13・天球に浮かぶ日輪と月輪を見上げ、星界の観測。
オキシは明かりもつけず暗い部屋の中で、草原で観察した微生物たちの走り書きを整理整頓していた。
ふと気がつけば、すでに太陽はすっかり月に隠されて、あたりは夜の闇に包まれていた。
「おや、もうすっかり外は暗くなったんだ」
オキシはある事に気がついた。風景はすっかり月夜の色をしているのだが、『見よう』と思えば夜に覆われた世界でもしっかり見えていることに。いくら月が明るいといっても、その薄明かりの中では見えにくい部分もあるものなのだが。
その現象について、オキシには思い当たる節があった。電子顕微鏡は可視領域にない波長の光で世界を見ている。そうであるならば世界に太陽があろうとなかろうと関係がなく物は見えるのだ。
自分の眼が電子顕微鏡の性質を持つと言うことは、暗闇でも物体が見える可能性がある。小さなものを見ようと思うことで、顕微鏡の拡大する機能が発動している。それならば、もしも倍率を上げない状態で『見たい』と思うのならば?
「やっぱり!」
見ようと強く思うことで、世界がもっとはっきりと見えた。まるで暗視スコープのようだ。太陽から来る光が少ないので色鮮やかというわけではなく、羽虫の群れのようなさざめく塊も少し写りこんで、見慣れている風景と比べたら劣る画質だが、明かりがなくとも見えるのは素晴らしいことであった。
眼鏡なしでも生活できるようになっただけでも喜ばしいことなのに、見える波長の範囲も強化されていたとは。この眼の能力は、使い方によっては別の事にも使えそうだ。色々試してみる価値はあるだろう。
「それならば」
この眼は望遠鏡のようにならないだろうか。「遠くの対象を拡大する」のか、「手元の小さな対象を拡大する」のかの目的の違いはあれど、物を拡大してみると言う点では、顕微鏡と望遠鏡もそうは変わらないはずである。
さっそくとばかりにオキシは窓のネジ締り式の鍵を開け、空を望む。その空にあるのは大きな天体、地球を周回する衛星の何倍も大きく見える星が輝いている。ここが地球ではないという証拠、別の場所であると主張する天体、あの月の表面を見てみたいという衝動にかられたのだ。
今日の空は満月。拡大するまでもなく、空に浮かぶあの大きな月は、それだけで存在感がある。
「それにしてもこの大きさ。やっぱり潮汐力がすごそうだなぁ」
地球では月による潮汐力は重要で、海に波ができていなかったら、今のような生命は生まれていなかったと言われている。
遠い昔、生命の素となる有機物の海をかき混ぜる力が月によってもたらされ、地球は生命あふれる星となったのだ。
地球と月の距離でさえ大きな影響があるのだ、これほど巨大な月が空に浮かんでいるこの星に、影響がない方がおかしいだろう。
実際、強い潮汐力は星をも歪ませる力を持つ。
たとえば木星の近くにある衛星などはその強力な潮汐力で星が揉まれている。その変動が摩擦となって地熱を発生させ、星の活動を活発にしているというのだ。
木星の衛星のひとつであるエウロパでは、そうして生まれた熱が氷を溶かす力となっている。その大地の活動により、厚い氷で覆われた地殻の奥深くで一部の氷が溶け、液体の海をつくっていると考えられているのだ。そして地熱で熱せられた水が噴出する場所には、極限環境に生きる微生物たちがいるかもしれないと期待されている。
地熱があると言うことは重要で、たとえ太陽からの熱が少なくとも、さらに氷で覆われている冷えた星だったとしても、このような形で星を暖める要因があれば、生命が生まれる可能性があるのだ。逆に、たとえ太陽光は十分でも、自らの活動が行えない星であるならば、それは単なる大きな石の塊でしかない。
また一方で、星の活動が活発すぎれば、星は高温のマグマに満ちた星になってしまう。エウロパよりもひとつ内側を回っている木星の衛星イオは火山活動が活発な火の衛星である。星の活動が過ぎれば、それはそれで生命にとっては危険極まりなく、とても生きていけるような環境ではない。
自分が今いるこの星は、もしかしたら木星とその衛星の関係のように、あの月の周りを回っている小さな衛星なのかもしれない。
こんなに月の近くにあって、イオのような炎の星や、エウロパのように氷の星にならず、緑豊かな生命のいる星になっているのは、もちろん潮汐力だけでは判断はできないが、この星にとっては月との距離がこの距離だからこそ、星を揺り動かす力が程よい活動を促し、生命を生んだのかもしれない。
そして、それ以外のさまざまな要因、たとえば太陽との距離や大気の成分などといったものが重なった上で、地球と同じように生命あふれる「奇跡の星」になったのだろう。
オキシは月を『見た』。
予測した通り、まるで望遠鏡で覗いたときのように拡大されて、月が網膜に映った。しかし、さすがに少しピントが合わないようだ。ぼんやりと霞んで見える。
