかるところである。
しかし、今現在、自分が身を置いているこの場所はあまりにも不可解なことが多い。神の存在など信じたことも考えたこともなかったが、不思議な現象を目の当たりにし、それは真実であると信じても良いのかもしれないと感じていた。
「神、か……。電子顕微鏡に写りこんだ人型は神だった。これから導き出せる仮説とは?」
小さくそうつぶやき、神をそっちのけで思考に入る。そして、もしそうならばと、息継ぎもせず一気に考えを述べ始めた。
「そうか、つまり神は微生物だったのか! 道理で人類が気がつかないわけだ、こんなにも小さいのだからな。あぁ、そういえば米粒には7人の神様が宿っていると聞いたことがある。あれはあながち間違っていないと言うことなのか、そういうことだったのか!」
気がつけば、急に早口になり仮説を論じていた。こうなったらなかなか自制が聞かなくなる。相手が呆然としてもお構いなし、話は勝手に暴走していくのだ。
「会話がかみ合っていない上に、壮大な勘違いをしておるな。まだ現実逃避がしたいとみえる」
突然の出来事に取り乱すこともなく落ち着いているように見えたが、思考の世界に逃避するという形で現実から目を背けているようだと、神と名乗った老人は思う。
神は話が一段落するまで待っていた。話す内容自体は興味深くなかなか面白い考察なのだが、いかんせん、そもそもの前提が間違っている。しかし、己の力で間違いに気がつくことができることも神にはわかっていた。それはもう、間もなくであろう。
「……いや、顕微鏡の中だと思い込んでいるのは自分の仮説の中だけだ。ここが顕微鏡の中である確証は得られていない……落ち着こう、とにかく落ち着こう」
眼鏡の位置を直し、額にかかる前髪をそっと横にかきあげると、落ち着くために息を深く吐き、深く吸う。そして、照れを隠すように眼鏡の位置を直して神を見た。
「落ち着いたかの?」
「はい、すいません。初対面なのに……その、暴走してしまって」
自覚はあるのだが、話が一度軌道に乗ってしまうと、なかなか歯止めがきかなくなってしまうのだ。
「気にしてはおらぬ。落ち着いたところで、聞きたいことがあったら答えようぞ」
神は、問われれば、ほぼすべての事象の答えを知ることができるのだ。
「ええと、では……どうして僕はここにいるのでしょう?」
まず一番に聞きたい最大の疑問はこれである。なぜこのような白の世界などにいるのだろうかと、そう思うのだ。
「世界が記した記録から読み解くと、おそらくあの電子顕微鏡と呼ばれるモノの影響が大きい。あれの電子銃から発せられるのは電子線だけではなく、人の技術では観測できぬが、いわゆる『無のゆらぎ』を生じさせることがごく稀にあるようだ」
「『無のゆらぎ』? あの宇宙の始まりのときに、無から有を作り上げたと言う現象の?」
物理や宇宙の成り立ちについてはあまり詳しくないが、その現象の名はきいたことがあった。電子顕微鏡の真空空間内で何かが起きてしまったのだろうか?
