17・微生物は神ではなく、無論、崇拝も信仰もしていない。
組合の登録も終え、オキシたちは本館の地下へ来ていた。
地下の空間は、木で組まれた棚が天井までそびえたっていた。棚の中には大小様々な形の道具が積まれ、まるで倉庫のように見える場所であった。
ここに保管されている物は、道具を新調したり、仕事を引退したりなどで使わなくなった道具たち、いわゆる中古の道具である。それ以外にも、特定の魔物を退治する時にしか使わない道具も置かれている。
さすらう冒険者などは、無駄な荷物は増やせないので、そういう時は捨ててしまうしかない。しかし、ただ捨ててしまうのではもったいないので、まだ使えるものはこういう場所に無償で寄付したり、売って金にしたりするのである。
さらにいえば、冒険者の使う道具は特殊な物が多く、気軽にごみとして捨てられるものではないこともある。きちんとした手続きをして、捨てなくてはいけないのだ。それは面倒であるため、捨てるくらいならと寄付するのである。
あまりにも使い物にならない物や特殊すぎるものは受取を拒否されてしまうが、ある程度の手数料を払えば面倒なごみ処理手続きを代行してもらうこともできる。ごみ処分の手間も煩わしさも省けるこのシステムは、おおむね好評である。
ちなみにあまりにも悪質な不法投棄は罰金が発生し、しかも「ごみもきちんと捨てられない者」としてからかわれ、ちょっと肩身が狭くなる。
回収された道具たちは、職人の手によって修理され棚に並ぶ。それらの道具は格安で貸し出されたり、中古品として売りだされたり、物によっては無料で提供され、新たな持ち主の元で使われるのだ。
懐寂しいかけだしの冒険者がここへ来て必需品を求めれば、一から揃えるよりも安くなることが多い。うまい具合に在庫が余っていると、無料のものだけで一通りのものがそろってしまうことさえある。
ただし無料で手に入るものの機能は最低限だ。無いよりはマシになる程度である。依頼をこなし稼げるようになった時、より良い品物や自分好みのものを買ったり、自分だけのものを特別注文して作ってもらうまでの、つなぎとして使う者が多い。
もちろんこの場所には、初心者だけではなく、上級者も入りびたっている。上級者ともなるとさすがに無料のものには見向きもしなくなるが、中古品の売り場にはときに思わぬ掘り出し物があるのだ。
「その本、いつまでも抱きかかえているのは大変だろう? それにポケットにも色々物が入っているようだし、鞄はあって損はない」
キセノンはそう提案する。
オキシのポケットには、水でできた板や、紙や筆記用具、何に使うかわからない道具、さらには正直ガラクタにしか見えない物がたくさん入っているのだ。
「あぁ、確かに鞄はあったほうが便利かも」
ポケットに入れる物は、ほとんどの場合、そこに入っているからいいのであって、他のところにしまうつもりはない。しかし、確かに本は抱えるよりも、鞄に入れた方が楽でいいかもしれないと、オキシも思った。
「この箱に入っている物は無料だ。勝手に持っていっていいんだ」
まるで在庫処分の安売り商品のごとく、さまざまな鞄が箱からあふれんばかりに積まれている。
この鞄たちの持ち主が駆け出しを卒業した時に、手放したものだろう。もしかすると何度も持ち主を変え、ここにあるのだ。新たな新入りを支えるために。
「この鞄なんてどうだ。小さくて軽い」
キセノンは肩からかけるタイプの布でできた小型鞄を勧める。
「でもその鞄に、この本は到底入りそうも無いんだけれど?」
鞄の大きさに比べて、本は大きいのだ。
「こういう鞄には、普通は魔法がかかっていて、その本くらいの大きさだったら簡単に入るぞ」
物を入れる鞄に、魔法を施すのは当たり前のことである。その魔法を扱えて初めて鞄職人として認められると言っていいほど普及した技術なのである。
「なんと、四次元な鞄なんだ。三次元の物なら何でもさくっと入る感じ?」
もし、そんな何でも収容できる夢の袋が地球にあったのならば、なんと便利だったことだろう。今となっては顕微鏡の類は必要なくなってしまったが、愛用の双眼実体顕微鏡を間違いなく入れたいと思っただろう。それから、シャーレやスポイトや時計皿といった観察に必要な細かい道具や、部屋の書物すべてと、パソコンと、クマムシのぬいぐるみとミカヅキモ型抱き枕と言った趣味の小物を入れておくのだ。
「ヨジゲン? なんかよく分からないが、鞄に入れたものが小さくなるだけだぞ? それに、これは半人前が作ったような鞄だから、あんまり物は入らん」
なにやらぶつぶつと言葉を羅列しているオキシにキセノンは釘をさす。いくら魔法の鞄と言っても、容量は無限ではないのだ。
「そうなんだ」
鞄の良し悪しはよくわからないが、今の段階でその鞄でも機能的には充分に魅力的である。オキシはその鞄に本を入れてみる。
「おお、ぴったり。これいいね!」
鞄に本を入れる瞬間の、するりと揺らめく様は何とも言えない不思議な感触であるが、鞄の中に本は収納されたのだ。覗きこんでみると、本を入れてもなお、まだ空間に余裕があった。かつて誰かが使っていたので少し傷があるが、見た目よりも収納容量の大きな鞄が無料で手に入るのは、すばらしく思う。
オキシは初めて自分の鞄を手に入れた子供のようにはしゃいでいた。オキシにしてみれば、このような魔法のかけられた鞄という物は初めてなので、あながち間違いではないのだが。
「……本当に大人なのか?」
本人は成人しており独り立ちもしたといっていたが、外見、行動ともに、どう見ても言っていた年齢よりもかなり下に思えてしまうのだ。
「小さくなった分の質量とか体積はどこへ消えるんだろう? 不思議だな。魔法ってやっぱり不思議」
この現象は、物の理を凌駕している。オキシは急に真顔になり、鞄を掲げ首を傾げていた。