顕微鏡はあんまり倍率を上げると、光の「波としての性質」が強くなり対象の像がぼやけていく。この眼は顕微鏡的な範囲の中で見えるような焦点距離が決定されているのか、どうやらずっと遠方を見るのには向いていないようだ。あくまで顕微鏡の眼なのである。
しかし無いよりは遥かにましで、これでも玩具の望遠鏡程度には使える。あの巨大な月の表面を観察するのには充分であった。
月の大地はよく映えた白い色をしている。太陽を隠しているにも関わらず、月は明るく輝きを放っていた。月の様子を見るに、月自身が自ら光を発していたり、月の向こう側にある太陽の光が何らかの影響を及ぼしているようには見えない。どこか別の光源から放たれた光を受けて輝いているようだ。
自分がいるこの星が恒星のように輝いているのだろうかと、目を凝らしても、大地はずっと向こうの方まで暗く、月を照らすほどの光を放っている場所があるとは思えなかった。
では、その光はどこから来るのか。その謎の解決の糸口は、時が解決してくれた。雲の陰のようなくすんだ色をした小さな円形状の翳りが、月の表面を時と共にゆっくりと移動していることに気がついたのだ。
月に映るあの丸い陰影が、この星の影が映りこんだものであるならば――それは、太陽、自分がいる星、月という順に並んでいる時に起こる現象、つまり月蝕である。
地球の月蝕とは異なり、影は月を覆えるほど大きくはない。小さな丸い影が月の表面を移動していくように見えるのである。
この現象の示す事実は、月の裏に隠れている太陽以外にも、強い光を放つ恒星が存在している可能性を示唆している。この場所からは見ることができない大地の裏側に、もうひとつ太陽となりうる明るい星があるのかもしれないのだ。
「日蝕どころか、月蝕までも見ることができるのか。すごいな……」
今後の経過を見てみないと確信は持てないが、おそらく毎晩のように、この天球では豪勢な天体の展覧会が起こっているのだ。
「ん、あれ……あの月にはもしかして大気があるのか?」
月の縁がぼんやりと見えていたのは、それはピントが合っていないせいだと思っていたのだが、どうやらそれだけが理由では無かったようだ。
月の表面に不鮮明ではあるが、うっすらとした芥子色の帯状の筋が現れたのだ。それは対流しているかのように渦を巻き、時とともにゆっくりと確かに形を変え、消えていった。
雲のような気象現象によるものなのか、砂の舞った嵐なのかは定かではないが、風が吹くということは空気の対流があるという証拠、おそらく大気があるのだろう。しかし、大気は存在しても、見える範囲に液体の水は存在していない。岩肌の山脈や谷や盆地の影が、地球の衛星と同じような陰色の海を形成していた。
それはまるで環境破壊が続き、水も緑も失い砂と岩だけの星となった、さびれ荒廃した未来の地球を見ているような気分にさせる。
(あの月の海にも、ウサギのように、何かに見立てることがあるのだろうか?)
地球では月の海を、それはもう様々な生き物の形に見立てていた。月ではうさぎが餅をついている。カニやロバやシシも住んでいて、想像するだけでなかなか騒がしく楽しい逸話があった。
(あの月の海には何がある?)
地球とは異なる衛星は、空に丸くある。月は黄色の明るい光に包まれているはずなのだが、どこか淡々とした夜陰を漂わせている。
故郷とは異なる月の光、月の形、月の色。見えるのは岩肌の大地。ただ霞が渦巻いているだけの空の標。
あの空の月には何もいない。
どこかの草むらで虫が涼しい声で歌っている。その虫の唄は草木の揺れる音と共に風に乗って抜けていく。本当に昼間はめまぐるしくにぎやかに過ぎていった時間だった。この身に起こったことを思い出す暇さえなかった。
――そう、実感が無いのだ。あまりにも突然すぎて。
今は、まるで遠くまで旅行に出かけたような気分になっている。
旅行はいつか故郷に帰ることができる。だが、次元の異なる宇宙に迷い込んでしまった自分は、再び奇跡に頼らなければ帰ることさえできやしない。
この澄みきった空気は、目に映る世界の色は、夜の光は、紺の色に浮かんでいる。
自分は忘れられるだろうか。否、忘れる必要は無いが、悲しまずにいられるだろうか。急に地球上から消え、独りここへたどり着いた。
それは突然のことであった。
自分は確かにこの場所にいる。
今はとても楽しい。
見るものすべてが、新しく新鮮で不思議に満ちている。
しかし、この先ずっとそう在れるのだろうか?
自分にはこの世界に骨を埋めるという、決意も覚悟も今は無い。しかし、だからと言って迷い、悩む葛藤も今は無い――いや、この状態を葛藤と言うのかもしれない。とにかく、事の重大さを分かっていながら、全く理解していないのだ。
(月の光は、どうしてあんなにもさびしい色をしているのだろう?)
