15・得意なことは微生物です。
キセノンは約束通り、オキシを迎えるために宿舎へやってきた。本来ならば、出入り口へとまっすぐに向かうのだが、中庭の隅の方に見覚えのある色が見えたので立ちどまった。それはオキシの着ている白衣であった。オキシはロゲンハイドと何かをしているようだった。
「そんなところで何やっているんだ?」
キセノンはそう呼び掛けた。そういえば再会するたびに、何をしているのか問うているような気がした。相変わらず、と言ってしまえばそうなのかもしれないが、オキシのしている行動は傍目に見れば奇妙で意味がわからない。
「あ、もうそんな時間?」
振り向いたオキシの手には、透明な薄い板が何枚か握られていた。魔力を微かに感じるので、その板は魔法の産物であることは間違いない。
「それは、なんだ?」
「水の板。いくつか作ってもらったんだ。放っておいても10日はこの形を維持するんだって、本当にすばらしいよ」
これら水の板は簡易的な魔法で形成した物なので、長い時間が経つと水を包んでいる魔力が薄まり普通の水に戻ってしまう。魔力をこまめに補充するか、しっかりと媒体を準備して時間をかけて魔力を練りこめば、半永久的にこの形を維持し続けるようにすることもできる。
「……そうか、よかったな」
その水でできた板がよっぽど嬉しかったのか、宝物を自慢する子供のように、オキシの笑顔はまぶしかった。
オキシはよくわからない変わった物で喜んでいるとキセノンは感じたが、自分の鱗を見て「きれい」と言っていたことを思い出し、もしかすると単純に透明色できらきらした物が好きなのかもしれないと、検討違いな結論をだした。
「もう出かけるが、準備はいいか?」
こんなところで遊んでいるくらいだ、すぐにでも出かけられるだろう。
「あ、ちょっと荷物を取ってくる。待ってて」
水の板を大切に白衣のポケットにしまいこむ。そして、オキシは窓の縁に足をかけて、「よっ」とよじ登り部屋に入る。
「そこは窓だぞ!」
キセノンは、オキシの行動に目を丸くする。
「いいの、いいの。ここからじゃないと部屋に戻れないし」
部屋の入り口には昨夜からずっと鍵がかかっている。この状態で窓から外へ出たので、玄関からでは部屋に戻れない。部屋へ戻るときは、どちらにしろ窓から入らなくてはいけないのだ。
「一体、何をどうしたら、窓から外へ出る状況になるんだ?」
オキシは突拍子もない行動ばかりするので、もう何をしても驚かないと思っていたが、まだまだ甘かったらしい。
「オキシ、今度は窓からではなく玄関からだ。あと窓もちゃんと戸締まりをだな……」
キセノンは窓の外から、そう呼び掛ける。
「わかってるって。もう子供じゃないんだから。戸締まりするから、窓閉めるよ」
キセノンはまるで母親のような小言を言いはじめたので、言葉をさえぎり窓を閉めた。窓で隔てられていたが、肩を落としていた彼からは、ため息の音が聞こえたような気がした。
迎えに来てもらって、この扱いはちょっと不敏な気がして、もう一度窓を開けてお礼を言っておいた。キセノンの縦に細い瞳孔が丸くなる。
(そんなに驚くことだろうか……)
オキシは首をかしげながら再び窓を閉めた。
「……さて、準備準備」
気を取り直して、オキシは出かける準備に取り掛かる。荷物といっても今の自分には本しかない。準備自体はあっという間だ。問題は服装である。白衣、本来はこれを着て町をうろつくものではないのだが、異世界人にそれが分かるはずも無い。それに昨日すでにこの服装のまま往来を歩いた。一度、それをやってしまえば、あっという間に抵抗はなくなってしまう。
このまま着ていて不都合なことも無い。それに何よりも白衣にはポケットがある。現在、着ている服はポケットが少なく、しかも小さい。オキシは小物をポケットに詰め込む癖があるので、その存在は重要なのだ。
白衣は満足のできる大きさのポケットがあるし、内ポケットまである優れた衣服なので、このまま普段着にしてしまおうとオキシは思った。
もちろん今度は、ちゃんと部屋の扉から出た。管理人に部屋の鍵を預けるために玄関口へ向かう。
「おはよう。昨夜はのんびりできたかな? 気をつけていってらっしゃい」
「おはようございます。おかげさまで、快適な夜でした。いってきます」
夜通し観察しまくり、すごく充実した夜だった。オキシは鍵を管理人に預け、キセノンの待つ外へ向かう。
「おまたせ」
オキシはキセノンと合流した。
「昨夜はゆっくり眠れたか?」
「う、うん。まぁまぁ、ね」
まったく眠っていないけれど、否定すればそれはそれで面倒くさい。寝てはいないがゆっくりはできたので、大差はないだろう。
『本当は、まったく寝てないけどね』