「有と無は紙一重。不確定性原理は、どこにでも在り、いつでも有りつづける法則。多くの場合、その存在は不安定で、在った瞬間、世界に溶けて消滅してしまい大きな影響は無い。
が、先ほど偶然に生まれたその『無のゆらぎ』は、ほんの少しだけ長く世界に留まり有りつづけたようだ。そして、その小さなゆらぎは、次元と次元を繋ぐ法則を生みだしたようだ」
それは天文学的な低確率ではあるが、自然界で普通に暮らしていたとしても全く起こりえないことではない。宇宙に物質が生まれてから今まで、たくさんのモノが突発的に現れる『無のゆらぎ』のいたづらで人生が変わってしまった。と、神は言う。
人に作用すれば、ある者は力に目覚め、ある者は変異する。
場所に作用すれば奇跡や厄災を起こす場となる。
ときに次元や時間を超える扉が開き、異なる場所、異なる時間を垣間見たり、迷いこんだりするというのだ。
「ということは、さっき顕微鏡越しに見たのは……」
「顕微鏡内に偶然開きつつあった次元の扉の向こうを観測したのだな。『無のゆらぎ』は観測者であるぬしを認識し、その結果、ぬしの存在を丸ごと巻き込んで消えた。つまり、ぬしらの言葉で言う神隠しに遭った状態になったようだ」
「神隠し……」
現実離れした事象に戸惑いを感じながらも、神の話を聞いていた。
科学によってまだ解明されていない力が現れ、それが原因で引き起こされた現象に巻き込まれ、大学の実験室からこの場所に迷い込んだ。そう頭の中で簡単に整理する。
「……そういえば僕は地球に戻れるのでしょうか?」
ここは自分の住んでいる次元とは別の宇宙であるのならば、自力でもとの場所へ戻るのは、まず無理だろう。星を渡るのはおろか、川を渡るのでさえ、この身一つでは不可能なのだから。
「残念ながら、わしは他次元を観測することはできても、覗きこんだ世界へは渡ることはできぬし、他次元へ何かを送り込む技術を持っておらぬので干渉もできぬ」
顎から生えた長い白いひげを、なでながら神は大切な事実を伝えた。有と無を繰り創造を成す神とはいうものの、それはこの次元の中だけの話。自らもまた、大いなるモノの前では極小の存在でしかないのだ。
「……帰れないのか」
最悪の事態も想定して心構えはしていたものの、実際に現実を突きつけられると動揺は隠せなかった。次の言葉が継げず黙り込んでしまった。
「わしの作った箱庭でよければ招待するが? 次元の壁は超えられぬが、わしの管理する宇宙ならば融通がきく。ぬしのいた場所とまったく同じというわけにはいかぬが、それに近しい生物圏、類似した文明・文化のある星を、創造している」
同じ環境を与えれば、同じ進化を歩むかと問われれば、否である。最初はほんの少しのズレであっても、時が進むにつれてそれは大きくなり、まったく異なる世界になるのである。
「いかがかな?」
神はそう問うた。
「本当ですか? それはすごいな」
未知なる世界。目の前にいる神が作ったという宇宙。国どころか次元が異なる環境には、いったいどのような生物がいるのだろうか。そんな好奇心を刺激する提案に心が踊った。
「実のところ、この何もない空間で、これからどうやって暮らそうか、悩んでいたところだったのですよ」
帰れないと分かって絶望はしたが、あまりに現実離れしていたことが多すぎて、そのことについて考えることを早々に放棄していた。
そして次に思ったことは、それなのだ。いくら静かでも、こうも微生物も存在しなさそうな何もない所で、退屈しないで生きていけるものかと、そう心配したのだ。
「ヒトの子には、ここは何もない空間に感じるかも知れぬな」
神の言っているその言葉の意味がわからず、首を傾げてしまう。
「ここには、すべて有り、まったく無い。生成と消滅が繰り返され、どこにでも在るし、どこにも無い。すべての事象が、在って在り存在しない場所」
つまり、何でも手に入り、そして、何でも消すことができる、有と無がゆらぐ場所。
「そういうことですか。でも僕には使いこなせそうにないですね、その概念。全くもって理解できません」
現象や理論を数式で表し、普遍的な法則を求めるといったそういう物理の世界は、もともとあまり得意ではない。もっと混沌とした予測不能の変化をする生物たちの恣意的な営みを観測することの方が好きなのだ。
「これを概念、と言い切るか。それもまたひとつの捉え方ではあるな」
神はそう言って笑った。
「さて、いきなり知らぬ場所に放り出されては不便だろう。世界の法則の範囲でできることだけであるが、願いを3つ叶えよう。欲しい能力や欲しい物があれば言うてごらんなさい」
神は迷いこんだ者に、救いの手をさしのべる。これから行く場所は、神が創った宇宙のひとつ。その世界に適合する現象であるなら、自由に調整できるのである。
「願いを三つ、ですか?」
童話や御伽話にある神や悪魔、精霊といった人知を超越した存在がこの手の質問をする時、なぜ願いは「三つ」という数が示されることが多いのだろう。
三という数字に何か意味があるのだろうか。「三つだけ」と思うのか、「三つも」と思うのか、その多すぎず、少なすぎずというその数が、人の欲や迷いをよく表すのに都合がいいからだろうか。そんなどうでもいいようなことが脳裏をよぎりながら、その提案の答えを考えはじめた。
まず真っ先に思い浮かんだのは、もしも叶うのならば、自分にとっては夢のような能力で、これ以外にはないと思える願いだった。
「顕微鏡のような眼がほしい。しかも光学顕微鏡のような色鮮やかな自然のままの姿で、電子顕微鏡のように細かいところまで見ることができる、そんな眼が欲しい」
高倍率で観察ができる電子顕微鏡は、電子線の透過しやすくするために真空状態で観察を行う。そのため、生物試料をそのまま観察しようと思えば、水分の蒸発によって体積は収縮し、表面の構造も大きく変質してしまう。そのため生物試料は化学的にコーティング処理され、基本的には死んでいる生物しか観察できないのだ。生きたまま電子顕微鏡で観察する技術はないわけではないが、それでも一時間ほどしか生きた状態で観察できないのだ。
しかし、この能力を身につければ、特別な機材や処置を行わなくとも、生物をありのままの姿で、いつでもどこでも観察ができるのだ!