それはまるで、物言わぬ物体に話しかけるような独り言。誰に問うでもない、己自身に問うている。
もしも、仮にと、言葉では、思考の上では、いくらでも仮定できる。しかし、導きだされる感情が、怖い。
「僕は、この宇宙で生きていく……」
月はまだ太陽を隠し、世界は夜の底に溶けて、微弱に生まれる光の中に沈んでいる。
オキシはぼんやりと空を見ていた。いつしか、月の端から太陽の青白い光が見え始めた。日蝕が終わる、つまり夜が明ける、明けたことになるのだ。その後、太陽を隠していた月は地平線に向かって沈み、そして、青い太陽も後を追うように沈むことだろう。
夜が明けたにもかかわらず太陽が沈むと言う現象は地球ではおかしなことだが、実際にこの空で起きていることであり疑問を挟む余地すらない事実なのである。
日蝕が終わってからも、オキシは空の様子を観察し続けた。
月はすでに地平線の向こうへ沈み、続いて太陽も沈もうとする頃、同時にその反対側の空が黄色に明るんできたのだ。今まさに、二つ目の太陽がその姿を現そうとしていた。
空に浮かぶ月が満月であったことから予測していたとはいえ、驚くことにこの惑星系には太陽が二つあるのだ。ほぼ対極に並んでいる太陽を同時に見ることができる時間は、片方が沈み、片方が昇る、その時のみ。時間限定の自然現象なのだが、それをしっかりと見ることができた。沈みゆく青い太陽と、昇ってくる黄色の太陽、二つの光源が地平線に見えた時は感動すら覚えた。
ひとつ太陽が沈む頃にもうひとつの太陽が出てくるような感じのため、常に太陽の光が地上に届くことになり、日没によって闇に包まれることは無い。
また同じように二つの太陽は月も照らしているので、月の満ち欠けは存在せず毎晩満月となる。空が曇っていない限り、光の差さない新月のような暗闇の夜は存在しないといっていい。
地球生まれのオキシにとって、日蝕が終った時よりも、太陽が地平線から昇る時になってやっと「夜明が明けた」という実感が沸いて出てくる。
「……と言うことは。あぁ、また徹夜してしまったなぁ」
そういえばこの異世界に来てから、あの野原で軽く睡眠をとったくらいで、ろくに眠っていない。
基本的に知的好奇心が満たせれば文句はなく、熱中できる対象があれば睡眠を削るのは苦ではない。しかも、身体が発する「眠い」という信号は感じることはできるのだが、それによって現れる「眠りたい」という欲求や疲れが鈍い。今も眠いわけでもなく、まったく眠る必要性を感じない。
「それにしてもこの感覚は、生物としてどうなのだろう?」
寝不足でも特に体調や精神的な部分にまったく変化が起きない身体と言うのは、わずらわしさが無いので喜ばしいことではあるのだが、少しばかり不気味な感じもした。
「少し眠るか、眠らないか、どうしようか」
キセノンが迎えに来るのは組合が比較的空いているという昼頃と言っていたが、今から眠って中途半端に起こされるよりも、この際なのでこのまま起きていようと決めた。
オキシは部屋の中を見回す。昇ったばかりの太陽光は、部屋の中にまでは差し込んで来ず薄暗い空間を作っている。
ふと、部屋の隅のほうにシャボンの玉のような物が浮かんでいることに気がついた。その中では、ロゲンハイドが眠っていた。オキシは急にその泡が非常に気になりだした。
触ると割れてしまうだろうか、それとも硬いものなのだろうか。頭にあるのは、そのことばかり。それに触れることによって、ロゲンハイドを起こしてしまう危険性は考慮していたが、そのような気遣いはあっという間に意識の彼方に追いやられた。
オキシは、そうっと触れてみた。それは温かくも冷たくもない、少し柔らかな感触で弾力がある水であった。
「あ、ごめん、やっぱり起こしちゃった?」
触れたときの振動で起こしてしまったのだろうか、ロゲンハイドが目を開いたのだ。そして、体を起こせば、水の膜が大気に溶け消え去ったのである。
「いや、大丈夫だよ。何をあんなに熱心に見ていたの? おいらびっくりしちゃったよ。だって夜の間ずっと飽きもせず、熱心に空を見ていたのだもの、なんだろうって思った」
ロゲンハイドは特に文句も言わず、問いかけた。
「月だよ。月がきれいだったから。観察して熱中しだすと、どうしても時間を忘れてしまうんだ」
「そういえば、昼間もそうだったものね。観察が好きなんだねぇ。おいらも好きだよ、観察」
そう言ってロゲンハイドはうっすらと笑う。おそらくはずっとオキシの観察していたのだろう。
「いつから起きていた?」
「精霊の睡眠は必要ないんじゃないかってくらい一瞬で終わるんだよ。眠っているように見えても、眠っている状態の真似をするだけ。ふかふかなモノでごろごろするのは気持ちいいもの」
「それは確かに」
日がな一日、ぼんやりと考え事する、なんて素敵なことだろう。
「ロゲンハイドちゃんも、観察が好きなんだね。……そうだ、この辺で虫眼鏡が売っている場所はある? レンズでもいいのだけれど」
小学生のころ読んだ科学雑誌に「牛乳パックと虫眼鏡で望遠鏡や顕微鏡を作ろう」という記事があったことを思い出したのだ。その当時、ちょうど夏休みだったので、自由研究も兼ねてそれを作り色々なものを覗いてみたものだ。実際に作ったこともあり、虫眼鏡が数枚あれば顕微鏡は簡単に作れることをオキシは知っていた。作り方はとても簡単なので、それを作ってロゲンハイドに贈ろうと考えた。
観察が好きだというロゲンハイドに、あのすばらしい微小の世界を見せたらどう思うだろう。
「レンズ?」