ロゲンハイドは、オキシにだけ聞こえる言葉で言う。
『寝てないことは、内緒だよ?』
オキシはロゲンハイドに、こっそり語りかけた。
『わかったよ……』
ロゲンハイドも共犯者になった。
「飯は……どうせ朝もまだ食べてないだろう?」
到底食べているとは思えなかった。
「いや、大丈夫。もともと朝はあんまり食べないんだ」
食べることが必要ない体質になったせいか、まったくお腹がすいていないので適当にそれっぽいことを言う。その言葉を聞いてキセノンはきちんと食えというような顔をしたが、諦めてため息をつくだけに留めた。
「行くか」
「うん。いい仕事があるといいな」
「おまえは、外見が子供に見えるからな。どうしても仕事は限られてしまうが」
「だとは思っているよ」
仮に大人に見られていても、それはそれでできないものが多そうだが。
「子供のこづかい稼ぎになるようなものも、ちゃんと用意されているから、ちょうどいい仕事はあると思うぞ」
子供でも組合に登録すれば仕事が探せる。日本とは異なり未成年でも立派な働き手として認められているのだ。
もしも日本のように労働について法がきっちりと決まっているような国であったら、身分も出身国も何もかも不明で、本人がいくら成人していると言い張っても年齢を証明するものがないので、働かせもらえなかったかもしれない。
「何気に充実している社会なのかもしれないな」
ちょっと自由すぎるような気もするが、それで成り立っているのだから、そこをとやかく言っても仕方ないだろう。
「この町はちょっと特殊な事情があるのだが。食うには困らない暮らしやすい町ではあるな」
キセノンは言う。
この町は国境に近く、簡単に言うと補給の町である。町で道具を整えて、この先にある過酷な土地を越え隣国へ行ったり、その逆に隣国からの長旅の疲れをこの街で癒し、それぞれの目的地へ向かうのだ。人の出入りは激しく品物も集まる、ちょっとした仕事を見つけるには恵まれた町なのだ。
何かをしようと思うものには、手をさしのべる。豊かであるが故の精神的な余裕からくる、他者への思いやりにあふれていた。面倒見がいい人が多いのは、そういう背景があった。
本館は宿舎と同じ敷地内にあるので、あっという間に目的地に到着した。組合の受付は三つあるが、今の時間は訪れる人が少ないせいか、二つは空席だった。オキシとキセノンは人のいる受付へと向かった。
組合の受付嬢のサルファは、来客に笑顔で出迎える。彼女の黄金髪からは、丸みを帯びた長めの耳がのぞいている。瞳は赤くはないがまるでウサギのようなやさしい雰囲気の女性である。
「いらっしゃい。……あら、あなたは。昨日、精霊と契約していた子ね」
サルファは黒い髪は珍しい色なので覚えていた。
「はい、成り行きで」
昨日、精霊と契約した場所は、ここから場所が近い。目撃されていたのだろうと、オキシは思う。
「今日はどうしてここへ来たの?」
サルファは受付嬢の顔に戻る。言葉遣いは子供に対するような柔らかい雰囲気だったが。
「ええと」
オキシは背後にいるキセノンを見上げ、助けを求める。
「昨日連絡したと思うが、こいつが例のやつだ」
「あぁ、この子がそうなんですね」
どうやら、ある程度の話は伝わっているらしい。サルファは手際良く書類を用意する。
「俺は向こうで待っているから」
キセノンはそう言うと、椅子の並んだ待合室へと向かう。
「では、これに記入してね」
サルファは書類を差し出した。しかし、オキシは文字を読むことができない。
「僕はこの国の字の読み書きができないのです。どこに何を書けばいいのか」
昨日、自分の名前は教えてもらったので、それに使われている文字だけは何となくわかるのだが、それだけでは到底読めるとは言いがたかった。
「それならば私が書きますね。でも、最後の署名だけは自分で書いていただかなくてはなりませんが」
「あ、名前は書けるので、大丈夫です。お願いします」
そして、『登録証』をつくるための書類作成が始まった。
「お名前は何でしょう?」
「名前は沖石 醇奈です」
「オキシジェンナ?」
「……そうです」
発音の間違いについては、もう諦めることにした。
(そういえば、この世界では姓を名乗る風習はあるのだろうか)
オキシにふと疑問がよぎる。今まで誰も、どこまでが姓でどこからが名なのか何も言ってこない。オキシジェンナで、ひとつの名前と思っているのだろうか。そんな、名前についての疑問が沸いては消えていった。
「次は生まれた月をお願いします。この登録内容は三年後の誕生日の月まで有効なんですよ。それを過ぎてしまったら、一時的に使えなくなってしまいます。そして五年経つと記録も消えてしまうので、気をつけてくださいね」