「そういや魔法は初めて見たとか言っていたな」
乾燥させる風の魔法を使ったときのオキシの反応を思い出す。
「そう、魔法は何一つとして見たことがない。魔法なんて体験したことはなかった。だから、今までそんな実在しない現象にそれほど興味は湧かなかった」
魔法よりも、科学の世界の方が謎と神秘に満ち、美しく不思議であふれていると感じていたのだ。
「魔法が存在しない? もしかして、オキィシはウェンウェンウェム地方で育ったの?」
ロゲンハイドは「ウェ」だらけの不思議な響きの地名を出す。
「あぁ、あの森ならありえるが……魔法を見たこともないとなると、どれだけ深い奥地から来たんだ?」
この町からそれほど遠くはない位置にある広大な森、この国と隣国の国境になっている「どこの国にも属さない森」は、こことは大きく異なった環境なのだ。
その地方の大半を占める森では不思議なことに魔法が発現しにくい。そのような土地柄、彼らは魔法を使う習慣がない。魔法文明はあまり発達せず、今でも魔法を必要としない原始的な生活をしている集落も多い。魔法が実在しないと言うような者がいるとしたら、そこにしかない。
しかし、近年では魔蓄器の発達で、あの一帯でも簡単な魔法の道具が扱えるようになり、少しづつではあるが魔法文化は入り込んでいる。ずっと森の中にある村に住んでいる人であっても、魔法を見たこともないという者は減ってきていると、キセノンは聞いていた。
新しいものを受け入れることに抵抗のある保守的な年配の者ならとにかく、若者で魔法を見たこともないとなると今時めずらしくもある。
「僕の故郷は田舎であることは認めるけれど、森の中なんてそんな辺鄙な場所ではないよ」
オキシの故郷は田舎ではあったが平野にあり、このフェルミの町と大差ないくらい建物が並んでいる。列車も1時間に2本は最低でも駅に停車する程度には、交通の便はいい場所にある。
「僕の故郷は日本と言って……、森ではなくて島なんだ」
この世界には、日本という国は存在していないのだから、いくら話したところで分かるはずもないが。
「ニホン。聞いたことがない国だな」
ウェンウェンウェム地方は、陸の孤島ではあるが島国ではない。キセノンは世界のすべてを知っていると言うわけではないが、少なくともこの国の周辺にそのような名の島はない。
「ちょっといいか?」
世界地図を見たならば、見つけられるだろうか。キセノンはそう思い、調べてみようと行動を起こすことにした。
三人は隣の部屋に向かう。そこは本が棚にたくさん並び、まるで書物庫のような場所であった。小さな机や椅子まで用意され、そこで閲覧できるようになっている。
本の発する独特の香りはこの世界でも変わらないらしい。慣れ親しんだ匂いに、大学の書庫を思い出し少しだけ懐かしかった。
「ここは図書館?」
「ああ、登録証を見せれば、持ち出し禁止以外の本は借りられるぞ」
「そうなんだ、覚えておこう」
文字が読めるようになったら、ここに来てみるのもいいかもしれない。ここではどんな知識に触れることができるのだろうか。
キセノンは棚に丸めて置いてある世界地図を広げた。地図は使い古され端の方は少し損なっている。描かれているのはもちろん地球とはまったく異なる形の大陸、偏り具合の地形である。そして、一番に目を惹くのは、海に描かれている不思議な造形の海獣や、到底水に浮かびそうにない帆船の絵である。これらは実在する物なのか、創造の産物なのかはわからないが、世界を描いた地図の空白部分には、何か描きたくなるものなのだろうか。異なる世界の地図にもかかわらず、地図を書く者たちの似たような性質に触れて、なんだか親近感を覚えてしまう。
「世界地図、初めてみた。へぇ、世界ってこんな形しているんだ。結構細かく描いてあるんだね。この町はどこにあるの?」
この地図がどの程度正確に描かれているかはわからないが、緻密に描かれているというだけで、正しいと思わせてしまう説得力がある。
「ここだ」
キセノンは一番細長い大陸の内陸部を指さした。
「結構、内陸なんだね。ちなみに僕はこの世界の形を今まで知らなかったから、これを見ても日本は示せないよ?」
世界を見るのは初めてだが、見る前からこの地図上に存在していないことだけは分かりきっている。そもそも星が、宇宙が、次元が異なるのだ。
「確かに、その通りだな」
世界地図を初めてみたと言うのなら、これを見せてニホンの場所を聞いても無意味だろう。
キセノンは自分の目で島国を一通りみるが、ニホンと言う国はなかった。もしかすると見過ごしてしまうほど小さな国なのかもしれないが。
「ニホンと言う国は載っていないな」
「おいらも見つけられなかったよ」
二人で探して見つからないと言うことは、よっぽど目立たないか、書かれていないかであろうと、二人は思った。
「……ずっと辺境の辺境にある小さな国だもの、地図上に書くだけ無駄と思う。これと言って何かあると言うわけではないし、省略されていてもおかしくはないよ」
異世界の地図で同名のそれを見つけられたら、それはそれで驚きであり、逆に行ってみたいとオキシは思う。
「本当に遠いところから、来たんだな」
地図に乗っていない謎の島国から来たというオキシ。なぜ、故郷を離れここへ来たのか。その旅の目的は何なのか。しばらくしたら、またどこかへ旅立つのだろうか。キセノンはふと疑問に思う。
「こんな遠くまで来た目的はなんだ? 何か探しものか? それとも見聞の旅か?」
オキシは遠くの国から来たと思っているキセノンにしてみれば、そう思ってしまうのも無理はなかった。
「旅の目的……。僕の目的は……微生物探し、そしてそれを調査する。それ以外に存在しない」
オキシは別に旅などしていなかったが、ただ目的だけははっきりしている。そう断定できるのである。