ロゲンハイドは、聞きなれない単語に首をかしげている。もしかすると存在しないのだろうか。
「レンズと言うのは……あぁ、ルーペは向こうか」
愛用のルーペは地球に置いてきた鞄の中だ。ルーペは野外に出かけた時にしか使わないので、普段は鞄にしまっているのだ。
(あぁ、どうして白衣のポケットに入れておかなかったのか)
少し悔やまれた。しかし、過ぎてしまったことに後悔しても仕方がない。そういえばレンズといえば、ルーペ以外にもうひとつ自分は持っている。それはいつも身に着けていたので、一緒に異世界に来たのだ。
オキシは白衣のポケットに入れてある眼鏡を取り出して尋ねる。
「こういうのある? これの場合は物が小さく見えるから、僕の欲しいレンズと少し違うのだけれど」
この眼鏡には、かなり度の強い凹レンズが使われているので、顕著に対象の物が小さくなるのが見て分かる。
「おお、これは玻璃水晶に似ているね。珍しいから値段はうんと高いんだよ。この町ではまず手に入らないと思う」
この世界ではある特殊な鉱石を削りだして玻璃水晶を作り出す。しかし、その鉱石は非常に危険な場所でしか採掘できないので、流通量が少なくどうしても希少なものになってしまうのだ。
入手するのは難しい、それならば仕方ない。と言って諦めるオキシではない。無ければ代用品を探したり、工夫して作ればいいだけなのだ。
幸運なことに、目の前にいるのは水を扱う精霊である。顕微鏡は無理だとしても、虫眼鏡のようなものならば今手持ちの道具だけでもすぐに作れる。
オキシは昼間キセノンにもらった銅貨を白衣のポケットから取り出し、こう切り出した。
「この硬貨の穴に、さっきロゲンハイドちゃんを覆っていたような水を一滴たらして欲しい」
先ほど触ったあの不思議な状態の水を使えば、時間が経っても途中で蒸発してしまう事はないだろう。
「いいよ」
ロゲンハイドはそう言うと指先から水滴をしたたらす。銅貨に垂らされた水は穴をふさぎ、表面張力に支えられ中央で弧を描いて膨らんだ状態になる。
「水の量もちょうどいい。ちゃんと凸レンズになっているね」
オキシはその硬貨を本の文字に近づけ、出来具合を確認をする。非常に小さな微生物を見るには少し倍率は足りないが、身近にあるものを少し詳しく見るにはいいだろう。
「コツがいるけれど、うまく覗けば物が大きく見えるよ。覗いてごらん」
オキシはロゲンハイドに、水滴レンズを手渡した。
「あ、本当だ。文字が大きくなってる! へぇ、水からも玻璃水晶を作れるんだ!」
硬貨の小さな穴を覗き込み、間違いなく文字が大きくなっていることを確認し、ロゲンハイドは驚きの声を上げている。すっかりお気に召したらしい。
「水で作ったレンズは、ガラス製のに比べると色々劣るけれど。まぁ、玩具の虫眼鏡として遊ぶには良いんじゃないかな。子供の頃はこうやって、よく五円玉の穴に水を張って作ったものだよ」
レンズは対象物にかなり距離を近づけないといけないので、手元がくるって、下の新聞紙と接触してしまい、紙面に水分を奪われてしまう失敗を何度も起こしてしまった。今となっては懐かしい思い出である。
「ゴエンダマ?」
「僕の国で使われている、このお金みたいに穴の開いている硬貨だよ」
「そうなんだぁ。……ねぇ、これって近くの物しか見えないの?」
「残念ながら、すぐ近くのものしか見えないんだ」
「さっきオキィシちゃんが空を見ていたから、遠くも見えるのか、ちょっと気になっただけ」
「望遠鏡を作るにはレンズが最低でも2枚必要なんだよ。それに、この硬貨レンズでは小さすぎて望遠鏡にするには向いていないから難しいよ」
「望遠鏡? ……天眼筒のことかな。遠くを見ることができる筒なら、魔術師たちが作ったやつを見たことがあるよ。1回しか見たことないけれど」
この世界に望遠鏡の概念はあるようだ。レンズの値段が高価だから、あまり広まっていないみたいだが。
「大きめなレンズってやつがあれば天眼……いや、その望遠鏡はできるんだね?」
「うん、そうだね。他に筒を用意する必要があるけれど、それの入手は難しくなさそうだし」
筒に関しては竹や木や紙等いくらでも代用品があるので問題は無い。問題なのはレンズだけなのだ。
「大きなレンズ、おいらの水で作れるかなぁ」
ロゲンハイドは水を出現させ、水を薄く伸ばしたり、大きさを変えたりしては、それを覗き込み、首を傾げては消したりを繰り返していた。
「おお、そんなこともできるのか、魔法ってすごいな」
重力や張力、あらゆる物理現象を無視して、そこに存在していたのだ。
(粘土のように自由に形が変えられるのか。魔法と言うのは便利なのかもしれないな)
変幻自在に形を変える水の様子を見て、オキシはそう思った。
「ただ薄く伸ばすだけじゃだめなのか……何が足りないんだろう? イメージがつかめない」
ロゲンハイドは眼鏡のレンズを参考に、水を平たく伸ばすがうまくいかず、像がゆがんだり、揺れたりするだけで、思ったようにならなかった。ロゲンハイドは、レンズが物を拡大したり、縮小したりする原理が分からなかったのだ。
「ロゲン、それじゃあダメだよ。レンズには、大きく分けて凸レンズと凹レンズって言うのがあって……」
オキシは本の何も書かれていないページを開いた。そして、凸レンズと凹レンズの形、基本的な性質、光の屈折や反射、焦点距離や虚像と実像、光路図などの図を交えながら、丁寧に解説し始めた。