オキシは悩んだ。ここは地球とは異なる天体の法則にある世界。地球の暦がこの世界に通用するとは思えなかった。
「誕生日は……ええと、僕は遠い場所から来たので、もしかするとこの国の暦とは違うかもしれません……ちなみに暦ってどんな感じですか?」
ついでにこの国の暦を聞いておこうとオキシは尋ねた。
「周期は七つあります。一周期は三十六つに分かれていて、黄の一日、次は青の一日、その次は黄の二日、次は青の二日と言うように、青の十八日まで全三十六日、黄と青が交互に来ます」
ちなみに青とか黄色というのは、この世界にある二つの太陽の色である。曜日のようなものと考えればいいだろう。
「なるほど。つまり一年は二百五十二日なのか」
一日の長さが地球とは同じとは限らないが、ずいぶん短い一年である。
「そうなります。ちなみに今は三周期ですね。何日後に誕生日が来ますか? 計算して三年後の更新月を書き込んでおきますよ?」
「いえ、大丈夫です。誕生月は六周期でお願いします」
もしもこの世界にない八月以降の月生まれだったら、困ってしまったかもしれない。しかし、運がいいことにオキシの誕生日は、六月七日。何も心配をする必要はなかった。地球での誕生日と同じ数字にしておけば、目安には良いだろう。
「六周期ですか。冬に生まれたんですね」
季節は地球とは異なっているようだったが。
「次は職業ですね。これは必須項目ではないので、申請したくない場合は言わなくても大丈夫ですよ」
「職業は学生、です」
所属していた学校は世界の彼方にあり、もうその場所で学ぶことはできないので正確には今はもう無職になるのだろうが。
「学生さんなんですか。すごいですね。では次に得意な事はありますか?」
「得意な事……」
「これも必須項目ではないです。手の内を明かしたくない方も多いので。技術ではなく、詳しい知識でもいいですよ。教えていただければ……例えば薬草や山菜の知識が豊富という方に採集の依頼を指名で出すことがあったりと、便宜を図ることができるのです」
「ああ、それならば、微生物の知識はかなりあります」
反射的に研究の専門が口に出た。何にせよ自分はそれ以外、得意ではないのだ。
「ビセーヴェツ?」
この世界に存在しない固有名詞などはそのままの音が伝わるようで、普段が違和感なく会話ができているだけに、そのようなことが起きる時だけは違和感を覚えてしまう。
「この国には当てはまる言葉は無いみたいで。説明は難しいんですが、微生物は目に見えないくらいとても小さい生き物なんです。その生物の力を借りることができたなら、人の命を助けるのに役に立つこともあれば、逆に恐ろしい兵器としても使うこともできます。まぁ、僕は微生物は平和的な利用をしたいですけれどね」
あたりさわりのない程度にオキシは説明する。本当はもっとたくさん語りたかったが、この世界にない知識は他人にあまり語るものではないと、ここはぐっと堪えた。
「小さな生物を利用する?」
魔法で生命を作り出したり、生物を使い魔として従えることが得意な魔術師がいることはサルファも知っていた。そう言う魔法は、まさしく術者の使い方一つで様々に変貌する。オキシの言うその小さな生物も、そういったものの一種だろうかと、彼女は少し検討違いな解釈をしていた。微生物の存在を知らない人にしてみたら、微生物の行う活動はまさに魔法のようだろう。
「まだ僕はそれを研究している段階で、彼らがどのような働きをするのかについては、未知数で……分からないことだらけだから、いろいろ試せて楽しい部分もあるのですけれど」
微生物の生態は一言では言い表せない。未知なる微生物の力を解明し、利用できるようになるまでは、しばらくかかるだろう。
「研究、ですか。すごいですね!」
そういえば学生といっていたことをサルファは思い出した。師の下で学び様々な研究をして、磨きをかけているのだろうと感心する。
「ビセーヴェツをうまく扱えるようになるといいですね」
「ありがとうございます。扱いには気をつけます」
話はだいたいかみ合っているので、お互いの微妙な食い違いに気づかぬまま、話は次へと進んでいく。
「出身は?」
「日本、でいいのかな?」
この世界に存在しない土地だ、惑星の名前を言おうが、国名を言おうが、県名を言おうが、市町村名を言おうが、だれも聞いたことがない地名になるだろう。
「ニホン?」
「ええと……遠い場所にある小さな島国で、この国とはまったく交流もないので、知らない地域とは思います」
この世界自体と交流はないので、別に嘘は言っていない。
「ずいぶんと遠いところから、いらしたのですね。どう? 旅は楽しい?」
