11・地球人は幼形成熟(ネオテニー)です。
「向こうにあるのが組合の建物だ。いろいろな施設があるから、何か困った事があれば行ってみるといい」
キセノンの指差した先には3階建ての建物があった。茶褐色の屋根に白く塗られた壁が映え、しゃれた雰囲気の木造の建築物である。公共機関が集まった所という話がうなずける大きさであった。
駐在所は本館の入り口にある。その入り口の近くに立っている制服を着た人物にキセノンは声をかけた。その若い男が治安組織の者のようだ。
「イリジー、ひさしぶりだな」
「あ、キセノンさん。こんにちは。それから、君もこんにちは」
イリジーはすこし姿勢をかがめ、オキシにもそう言った。
「こんにちは」
オキシはイリジーを見上げた。
キセノンと同じように鱗を持つヒトで、物をつかむには少し頼りない団扇に似た形の手をしていた。よく見れば咽部に外鰓が見えたので、おそらく彼は魚のような水棲生物が人型に進化した種族なのだろう。身長はキセノンのほうが少し高く見えるのだが、警察官や守衛といった強持てな職業の人という思い込みもあるだろう、より体格が良くみえた。
「キセノンさん。この子はどうしたんだ?」
「さっき保護したんだ」
キセノンはいきさつを軽く説明をする。
「実は例の通り魔についてなんだが……ほら、オキシ」
キセノンに促されて、オキシは不審者の情報をイリジーに差し出した。
「ええと」
警官のような職業の人と話そうとすると変に緊張してしまう。言おうとしていたことをまとめておいたのだが、いざ目の前にするとその言葉が気持ちと共に萎縮してしまう。
「昨夜、通り魔に遭いました。何があったのかよく分からないことも多いけれど、襲われて……なんか、すぐ気を失ったみたいで、気がついたらなぜか誰もいなくなっていて」
いきなり襲われ自分もよくわからないことが多いので、あやふやになってしまう。しかし、気絶している間に、右腕が切られていたことは確かで、放置すれば助からないほどの瀕死状態だったに違いない。
草原は少し背丈のある草むらに覆われており、しかも昼間でも人がいるかどうかの閑散とした場所だ。それが夜ともなれば、目撃者はほぼいないであろう。そして、どうやっても助からないほど瀕死であったと確かめたからこそ、彼はオキシを放置して去ったのだ。
そうでなければ、通り魔の彼があんなに慌てていたのかその説明ができないのだ。死んだと思った人間が全て元通りの状態でけろっと町にいたのを見かけたら化け物かと思うだろう。
それは決してよい記憶ではないのでオキシの表情は曇っていく。
昨晩の事を思い出し、血の気が引くような不快な寒けが全身を横切る、真っ白にしびれた音が聞こえ、考えるにも思い出すにもそれに必要な思考が記憶の想起が滞っている、いやその記憶そのものは鮮明にあるのだがうまく言葉にする事ができない。
それを見ていたはずなのに、過ぎる心象は霞の中にある恐怖の意識だけ、それだけが明瞭に記録されているのだ。
「ええと……うまく説明できなくてごめんなさい……」
しがみつくように無意識に右腕を握り締めていた。そこにそれがきちんと存在しているかどうかを確かめるようにしっかりとつかんでいた。
もう少し落ち着いてからなら言葉にすることも可能かもしれないが、今はまだそれができない。もうこれ以上思い出したくもない。オキシは目を伏せた。足元にある小石や雑草が二重にぼやけゆれている。
「あぁ、こわかったんだね。大丈夫。悪い人は、お兄さんたちが必ず捕まえるからね!」
イリジーは優しくオキシの頭をなでる。彼もまたオキシを子供だと思っているのだろう。
黙り込んでしまったオキシの代わりに、キセノンが自分の知っている事をいくつか補足した。先ほど広場で偶然その人物を見かけた事はもちろん、昨夜は町の外の草原にいたと思われる事、そのせいかどうかは分からないが記憶の混乱が起きている事など、キセノンはイリジーに伝えていた。
「今度からは夜遅く、外にいちゃだめだよ。でも無事でよかったね」
話を聞いてイリジーはやさしく言い聞かせる。
