14・音もなく忍び寄る赤い影。【※残酷描写有】
連続殺人犯である男の足は自然と草原へ向かっていた。
昨夜、犯行に及んだ場所に死体は無い、何も残っていなかった。最初、場所を間違ったと彼は思ったが、不自然に踏み荒らされた草花の一角で、赤茶けた血痕がわずかに残っているのを見つけた。ここで間違いないはずだ。
誰かが死体を発見し運び出したとしても、そういう噂はどこかから自然と流れてくるものだ。しかし、この草原で死体が発見されたという噂は聞かなかった。
(やはり、あれは昨夜の、なのか?)
死体がここに残っていないことは、紛れもない事実である。運よく誰かに助けられたのだろうか。だがあの時、草原には人っ気はまったく無かった。それに奴は悲鳴さえ上げなかったのだから、音の響きやすい夜の静かな草原である事を差し引いても、誰にも気づかれなかったはずだ。それに「あの状態」で放置されれば、到底助かるとは思えなかった。
殺したはずの者がなぜ生きているのか、それは分からない。仮に失った部分を再生する非常に珍しい能力を持っている者だったとしても、その能力が発動するには、その時に少なくとも「生きている」ことが絶対の条件なのだ。
あれは間違いなく、死んでいるはずであった。それは、彼が一番よく知っている。
先刻、町の広場にいた奴は、黒い瞳でこちらをじっと見ていた。他人の空似ではないだろう。あんな珍しい容姿の餓鬼は、そうそういやしない。やはり間違いなく昨晩、草原で見かけた人間だと、彼は確信している。
(夜の暗がりよりも深い黒に惹かれて、狩ってはみたが……)
あれは人ではなかったのかもしれない。人に化けた物なのかもしれない。闇から生まれ出た者だったのかもしれない。
男は思い出す、昨夜のことを――
月は冷酷な嘲笑を浮かべ闇を貪っている。
晴れやかに澄んだ夜は、それだけで心に広がる平穏を澱ませる。平穏を純粋に求め、より掻き立てる抑えようのない飢餓にも似た欲が、静やかな月光のもとに顕になる。
――それは指令なのだ。
欲している、欲しくてたまらない。濁ったように渦を巻く衝動が、穏やかな深層にくつくつと沸きあがる。
「最近、きちんと戸締りする家も増えたねぇ」
鍵が掛かっているということは入ってはいけないと言うこと、だから入るべきではないのである。たとえその鍵がすぐ壊れる脆弱なものだったとしても、彼は鍵がかかっている家には決して立ち入らないのだ。
彼にとって、夜の道をひとりで歩いている者や、鍵のかかっていない家で就寝している者が獲物。それに当てはまらない者は、決して手を出さなかった。被害に遭うか遭わないかの差は、たったそれだけであった。それは他人には到底理解できない決まりのひとつである。
適当にうろついていれば人に会うこともあるが、今日はその運もなかったらしい。仕方ないので気晴らしに、草原を散策しにきたのだ。
少し時間をつぶせば、また町の様相はかわる。その時になれば、もしかすると獲物が現れるかもしれないのだ。
草原は夜風にどこまでも揺れている。そよぐ葉から夜露はしたたり、地に染み消えていく。人も植物も眠りにつく時間である。そこに何かいるとすれば、夜行性の動物か迷いこんだ小さな魔物くらいだろう。人がいることの方が珍しい。静かな草原に生物の気配を感じた時も、男は期待を全くしていなかった。
その男の目は夜でもよく見えた。特に生物の発する熱を感じて見ることができるのだ。彼は目を凝らして、伸び放題の草の陰を凝視する。そこに生物がいることは一目瞭然だった。最初はそれを動物だと思ったのだが、どうやら人のようなのだ。
はっきりと確認するために気配を消し少し近づいてみると、それはまちがいなく人の子であった。こんな夜も深い時間に何を探しているのか、草原の地面をじっと見ていたのだ。
(こんなところで獲物に出会うとは)