旅する学生は珍しいものではない。師が必要と感ずるならば、世界へ出て知らない土地を旅しながら様々なことを学ばせることもある。見聞を広め、己を見つめ、己の道を見つけ一人前になる、それは言わば師から与えられた最終試練でもあるのだ。
「故郷を離れることになって寂しいですが、今は楽しんでいます」
旅をしたという時間的な感覚はまったくないが、その移動距離はそれはもう、気が遠くなるほどに壮大。二度と故郷には帰れないだろうが、ここで新たに手に入れた生活は楽しいものになるだろう。オキシはそう期待している。
「未来ある若者は、輝いていていいわぁ。さてさて、ここに署名してね」
オキシはサルファの指さした空欄に名を記した。
「最後に、ちょっとだけ血を取りますね。ちょっとチクっとするけれど、我慢してね」
密封された袋から針のついた器具を取り出し、サルファはオキシの指先に針を当てた。一瞬の痛みがあり、赤い血液が針からつながる小さな容器に溜まっていく。容器の四分の一ほど血液が溜まったところで指から針が抜かれた。
サルファは無色の薬品が入った数本の容器それぞれに血を数滴づつ垂らし、一本一本、容器を振って経過を見る。
何が起こるのかと興味津々でオキシも、じっと見つめた。
しかし、いずれの溶液も何の変化も起きなかった。
「変化なしだから……0型ね」
「ゼロ型?」
「詳しいことは省くけれど、血液にはいろんな情報が含まれていて、いくつかの型に分類しているの。その型によって治療法方が変わることがあってね。ギルドの仕事って怪我がつきものでしょ? 効果の薄かったり、使うと逆に命が危なくなる治療防ぐ意味でも、基本的な型は検査するの。0型は特に問題なしだけれど、4型、5型あたりになってくるとけっこう制約が多いのよ」
まさかこんなところでアレルギー検査のようなことをするとは思わなかった。そう言った理由で血液を調べるというあたり、医療技術は高そうだ。
「怪我するような危ないことは、しないでね」
「気をつけます」
体質上、医療機関にお世話になることは、そうそうないだろう。というよりも、あまり積極的には関わりたくはない。己の外見はここの人間と似ているとはいえ、環境の異なる場所で生まれた生物なのだ。人体のプロが見たら、些細な違いや違和感から、それがばれて何かやっかいなことになってしまうかもしれないからだ。
サルファは用紙に血液型を記入し、記入漏れが無いかをチェックする。
「はい、お疲れさまでした。登録証が出来上がったら呼びますので、少々お待ちください」
発行されるまで少し時間がかかるようなので、待合室の方で待つことにした。
待合室の壁にはポスターが整然と貼られている。窓からさす日の光にさらされて色が落ち、淡く薄くなっていた。読みづらくなってはいるが、書かれた内容は十分に確認できる程度に色は残っている。
待合室にはちらほらと人がおり、それぞれに待ち時間をつぶしていた。オキシは部屋を見回してキセノンを探す。キセノンは壁際にある椅子に座っていた。目をつぶり瞑想しているように微動だにしなかった。
その横でロゲンハイドは、レンズつくりに熱中している。水を薄く伸ばしてはのぞきこみ、気にいれば体内に収容している。なので今はちょっと太り気味の造形になっている。それがなんだかおかしかった。
オキシは彼らの隣に座り、部屋を眺めた。外からの光を取り入れられるように窓は大きく、直射日光をさえぎる薄手の布から柔らかな光がさしている。木目の壁には様々なチラシが貼ってあり、鮮やかな色を散らして独特の雰囲気を出していた。そして部屋の角、天井付近に設置してある器械が目に入った。
「あれは、まさか」
黒曜石のように黒光のする鉱石の板に、映像が映し出されているのだ。人々の雑談に溶けてよく聞こえないが音声までついているようだ。
内容は魔物の発生情報や、イベント情報、ここ最近の天気の傾向などの情報を流していた。色数の少ない荒い画質で、しかもテレビほど滑らかな映像ではなく動画というよりは、どちらかというと紙芝居か、静画のスライドショーといったところだろうか。
「どうした? 知っている場所でも映っていたのか」
キセノンは画面を見ているオキシに尋ねた。
「いや、こんな器械もあるんだと思って」
見知らぬ場所を映しているテレビもどきを指さした。
「受像機のことか。珍しいのか?」
これは伝達用の一般的な魔道具である。ここに置いてあるのは受信専用だが、情報のやりとりはこれらの器械のおかげでずいぶんと楽になった。
「似たようなのは知っているけれど。受像機っていうのか、これは」
「ここにあるのは、少し古いけどな」