「……気をつけます」
それはオキシ自身も反省すべき点だとは理解しているが、今はそう頷くので精一杯だった。
「そろそろ行くか」
用件も済んだのであまり長居をしても仕方ない、キセノンはそう促した。
「捜査、お願いします」
オキシはイリジーに頭を下げる。
「確かに任されました。情報提供ありがとうございます!」
イリジーは敬礼をする。彼らの姿が見えなくなると彼は、入手した情報を本部へ報告するために奥の部屋へ入った。
「捕まるといいな」
通り魔の似顔絵を届け、やれることはやったという実感を得て、ひとまず肩の荷がおりたオキシはそう言った。
「ああ」
キセノンは頷き同意する。
「今度襲われそうになったら、おいらがやっつけるよ。だから大丈夫、おいらにまかせて!」
「ありがとう、頼りにしているよ」
得意げに胸をたたくロゲンハイドを見て、オキシはわずかに笑みを見せた。自分はここに生きていて、一人じゃないんだと思えること、それが今は心強かった。
次に向かったのは本館の2階である。飾り気のない色彩の壁紙に囲われたその部屋は、蛍火を閉じ込めたようなガラス管の照明に照らされ淡い色を落としている。事務所のような味気ないように見えて、どこかやさしい雰囲気がする空間であった。部屋には複数の机が並べられており、数人の人がそれぞれに作業をしている。
部屋にいくつか置いてあるのは観賞用植物だろうか、背丈の半分ほどの大きさで、緑の葉や赤い小さな実をつけた植物が鉢に入っていた。
オキシはその観賞植物が気になって仕方がなかった。枝は幹から手足のようにいくつも子吹いており、なかなか力強く開放的な見た目だ。しかも刺激を与えたら、いかにも動き出しそうな、曲がり具合である。
葉が茂っているものの、その葉のついている根元には綿毛で覆われた刺座があり、その枝を中心にして放射線状に鋭い棘が数本の伸びているのも見受けられた。刺座の特徴があるということは、この植物は地球で言うところの多肉植物に近い。この植物は多肉植物と同じように水の少ない乾燥した地域出身で、あまり水をやらなくてもいい植物のなのかもしれない。
オキシは、樹木なのか多肉植物なのかよくわからない、この変わった植物から目が離せなかった。
「やぁ、コルバート」
一番近くにいた茶けた翼を持った男に、キセノンは声をかける。
「キセノン、どうかしたのか? あぁ、迷い子か」
コルバートは、キセノンの傍らにいて植物をじっと見つめている小さな子に気がついた。キセノンがこのような迷い子をつれてくるのは、初めてではないのだ。
「そうだ。しかし、普通の迷子なら良かったんだがな。こいつは多分記憶喪失かもしれない」
キセノンは小声でコルバートに伝える。
「多分、と言うと?」
「その自覚があまりないんだ。名前や自分の国のことは少し覚えているようなのだが、詳しく聞こうとしても、要領を得なかったり、あやふやな答えだったり、常識も知らないことが多すぎる。全部忘れたわけじゃないから、忘れたことに気がついていないだけかもしれない」
「なかなか厄介ね状況だな。ふむ、こんなところで立ち話もなんだ。向こうで詳しい状況を教えてもらおうか」
「オキシ、行くぞ」
オキシは植物に夢中になっているのか、キセノンの呼びかけに反応を示さなかった。
「……またか」
キセノンはオキシの手を引いた。
「待って。刺座に、いた……」
なにやら訳のわからないことを言っているオキシを、キセノンは強制的につれていく。
「あぁ、やっと、見つけたのに」
細い口を茎に刺し、樹液を吸っている小さな生物を発見したのだ。邪魔をするキセノンに対しオキシは文句を言うが、今何をしているところなのか思い出し、すぐにはっとする。
「ごめん、つい」
一言、照れくさそうに謝るのだった。
「おまえは、夢中になると本当に周りが見えなくなるな」
キセノンは、呆れるしかなかった。
コルバートは一角にある木製の間仕切りで区切られた空間に案内する。
「あら、こんにちは。座って座って」