「ビセーヴェツ……それは、どこにあるのかわかるのか? 見つかりそうか?」
その単語は何度かオキシの口からは聞いた言葉だが、それ以外の者からは聞いたこともない響きの言葉である。こんな遠くにまで探しに来るもの。よっぽどな物なのだろう。
「どこにでもいるといえばいるし、いつでも見つけられるよ。今、この瞬間にだって、僕は微生物を捉えられる」
カビとホコリの匂いがほのかにするこの場所も、間違いなく彼らの生活圏なのだ。
「なんだ、そのまるで神のような概念的な存在は。もしかしてビセーヴェツはおまえの信仰している神の名なのか?」
己の信じる神の御心のまま世界を巡り歩く者がいることはキセノンも知っていた。
「微生物は神ではないよ」
1回だけ「神は微生物だったのか!」と叫んだこともあるが、それは勘違いだった。今となっては、いい思い出である。
「でも、微生物は信仰はしていないけれど愛は注いでいる、一方的に。愛というよりはむしろ……かけているのは命と言ったほうが近いのか? そう、まさしく人生ささげても良いほどに!」
オキシは力強くそう宣言した。人生をかけられるほどの意気込みがなければ、院に行ってまでわざわざ微生物の研究などしないだろう。
「人生をささげる……それはビセーヴェツを信仰していると言うのではないのか?」
危険が伴う仕事の時に祈りに行く程度であるがキセノンにも信じる神はいる。その程度ではあるが、キセノンはその神を信仰していると思っていた。オキシの「人生をささげる」という行為、そこまでいけばもう立派に信仰しているのではないかと、キセノンは疑問に思った。
「微生物を信仰、ねぇ……微生物は崇め奉ると言った崇拝はしていないし、それに僕は何か特定のものを信仰したこともない。あ、でも、だからと言って無神論者とか無宗教ってわけじゃないよ。自然や言葉に宿る魂というのかな、そんな感じの目に見えない何かを畏れ、敬意は払っているよ」
日本人の多くは、おそらく宗教と言う概念は薄い。
そもそも、宗教という言葉は幕末期に生まれ、明治初期に広まったとされている。それまで、仏教もキリスト教も神道でさえも、日本人にとって「宗教」ではなかったのだ。比較的新しい概念であるがゆえに、日本人には、宗教という概念そのものが、未だに文化的には馴染みのないものなのかもしれない。
しかし、日本人の多くは特定の信仰する宗教は持っていないが、少なくとも崇拝する精神は持っているとオキシは思うのだ。それは、オキシも例外ではない。微生物を知れば知るほど、大自然の偉大さに敬意を抱いてしまうのだ。
オキシは一息ついて、無意識に左手の指先で鼻のあたりに触れる。しかし、その先に眼鏡はない。この癖はなかなか直りそうにない。
「微生物って言うのは、簡単に言うと肉眼で観察できないほどとても小さな生物で、何もないように見えるこの空気中にも、この部屋の柱や床にも、そして僕たちの体表や体内に生きづいて……」
先ほど登録証を作る時に、語るのを我慢してしまった反動もあるだろう。相手が気の知れた相手であるということもあっただろう。微生物について語りだそうとするオキシの瞳に独特な意気が忍び寄る。
「はい、ストップ、ストーップ!」
語り出そうとするオキシをあわててロゲンハイドが止める。
その話は、今朝さんざん聞いたのだ。あの熱々とした講義を、いろんな意味でここで開かせるわけにはいかない。オキシの口から続きの言葉が発せられる前に待ったをかけた。
「邪魔をするな。僕は今、キセノンに微生物のすばらしさを、だね!」
出鼻をくじかれ、瞬く間に険しい表情になり、ロゲンハイドを刺すように睨み付ける。
「微生物が、とてもとても素晴らしいことは、おいらが十分に分かっているから、落ち着いて」
「ロゲンは結構な邪魔をするよね」
しかし、オキシはぶつぶつとふてくされたままだ。
「あぁ、もう。やっかいだな」
この状態になったオキシはとても扱いづらい。放っておけば歯止めなく長々とそのまま突っ走ってしまうし、邪魔をすれば理不尽な非難を向けられる。
「そうだ。ほら、これで機嫌を直してよ、ね? きっと面白いのがいるから」
ロゲンハイドは部屋の隅にあるホコリをちょちょいと集め、水で作り上げた小さなビンのような容器に入れてオキシに手渡した。それを目にしたとたんに、うつうつとした文句はぴたりと止んだ。
「それいいね!」
オキシはそれを受け取るとすぐに嬉々と熱中しだし、何事もなかったかのように静かになった。むしろ黙々としてそれを見ている。
相変わらず、怒ったり喜んだりと忙しく次々変わる感情である。
「ふぅ、なんとか気をそらせることができた」
気休めにしか過ぎないが、ひとまず安心である。
「ううむ」
キセノンは二人のやりとりに、ただただぽかんとするしかなかった。
物で機嫌を取るにしても、ホコリを集めたものを手渡すだけで、この変わりよう。オキシの思考には不可解な謎が多い。
「精霊よ、本当にこいつと契約してよかったのか?」
気苦労が絶えないように見える。
「いいの、いいの。悪気があるわけじゃないのはわかるんだ。これくらいなんてことないよ。それに、こんな面白い人間はそうそういないよ」
ロゲンハイドは、水を散らしながらくるくるまわる。確かにホコリを手渡して、怒りが収まるような人間は面白いのかもしれない。
「ならいいんだが。精霊もよく分からないのが多いからな。特に水のは変わった者になつきやすいと言うが」
オキシの場合は、変わっているにも程があるようにも思えるが。
「……類は友を呼ぶと言うから。似たもの同士は集まりやすいのだろう、きっと」
オキシは突然口を開いた。
「聞こえていたのか?」
「いつだって音は聞こえている。それらの音をいちいち言葉として解読して、理解して、反応するのが面倒で、たいてい無視してるだけ」