最近では都市部の一般家庭にも普及し始めている代物だが、田舎の方では距離的な問題もあり映らないことも多く、動いているのを見たことがない人も多いという。オキシもそういった田舎の出であれば、映っている画像を興味深そうに見ているのも頷けると、キセノンは思った。
「……文字の勉強、しようかなぁ」
オキシは受像機をじっと見つめる。映像は定期的に変わり続けるが、文字が読めないので面白さが半減である。それが残念で仕方ならなかった。
自分の名前くらいしか読み書きできないのは、今後、何かと不便だろう。少なくとも、この受像機に映し出される内容や、張り紙などを読めるくらいにはなりたい。読み書きができて当たり前の国に住んでいたので、なおさらそう思うのだ。
欲をいうなら書物を読めるようになれば一番いい。どこに自分に有益な知識が紛れ込んでいるかわからないからだ。
「この国の文字なら、おいら、わかるよ」
この町で生まれ育ったロゲンハイドは、この国の文字が読めるのだ。
「本当? 教えて、教えて」
「うん、まずは……」
ロゲンハイドは文字を教えたことがなかった。何から教えたらいいのか分からず固まってしまう。
「文字の種類を教えて」
オキシはロゲンハイドに助け舟を出す。
外国語を学ぶ時と一緒。最初は、文字の形に慣れることだ。オキシは手持ちの本を開くと、ロゲンハイドに文字の形をひと通り書いてもらった。そのあとで、その文字の隣には読み仮名も振っておく。
この国の言葉「アクチノ語」には母音は「ア、イ、ヱ(ウとエの中間音)、オ」の4つしかない。「ウ」と「エ」の発音があいまいで、そのため自分の名前である「ジュンナ」は、どう頑張っても「ジェンナ」となってしまうようだ。謎は解けたが、ちょっと納得のいかない法則であった。
大体の文字の形を把握したところで、何か読んでみようとあたりを見渡した。壁に張ってある紙に書かれている文字を、ロゲンハイドに手伝ってもらいながら読んでみる。
そうやって、いくつか文字を読んでみて気がついたことがある。文字だけでは意味がわからない単語でも、その文字を読み上げてみると、地球に存在する単語ならば、その瞬間意味がわかるのだ。翻訳の能力は、どうやら音に反応して発動するようだ。
「Fermi arap adarap ed opmet ed oiraroh あぁ、これは停留所の時刻表だね。何か乗り物が来るのか」
非常にあやしい発音しかできないが、それでも自分で口にしたアクチノ語が、自動翻訳機能されていく現象を感じた。それは、なんとも奇妙な感覚である。
「文字の勉強しているの? えらいね」
サルファが、お茶を盆に乗せやってきた。本に様々な文字を書き写しているオキシを、サルファは労う。
「あ、ありがとうございます」
オキシはコップを受け取った。次にサルファはキセノンにもお茶を渡した。人が少ない時は、このようなサービスをしているのだ。
オキシは受け取った紙コップを見る。コップには、文字が印字されていた。
「ええと、Aze……Azeirfって、書いてあるのか」
オキシは拙い口調で、覚えたての文字を読みあげる。慣れていない形の文字は解読しながら読みすすめているので、アクチノ語を母国語としている者たちには、かなり少し舌っ足らずに聞こえてしまう。
「あぁ、もうかわいい」
サルファは耐え切れずに、オキシを抱きしめる。実は彼女、かわいらしいものが大好きである。
「サ、サルファさん?」
急なことにオキシは困惑する。これは間違いなく子供か小動物扱いされてると感じ、微妙な表情になり身を固くしてじっとすることしかできなかった。
(や、やわらかい……)
とても。
温かいいい匂いもする。
同姓であるのに、なぜかわからないけれども、少しだけその膨らみを意識してしまい恥ずかしい気分になる。
「なんてうらやましいんだ」
「サルファさんの抱擁!」
待合室にいるサルファファンの男たちは、一連の出来事を羨望の視線で見ていた。彼女の抱きついている相手が子供のようなので、嫉妬までは至らなかったが、うらやましさでいっぱいになった。
「くっそー、あのガキと代わりたい」
「おまえがガキだったら相手にされないさ。なによりもかわいげがない」
「なにを!」
彼らは勝手に盛り上がり始めた。
「金髪美女と黒髪の子供が、ぬふふ」
変態的妄想をしているような発言も喧騒に混じって聞こえたような気がするが、気にしてはいけないだろう。
「サ、サルファさんは、人気者なんですね」
腕の中でなんとか声を発した。
「あらあら、おねぇさん。勉強の邪魔しちゃったわね。あのうるさいおじさんたちは注意しておくから、お勉強頑張ってね」
サルファは満足したような表情で去っていった。
「……びっくりした」