そこには女性が一人いた。その女性に促されオキシは革張りの椅子に座った。硬いかと思ったのだが、予想以上にふかっとする椅子で座り心地がよかった。心地はいいのだが、なれない感覚に逆になんだか緊張して体が硬くなってしまう。
「はじめまして。わたしは、ロジュヌ」
「こちらこそ、はじめまして。沖石です」
「オキシちゃんね。きれいな色の髪ね。珍しい色」
「黒色は珍しいの?」
オキシにとっては、彼女の頭から生えている渦巻いた特徴的な角や、羊のような水平に細い瞳孔をした瞳の方が珍しかった。
「そうね、黒い色はあまり見かけないわ」
「そうなのか」
思い出してみれば確かに、色素が濃くてもせいぜい紺や深緑、赤褐色や濃い灰色。地球では考えられない色を持っている生物も多く見られたが、町中で真っ黒を持つ生き物は見かけたことがなかった。
地球では黒色を体に宿すことは、珍しいものではない。むしろ、世界で一番多くあふれている色であるかもしれない。地球において黒色色素は、紫外線から守るために発達・進化してきたものだからである。太陽からの紫外線がある限り、黒色色素からは逃れられない。紫外線は生物にとっては脅威であり、老化の原因のひとつであるため非常に恐れる女性も多い。
さて黒が珍しいという世界に生きている生物たちは、地球の常識では考えられない仕組みで、紫外線から身を守っているのかもしれない。あるいは紫外線が特に問題にならず脅威ではない構造の生命たちなの可能性もある。この世界の太陽が発する紫外線自体が弱い可能性や、オゾン層のような紫外線を吸収する大気が地球よりも濃いのかもしれない。そういう可能性が思い浮かんでは消えていく。
環境が異なれば生命の理も異なるように進化する。とにかく紫外線から身を守る必要がなければ、進化の過程で紫外線を吸収するための色素が生まれる必要性はなくなる。
たまたま地球では黒色だったというだけで、この星では他の事で代用し防いでいる可能性もあるが、ともあれ結果的に黒色系の色素を生成する必要がない環境にあり、なかなか現れない珍しい色素になっているのかもしれない。と、安易な考えではあるがなんとなく納得のいくひとつの結論を導き出した。
(やっぱり、ここは地球ではないんだ……)
オキシはそう思いながら、コルバートとロジュヌの準備が終わるのを待っていた。
コルバートはロジュヌに二、三、何かを伝え、引継ぎを行っているようだ。ロジュヌは引き出しから書類を取り出し、そして口を開いた。
「今からお姉さんがいくつか質問するから、分かる所だけでいいから答えてね」
そう言われオキシは姿勢を正した。
「緊張しなくていいからね。あなたのお名前は? オキシでいいの?」
ロジェヌは子供に対して語りかけるようなやさしい口調で、オキシに問う。
「名前は沖石 醇奈です」
オキシは本名を名乗る。
「オキシジェンナちゃんね?」
どうしても、名前の発音が酸素のようになってしまうようだ。ささやかな違いではあるが、自分の名前が異なった発音で呼ばれるのは、それはそれは違和感がありまくる。本当は「ジェ」ではなく「ジュ」であるのだが、しかし、その発音の訂正は難しそうであるし、なによりも面倒くさかった。
「まぁ……そんな感じです」
もうすっかり訂正をあきらめているオキシであった。
「オキシジェンではなくて、オキシジェンナだったんだな」
キセノンは、ようやくあの時不機嫌になった理由を知ったような気がした。一字とはいえ、名前を間違えられたら誰だって不機嫌になるだろう。
「あの時は……訂正も面倒だから、そのままほったらかしにしただけだよ」
オキシが「酸素」と言われることに、こんなに敏感に反応してしまうのには、理由があった。
中学か高校かはもう忘れてしまったが、化学の授業だったことだけは覚えている。酸素がOxygenということを知ってしまったのだ。口には出さなかったがクラスの何人かもおそらく気がついただろう。自意識過剰なつもりはないが、その授業の間、なんだか視線が気になって仕方なかった。