聞こえているが、聞こうとしないだけである。オキシは堂々とそう言い放った。
「……やっぱり無視していたんだな」
キセノンは、それを何度か体験していた。
「……」
しかし、オキシはキセノンのその言葉に何の反応も返さない。言っているそばから無視の態勢だ。キセノンはもう何度目になるかわからないため息をついた。
キセノンを無視したオキシは、ホコリに魅入っている。
(だいぶ驚かせちゃったかな)
オキシは明かりを背にし気持ちばかりの影を作る。そして彼らが落ち着くのをじっと息を殺して見守った。
ホコリという、まさしく塵のような小さな世界にも、食べて食べられての残酷でいて幽玄な、美しい秩序ある世界が存在する。
その単なるホコリは、布や紙の擦れくず、すす、砂、食べ物のかす、髪の毛、羽毛、鱗などで構成され、その塵の1つ1つは、白や赤や黄と様々な色を持っている。それらの色がすべて絡み混じり合い、ひとつの塊として溶けてこんで、くすんだ灰色を成していた。
無彩色で味気ないように振る舞いながら、目を凝らせば実は色鮮やかなその世界、そこには人知れずひっそりと生きている者たちがいる。
部屋の隅から容器の中へ住処を移され、ある生物は光から逃れるように繊維と繊維の間に必死になって潜り込もうとし、ある生物は気配を消すようにじっとそこから身動きせず、色彩豊かな灰色の世界が静まるのを待っていた。
「オキシ?」
オキシは鞄にしまった本まで取り出して、何かを書き記そうとしていた。ところかまわずだ。
あわててキセノンは、ホコリの入ったそれに見入っているオキシに声をかけた。
「邪魔しないで」
オキシはキセノンの呼びかけを疎ましそうにさえぎる。
「いや、ここでは往来の邪魔になる。向うに机があるから、そこまで移動しないか?」
人はまばらとはいえ、こんなところでしゃがみこまれては、通行の邪魔になってしまう。それにここは書籍庫で勉学に励むものも多い。机の上で色々書き込むのであれば、読書をする人たちの景色と馴染んで、だいぶ違和感のない状態に見せることはできる。
「向うの机……わかった」
少し遅れて返事が来る。もう少しぐずぐず文句を言うと思ったが、案外素直にそれに従う。
オキシにしてみれば、机や椅子があった方が観察は楽に行えると思ったので、移動することにしたのだ。
オキシは椅子に座ると、すぐに本を机の上に展開し、ホコリの入った容器を置き、ひじを机について先ほどと変わらぬ視線でじっと見始める。
ホコリの中の生物たちは落ち着きを取り戻しつつあり、いつもと変わらぬ様子を見せ始めている。
一番目につく大きな生き物は、合計4本の脚を持つ節足の生物である。ホコリの繊維に、頭を下にして頑丈な前足でしっかりつかまっている。ホコリにしがみつく節足の脚は細かいとげに覆われており、小さな頭を挟むように左右に2本づつある。
より頭に近い前脚は、後ろ脚よりもやや大きく、鋭いぎざぎざのたくさんついた鎌の形状をしており、しっかりと物にしがみつけるような構造になっていた。
丸みをおびた腹もやはり細かい毛のようなとげに覆われて、しっぽの先には長めの刺が2対ある。その形状は何種類がある。詳しく調べないとわからないが、大きく分けて2種類に分類できそうなので、個体差や年齢差と言うものを考慮しても、その形状の違いの意味するところは、性差によるものの可能性があるように思われた。
頭は小さく、触覚といったものはないので、のっぺりとしている。複眼が3つと単眼が2つの計5つを持っているが、単眼は小さく目立たないので、ぱっと見は3つ目の生物に見える。
口の両端にはハサミのような牙があり、それはホコリの繊維を切断する。口の内側には4本のひげのような口器があり、切り刻んだ繊維を口の中へ運んでいた。
(このダニもどきは、繊維を食べるんだ)
ホコリにいる代表的な生物はダニであろう。家に出没する彼らは、カビや人のフケ、食べかすなどを食べてはいるが、実は紙や布の繊維は食べない。しかし、この書物庫にいる生物は、多くの紙に囲まれている環境のせいか、食性は繊維を食べることに特化していた。ちょっとした繊維害虫である。
繊維といった栄養の少ないものを食す彼らの体内、もしくは細胞内には、生命を維持するための必要な栄養を提供する共生微生物がいると思われるのだが(少なくとも、地球の生物ではそうであった)、彼らの色のついた厚い表皮が邪魔で、体内の様子はよく分からなかった。
その共生している微生物がすでに完全に細胞内に取り込まれてしまっている場合はあんまり興味はないが、ひとつの個として体内を存在するような微生物であったなら最高である。
すぐに確かめることができない、このどうすることもできないもどかしさが、なんともいえない。
オキシに観察されていることも知らない彼らはあちらこちらへ移動して、口をもしゃもしゃとせわしく動かしている。いくら共生している者から栄養を提供してもらっているとはいえ、起きている限り常に食べ続けなくては生きていけない。それほど、繊維とは栄養の薄い食料なのだ。
(あ、これは天敵かな)
そんな彼らの食卓に忍び寄る影があった。ダニもどきがこれだけたくさんいるのだから、彼らを食す天敵がいてもおかしくはない。
青みかかった灰色の体に黒い斑点がある細長い1匹の虫が、無数にある短めの脚で繊維をかき分けてながらやってくる。口の先が尖っていて、ダニもどきにそれを突き刺し中身を吸いだしている。
それにしても、すごい食欲である。次々に体液を吸いつくして、この生物の通った後には、空っぽになってくしゃくしゃになった抜け殻が捨てられているだけ。この小さなビンの中にいるすべてを食らいつくして、全滅させかねない勢いである。なんと表現したらいいと言うのか、ただただ一方的な殺戮なのである。