まさか、いきなり抱きつかれるとは思ってもいなかった。日本にはない大胆で包容力のあるスキンシップに、かなり緊張してしまった。
オキシは気分を落ち着かせるために、お茶を一口飲む。清涼感のある甘い香りが、気分を落ち着かせる。
「これは冷たいお茶だね」
冷たさを与える魔法がかけられている紙コップに入ったお茶は、とても冷えている。オキシは、お茶を飲み干し、一息ついた。
そういえば、このお茶が入っているのは、紙製のコップである。ちょうどこういう厚い紙がほしいと思っていたのだ。
「飲んだ後でいいから、キセノンの紙コップも頂戴?」
オキシは、キセノンの紙コップをねだる。
「何に使うんだ?」
キセノンは疑問に思う。この紙製のコップは耐久性があるものではない。かけられた冷やす魔法も、すぐに消えてしまうほど弱いもので、基本的に使い捨ての容器なのだ。
「ちょっと作りたい物があって」
このコップを切り貼りすれば、望遠鏡の筒に良さそうなのだ。見た目は不格好になってしまうが、いい筒が見つかるまでの代用品としては最適だ。ロゲンハイドもいくつかレンズを作っているようなので、今夜にでもレンズ選びをしようと思うのだ。
「オキシジェンナちゃん!」
サルファはオキシの名を呼ぶ。登録証が出来上がったのだ。
「取ってくる」
今だ慣れぬその響きの名前を呼ばれ、オキシは本を閉じて立ち上がる。そして、窓口にいるサルファの元に向かった。
「お待たせしました。これが登録証です」
受け取った登録証は、全体がまだほのかに温かかった。材質はよくわからないが、合成樹脂のような軽くて固い物質でできている。白地に青いラインが入ったシンプルなデザインで、少し傾けると光に反射して紋章のような模様がうっすらと表面に現れる。蔦と6本足の獣で構成されているこの模様は、確かアクチノ国の国旗に描かれている文様だ。そのちょっとしたギミックに、ときめいてしまった。
この登録証は、組合の施設を使ために必要な物である。もしも紛失した場合の再発行は、非常に面倒な手続きの書類を書かなくてはならない上に、確認作業があるので発行までは数日かかってしまうらしい。
そう言う大事なものは白衣の内ポケットに入れておけば失くさないだろうと、オキシはポケットにしまいこむ。
「仕事を探す時は、この部屋へ行ってくださいね。掲示板に依頼書が貼ってあるので」
サルファは見取り図を取り出し、依頼掲示板がある場所を指示す。その部屋は待合室のさらに奥にあり、先ほど受け取った登録証か、それに準ずる物を使わないと入れない場所らしい。
「いい仕事が見つかると、いいですね」
「はい。ありがとうございます」
オキシは掲示板のある部屋へ、向かうことにした。
「今度は仕事探し?」
ロゲンハイドは漂いながら語りかけてくる。
十枚ほどのレンズが体内にしまわれ、体は瓢箪のような奇妙な形になっている。そんなに物をしまいこんで重くはないのだろうか、と、オキシはそう疑問に思うが、当のロゲンハイドは変わった様子もないので、特に不便はないのだろう。
依頼掲示板のある部屋の出入り口は、普通の扉ではなかった。半透明の布のようなものが行く手を阻んでいたのである。覆っているそれをよく見てみれば、気体のように何かが流動していた。これは間違いなく魔法の産物であろう。
その扉の右横には、白い円が描かれた正方形の平たい黒い石が取り付けてある。キセノンはその石に彼の登録証をかざした。キキッと不思議な音が鳴り、入り口を覆われていたものがあっという間に霧散した。キセノンが中へ入ると、そこは元のように覆われた。
「なんか、すごいな」
覆っていたものが一瞬で消え、そして再び構築される現象を、目の前にしてつい声が漏れてしまう。
「オキシ、どうした?」
中から呼び掛けるキセノンの声がした。
そうだ、いつまでも感心してここで立ちどまっている場合ではない。
「今いくよ」
さっそく登録証が役に立つ時が来た。オキシはキセノンがそうしたように、登録証をかざし入り口を開いた。この現象が魔法の力であるといってしまえばそれまでなのだが、どのような原理でそうなるのか、やはり理解し難い。
不可解な出入り口をくぐると、これは紙の匂いだろうか、部屋を満たす独特な雰囲気を鼻に感じた。部屋はいくつか仕切り板で区切られており、その板も部屋の壁も一面に紙が貼られている。基本的に依頼書は黒い色の文字で書かれており、文字だけではなく絵が描かれたものまである。
キセノンは迷わず部屋の一角へと、オキシを導いた。
「いわゆる雑用系はここに張り出されるんだ」
さすがキセノンは、どこにどんな依頼が貼り出されているのか把握していた。
「すごいたくさんあるね」