「……しかし、だからといって、ただ単純に高倍率のレンズを組み合わせて倍率を上げるのがいいというわけでもないんだ。像の歪みや色のずれ、色々な収差が修正できないのであれば、ものすごい高倍率を出せたとしても、性能がいいとは言えない。でも、その収差を小さくできるレンズも発明されている。それは非球面レンズと言ってちょっと複雑な形をしているんだけれど……」
オキシの講義は終わりそうに無い。相手が理解していようが、していなかろうが気にすることなく、言いたいように言いたいだけ言いまくり、どんどん先に進めてしまうのだ。自覚はしているのだが、こればかりはどうしても直らない癖であった。
「う、うん。なんとなく分かったような、難しくてわからないような」
レンズの形や、焦点というものがあると言うのは、オキシの図つきの説明でなんとなくだが理解することはできた。だが、焦点距離を求めるとか、幾何光学と言うやつが出てくるあたりから、ロゲンハイドは全く分からなくなってしまった。オキシが書く文字の羅列がまったく読めないものだったのも、多少影響しているかもしれない。
「とにかく凹レンズや凸レンズを何枚か作って、出来上がったら貸してごらん。良さそうな物をその中から選んで、あとの事は僕がするから」
今回作る望遠鏡は、正立像で見ることができる接眼側が凹レンズで、対物レンズが凸レンズの望遠鏡にしようと考えている。
接眼レンズも対物レンズも凸レンズにすると倍率は大きいものが作れるが、その性質上、見える景色は逆さまになる。そのことに対してまず間違いなく尋ねられるだろう。しかし、なぜ逆さなのかという質問に答えるとなると、どうしても先ほどの説明と似通ったものとなってしまうので、お互いに時間や体力を無駄に浪費してしまい得策ではないと感じたからだ。
基礎知識のまったく無い相手に一から説明する、それが自分の力量ではいかに難しいかオキシは知ったのだ。
「僕の魔力は遠慮なく好きなだけ使っていいから、理屈云々は置いておいて、いろいろな事を試してみるといいよ」
精霊は契約者から魔力を得られれば、自然界から魔力を集めるよりも楽に魔法を使うことができるのだ。
「おいら、やるよ。レンズを水で作れるようにがんばる!」
ロゲンハイドはやる気に満ち溢れた表情で、水をまとった半透明な体を震わせる。
「よろしく頼んだよ」
オキシはこの世界の技術や魔法の知識は皆無である。だから水のことは水の専門家に任せるのが一番。それに個人的な趣味に巻き込んでしまったということもあり、そのために魔法を使わせてしまうのだ。一応契約した身でもあるし、研究費として魔力くらいは提供しないと、申し訳が無かったということもあったのだ。
「あ……そういえば。本当は望遠鏡ではなくて、顕微鏡を作ろうとしていたんだった」
もちろんロゲンハイドのために望遠鏡は作るつもりだが、本当の目的はそれではない。いろいろなことに気を取られるのはいつものことだが、話がそれたおかげで「水でレンズを作れること」を思い出せた。それに「蒸発しない紙にも染み込まない変幻自在な魔法の水」の存在を知ったのは大きな収穫で、寄り道した先で得た結果は充分に満足できるものであった。
この魔法の水があれば、あの顕微鏡が作れるかもしれないのだ。その顕微鏡は使い勝手があまり良くないので、記憶の底に深く沈んでいたが、水レンズのおかげで思い出すことができたのだ。
「ロゲンハイドちゃん。紙に乗せても形が崩れない球形の水は作れる? 大きさは、さっきのと同じくらいの量でいいんだけれど」
眼鏡や硬貨レンズを覗きこんで、研究しているロゲンハイドに再び頼みごとをする。
今から作ろうとしている道具、それは単式顕微鏡と言い、その名の通りレンズが1枚でできた顕微鏡の事だ。
(ちなみに学校にある接眼レンズや対物レンズといった複数のレンズを使っている顕微鏡は複式顕微鏡と言う)
球状のレンズは、曲率が大きいため小さくとも高倍率が得られる。その分、歪みもひどくなるが、硬貨の穴に水を張ってできたレンズよりも、もっと小さいものが見えるのだ。しかもその単式顕微鏡でも、充分に微生物の世界を見ることができる。歴史上最初に微生物を顕微鏡で見た人物が使ったのも、球形レンズが1枚だけの単式顕微鏡であった。
「球形の水? 簡単だよ!」
そういい終わらぬうちに、ロゲンハイドの指の先には、きれいな球形の形をした水が浮かんでいた。
「これ、どうすればいい?」
「あ、必要なもの作るから、少し待って」
本当は画用紙のような厚めの紙があるといいのだが、手元にないので広告チラシを折って使うことにする。中央に小さな穴を開け、余分な光が反射しないように穴の周りを黒く塗りつぶす。そして、ロゲンハイドが作った小さな水球を穴に押し込んだ。
次に服から摘み取った毛玉を指先に乗せ、出来上がったばかりの顕微鏡を覗き込んで具合を確かめる。狭い視野の中に、絡み合った繊維を確かめることができた。
「ぎりぎり大丈夫かな。やっぱり単式の顕微鏡は、ちょっと扱いづらい」
もっときちんとした物を作れればいいのだが、今は材料もない。それにしっかりと作るには、やはり専門の人でないと難しい。
繊維は繊維で観察するのは楽しいのだが、生き物の動く様にはやはり敵わない。オキシは軽く息を吹いて指先のほこりを飛ばすと、辺りを見回した。
「次は何か微生物を。どこにいるかな? ……そうだ、こっち来て」
簡単な顕微鏡でも見えそうな、大きめの微生物が外の水たまりにいたことを思い出したのだ。
オキシは開いている窓に足をかけ、とうっと外へ飛び降りた。部屋は1階にあるので、なんてことはない。安全に地面に着地することができた。
