12・日を蝕む月の空。
目撃情報の報告や寝床の確保と色々回っているうちに、だいぶ時間が経っていた。建物の外に出るころには空の様相はすっかり変わっていた。
見える空は変わらず晴れ渡り、太陽も天高く輝いている。そして、その空に浮かぶある天体を見て、オキシは固まった。空に輝き大地を照らしている太陽は、地球のそれと大差ない大きさをしているのだが、月の大きさは異なっていたのだ。
地球の場合、月の見かけの大きさは太陽とそれほど変わらない。しかしこの世界の月は何という大きさであろう? 地球の月が一円玉の大きさならば、今空に浮かんでいる月はCDやDVDといった光ディスクくらいだろうか。視界に入る空の十六分の一ほどが月なのだ。
「日蝕になりそう……」
この空で行われる天体運行について、詳しくはわからないが、このまま月が昇れば間違いなくあの小さな太陽を覆うだろう。おそらく数十分で終わる地球の蝕と違い、数時間ほど世界は闇に包まれるに違いない。
「日蝕? あぁ、もうすぐ夜だな。……日を蝕むなんて、面白い表現をするんだな」
この世界には日蝕という言葉はないのだろう。キセノンは初めのうちは何のことか分からなかったようだ。しかし、オキシが空を見上げ月を見てそうつぶやいたので、何のことか推察できたようである。キセノンは、異国の表現に関心を寄せているようだった。
「え、夜になるの?」
「ん? お前の国では、夜になることを日蝕というのだと思っていたのだが、違っていたか?」
「月が太陽を隠す現象のことを日蝕と言うのだけれど……」
まさか日蝕の時間が夜だなんて思わなかった。
(それにしても、日蝕って、どんな風に翻訳されたんだろう?)
確か「微生物」は通じていなかった。しかし「日蝕」はこの世界に存在しない言葉であるのに、意味が通じているのだ。
言葉はその言葉の意味することを知らなければ、単なる記号である。微生物という言葉は、肉眼で確認できない微小の生物がいるという概念がないから、通じなかったのだろう。そう考えると、日蝕と言う言葉が通じたのは、月が太陽を隠す現象を皆が認知しているからなのだろうか。
「とにかく、この国では日蝕とは言わないんだね。ひとつ勉強になったよ」
勉強になったのは、日蝕という言葉は使われていないということではなく、日蝕が夜になる証であるということであったのだが。
(月があんなに大きいと、ここは地球ではないと、嫌でも実感してしまう……)
オキシは大きな月から目を逸らす。まだ心のどこかで、地球ではない場所へ来てしまったことを認めていないのかもしれなかった。
虎狛亭に着くまでの間、もう戻れぬ故郷を想い、ほんの少しだけ感傷にふけってしまうオキシだった。
昼間に虎狛亭を訪れた時は、中途半端な時間に来たということもあって店内は閑散としていたが、今はたちこめる熱気と喧騒に満ちている。
たくさんの修羅場を潜り抜けてきたであろう歴戦の者たちが、ほんのひと時の休息を満喫していた。もちろんそう言った戦いに身を置く者だけではなく、仕事を終えた職人や商人といった町に住む常連らしきおじさんたちが食事を楽しんでいた。
大半の者は食事を楽しんでいるのだが、隅の方では手に紙切れを持った人が数人おり、何やら賭け事のような遊びをしていた。
「キセ、ひさしぶりだな!」
空いている席を探していると、大声が聞こえてきた。少し離れたテーブルから、呼びかける者があったのだ。彼とキセノンはお互いに愛称で呼び合うような気の知れた仲なのだろう。キセノンも軽く手を上げ、彼の呼びかけに答えていた。
声をかけてきた大柄でがっしりとした体格をしている彼を表現するなら、熊のようだという言葉が合うだろう。茶けた剛毛の腕の先に長く湾曲した鉤爪が見えたので、もしかしたら本当に熊型の人類なのかもしれないが。
「レニか。それにフランも。元気そうで何よりだ」
レニと呼ばれた男と同じ席には、女性がいた。豹のようなしなやかな体つきで、絹のように滑らかな毛並みを持っている。金色の大きな目の中に縦長い瞳孔が入っているのが、実に印象的であった。
「こっちへ来いよ、一緒に飲もうじゃないか。連れのちびっ子も一緒に。おーい、タンタル! 料理追加だ!」
彼は返事を聞くまでもなく店の者を呼び、いくつか料理を注文した。彼らと同席することは強制的に決定らしい。
席に着くと、女性が話しかけてきた。
「強引にごめんね。私はフランシー。で、これはレニン」
「僕は沖石です」
オキシはあえてフルネームは名乗らなかった。どうせまたおかしな発音をするに違いなく、そう言った雑多な訂正をするのが非常に面倒だったのだ。
「オキシちゃんね。キセとは、よくつるむ狩仲間なのよ」
フランシーは、キセノンとは一緒に組んで魔物退治をする仲間であると簡単に説明する。一人では対処できない大物を駆除する時に、息の合う仲間数人と共に行動することで、確実性と生還性を高めるのだ。