「顕微鏡の眼か。らしいといえば、らしい能力であるな。して、ふたつ目は?」
「ふたつ目は……」
ひとつ目はすぐに頭に思い浮び、勢いで言ってしまったが、問題はふたつ目である。いざ何がほしいかと問われると分からなくなってしまう。欲が無いと言うわけではないが、考えれば考えるほど、己というものに内包する欲望の存在を明らかにする。いざ問われると、本当に欲しいと思うものがわからなくなるのも事実なのだ。
「ゆっくり考えるといい、時間はたっぷりある」
この場所には、時間という概念はないのである。
「ありがとうございます。……そうだ、今から行こうとしている場所には、もちろん微生物いますよね?」
微生物が存在しないのであれば、顕微の世界を見ることができる能力を得た意味がなくなってしまう。
「安心せい、ちゃんと存在し、今や勝手気ままに進化しておる。ちなみに向こうは魔法という現象が存在し、獣人も精霊も、それから魔物や……聞いておるか?」
相槌が返ってこないので、心配になり確かめた。
「あ、はい、聞いていますよ。魔法と獣人と精霊と魔物がいるんですよね……地球とは異なる星の微生物か、どういう形をしているのだろう」
もはや頭の中は異世界の微生物のことでいっぱいだった。それ以外の事柄については、どんなに珍しかろうと二の次。優先すべきは微生物の存在である。気がついた時には微生物について考えている。いついかなる時でも頭から離れないものなのだ。
「……思いのほか、反応がなかったな」
ここまで一つのことに固執する人間はなかなかに興味深く面白い。神は異なる次元で生まれ育った者が、どのような願いをするのか楽しみであった。
「あと二つか」
白い世界に在る神は「三つ願いを叶えよう」と言った。
ひとつ目はすぐに決まったものの、残り二つがなかなかに難しい。限られた数の中で考えれば考えるほど、欲というものは深みにはまっていく。「三つの願い」という命題の答えを導き出す、それは己の欲の形を浮彫りにする作業、それは非常に骨が折れる。
今思いつく最善の願いを見つけ出すため、しばしの思案を必要とした。
「……うん、決まった! 待たせてしまってすいません」
様々なことを想定していたら、思ったよりも時間がかかってしまった。
「気にすることはない。さぁ、言うてみなさい」
時間という概念を持たない神にとってはそれは在って無いような一瞬である。
「ふたつ目の願いは、何を食べても、どんなものでも全部エネルギーになって消費される体がほしい。たとえば、独立栄養生物が行う光合成や科学合成のように、あるいは分解者である真正細菌のように。食べたものは何でも分解できて、なおかつ、光や大気からも栄養が作れる能力がほしい。
すべてを栄養に変えて……取り込みも排出も体内で循環する代謝機能系の……なんと言うのか、極端に言うと面倒くさい食欲と排泄欲の排除だ!」
今から行く場所がいくら地球と似ていると言っても、まったく同じではないだろう。地球においても、旅行などで海外へ行ったとき、食べ物が合わずお腹の調子が悪くなることがある。地球で進化した人間に、異なる世界の食べ物を構成する物質が消化吸収できる保障も無い。さらに何でも食べることができれば、興味本位で毒々しい色をした菌類の味を確かめてみることも可能になるだろう。
しかし、食べれそうにないものを食べてみたいという好奇心はあるが、それ以上に食事や排泄に費やす時間がもったいないと思う人間でもあった。それらによって作業を中断しなくてはいけないのは、ほんの少しの時間なのになぜかとっても煩わしいのだ。必要な分を定期的に摂らねばならないのは、面倒くさいのである。しかも、面倒だからと摂らなかったら摂らなかったで、最悪倒れてしまい病院送りになってしまうことさえあるのだ。
特に食事というものは気が向いた時に、気が向いたものだけ摂れれば十分と常々思っていた。基本的な栄養が必要な分だけ、口から摂取する以外の方法で補給できるのであれば、それはどんなにすばらしいことか。そう思うのだ。
「ふむふむ、言いたいことは分かった。して、最後は?」