「あっ、どこから外へ出ているのさ!」
やや野生的な行動に、ロゲンハイドは驚いている。
「近道、近道。細かいことは気にしない、気にしない」
部屋の戸を開けて、鍵をかけて、廊下を歩いて、挨拶しつつ玄関から出るだなんてしていられなかったのだ。
窓から外へ出たオキシは、あたりを見回した。
「みずたまり、みずたまりはどこにあるかなぁ」
日中に日向になっている場所はすっかり乾いているが、水はけの悪そうな場所の日陰にはまだ小さな水溜りが残っていた。さっそく水溜りを見つけたオキシは、小躍りしながらそれに近づいた。
「このみずたまりの水も、魔法で形を変えることはできる? 例えるなら、葉っぱくらいの薄さの板にしてもらえると嬉しい」
指で大体の大きさを示す。観察の対象物に光が通らなくては、この顕微鏡は見えないのだ。
「まかせて」
ロゲンハイドが、水たまりの表面に何やら投げ込むような仕草をする。
水面が震えだしたかと思うと波紋が広がり、その中心からひとつの雫が引き伸ばされ、薄く変形していく。そして、それはオキシの手のひらに収まった。それはガラスかプラスチックで作ったかのようなしっかりとした塊だが、間違いなく水だけでできた板である。
「これは……プレパラート作りも楽になる」
水をそのままプレパラートにできるのだ。しかもこの水は蒸発しない。観察対象の栄養状態さえ気をつけていれば、そのままの状態で長く保存もできそうだ。
対象の水を薄い板状にしてそのまま保持するという、この魔法をぜひとも自分でも扱えるようになりたいものだと、ほんの少し魔法に興味が出てきたが、今はそんなことよりも微生物である。
オキシは出来上がったばかりの水の板を、顕微鏡の目で覗いてみる。一番大切なのは、このすくい上げた水の中に彼らがいるかどうかである。
「いた、ミジンコもどき!」
ミジンコにはある器官が無かったり、ミジンコにない特徴があったりと細かい相違は多々あるのだが、豆のように丸い輪郭、触角を振って泳ぐ姿は、地球人がそれを見ればまず間違いなくミジンコではないかと言ってしまうほどに、まるでミジンコなのだ。オキシも発見した時、「ミジンコだ」とつい口走ってしまったほどである。
今は「ミジンコもどき」と呼んでいるが、ある程度微生物の種類が集まったら、フタツノミジンコなり、ウシミジンコなり、ミミミジンコなり、それっぽい名前を勝手につけたいと思っている。
「何かいるの?」
ロゲンハイドは夢中になって水の板を見ているオキシを、不思議そうな面持ちで見守っていた。
「あぁ、たくさんいて素敵すぎる……いや、いや、違う。僕がコレに夢中になってどうするんだ」
オキシはやっと我に返り、自身に突っ込む。
オキシはロゲンハイドに、先ほどつくった簡易単式顕微鏡と水の板を手渡し使い方を説明した。
「この道具で見ると何か見えるの? その中に何かいるようには見えないけれど? んん……小さな反応はある、ような気もするし、ないような気もするし……やっぱりよく分からないや」
「見なくても、分かるの?」
「何か生き物が存在すれば独特の気配を出すからね。それが持つ質で契約をするしないか決めるから」
「気配?」
それは少し興味深い現象である。精霊は生命を感じることができる特別な能力を持っていると言うのだろうか。
「気配というのは、魔力に似ているけれど……なんかそういう風に感じるんだ。でも、こんな微弱な気配は、意識を向けても漂ってきた単なる残滓か何かだと思って、全く気にも止めたことがないよ。
何かそこに生き物がいるなんて、まず気がつかない。何かいると聞いた今でも、そこに何かいるなんて信じがたいことだよ」
ロゲンハイドは、この水の中に何かいることが腑に落ちないのか首をかしげている。
「とにかくこれで見てごらんよ。確かに生物がいるから。言うより、実際見てみた方が良い」
百聞は一見にしかず、百見は一験にしかずである。
オキシはロゲンハイドに、一式を手渡した。受け取ったロゲンハイドはオキシから教えてもらったように顕微鏡を目に当て、水の板を覗きこむ。
「あ、本当だ。今何か妙なのが横切った。こんなちっこいのに生き物なんだね」
「その小さな生命はこの水の中だけではなく、この空気の中、土の上、土の中、砂漠はもちろん火山帯の海底や冷たい極海、果ては宇宙にまでいるんだ。もちろん外だけではなく家の中にもいる。ありとあらゆる場所に、彼らはいるんだよ」
これが自分が愛してやまない神秘にあふれた微小の不思議たちなのだ。
「でも、なんだか魔物みたいだ」
ロゲンハイドは、奇怪なものを見てしまったかのような声で言う。
「その不気味な造形を見て、何か悪いモノのように思うかもしれないけれど、彼らも自然界に必要な一員。世界を循環させるための役割があるんだよ。
この生き物は、そのとがった吻で水中を漂うチリのようなものを食べているんだ。そのチリは植物の切れ端だったり、死骸の欠片だったり、とにかく水中を漂っているものは何でも口に入れてしまう性質があるみたいなんだ。いわゆる水をきれいにする掃除屋といったところかな」
この微生物の食性の事はもちろんのこと、天敵などから身を隠し見つかりにくくするために負の走光性(光を避ける性質)を持つこともオキシはつきとめていた。このミジンコもどきは、光があるところは遮蔽物がないと認識し、隠れる場所を求めるといった行動をするのだ。
「身を隠すために忙しなく水中を漂っている様子がかわいいと思わない? 本当にかわいらしいやつだ」