彼らがどんな役割分担なのかは、想像するしかないが、レニンは接近戦が得意そうに見え、身軽そうなフランシーはオトリや撹乱と言った補助に向いていそうだ。キセノンは攻撃的な精霊を使役できると聞いているので、案外後方支援系なのかもしれない。
他にも数人の仲間がいるようなのだが、ここにいるメンバーだけ見ても、攻撃面においてはバランスがよく、欠点を補いあっているように思えた。
「ここで会ったのも何かの縁だ。ほら、ちび。これ飲んで大きくなれよ」
レニンは空のコップをオキシに手渡した。そして、液体が半分ほど入った薄茶色の瓶をわしづかむ。瓶に張られたラベルの文字は読めないが、力強い感じの書体で文字がでかでかと書いてある。
「それは、お酒? お酒はちょっと苦手なんだけれどな」
無論、アルコールを作っているであろう、微生物は大好物ではあったが、酒はどうも苦手なのだ。
オキシはアセトアルデヒド脱水素酵素(アルコールの分解に必要な酵素)を持っているので、酒は飲めることには飲め、強いほうといえば強い方なのだが、アルコールの味はどうも好きではなかったのだ。オキシが飲酒するときは、大抵ミルクの味でごまかして甘いカクテルにしていた。アルコールのあの味をある程度まぎらわすことができれば、わりと飲める性質ではあった。
「いいから、いいから。飲め、飲め」
しかし、レニンはさらに酒瓶を差し出し勧めてくる。酔った人は感情が高ぶっていて、ちょっとしたことで怒りやすい。「俺の酒が飲めないのか」状態になっても困るので、逆らわないほうがいいだろう。不本意ではあるが、素直に受け取ることにした。
「本当にちょっとでいいから。ああ、もういい、もういい。そんなにいらない!」
一口分だけでいいと言ったのに、コップに半分くらい注がれてしまった。注がれてしまったものは仕方がない。ひとまずオキシは、匂いを確かめる。漂う香りは確かにアルコールで、地球のそれとさほど変わらない。ひんやりとした馴染み深い匂いがした。
この世界の微生物もアルコール発酵するものがいるのだなと思いをはせながら、オキシはほんの少しコップを傾けて、透明な液体をなめるようにちびっと飲んでみた。
酒はまったく嗜んでいないので味の良し悪しに関しては正直よく分からないが、この痛みにも似た辛味の刺激は、間違いなくアルコールの含まれた飲料水である。
「……痛い」
舌先がひりひりしてきた。この酒は度数がかなりあるらしく、とげとげしく痛かった。
「ははは、まだ子供には早かったか」
そんなことは知らないレニンは豪快に笑いながら、顔をしかめているオキシの様子を見ていた。
「僕は、もう子供じゃないのに」
しかし、だからといってむきになって飲み干すことはしない。自分にとってあんまり益にならないし、子供でもないのだから、そういった無理はしても仕方がないと自制できるのだ。
「大人になっても、こんな飲んだくれのようになっちゃだめよ」
お酒の入ったコップをテーブルに置きつつ少し遠ざけているオキシを見て、フランシーは微笑ましく心和ませていた。
「ま、年齢がどうであれ、お前は子供だ。子供も同然だ。お前は常識知らずだしな」
キセノンはオキシの頭をなでながら、そう言った。キセノンはオキシが成人している事を知った数少ない人物であるが、それでもなお、到底大人には思えず子供のように感じるのだ。
「う」
常識知らずとそう言われてしまうと否定はできない。この世界については、下手をすると子供よりも知らないのだ。
「子供じゃないにしても、子供に見えるんだから、今のうちに思う存分甘えておけ?」
キセノンは小さく耳打ちする。
「うん」
オキシは小さく返事を返す。子ども扱いされるのは癪だが、この世界の情報が少ない状態ではむしろ救いなのかもしれない。多少おかしなことをしても、注意されるだけですむのだから。
「僕がこうして、ここにいられるのは、キセノンのおかげだよ」
キセノンがあの草原から町まで連れ出して、いろいろ面倒を見てくれたおかげで、当面の寝床もひとまず確保できたのだ。
「でも、最悪、この町の公園のすみっこで眠ってもかまわなかったのだけれど」
すべてを台無しにするような言葉をオキシは吐く。
「まだ、それを言うか。お前のようなやつが、そんなところで寝ていたら何されるか分からないぞ」
町の中に魔物はいないが、魔物よりも質の悪い連中が牙を磨いていないとは限らないのだ。子供に見えるオキシにいかがわしいことをする輩はそうそういないだろうが、夜の公園は治安が良いとはいえない。しかも最近は殺人鬼がうろついている、それはまさに狙ってくださいといわんばかりの所行である。
「じゃあ草原でもいいや」
案外、草原の上で眠るのは気持ちがよかったのだ。
「だから町の外は魔物が、それにおまえはあそこで……どんな目にあったのか、忘れたわけではないだろう」
草原では魔物や危険な野生動物と遭遇する可能性がある。それに加えてオキシは草原で殺人鬼に遭っているのだ。
「あ……やっぱり部屋は大事なんだね」