成す術がないから諦めてしまっているのか、仲間が次々に食べられていくにもかかわらず、彼らは呑気に食事を続けている。さすがに暴食の捕食者の近くにいる者は警戒しちょっと移動したり、下に落ちたりと動きはみせるものの、取り立てて慌てている様子がない。
ついつい「逃げて」と言いたくなるが、彼らにその声が伝わったとしても、言葉は伝わらないだろう。彼らとは住んでいる世界が違いすぎるのだから。
この肉眼でもその存在がぎりぎり確認できそうな生物たちも、観察していて楽しい小さな生物ではあるが、少しだけ生物として高度に進化しすぎている。オキシにとっては今ひとつ魅力的に感じないのである。
もう少し得体のしれない生物は、ここにいないのだろうか。もっと下等で単純な、最低限の器官や細胞が組み合わさっただけのような微生物が。
オキシは大量虐殺の現場から視線を少し移し、別の生物を探し始めた。
「一体、何を見ているんだ」
ときに意味不明な単語をつぶやき、「うじゃうじゃ」だの、「もしゃもしゃ」だの、「げじげじ」だのと、何かを形容するような擬音を発している。そして、昆虫らしきものの姿や、相変わらずあの不気味な絵を描くのである。
「オキィシの見えている世界は、おいらたちとはだいぶ違うんだよ」
オキシの目に映る世界そのものは見たことはないが、ロゲンハイドは近い世界に触れたことがある。確かにその絵に描かれているような者たちがうごめく世界だった。
「……俺も何か見てこようかな」
オキシはしばらくここを動きそうにないので、キセノンは掘り出し物がないか見に行くことにした。
「じゃあ、おいらはここでオキィシを見張ってるよ」
「すまないな。まかせたぞ」
キセノンはロゲンハイドにオキシを任せ、しばらく席を外した。
「あ、これは」
ホコリの片隅に連なる群体を作っている球状の生物を発見した。オキシは注意深くその造形を観察する。
光沢のある透明な球状をした殻に包まれ、液体に満たされたその中心では心臓らしき器官が波打っている。その波打つ心臓から数本の細い管が放射線状に伸び、その先端は殻を支えるように枝分かれした毛細管が根づいている。心臓が震えるたびに、その中をわずかに黄色をした体液がめぐっている。色の入った小さな硝子玉のような無機質的な外見ではあるが、その内部を満たしているのは間違いなく生命の輝きである。
心臓の下のあたりには、壺を逆さにしたような半透明の器官が4つあり、その中にはダニもどきの屍骸や食べカスらしき物体などが入っていた。その壺のような器官は咀嚼するように全体を縦に横に激しく伸び縮みを繰り返し、消化液をなじませ溶かし、栄養を吸収している。
流動している体内の様子から植物や菌類というよりは動物的であることは推測はできたが、まったくもって奇妙である。どこが頭でどこが尻かがわからない、目や脚までも無いのだ。見えるのは心臓と言った循環系と消化器官、そして殻の中を満たす液体だけ。全てが殻の中に閉じ込められている。
体内に取り込まれた食糧があるので、何らかの方法で取り込んいることは確実なのだが、殻には目立った切れこみなどは無く、どこから餌を取り込み、どこから排出するのか検討もつかない。どのようにしてそれが行われるのかが、わからなかった。ぜひとも捕食の瞬間を見てみたいものである。
「オキシ、そろそろ昼の飯にしようと思うのだが?」
いつの間にかキセノンは戻ってきていたようだ。ちなみにオキシは熱中していたので、キセノンがどこかに行っていたことは気がついていない。
「ご飯? いってらっしゃい」
しかし、オキシは顔をあげることなく愛想のない返事する。オキシはロゲンハイドから渡されたホコリを観察するのに忙しかった。
「おまえも行くんだ」
記憶が正しければ、オキシは朝から何も食べていないはずなのだ。
「いやだ、今、いいところ」
微動だにせずつっぱね、まったく観察をやめる気配はない。
せっかく興味深い生物を見つけたのだ。観察を中断したくなかった。
「しかし、食べないことには倒れるぞ?」
1日や2日くらい食事を抜いたところで死にはしないが、オキシのこの小さな体のどこに余分なエネルギーが蓄えられているか不安になる。おなかがすいてフラフラしてしまうのではないかという懸念がキセノンにはあったのだ。
「僕は、腹を満たすことよりも、好奇心を満たすことのほうが、重要!」
キセノンの心配をよそに、勝手な理屈をこねて動こうとしない。
「……精霊よ、余計なことをしたな」
うるさくできるような場所ではないので、無理やり連れていくといった強行手段を使うこともできず、キセノンはほとほと困りはてる。
「……仕方ないよ。これでもアレよりは遥かににましだもの」
恍惚として語るあの状態よりは。
その早口で語り出される内容は生命の成り立ち、根源。長々と紡がれる知識の渦は未知なる世界へと誘う罠である。あれはある意味で興味深くもあり、恐ろしくもあり、気軽に触れては行けない領域を垣間見たような、底知れない知識を無意識に語り出す危険があるのだ。
そして、気がつけば、何を言っているのか理解できないほど専門的な内容になっている。
「この状態よりも、ひどいことがあるのか?」
キセノンは信じられないと言った様子で、机にかじりついて離れないオキシをまじまじと見た。
「仕方ないな、何か軽くつまめるものを買ってこよう」
何度か声をかけ説得するが、それでも粘るオキシに根負けした。いちいち世話が焼ける、と思いながらキセノンは書物庫の一角にある、小さな売店に向かう。そこでは調べものをしながら軽く飲食ができるようなものが用意されているのだ。
地球では一般的に書籍を扱う場所での飲食は禁止されているのが普通であるが、ここは異世界、紙が濡れたり汚れても魔法でかなり綺麗に修復することができる。貴重な文書を保管しているような場所でない限り、厳しく禁止しているところは少ない。