この微生物は光を当てれば、まるでおぼれているかのようにせわしく腕を動かしながら、物陰に隠れようとするのだ。
もちろん走性という性質は遠ざかる行動を起こすだけではない。
例えば光合成を行う微生物のミドリムシは光に対して正の走光性、つまり明るい方に移動する性質をもっている。光のあるほうへ移動し、より効率よく光合成をし栄養を得るためだ。
光だけではなく、匂いや味といった化学物質など、生物たちはそのような刺激に対して、自分にとって好いものなら近づき、悪いものなら遠ざかるという、単純ではあるが優れた機能を持つ。
生物の生き残るための本能は本当にすばらしい、とオキシは微生物について、自分が思うことを矢継ぎ早に語りだす。
「あぁ、僕たちの見ている世界はほんの一部にすぎない。この単式顕微鏡のような、こんな単純で貧弱な仕組みの計器でさえ、これだけ様々なことを観測できる。昔の人はこの少ない情報で少ない知識で、世界を見て調べ上げ考察し、学問の礎を築いてきた……」
今では微生物は生命とは何か、を語るには欠かせない存在となっている。もはや生物学を学ぶ時には、必ず語られるほど基礎的な事なのだ。
オキシは、いかに微生物が謎に満ち、生命の進化を語る上で重要であるかを話し続けた。
魂を奪われたかのように、オキシのまなざしが怪しい輝きを帯び始め、そして、いつしか話は生命の根源たる遺伝子を操作するの話に変わっていく。
「……今まで品種改良は、思い通りの組み合わせの性質が表に出て、しかも安定して発現するまで交配を何度も繰り返し、何年も何十年もかけて改良していく大変な作業だったんだ。でも遺伝子を操作すればそれは要領よく実現できる。それだけではない、他の生物から欲しい性質を持ってくる事だってたやすい。
本来生えるべき場所ではないところに器官を生やしたり、異なる生物の性質を埋め込んだり……例えば本来触角になる部分に翅を生やす、光るための細胞を埋め込んで暗闇に光る体にすることだってできる。
役に立ちそうなところでは、ある有益な物質を生産する遺伝子を微生物に組み込んで培養し量産させることや、失った器官を再生させる研究もされていて……」
遺伝子組み換えやクローン技術と言った、難しい問題がはらむ技術のことまで早口に熱弁する。ほうっておけば、延々と話し続ける勢いだ。
「な、なんかよく分からないけれど、それが可能ならすごいことだよ。世界の法則を解明し、思うままに生命を作り変える。それはもう神の御業のよう……」
ロゲンハイドは、専門的すぎてもはや何を言っているのか、さっぱりわからないオキシを静めにかかる。
「……もしかして、ここではあまり公にできるものではない?」
新しい技術と言うものは、偏見や誤解や曲解があり、正しく理解されない一面も持つものである。しかも生物を使った実験は、生命を弄ぶおぞましい禁忌の術を研究しているように見えてしまうこともあるだろう。一歩間違えれば糾弾され、排除されかねないのだ。
地球の科学の歴史を見てきても、社会的、倫理的、宗教的、さまざまな観点から弾圧が行われてきた。この世界においてはどのような扱いになるのか、それが少し気がかりであった。面倒なことに巻き込まれ、ゆっくりと観察できなくなるのは避けたかったのだ。
「なんと言うのか、魔術師が語る生命の原理よりも、ずいぶん考え方が進んでいると言うか、次元が違うと言うか」
ロゲンハイドがそう戸惑うのも仕方がない。この世界には本来存在しない理論。それこそ本当に異なる次元からやって来た技術なのだから。
「次元が違う、か。少し過剰技術だったか」
見合わない科学は世界の均衡を乱す。「科学を扱う者としての倫理」については講義で何度か耳にした。だからこそ、それがどう言うものか知っている。
とりわけ分子生物学的な技術は、医療、食品、農業に革命的な変化を起こし、生活の中に直接入り込んでいくようなものである。
ある技術の実現によって仮に何かが起これば、これは広範囲に被害が及ぶ可能性もある。そして、一度変化した世界は、もう二度と元のようには戻らない。
遺伝子組み換えを始めとするバイオテクノロジーの知識を知っている人たちでさえ、その技術は「毎年十万人を救うから良し」として行うのか、「副作用などで毎年百人の犠牲が出るから悪し」としてやめるのか、倫理問題やリスクのつりあいが取れず、その技術についての議論をし、その是非を問い騒いでいる。つまるところ急激な発展に人間の精神的な処理能力がかみ合わず、手に余っている状態なのだ。
地球においてもそうなのだから、その概念さえないところに、自分が便利だから自分が欲しいからと言う、その一方的な結果だけで安易に技術を開発するのは、「未知」と言うだけで沸き起こる、言い知れぬ不安や恐怖だけを煽る危険が大きい。
この世界ではレンズの仕組みは一般にこそ、その知識が普及していないが存在している技術なので、人の目についても大丈夫かもしれない。しかし、その原理が解明されているとはいえ、それは地球ほど進んでいない可能性もある。
この世界の技術がどの程度のものなのかまったく分からない以上、何も考えずに自分の持つ知識を開示するのは危険かもしれない。
オキシ自身は疫学や遺伝子研究は概論の授業で学ぶような基礎的な知識しかないが、それでもこの世界にとって脅威にも救済にもなりうる知識は多々持っている。その技術を持ち込むことで、その地域の文化や伝統や環境を壊してしまう可能性もある。それでは押し付け以外の何物でもない。
自分は大した苦労もなく有用な「結果」のみを使い、実現するために動くことができる。それでは尊敬すべき過去の偉人たちの苦労と喜び、業績を汚すようで失礼だ。