雑用系は誰でもできる仕事なので、依頼を受ける人口は一番多い。そして気軽に依頼する人も多く、さらには一定量の人員や品を常に募集している日雇いの仕事もある。
「文字がもっとしっかり読めれば、自分で探せるんだけれどなぁ」
まだ多くの文字が読めないので、調べながらだと非常に時間がかかってしまう。
「文字が読めないのは仕方がない。今日は俺がいるから必要ないが、職員に言えば一緒に探してくれるぞ」
このフェルミの町は国境に近い。異なる国から訪れる人も多く、それは異なる言語を使うものたちが行き来していると言うことである。話す言語は何とかなっても文字までは習得していないものも多く、そこらへんの対応はしっかりしている。
「おいらも探すよ」
「頼りにしているよ」
「さて、できそうな仕事……たとえば薬草採取が得意とか……まさかとは思うが力仕事が得意とか、あるか?」
この世界の植物については、まったくわからない。そして力仕事は論外である。オキシは首をふった。
「今までやったことがある仕事といったら、農作物の間引きをしたりとか、収穫したりとか、そこで採れた作物を箱につめたり、あて先の札を張ったり……あぁ、最近だと微生物をひたすら培地に塗布する作業をしたこともあるな。なんかそんな感じの仕事はしたことがある」
近所は農家が多かったので、時期になると母や祖母は手伝いに出かけていたのだ。オキシはそれに幼いころから、ついて行っていた。小学低学年くらいのときは、専ら近く堀や田んぼでザリガニやおたまじゃくしを取って遊んでいたが、高学年にもなるとお菓子欲しさに作業をよく手伝ったものだ。
知らない人と関わる仕事は得意ではないオキシにとっては、近所コミュニティの狭い範囲内で行われ、しかも大半の時間は人間を相手としないこの仕事はかなり好条件であった。
しかし大学に上がると実家から離れて暮らしたと言うこともあり、それらの作業を手伝うことはなくなってしまった。
「懐かしいな、農作業」
オキシの胸中には故郷が映っているのだろうか、わずかに目を細めほんのり笑んでいる。
「農家の出なのか?」
「農作業は、近所で募集していたからやってみたことがあるというだけで、うちは農業が専門じゃないんだけれどね。とにかく単純作業は得意な方だと思う」
「ふむ、そんな感じのを探してみよう」
キセノンはそれを踏まえて、依頼を探していく。
オキシも文字を調べながら解読し探す。読み慣れない文字なので時間はかかるが、見出しの行を読めば大体何の仕事かは分かるので、なんとか読み進めて行く。
「ねぇねぇ、あっちでおもしろいの見つけちゃったよ」
いくつか並んでいる掲示板を飛び回っていたロゲンハイドが、隣の掲示板で何か見つけたらしい。
「何か見つけたの?」
オキシはロゲンハイドに連れられてその掲示物の前へやってきた。
「これこれ」
ロゲンハイドの指さす先に、見覚えのある絵が張り出されていた。
「ぅゎ!」
思わず小さく奇妙な声を出してしまった。そこにあったのは、昨日オキシが描いたあの通り魔の似顔絵である。
貼られているのは原画ではなく印刷されたもので、似顔絵以外にも色々細かく情報が書かれていた。自分の絵が貼ってあるのは、なんだか少し照れて、その書かれている文字を読むどころではなかった。
「そっち掲示板は、お尋ね者が張り出される場所だ」
キセノンがそう説明する。
お尋ね者は依頼を受けていなくとも捕らえれば(ものによっては成敗すれば)、報酬がもらえる。ここに貼り出されている以外にも、それらの情報を保存できる魔道具があり、彼らを追い詰めることを生業としている者はそれを携帯して、いつでも確認できるようにしている。
「お尋ね者……」
自分の描いた絵ばかりに目がいって気がつかなかったが、この掲示板には他にも何枚か顔の描かれたものが貼ってあった。
「……早いね、情報が」
昨日の今日で、まさか貼り出されているとは思わなかった。
「昨日あの後、おまえが襲われた場所付近に何か手掛かりが残されていないかと人を派遣したら、そこであの男に似た人物を見かけたという話を聞いた」
「詳しいね」
「職業柄、な」
キセノンはお尋ね者を捕らえることが専門ではないが、何度か仲間と組んで盗賊団などを退治することもあった。そう言う仕事をしている関係上、仲間内ではそういう噂はすぐに回ってくる。もちろん彼の耳にも、その話は入ってきるのだ。
「偶然そこにいたにしてはあまりに不自然で、不審に思って話を聞こうと話し掛けたら、やつは逃げたらしい。この掲示板に貼りだされたということは、手配をするに値する何かがあったのだろう。そうでなければ本来はもっと時間がかかる」