しかし、いくら綺麗にできる技術があると言っても、匂いがたちこめたり、食べくずをぼろぼろこぼされたのでは、周りに迷惑にもなり、掃除の手間もかかるので、飲み物は持ち込み可能だが、食品の持ち込みは制限しているところも多い。
ちなみに売店では匂いも少なく、簡単に食べられるものを販売している。おいしい保存食と言った感じではあるが、腹を満たし満足するには少し微妙な感じのものしかない。
「何か食べたいものはあるか?」
キセノンは一応オキシに尋ねる。
「ない」
熱心にホコリの入った容器を見つめたまま、予想通りの淡泊な反応が帰ってくる。
「適当に買ってくるぞ?」
キセノンは確認を取る。
「……あ、動き始めたな、丸いの。やっとだ、やっと。変形するんだな、やっぱりその殻が変形するんじゃないか。ふふふ、この勝負は僕の勝ちだ」
キセノンの気苦労も気遣いもいざ知らず、オキシは急に笑みを浮かべ、そう独り言をつぶやいた。
「何か……勝負していたのか?」
勝負をしていたらしい発言をするオキシに、キセノンは相変わらず訳がわからないと思うしかなかった。
軽く昼食も終えたが、オキシは変わらず没頭している。
このまま何もしないのも手持ち無沙汰なので、キセノンは読もう読もうと思っていて、読まずじまいだった本を読むことにした。
定期的に響く乾いた紙の擦れる音が黒茶の色に響き、時々聞こえるひそひそ声でさえ無音に溶けている。静けさに満たされる景色に降り積もる細かなホコリは、ほのかに揺らめく照明の灯の下で、きらりちらりと舞う。
オキシは時々左手の指先で髪をすくようにもてあそんだり、何かメモしたりする以外は大きな動きもなく、無我夢中にホコリの観察に没頭している。
時は静かに駆けていく。
窓口にずっと座っていた職員たちが動き出し、人のいない部屋に鍵をかけ始める。
「オキシ、そろそろ出るぞ」
閉館まではまだ少し時間はあるが、オキシがこの状態なので、早めに声をかけた方がいいと思ったのだ。
「今いいところ。だから嫌だ」
オキシは予想通りの反応を返す。あの野原で見せたように、ただただ、だだをこねてその場から動こうとしない。
「どうしたものか」
さすがにそろそろ止めないといけないのだ。悩んでいる間にも、時間は迫っている。
「かなり怒るけど、『語り』かけてみるよ」
直接頭に語りかけることは、「集中できないからやめて欲しい」と、オキシに言われているのだ。逆に言えば異常とも言えるその集中力を乱すことができるのだ。かなり嫌っているので怒ることは間違いないが、それでも意識はきちんとこちらに向けてくれるはずだ。
『オキィシ、オキィシ』
ロゲンハイドは、食い入るように熱中しているオキシに語りかけた。
「うわ、その頭に響くのは、嫌だと言っただろう?」
その声は、意識の中に別の意識が割り込んでくるように響きむずがゆい。
『いや、ここ閉館しちゃうんだ。だから観察はひとまず、ね?』
ロゲンハイドは、なだめるように語りかける。
「あぁ、うるさいなぁ。ここが閉館するって、どうでもいい。そんなこと……」
あまりに耳障りなのでオキシは耳をふさぐが、その声は空気の振動で伝わる音ではない。その行動は無駄である。
『だめだよ、出なくちゃ!』
ロゲンハイドは、透き通った腕を組み強く言う。負けてはいけないのだ。
「んんん……ん、そうなのか。……仕方ないなぁ。……わかったよ」
不機嫌そうに返事を返しながらも、しぶしぶ納得して顔をあげる。
「今日は、これくらいにしておいてやる。続きは帰ってからだ」
オキシはそう言い放ち立ち上がると、机の上の荷物たちを少し手間どいながら魔法の鞄に入れる。鞄の中に物を入る瞬間に起きる現象に慣れていないせいだ。
「……一体何と勝負をしていたんだ?」
まったくもって、わからなかった。キセノンが尋ねたところで、機嫌が悪いオキシは答えてくれないだろう。
片付けが終わると、オキシは無言のまま、大振りな動作で出口まで歩き出す。まだ少し不機嫌な感情は落ち着いていないようだ。そんなオキシの後ろを、ロゲンハイドとキセノンは追いかけた。
斜めに差し込む色は、続く廊下を夕暮れの光に染めている。
奥まった部屋の灯りがぼんやりとつき、ほんの少しあいた隙間から光が漏れている。戸から伸びた光の筋は窓からの夕焼けの光と混じり、木目を描く床に、彩り鮮やかに映していた。
日が差し込む大きな窓から外を見上げれば、今日も大きな月が太陽を隠そうとしていた。もうすぐ日蝕、もとい夜になるのだ。
「あぁ……また、やってしまった」
オキシは弱々しくつぶやく。
「気にするな。いつものことだろう?」
キセノンは縦長の虹彩を細め、オキシの方を見た。知り合って間もないが何度かこのような場面を見ている。なので、キセノンの中にオキシの性質は、そういうものだという感覚がすでに定着しはじめていた。
「そうなんだけれどさ」
今日も一日の大半を観察に費やした。満足はしているが、かなり好き勝手のやりたい放題をして、キセノンやロゲンハイドにいくらか迷惑をかけた自覚はしている。
どうせなら放っておいてくれた方が、ずいぶんと気が楽だったのに、とオキシは思うが、そう言ったところで、キセノンやロゲンハイドが希望通りにしてくれるとは思えないことが、悩みどころである。
夜の迫る廊下の果て、正面玄関に通じる広場にさしかかる付近で、オキシは別の通路から歩いてくる二人組に気がついた。片方は見覚えがあった、受付嬢のサルファである。
彼女の隣にいるもう一人は男性で、磁器のような透き通った白い肌をして、蔦を模ったような装飾品で長い髪をまとめていた。人を寄せ付けない冷たい印象があるが、逆にそれが人を惹きつける魅力のようにも受け取れる、そんな表裏一体の雰囲気をもっていた。