「人間にとって苛酷な環境や体調でも耐えられる体がほしい。顕微鏡並みの眼を持っていて、そんな体質だったら素晴らしい。猛毒のガスにあふれている場所だろうと、高温高圧無酸素だろうと、人が過ごすには危険すぎる環境に、生身でいける! 極限環境微生物に会いに行ける!」
食べ物もそうだが、ささいな環境の違いで体調を崩してしまうかもしれない。得体の知れない病原菌にやられてしまうかもしれない。そうでなくともちょっと熱が出たとか、頭痛や腹痛がするとか、そんな体調不良のせいで思うような観察ができなくなるのは耐えられない。そう考えた結果、どうせならばどんな状態でも耐えられるような体になってしまえば、何も面倒なことはないと思ったのだ。
「本当にその三つでいいのだな?」
願いを全て聞いて神は苦笑いをした。「魔法の属性を全部」とか、「伝説級の武具」とか、強力な力や道具を欲しても、世界のバランスが崩壊しない程度には与えるつもりでいた。しかし、地球人にとってファンタジーでロマンであると思われる部分については興味が薄いようだった。
もともと生活に困らない程度の基本的な能力は無条件で与える予定であった。それらを強化したような願いとはいえ、近しいものを提示してきたので、神は願い以外にも何か特典をつけようと思った。
「たとえば動物……微生物たちの声が聞けるようにならなくともよいのか?」
生物を研究するものにとってその対象と会話ができると言うことは、彼らを知る大きな手助けになるのではないかと神は考えたのだ。
「彼らはしゃべらないからいいんだ。それに、しゃべったら観察するのにいちいちうるさくて邪魔ではないだろうか? ああいうのがしゃべるのは、漫画だけでいい。うるさいのはあんまり得意ではないんだ」
多少の雑音ならば無視できるが、あんまりしつこく騒がしいとイライラしてくる性質なのだ。
実験は時に過酷な環境を作り出し、その中で行う。その苦しみや嘆きの声を聞いて、落ち着いて観察できるとは思えなかった。そう、あくまでただただ一方的な観察が好きなのである。
それに、そのような奇跡などの助けを借りずとも、じっと観察すれば生き物たちは、よく語ってくれる。人間のように言葉に頼らなくとも、生物は魅力的な行動を見せ、時にその研ぎすまされた感覚を使い、人間以上に妙々たる情報のやり取りをやってのけるのだ。
「そういうものか。だが、向こうのいわゆる人間と意思疎通ができるような言語理解の能力は必要であろう?」
いくら近しい文化を持っていようとも、たった一つの川を挟むだけで言葉が異なっていることがよくある。ましてや、住む次元が異なるのだ、到底通じるはずがない。動物の声も理解できる能力は望んでいなかったとしても、さすがに人間とコミュニケーションがとれないのは困るだろう。
「現地の言葉! おお、そのことは全く思い浮かばなかった。神様ありがとう」
あまりに当たり前のことすぎて思いつかなかった。言葉の壁を取り払うと言う神に素直に感謝した。
「ふむ。では、それらの能力をぬしに与えるぞ」
神の指先が光り、その閃光が体を貫く。
「うわ」
一瞬何が起こったか分からず、光の貫通していったあたりを見つめる。その部分から光は体を侵食し始め、体全てが包まれた。そして、その温かな光の粒子は白の世界に散っていった。
光が四散した後、すぐに体に変化が現れた。世界はもともと白くおぼろだったが、視界に入る神の姿が激しくゆがんでいる。まるで雨の流れ落ちる窓硝子越しに見た世界のように、ぼんやりと焦点が合わないのだ。
「ん、ちょっとくらくらする、かな」
「眼に能力を付加したついでに眼鏡がなくとも生活できるような視力にしておいた」
「なんと! だから、視界が気持ち悪くなったのか」
さっさと不快の原因である眼鏡をはずし白衣のポケットにしまった。そして自分の手を目の前に差し出した。爪の先までぼやけないではっきりと確認できた。いつもは眼鏡の外にあり、ぼやけている視界の端もはっきりと見える。いつもと異なる視界に違和感を感じるが、そのうち慣れるだろう。
次に、神は与えた能力について説明をしはじめた。