自分の名前は酸素に似ている。これは偶然ではないだろう。彼らなら、やりかねないのだ。オキシの両親もまた変わり者であったので、「六月生まれだから、子供の名前を酸素っぽい名前にできる!」というノリで考えてもおかしくない。あの時は、本当に親の名づけセンスを疑ったものだ。だが、いくら酸素に似た名前でも、断じて自分は「オキシジェン」ではないのだ。
「僕のことは、今まで通り沖石でいいから。故郷ではそう呼ばれていたし」
醇奈というその発音に訂正することが難しいと思っているが、だからといって酸素によく似た響きの「ジェンナ」と呼んでほしいとは決して思わないのだ。
「オキシがそれで構わないというのであれば、そうしよう」
キセノンは承諾してくれた。
「次の質問いいかしら? オキシちゃんは、いくつ?」
ロジェヌは次なる質問を投げかけた。
「二十三歳」
「二十三?」
その場にいた者たちは戸惑いの表情を浮かべた。オキシの予想通りの反応を彼らは示したので、ついついため息をついてしまう。
『オキィシちゃんは、二十三だったんだね。おいらはてっきり、ここ数日中に生まれたばかりの赤子だと思ってた』
戸惑う彼らに混ざって、ロゲンハイドは意味のわからないことを、こっそりと伝えてくる。
『なんだそれ』
『だって、そう感じたんだ。気配は赤子と同じで、まだまだ世界に馴染みきってないんだもの。でも体はしっかり定着してて、だから何だか変な感じがしておもしろかったんだよ』
ロゲンハイドの面白そうに笑う言葉が送られてきた。
(生まれたばかりと同じか)
この世界にやってきたばかりだから、ロゲンハイドの言うことは、あながち間違ってはいないのかもしれない。
「でも、僕は二十三歳だよ」
こればかりは譲れないのである。
「あぁ、オキシちゃんの国で使っている暦では二十三歳になるのかな」
コルバートは納得しようにうなずいた。彼のその言葉から伺えることは、この世界にはさまざまな暦があるということだ。ここは異世界なので、地球での暦、つまり一年十二カ月三百六十五日であるとは限らない、というよりも同じであったならば逆に驚きである。
「まぁ、そうなるね」
オキシはコルバートの問いに対しては、肯定の返事をした。
「でも、一応言うけれど、僕の国では二十歳からが成人だよ」
オキシは個人的に重要なことを言った。彼らの言葉には、どうも子供扱いの気が含まれていて、なんだがむずかゆいような、恥ずかしいような、そんな変な気分になるのだ。
「二十から成人? ああ、ずいぶんと、おさ……若く、見えるね」
再び予想通りの反応をありがとう、とその様子を見たオキシは思う。
「外見が幼く見えるのは、民族としての特徴という話は聞いたことがあるよ」
アジア系の人種は若く見られがちという現象は話に聞いたことがあったが、それは異世界でもなぜか起こることらしい。
「じゃあ、オキシちゃんの一族はみんな大人になっても子供みたいな外見なのね」
ロジェヌは、なるほどと頷いている。
「顔の雰囲気というか、骨格も体型もどう見ても猩種あたりの子供だよな。大人になっても子供のようだなんて、なんだかかわいい種族だな」
コルバートはオキシの頭をもしゃもしゃとなでたり、頬をつついてみたりと遊んでる。オキシはされるがままだ。
「ちょっとコル。かわいそうよ」
(子供に見える種族、か)
オキシは彼らの反応を見て、一つの説を思い出していた。
(僕が子供に見えるのは人種の特徴から来るものではなく、地球と異世界の進化の過程が違うから起きているのではないだろうか? そうだよ、もしそうであるならば色々納得がいく。そもそも異世界で地球人の微々たる人種差的な感覚が起きているのは、どこかおかしいと思ったんだよ)
地球の現人類は類人猿の幼形成熟と言う説がある。幼形成熟とは性的に完全に成熟しているにもかかわらず、幼体の性質が残る現象のことで、何百万年もの昔、猿の中で幼児のような形態のまま成熟するようになる進化が起こったものが、今の人類になったという考え方があるのだ。