キセノンはそう説明した。色々事情があるようだ。
「本当に犯人は犯行現場に戻るものだったんだね。逃がしちゃったみたいだけれど」
よほど思い出したくないのだろう、オキシは眉をひそめて嫌そうな顔で、その紙を見ていた。
「まさか出くわす思わなかったから、追い詰めるには準備不足だったのだろう。やつは蠍種で毒の鉤を持っている、迂闊には近づけない。それに隠れ潜むことも得意としている。見失ったら、見つけるのはなかなかに難しい」
通り魔の犯人が蠍種の男によるものならば、なかなか捕まらないのも、被害者があまり抵抗なく殺害された理由も説明がつく。蠍種は暗殺技術に長けた種族の一つでもあるのだ。しかし長けているというだけで、それを生業にしている者は本当にごく少数であるが。
「そうなのか」
逃げ出したついでに、どうせならばこの町から離れ、どこか遠くに行ってくれるとありがたい。そうであるならば、もう会うことはない。それはある意味で喜ばしいと、オキシは思った。
「……逃げた先で穴にでも落ちて、そこで餓死してしまえばいいのに。そして、火にくべてもっと真っ赤なこんがり焼きサソリになってしまえ。そうすれば、二度とこの世で目にすることはないから」
オキシは容赦ない言葉をさらっとはく。もう二度と会いたくはないし、関わりたくは無いのだ。
「オキィシ、怖いよ」
そのような言霊を本当にかけていそうなオキシの気配に、ロゲンハイドはほんの少しおびえている。しかし当のオキシは自分が恐ろしいことを言っていることも、つぶやくように声に出ていることさえも、まったく気がついていない。
「あぁ。考えるのやめ、彼がどうなろうと僕にはもう関係ない。仕事探しに戻ろうっと」
あんな奴の事で思考を使うのは時間の無駄で、非生産的である。オキシは半ば強制的に気を取り直し、さっさと仕事探しを再開する。
ロゲンハイドとキセノンは、切り替えの早いそんな様子のオキシにあっけに取られたが、お互いに目が合うと、肩をすくめ、ため息まじりに苦笑うと作業に戻った。
「これなんかどうだ?」
キセノンが一枚の紙を指さしている。オキシはその依頼を見てみる。
「Momarow ed……ええと、この文字はなんだっけ、gny、いや、gnil……gnil?」
発音さえできれば自動翻訳の能力で意味を理解できるが、今はまだ文字の形を見ても読み方がすんなり出てくるわけではない。かなりつっかかりながらの解読である。
「それは、g、n、i、l、g、d、e、l、fだよ」
ロゲンハイドが文字を読み上げる。
「gnilgdelf? 雛か……ふむ」
「これは雛の雄と雌を分けて、出荷の手伝いだな。日によっては卵を箱に詰めることもするようだ。これは1日だけでも可能だ。賃金もまぁまぁ一般的だな」
「雛の仕分け、か」
雛のオスメスの見分けは、難しいと聞いたことがある。しかし、それは地球のひよこの話であって、この世界では雛の形状が違うのかもしれない。
「誰にでもできるから大丈夫だ。単純作業が得意なら向いている仕事だと思うぞ。それとも、別のものにするか?」
「いや、それやってみるよ」
人間相手でなければ別に何でもよかった。それに、たまには小動物と触れ合ってみるのもいいだろう、と、そう思いオキシはこの仕事をすることにした。
「じゃ、この依頼書に登録証をかざしてから、受付に持っていけば受けられるぞ」
「わかった」
オキシは登録証を依頼書にかざす。すると、登録証の四隅に緑の印が浮かぶ。これで情報を読み込んだことになるようだ。
(時々ものすごくハイテクなものがあるよなぁ)
魔法という科学とは異なる技術を用いた文明は、得意とする分野が地球と異なるだけで、発展の程度は近いようにオキシは感じた。
仕事を見つけたので、オキシたちは受付へ向かう。
「この仕事を引き受けたいです」
受付で登録証を提示する。サルファは登録証を受け取ると内容の確認をする。
「モモーロの仕分けですね。仕事はいつからはじめますか? この仕事は明日から大丈夫ですよ」
「明日からで」
早い方がいいだろう。仕事をしなくてはいつまで経っても部屋を借りられないのだ。本音は観察を優先したいところだが、働くことは多少我慢どころである。
「仕事の詳しいことは、現地で説明があります。明日から頑張ってくださいね」
登録証と集合場所の地図を受け取った。自分以外にも何人かいて、全員集まったところで乗り物で移動するらしい。町から少し離れた場所に、その養モモーロ場ともいうべき牧場が広がっているのだ。
「頑張ります」
受け取った登録証を見てみると、緑の印が赤に変わっていた。それをもって依頼を受けた証となるのだ。
こうして、オキシは無事に仕事先を決まることができたのだった。