「あ、オキシジェンナちゃんじゃない? 偶然ね」
サルファはオキシと目が合うと、営業用ではない自然な笑顔が帰ってくる。まぶしい笑顔というのは、今の彼女のためにあるのかもしれない。それほど、魅力的な笑みだった。
「僕のことはオキシでいいですよ。隣のお兄さんも、ね」
サルファの隣にいる金髪の男性に、上目遣い気味の視線を移し、念をおし伝えておく。「酸素」だけは、精神衛生上の理由でどうしても避けたいのである。
「オキシ、か。わたしはフォスファーラスだ」
突然はじまった自己紹介に彼は赤い瞳を数回瞬かせていたが、相手が名乗ったからにはこちらも名乗らねばと思い、すぐに己の名を名乗った。
「フォスファーラスさんですね」
少し言いにくい名前だがオキシは覚えた。
「あぁ、よろしく」
そして、フォスファーラスはキセノンの方を見やる。
「俺はキセノンだ。フォスファーラス、よろしくな」
キセノンも便乗して名を名乗った。どうやら彼らは初対面だったようだ。
「あら、二人って知り合いじゃなかったのね」
サルファも意外そうに、彼らの顔を交互に見ている。彼女はギルドの受付をしているので、ギルドを訪れるほとんどの人と接している。キセノンやフォスファーラスは常連であるので、てっきり知り合っているものだと思っていたのだ。
「何度か見かけたことがあるだけだ」
「その程度でしかなかったな」
キセノンとフォスファーラスは、お互いに顔を知っているというその程度だった。
「そうだったの。ちょっと、意外ね」
キセノンとサルファとフォスファーラスが内輪の話で盛り上がっている。
『どうしたの? ロゲン』
オキシは先ほどから、陰に隠れ様子を窺かがっているロゲンハイドに小さく声をかけた。ロゲンハイドは、じぃっとフォスファーラスを見ている。いや、彼ではなく彼の傍らにいる火の塊のような精霊を見ているようである。
火の精霊は見ているだけで熱そうな揺らめきを持っているが、ロゲンハイドに触れても濡れないように、あの精霊にその気がなければ触れても火傷を負うことはない。
『いや、ちょっとね。怖いというか、格が違うからね。おいら、あの精霊と比べたら、まだまだ子供なんだよ』
ロゲンハイドは、あの炎をまとった精霊が少し畏ろしいのだ。
『雲の上の人のような感じ?』
『雲の上……そうだね、とうてい敵いそうにないよ』
オキシとロゲンハイドは、二人だけで繋がっている会話にも関わらず、ひそひそと会話をする。
『……幼き子らよ』
突然、凛とした硬質的な声が響く。オキシとロゲンハイドは、同時に肩がびくっとなり顔を見合わせた。この威厳のある声の主は一人しかいないだろう。二人はその声の主を見た。
火の精霊はなおも語りかけてくる。とても居心地が悪いというのか、威圧感というのか、よくわからないが、そこにあるのは『強い』という流れ。飲まれないようにするので精いっぱいであった。
ロゲンハイドはおっかなびっくり話しているのは感じる。火の精霊は変わらず淡々とした響きで、言葉を語っている。
オキシは戸惑っていた。ロゲンハイド一人でも響く声の違和感は気色が悪いのに、そこに2つ目の意識が入り込むと、倍を通り越して相乗的に跳ね上がる。2体の精霊が混在する意識下、それだけで世界は混沌で混線状態、めちゃくちゃだ。
『おまえらうるさいよ。僕の頭の中で勝手に入り込んで……どうせなら、僕の意識の中ではなく、外でやってよ! 失せろ、消え失せろ!』
オキシは彼らを強制的に排除しようと試みるが、成功するはずもない。実態のないものはつかみどころがない、意気込みだけがからまわる。
気がつけば、フォスファーラスはにやにやとオキシやロゲンハイドを見ていた。思ってみれば彼が契約している精霊なのだ。当然、精霊の関心がどこへ向いているか、感じ取れるはずだ。
にやけてないで助けてほしい。オキシは、そう思った。
「フェルムも、それくらいにしておいたらどうだ。困惑しているだろう」
オキシの願いが通じたかどうかはわからないが、やっと妙な気配から解放された。
「珍しいな、お前から話し掛けるなんて」
フォスファーラスは、炎の精霊であるフェルムに語りかける。
『まだまだ未熟なれど、なかなかに面白し童じゃ』
フェルムはそう言い赤く揺らめいていた。
「何だったんだよう」
精霊は去り、オキシはほっと息をつく。声だけであんなにも精神を侵食し、ものすごく疲れた。本当に勘弁してほしい。
「あはは、敵わないでしょ?」
ロゲンハイドもオキシと同じように一息ついた。力が抜けたのか、その液体の手足が全体的に沈殿し、人型というよりはヘチマのような滑らかな形になっていた。相変わらず流動性に富んだ体である。
「でもロゲン。君も大概、似たようなものだ」
彼の精霊ほどではないが、ロゲンハイドも同じ性質のものなのだ。オキシはくすくすと笑っているロゲンハイドを視線で刺した。
「オキシちゃんは、精霊と仲がいいのね。ところでこれからどうする予定なの?」
サルファは尋ねる。
「今から虎狛亭でご飯食べる予定」
オキシはそう答えた。
「私たちも、丁度どこかへ食べに行こうと思っていたところなのよ。一緒に食べない?」
サルファは、ぜひともオキシとご飯が食べたかった。彼女はかわいいものが好きなのである。ここで会ったのも何かの縁とここぞとばかりにオキシを誘う。期待にあふれる淡茶の瞳が輝いている。
「でもデートの邪魔しちゃ悪いよ」
そんなことを知らないオキシは、遠慮がちに断った。二人の邪魔はしたくはない。
「いいのいいの。デートじゃないし」
「あれ? この人はサルファさんの彼氏さんじゃないの?」
漫画であれば、無意味に光をちりばめた華か何かをきらきらと背負っていそうな美青年が、美女と仲よく並んで歩いているのだ。それなりの関係であるとオキシは推測していた。