彼はゆがんだ笑みを浮かべ、唇の端をなめた。
月明に映える純白の装束に身を包み、月夜の闇よりも深い黒の光沢をたたえた髪を、月光に染まる生やかな肌を見て、己の欲がたぎるのを感じた。その妖しげに煌く色に誘われるように、彼はさらに近づいた。
いつもならば、これはチャンスとばかりにさっさと済ましてしまう所のだがここはひと気の無い草原。少しくらい遊んでも大丈夫だろう。
「何か探し物かい?」
今日の獲物に優しく声をかける。しかし、地面を見ることに一生懸命で、彼の問いかけに気がついていないようであった。
いったい何をそんなに夢中になっているのかは全く分からないが、だからと言って何をしているのか興味があるわけでもなかった。
「なぁ、俺も手伝おうか?」
あきらめず再び語りかけてみる。
「邪魔しないで」
今度は声が届いたようだ。振り向きもせずに勢いよくそう答えた。
「そうか、それはすまなかったな」
彼にとって、その反応は思っていた以上にそっけないものであった。
こうも反応が薄いとなると、これ以上話していても得るものもなさそうだ。逃げようとする獲物を狩るのもいいとは思ったが、簡単にはそういった展開にはなりそうに無いのだ。
(日のある間に、お家に帰っていれば良かったのにね)
彼のやけに真っ赤な口が、にぃっと嗤う 。
そして、いつものように鉤がついた毒の尾で獲物を刺した。刺されたという痛みも感触も無いはずだ。本人が刺されたことに気がつかぬ間に毒はまわり、おかしいと思う間もないだろう。己の鈎針から出る毒は、生命こそ奪いはしないが、どんなに屈強な者であろうと意識を奪うほどの力を持つ。
小さな体の人間は、毒を注入されてから数秒も経たないうちに意識を失い地面に崩れた。彼は倒れている子の腕をつかむ。小さな呼吸は確認できるが、力が抜け何の反応も返さない。体にすっかり毒が回って全ての感覚のすべてが麻痺しているのだ。
「さてと、さっそくいただきますか」
その男の種族は「血液」を食事することで生きている。血液を糧にしていると言っても、他の仲間は「動物の血」を摂取していた。彼も普段はそれを口にしているのだが、ただ彼が仲間らと異なっていたのは、それ以外にも「人の血液」を食すことに何とも言いがたい快感を覚えていることにある。
この男は異常なのだ。
彼だけが異質だったのだ。
「どんな味がするのかな」
どこぞの文学では首筋を噛み、血を啜るという化物が出てくる話があるが、あれは良くない。実際にやったことがあるのだが、物語の化け物とは吻の仕組みが異なるのか食らい辛いし、何よりも血流の勢いがあり過ぎて、繁吹いてしまうのだ。
あんまり出血させるのは美しくない。それに加え、服や顔に染み付いた血を洗い流すのにもひと手間かかる。さらに一番の問題は、噴出した血がもったいないと思うのだ。
彼にとって最もかじりやすい場所、それは腕である。
男は邪魔な袖をまくりあげる。白い衣の下から水蜜種の白桃のような輝く肌を見せた。細くはあるが柔らかな二の腕、それにかぶりついたらどんな味がするのだろう。
彼は滑らかな肌にそっと牙を立て、染み出る血をすする。
少し癖のある味がしたが、舌に感じる刺激はとろけるような熱を持っている。この生命の水が胃の粘膜に温かく消えていくのと同時に、至福が脳に染み渡り、幸福が世界のすべてを満たしていく。
これだ、いつも求めてやまない、この心地のよい快感。この瞬間は、何物にも変えられない恍惚の時なのだ。
「おっと、少し力入れすぎたかな。あまりにも細いから」
かじりついているうちに、右腕は骨が見え千切れそうになっていた。このままでは邪魔にしかならないので、懐に忍ばせていた短剣で肘から切り落とした。地に落ちた腕から染み出すのは、みずみずしい光沢を持つ赤珊瑚の色である。
「赤か。この味は少し独特だが、色はそんなに珍しいものではないんだな」