ひとつ、意識して『見た』ものは顕微鏡で覗いた時のように見ることができる能力。
ふたつ、毒ガス地帯、高圧・低圧下はもちろん、水中といった空気がないような過酷な所でも生きていける環境に対する耐性。
みっつ、毒であろうと病原菌であろうと有機物だろうと無機物だろうと、その身体が異物と感じたモノは喰らい尽くして全てエネルギーに変換し、何も食べていなくても必要な時は大気中の物質を使って勝手に合成する能力。
この三つの能力が身についた。これらの能力に問題があるとするなれば、それらの環境には耐えられるが、その現象は感じてしまうことである。つまり熱いものは熱く、眠い時は眠く、怪我をすれば痛むといった感覚を感じるのだ。
加えて分解速度よりも速く効果が出てしまうような即効性の毒を摂取した場合、分解が間に合わず痺れや痛みなどを感じてしまうことがある。しかし、その毒が到死量だったとしても、せいぜい気絶してしまう程度で、身体に重大な問題が起きるわけではない。意識して毒を拒めば分解は活発になり、よりはやく復活することもできる。基本的には常に正常な状態の身体を維持しようとするのである。
もちろん痛みや眠気、熱や感触といった感覚を無くすことも、神の力も持ってすれば不可能ではない。しかし生物というものは環境の変化を感じることによって、危機を回避したり、心地よさを感じそれを求めたりするように進化してきた。それらの感覚を完全に失うことは、生きている実感を失う原因となり、のちのち生活に支障をきたす可能性があると神は考えたのだ。これは神からの試練でもあり、やさしさでもあった。
「最初は奇妙な感覚に戸惑うかも知れないが、慣れればさほど気にする程度ではなくなっていくだろう」
「病は気から、のようなものか。慣れるまでは、ちょっと大変そうだけれど、ちょっと想像もつかない感覚だ」
自分で望んだ能力だが、改めて考えてみると非常識な能力を願ってしまったのではないかと感じた。
「それから餞別にこれを授けようぞ」
何もない空間から神は「赤褐色の本」と「銀色のペン」を取り出した。神の手元に浮かぶ本に表題はなく、辞書のように厚くで重そうに見える。開くと肩幅と同じくらいの大きさになるだろう、持ち歩くには少しかさばる大きさだ。ペンは何の装飾もない非常に質素なものだった。
「本とペン?」
「ぬしには記録するものが必要であろう?」
神の手元に浮かぶ本とペンは、記録する以外にも色々と機能がある。本の頁に限りはなく、ペンは魔力を変換して様々な色のインクを作り出す。どこかに置き忘れても呼べば目の前に現れ、多少乱暴に扱っても破損の心配もない永久的に使える代物である。
「おぉ。これすごい!」
本を受け取り、それを掲げる。見た目は普通の厚い本なのに、質量はほとんど感じなかった。
「必要であろう道具を渡したのだが、ずいぶんと喜んでおるな……」
その本とペン自体は、珍しいものではない。人の世で買えば値は張るが、魔具屋で手に入れることができる一般的な文房具なのだ。
「さて、新たな世界への準備は整った。わしはいつでも見守っておるからな」
「ありがとうございます。でも、毎日お祈りなんてしませんよ?」
今まで神を信仰などしていなかった。そして神の存在を知ったからといって、信仰心が芽生えるわけでもないのだ。むしろ、祈りの時間がもったいないと感じるのだ。
「それでも一向にかまわぬ。わしはそういう信仰によってどうこうなる存在ではない。ここを訪れる者は珍しい、ぬしに色々するのも遠いところから訪れた旅人に食事をふるまうようなものなのだ」
食事にしては豪華すぎるような気もしたが、実家が田舎であるので、日常的にそのような行為が行われているのを見てきた。そのようなこともあり、そういう好意は嫌いではなかった。
「そう簡単には死なない体になったとは言え、無理は禁物。では、そろそろ送り出すぞ?」
「はい、本当に何から何までありがとうございます」
本を大事に抱えながらそう言った。
こうして地球から、異なる世界に迷い込んだ一人の院生は新たな場所へと旅立った。