「違うわよ」
サルファは笑顔で首を振った。
「わたしたちは、いつも愛し合っているんだよ」
フォスファーラスは、サルファの肩に軽く腕を回した。笑んだ赤い唇から鋭い犬歯が覗いている。
いちいち動作が気取っているが、わざとらしさを感じない、なんてさりげない格好よさ。はじめてみるキザな印象の強い人に、これが好青年と呼ばれる生き物なのか、とオキシは密かに感動していた。
「お兄さんは彼氏さんじゃなくて、旦那さんだったのか」
そうかもう結婚していたのかと、ひとりで勝手に納得した。
「ち、ちがうわよ! もう、フォスさんもでたらめ言わない。オキシちゃんに誤解されちゃうじゃない」
「わたしは一向にかまわないぞ」
「もう! 私は食事に誘われたから来ただけで、特別な関係じゃないわ」
「素直じゃないところも、かわいらしい。そんな恥ずかしがらなくても良いんだよ」
「なんだか、らぶらぶだねぇ」
サルファは雰囲気がやさしいの素敵な人だ。フォスファーラスはちょっと危険な香りがするが良い人そうだ。誰もがうらやむという言葉が似合う二人である。「そうかそうか」と、オキシは頷いた。
「だから、ちがうわよ! 友達よ。と、も、だ、ち」
ますます誤解を深めているように見えるオキシにサルファは釘をさす。
「なぁんだ、二人は単なる友達なのか」
「そうよ」
「実は僕にもいるよ。そういう冗談言い合えないけれど、異性の食い仲間が」
ご飯を食べに行く時にしかつるまない友人たち、それが食い仲間。異性と二人っきりのこともあるし、同性異性関係なく何人かと行くこともある。学食や近所の定食屋なんかによく食べに行ったものだ。
「でも逆に言えば、ご飯を食べる以外にほとんど交流がないんだけれど」
ただでさえ研究やバイトやサークル活動に忙しい者が多く、講義の時にしか顔を合わせないような関係なんて、ざら。その少ない友人の中でも、たまたま空き時間が一緒の、暇つぶしに食事に行く仲間がいるだけ、ましなものだろう。それが日常だったのだ。
「それはそれで、寂しいわね」
「そうかなぁ? いろいろ面倒くさくなくていいと思うけど?」
男女比がおかしい理系の学部では特に。異性と対面する時、妙に気を使わせたり、いかにぎくしゃくしないかが大切なのだ。
実際のところは、オキシは変わり者なので、男だとか女だとか言う前に奇人扱いされることの方が多かった。それに加えて中性的な外見ということもあり、そういう性別でのくくり関係なく、それこそ空気のように自然に馴染むことができたので、あまり男女関係の妙なことに巻き込まれたことはなかったのだが。
さらに言えば、基本的にオキシは一人が好きなので、自分から誘うことはあまりなく、それなりの距離を保ちつつ、集団の隅の方で適当に合わせていた。そのような特殊な環境に慣れてしまっているので、オキシの人付き合いは淡泊な方である。
「でも本当にいいの? 邪魔じゃない?」
サルファが良くとも、フォスファーラスは二人きりがよくて彼女を誘ったかもしれないのだ。
「わたしはサルファが楽しめれば構わない。それに、あなたたちに知り合えたこの日を記念して、食事を共にするのも悪くはない」
さすが、余裕のある大人は言うことが違う。少しキザなセリフだけれど。
「キセノンも構わないよね?」
オキシはキセノンに確認をとる。
「ああ」
そうと決まればと、彼らはさっそく虎狛亭に向かった。
食事時ということもあり虎狛亭は、いつもの活気に満ちている。
「この店に来るのは、久しぶりね」
(サルファやフォスファーラスは、もっと洒落た店で食事していそうな感じがするものな)と、その言葉を聞いてオキシはそう思った。
「何にしようか」
キセノンは、壁に張られた品書きを眺めながら尋ねる。
「僕はよくわからないから任せた。ちなみに今日の気分は魚」
オキシはまだこの国の文字に慣れてはいない。今日一日で、文字を読解できるほど上達できるはずはなかった。仮に文字が読めたとしても、この世界の固有名詞は、よくわからないので、どちらにしろ自分の食べたいものを言って皆に投げることになるのだが。
「モモーロやロボスタは定番だから頼むとして。魚となればスマニクかスマワカあたりが旬か」
フォスファーラスは、定番の料理名をいくつか挙げていく。
「野菜も食べなくちゃだめよ」
サルファも楽しそうに、品書きを指さしては何を頼もうか悩んでいる。
「そういえば、明日、モモーロに会うなぁ」
モモーロと言えば、この前キセノンが食べていた、ひと口サイズに切られた肉片しか見たことがない。いったい、どんな生き物なのか謎なのである。
「モモーロの雛はかわいいのに、大人になるとかなり大きくなるから、本当に親子なのかってびっくりよね。あんなに大きくならなきゃ、飼いたいと思うのに」
サルファはモモーロについて語る。雛は相当かわいらしいようだ。
「サルファは、かわいいものが本当に好きだものな」
そんなたわいもない話をしながら、にぎやかに食べた。
虎狛亭の前でサルファとフォスファーラスと別れ、キセノンはオキシを宿舎まで送る。
「虎狛亭に部屋を借りるなら、たまに会うかもな。何か困ったことがあったら、相談に乗るぞ」
たった2日ほどであったが、本当にいろいろなことがあった。
できることはしたが、少し目が離せないところがあって心配だ。うまくやっていけるだろうか。
巣立つ子供を見送る親の気分になっているキセノンであった。
「いろいろ、ありがとう」
「またな」
「うん、また」
キセノンはこの世界で初めて仲よくなった人である。彼との別れは、なんだか少しさびしいような、やっと解放されてうれしいような、ちょっと複雑な気分だった。
しばらく会うこともないだろうキセノンの背中を、オキシはいつまでも見送った。