実際に、人類とチンパンジーの大人同士を比べるよりも、大人の人類と子供のチンパンジーと比べた方が似ている点が多く、人類はまるで猿の子供をそのまま大きくしたように見えるというのだ。
子供の特徴を残したまま成長していく幼形成熟が起きていない異世界人類にとって、地球人類は成熟しても顔は丸みを帯びたままで幼く、成体の立派な身体に比べて華奢になり、どう見ても子供に見えてしまうのかもしれない。
「とにかく……」
オキシはコルバートの手を払いのける。
「僕の国では特に、若く見られることをありがたがる価値観を持っている変な民族だから、若く見られる事はすべてほめ言葉として受け取ってしまいそうになるけれど。でも、どうあれ自分は二十三年生きてきたと思っている」
幼く見えてしまうのが、進化の過程上によるもので仕方のないことだったとしても、だからといって子供扱いされることを納得したわけではない。なので少し皮肉を含んだ言い方になってしまう。
「ま、まぁ、種族の文化には色々あるからな。そうそう、キセノンの所は、なかなかに独特な年齢の数え方するよ?」
少しいじりすぎたかなと思ったコルバートは、さりげなく話題を切り替えた。
「そうなんだ。キセノンはいくつなの?」
爬虫類系の顔をしたキセノンの年齢は、外見からは全く想像もつかなかった。落ち着いた雰囲気だが、だからといってそれほど歳をとっている感じは受けず、まだ若者であるという認識くらいしかなかった。
「歳は54だ。俺らは脱皮すると、暦に関係なく1つ年をとる」
「じゃあ、キセノンは54回脱皮したんだ」
さすが爬虫類、予想外の年の数え方だ。どのくらいの頻度でそれが起こるのかは分からないが、今までに相当な回数の脱皮を行ったことになる。
どういう風に脱皮をしていくのか、オキシは興味を持った。蛇のようにきれいに皮が剥がれて形が残るのだろうか、それとも、トカゲやカメのように、1枚1枚めくれるように行われていくのか、いずれにしても好奇心を誘う魅力的な事象である。
「ちなみに、この国の暦に直すと八十歳くらいだろうか」
「八十……案外お爺さんなんだな」
この地域で使われている暦は知らないが、キセノンが言った予想外の数字にオキシは驚いてしまう。
「じ、爺さん? 知らないと、そうなるのか。オレたちの種は長命なんだ。軽く数百年は生きるぞ」
数百年生きる種族において、百歳なんてまだまだ若者の部類である。
「数百年生きるのか、すごいね。僕の国では八十も生きると死ぬ人が多いのに」
「哺乳族にしては長生きだな」
「そうだね。僕の国は他と比べてちょっとだけ長生きなんだよ。普通はどれくらいなの?」
地球人類全体での平均寿命は六十七歳くらいであるというのをオキシは聞いたことがあった。この世界の哺乳人類はどれくらいの寿命を持っているのだろうか。
「確かこの国では平均すると六十くらいだったかな。魔術を使わないで普通に生きた場合は」
どこの世界にも、不老長寿や不老不死になろうとする人はいるらしい。だが地球と異なることは、完全なる不老不死は実現していないものの、それに近しい術が存在するということだ。危険は大きくとも、得られるものの魅力は大きく、この術を行おうとする者は、いつの時代にもいるようだ。
「長生きの、やっぱりあるんだ、そういうの。少しおもしろそう」
生命の寿命や老化、命の根源の何たるかは研究の対象としてはなかなか関心がある分野ではあるが、だからといって自分がそうなりたいからくる探究心ではないので、不老不死の真理を追い求めている人と話しても方向性が異なり、話が合わないかもしれない。
「おもしろそうと言う好奇心だけで、実際にやられたらたまったものじゃないがな」
キセノンはそう言った。不老不死の魔術は、材料は手に入りにくく、成功率もそれほど高くはない。失敗すれば、ときに取り返しのつかないことになることもあるのだ。
「盛り上がっているところ悪いけれど、次の質問いいかしら?」
「あ、はい」
オキシは、慌ててロジェヌの方に向き直った。
オキシがロジェヌの質問に答えている間に、キセノンはコルバートに尋ねておきたいことがあった。キセノンは懐から紙切れを取り出し、それをコルバートに見せる。それは虎狛亭でオキシがキセノンに渡したチラシの切れ端である。