それ以上に、この先、この世界に生まれるであろう素晴らしい天才たちが研究し培ってきた「楽しみ」を阻害してしまうかもしれない。
それではあまりにもフェアじゃない。
やはり、この世界に生まれたものは、この世界に適応し進化した彼らが発展させていくべきである。
何より、そういうこの世界に無い技術・知識を広めてしまうことで、人が観察に没頭している時に、説明や解説を求められたり、うるさく抗議されたり、物を投げられたりしようものなら、非常に邪魔で仕方が無い。
自分は微生物の生活の様子や一生を観察し、生態を解明するという、いわゆる多くの人間にとって「なんの役にも立たないコト」を調べるのが大好きなのだ。
自分の観察のための時間を削られるのは勘弁してほしい。理由はどうあれ、人が押しかけてくるのは、正直なことを言ってしまえば迷惑極まりない。こっそりゆっくりと誰にも邪魔されずに、一人で観察していたいのである。
それもまた自己納得でしかないが、その方が自分にとっても、この世界にとっても平穏で幸せなのかもしれない。
そう、そのような新しい事実を発見する喜びは、この世界に生きる者たちの仕事なのだ。そういうことは、彼らに任せてしまおう。
そう自分の中で正当化をする。
うっかり地球産の技術や知識を持ち込んでしまうこともあるかもしれないが、基本的に自分の心の中にしまっておこうとオキシは決めた。
「……さっきの話は極秘、秘密だよ」
知的好奇心をただ満たす生活のためにと、オキシは苦笑う。
「おぉ、やっぱりオキィシちゃんの一族の秘術だったんだね。オキィシちゃんって、やっぱり魔術師なの?」
オキシの浮かべた笑みを、どう捉えたのか興味深そうに尋ねる。
「いや、秘術ってほどじゃないし、それに魔法とかそういうのは、まったく分からないから魔術師でもないよ」
魔法については、その存在も、その原理も、理解できないことだらけだった。
「そうなんだ? 他人に秘密が漏れないように暗号のような言葉を使い、世界の理を説いた理論や技術に、そう思ったんだけれどなぁ」
オキシがレンズの説明をするときに使った文字や、オキシの知識を総合するとロゲンハイドにはそう思えてしまうのだ。
この世界の魔術師たちは、中世ヨーロッパにいた錬金術師の記した書のように、彼らにしか分からない独自の文字で自らの研究の成果を記す者も数多くいる。そういう風習があるので、この世界に存在しない日本語で書かれた書は、確かに彼らの研究をまとめたものと同じに見えてもおかしくはなかった。
「文字は暗号でもなんでもなくて、母国語なんだけれどな……」
オキシは魔術師に会ったことがないので、彼らがどういう存在かは分からなかったが、研究の成果を秘術として隠す行為が存在し許される世界であることは感じ取れた。
秘密裏に研究することが可能な環境ならば、過激な研究をしても大丈夫ではないかと、そっと悪魔が囁いた。
静かな町外れに住んで、不思議な器具、瓶詰めの動物たちにあふれ、独特な香りに満ちた部屋、何を研究しているか分からない魔術師……まるで狂科学者のようでちょっと憧れるかもしれない。
「研究職っぽいところは似ているかもしれないけれど、やっぱり魔術師と呼ばれるのはしっくりこないな。少なくとも、自然科学と超自然現象は相反する存在……」
地球では非科学的な物に分類されている魔法が、この世界ではあたりまえに存在する法則であるのは認めざるを得ない。しかし、それはあまりに地球での常識とはかけ離れているので、この非科学的現象を受け入れるのには、時間がかかりそうである。
「僕の研究は一人では難しいから、ロゲンハイドちゃんには、色々手伝ってもらいたい」
こと魔法に関しては、からきしなのだ。慣れない場所での研究には、現場を良く知る有能な助手がいるにこしたことはない。オキシは、ロゲンハイドはとても良い助手になると確信し、そのことを伝えた。
「じゃあ、おいらのことは、ロゲンって名前で呼んでよ。『ロゲンハイドちゃん』なんて、他人行儀だもの」
成り行きで「ちゃん付け」のまま過ごしてきたが、その呼び方にこだわりがあるわけではないので、その提案には賛成であった。
「よろしくロゲン」
「こちらこそ、オキィシ」
二人は遠慮なく呼び捨てしあう。自然と笑みがこぼれ、ますます仲が深まっていくのを感じた。
実際に、作ってみたい人はどうぞ的な参考文献?
★5円玉のレンズ
http://www.asagaku.com/rika_time/2006/10/1025.htm
★親子でつくろう30分で出来る望遠鏡の作り
http://homepage3.nifty.com/yamaca/jisaku/singl/single.htm
★牛乳パックで作る変倍望遠鏡
http://homepage3.nifty.com/yamaca/jisaku/vrtl/vrltl1.html
★牛乳パックで作る顕微鏡
http://homepage3.nifty.com/yamaca/jisaku/vrtl/vrlt3.html
★レーウェンフック(歴史上最初に顕微鏡で微生物を見た人)の顕微鏡
http://www.kagaku.info/faq/leeuwenhoek030905/index.htm
★水滴で顕微鏡。
http://www.geocities.co.jp/NatureLand/2111/microscope/suiteki/suiteki_ms.htm