鉄さびの匂いを伴った味がしていたので、どんな珍しい色かと思ったが、よく見かける血色のひとつであった。
彼は喉の渇きが癒されるまで堪能すると、次なる作業に取り掛かる。食事が終わったらすること、それは「戦利品の採集」である。
おいしくいただいた獲物の体に備わっている角や鱗や爪や髪、とにかく気に入った部位を剥ぎ取って持って帰っているのだ。そして特に気に入ったものなどは、装飾品や日用品に仕立てて日常的に眺められるようにしているのである。
「閉じた瞳の色は何だろな」
彼は閉じたまぶたを指で開け広げる。その下に見えたのは、月夜の下では限りなく黒に見える濃茶の瞳であった。
「すばらしい。これは記念にもって帰ろう」
眼球は弾力はあるが、力を入れ間違えるとすぐに壊れてしまうほど柔らかく脆い。拉いでしまわないように気をつけながら、眼窩に沿うように指を這わせ丁寧にえぐって引き抜いた。眼球に付属している余分な眼神経や視神経の類は引きちぎり、そうしてやっとこの手に中にそれは納まった。
まだ人肌の温度を残して心地がいい。
手のひらの上でぬるりと転がる感触はもう少し味わっていたいが、余り長く弄んでいては傷がついて劣化してしまう。
彼は懐から透明な容器を取り出し、状態保存の魔法で満たした。この魔法の効果は長くは持たないが、住処に戻り、さまざまな加工を施すまでしのげれば問題は無い。彼は瞳を静かに器に移し封じ込めた。これで晴れて自分の所有物となった。
顔に無意識の笑みが浮かぶ。
「本当に珍しいものを手に入れた」
器の中で妖しく漂う珠は虚を見つめている。早く家に帰って正しい処置をしなくては。
全てを終えてすっかり満足し、その場から立ち去った。
殺人鬼の男はすぐにその場を離れたので、その後起きた出来事を知らなかった。彼がその場所を去ってから少し経った頃、オキシの体内の毒は完全に分解され、体内で自動的に合成されていくエネルギーが体の自然治癒力を高めていき、失った血液を、右腕を、眼球を、時間がまき戻ったかのように元のように復元していったのだ。
そして、全てが元通りになり、目覚めたオキシはほんの少し寝落ちした程度にしか感じていなかった。感覚が麻痺していたおかげで、右腕が無くなっていた事はもちろん、血を吸われていたことも、眼球が採られていたことも知る由はなかった。
オキシは少し違和感を感じつつも、何事も無かったかのように観察の作業を再びし始めたのである。
そのことを彼は知らなかった――
(何でやつは生きていたんだ)
先ほど広場で見かけた時、あの黒い瞳も、ちぎれたはずの腕も元の通りになっていた。失われた部分が再生するのは「生きている」ことが最低限重要なことだが、もちろんそれだけではだめなのだ。再生するための体力も必要なのである。
彼は血の大半を啜った。それだけでも体には相当な負担がかかり相当な量の体力も失われるはずである。しかも、体内をめぐる血をある程度失ったら生物は失血死することを彼は知っている。
現在まで食してきた生物は少なくとも全てそうであったし、血のめぐりを失った状態でもなお生きている生物を彼は聞いたことがなかった。
「くくく、なかなか面白い」
男はすでに適切な処置を加え装飾物として生まれ変わったその戦利品を見る。確かに同じ瞳がそこにはあった。濃褐色の虹彩は、半貴石のようでやはり美しい。
生きていたのを見かけた時は、柄にも無く驚いてしまったが、化け物だろうと、人ならざるものだろうと、それが何であれ、美しいものは美しい。闇のようなこの黒に囚われるのも悪くは無い。
(俺はすでに呪われているも同然。俺は人の皮をかぶった人を狩る化け物、やつは人の皮をかぶった死なない化け物。やつは何なのか。何の目的で、人にまぎれているのか)
「いつか、ヤツとはゆっくり話をしたいものだな」
彼はしばしの間、日に照らされ耀う黒い瞳に見惚れていた。