「こういう文字を見たことがないか? 今のところ手がかりになりそうなのは、この紙切れに書かれた文字だけなんだ」
この場所には、さまざまな国からの人がやってくる。キセノンよりも彼らの方が異国の言葉や文字には詳しいのだ。
「こんな複雑な形を持つ文字は精霊文字くらいだが、それとも全く違うな」
何か分かることがあれば、手がかりになると思っていたのだが、この紙に印字された文字はコルバートも見たことがないものらしい。
「ん、裏になにか書いてあるね」
コルバートは、裏に何か書いてあることに気がついた。チラシの裏を見ようと裏返そうとした。
「裏は関係ない」
キセノンは紙を奪い取ろうとする。その紙の裏には似顔絵が描いてある。自分の似顔絵が描かれたものを他人に見られるのは、どこか照れくさい。
「あ、キセノンそっくりだ。なかなかじゃないか。これはどうしたんだ?」
「オキシが描いたんだよ、なりゆきでな。俺が最初に見かけた時も、外の草原で何かをじっと見ては絵を描いていたんだ」
「絵描きか何かなのか?」
「それが、そうでもないらしい。描いた絵を売って歩いていたような感じではなかった」
オキシ本人から、「他人のためにというのが足りないから、売る気がない」というようなことを聞いたのだ。
「そうか。絵からさぐるのは難しそうだな。まぁ、外見も珍しいから、この周辺の噂を調べ回れば、どこから来たのか軌跡くらいは調べることはできるだろう。俺の翼でひとっ飛びだ」
コルバートは背中に生えた自慢の翼を広げてみせる。
「それを口実に、仕事をサボる気だろう?」
「ちゃんと仕事はするぜ?」
コルバートはやにやと薄笑みを浮かべている。まず間違いなく怠ける事を企んでいるであろう顔である。
「さぁ、ここに名前を書いて」
書類には本人が書いた署名が必要なので、この国の文字で自分の名前をどう書くのか、ロジェヌに教えてもらった。名前の文字数から推測するに、おそらくアルファベットのように子音と母音のそれぞれが文字を持っている体系のようだ。そうであれば、いくつかの記号を覚えさえすれば大体の文字を解読することは可能になるだろう。
自分の名前をどう書くのか分かったのは、収穫であった。初めて書き込む文字を見ながら、オキシは満足していた。
「おつかれさま。これで書類はおしまいね」
一通りの書類はできあがった。これで少しの間であるが、ここにある宿泊施設の寝床を借りられることになった。しばらくの宿泊先は、無事に確保できたのだ。
「短い間ですが、お世話になります」
「キセノンと相談したんだけれど、彼がオキシちゃんに組合の案内をすることにしたよ。俺らが案内するよりも、適任だと思うんだ」
終わった事を見計らって、コルバートがそう語る。そう、キセノンに依頼したのだ。
「いい考えね。懐いているみたいだし」
ロジェヌも賛成する。この流れはいつもの事なのだろう、キセノンもこうなることは分かっていたようだ。
「しかし、今日は色々あったからな、もう休むか?」
「大丈夫だよ」
「いや、無理はしないほうがいい」
草原で少し昼寝をしたとはいえ、オキシはおそらく十分な睡眠をとっていないとキセノンは思っていた。今はまだ体には出ていないが、きっと疲れている。早めに休ませたほうがいいような気がしたのだ。仕事探しは明日でもいいだろう。
「そうそう、無理はよくないわ。そろそろ夕刻だし、晩のご飯でも食べくるといいわ」
ロジュヌはそう提案する。もうそんな時間らしい。
「……というか、食え」
キセノンはため息をつきながら言った。
「う、うん」
オキシは特に食べる必要はないのだが、断れる雰囲気ではない。
「夕飯も虎狛亭にするか? それとも、別なところで食べるか?」
「虎狛亭でいいよ」
場所見知りをするわけではないが、改めて店を選ぶのも面倒くさかったのだ。
「じゃあ、行くか」
「いってらっしゃい」
コルバートとロジェヌに見送られながら、二人は外へ出た。