あっけらかんとしたオキシの言葉にキセノンはどっと疲れが出た。もはやため息さえ出ないようだ。
「がははは、よくはわからないが。相変わらずキセは苦労してるな」
レニンは腹を抱えて笑いながら、意気消沈しているキセノンの肩を叩く。
タンタルが料理の皿を持ってやってきた。琥珀色に熬ってある塊が、彩り鮮やかな山菜の上に盛り付けられていた。
「ちょっと、おまけしておいたからね」
「おう、すまないな。ほら、ちび食え」
どうやら彼の中で「ちび」と言うのは確定らしい。彼は「これはうまいんだぞ」と、その揚げ物を取り皿に乗せながら薦めてくる。それはほんのりゴマの香りのする丸い物体で、見ただけでは一体何なのか見当もつかなかった。
オキシは彼に差し出されるまま、皿の上のそれを頬張った。皮がカリカリしていて、噛むと皮がぷつりとはじける。まぶされた微塵切りの野菜炒めが甘みをおびていて、なめらかな肉汁と混ざる。
これは何の肉なんだろう? 獣でも魚でもなく、どちらかと言えばエビやカニと言った甲殻類の味に似ていた。慣れた味ではないが、どこか馴染みのある味なので、口には合うようだ。
「うまいか?」
「うん」
「そうか、そうか。こっちもうまいぞ、もっと食え」
まだ空になっていない皿に、レニンは次々に乗せていく。
「そ、そんなに食べられないよ」
小皿いっぱいに料理を盛られてしまった。
「レニったら、なんか親戚のおじさんみたいね」
フランシーは一連のやりとりを見て、そう感じるのであった。
こうして夕食はにぎやかな内に幕が下りた。
「もう少し飲み歩こうぜ?」
レニンはさらに別の店を回りたいらしい。虎狛亭であんなに飲んでいたのに、足取りはまだしっかりとしていた。おそらく、まだ飲み足りないのだろう。
「まだ飲むの? 少しまとまったお金が入ると、すぐにこうなんだから」
一方のフランシーは呆れ顔をしていたが、彼の提案には満更嫌でもない様子である。
「キセはどうする?」
「付き合いたいのはやまやまだが、日が隠れる前にオキシを送らないとな」
一応、キセノンはまだ仕事中なのだ。
「そうか、そうだな、これからは大人の時間、子供はもう帰る時間だ。このちびの件が片付いたら、その後でいいから来いよ」
「仕方ないな、いつもの場所に行くのか?」
「ああ、俺たちは先行ってるぜ。ちびも元気でな」
レニンはご機嫌で去っていく。
「レニ、待ってよ! じゃ、オキシちゃん、またね」
フランシーもレニンの後に続き走り去っていく。
「なんだかんだで二人は仲がいいんだね」
まるで嵐のような人たちだったと、オキシは振り返る。
「ああ見えて、夫婦だからな」
意外な事実をさらっと知ってしまう。
「そうだったんだ。……レニンさんはいいお父さんになると思うよ」
子供にべったりな親バカな父親になるだろうと、オキシは感じずに入られなかった。そして、妻に頭が上がらなくなるだろうとも、どこかで思ってしまうのだった。
「さてと、俺たちも行こうか」
キセノンに先ほど宿泊先の確保をした施設まで送ってもらう。そして、そこでロジュヌと合流し、今日のところは彼と別れることになった。
「ロジュヌあとは頼んだぞ。じゃあ、オキシまた明日な」
「うん、また明日」
オキシはキセノンと別れた。
ロジュヌに連れられ向かったのは、本館から程近い場所にある宿舎である。本館に比べると幾分古びた建物で、石つくりの灰色の壁は青々とした蔦に覆われていた。きちんと手入れされていなければ、幽霊屋敷の類になっているだろう。
内部を簡単に案内され、注意事項の説明を受けながら、しばらく借りることになる部屋まで案内された。
「部屋はここ。ちょっと狭いけれどね」
用意された部屋はベットと小さな棚がひとつづつあるだけの、六畳一間といった感じであった。
「いや、十分です」
色々物がある場合には狭い部屋ではあるが、これくらいの広さなら一人暮らし用の部屋と大差はない。それにオキシにとって、部屋は基本的に寝る場所なので、狭くとも問題はなかった。
「これは鍵。出かけるときは、入り口の管理人さんに渡してね」
ロジュヌから手渡された鍵は鈍色をした金属でできていた。鍵には紐が通されていて、戸のプレートに書かれた文字と同じものが印字された板が下げられている。
「何かあったら、気軽に声をかけてね。じゃあ、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
ロジュヌと別れ、オキシは部屋へ入った。
「……で、ロゲンハイドちゃんは、これからどうするの?」
今まで特に何をするでもなく、ただなんとなくそこにいて、ここまでついてきた精霊にオキシは問う。
「おいらはいつものように、適当に過ごすだけ。もし邪魔なら帰るよ」
「いや僕の邪魔さえしなければ、いても別に気にしないから、好きな事してて」
精霊は無視しても、特にかまわないようだ。
やっと一人の時間がとれると、オキシはすべてから開放されたかのように嬉々として、数時間ぶりに記録用の本を開いたのだった。