10・プラナリアは、その切れ端から再生する。
精霊が出現すると、それを感知できる者たちがいる。ここは人の集まる町の広場と言うこともあって、その能力を持つ者たちは多くいた。
精霊が現れた、それだけなら少しも珍しいものではない。精霊はどこにでもいて、いつでも気まぐれに現れる現象のような者なのだから。しかし、今回はいつもと異なっていた。広場の一角から契約時特有の魔力の流れが発生したのだ。それは今まさに契約が行われたという証である。
「……何やってるんだ、あいつは。本当に何をしでかすか分からんな」
キセノンは呆れ、そうつぶやいた。
この広場に満たされた気配を感じて振り返ってみれば、それを行っていたのがオキシだったのだ。今回は精霊だったからよかったものの、この調子じゃ口のうまい悪人にもついていきそうな勢いだ。
「面倒見のいい精霊だったら、いいのだが」
買うものを買ったキセノンは、オキシの元に急いで向かった。
無論、それを感じたのはキセノンだけではなかった。
「こんな町中で精霊の契約、か」
フォスファーラスはたちこめる微かな魔力を感知した。どこでそれが行われたのかは不明だが、近くでそれが行われたのだけは確かだった。
『最近の若し同胞は、なっておらぬ』
彼に付き従う赤い精霊は嘆き、炎がゆらめくように深いため息をついた。
「このような小さな田舎町にいる精霊の格は、たかがしれているだろう」
『左様、未だ物知らぬ、生を得たばかりの幼子じゃ』
町に憑く精霊は、その地に住む者たちの営みが作り上げる。この地に人が住み始めて約四百年、その町で生まれ育った水の精霊もその流れとともにあった。しかし、何千年もこの大地に在ったこの炎の精霊にとって、たかが数百年程度しか存在していない者はみな、幼子なのである。
「まぁ、わたしには、どうでもいい事だがな」
彼はそれ以上のことは気にもとめず足早に広場から去っていく。こんな些細なことで、自分の貴重な時間を無駄にするわけにはいかないのだ。
(どうやら、あの子が契約したみたいね)
組合で受付嬢として働いているサルファは仕事の手を止めて、窓の外を見る。そこからかろうじて見える噴水の縁に座っている子が、どうやら精霊と契約をしたようなのだ。
精霊と契約を終えた黒髪の子供は辺りのざわめきなど全く気にした様子もなく、景色を眺め始めていた。これ以上進展がなさそうだと確認すると、彼女は自分の作業に戻るのだった。
このように精霊を感じ取れる人々の中だけではあるが、オキシの知らない所でこの出来事は知られていたのであった。
「待たせたな」
買ってきた飲み物を差し出しながら、キセノンはオキシの傍らにいる精霊に目を向けた。
「……で、その精霊と契約したのか?」
オキシの肩に肘をついて背中側で足をぶらぶらとしている水の精霊を見て、確認するようにキセノンは言う。
「この人も精霊と契約しているね」
ロゲンハイドはキセノンから漂う同胞の気配を感じた。
「あぁ、風のと、ちょっとな」
ロゲンハイドとキセノンは普通に、そう、空気を震わせて音を伝える方法を用いて会話をしていた。
「ん? あれ、普通にしゃべれるのか?」
ロゲンハイドが声を音として発音していることに、オキシは気がついた。
「もちろんしゃべれるよ」
相手の意識を震わせ音を伝えることができる精霊にとって、空気を振動させことによって音を伝えることなどたやすいのだ。
「じゃあ、今度からはそれでしゃべってよ」
てっきり精霊とは会話するには脳内でしかできないのかと思っていた。普通に音を発して会話ができるのならば、最初からそうしてくれれば良かったのにと、オキシは思う。あの直接頭の中に声が響くという現象は、むずがゆく非常に気色が悪いのだ。
『覚えていたらね』
ロゲンハイドは「くくく」と笑い、わざと頭の中に語りかける。
「やっぱり噴水の底に沈めてしまおう」
思っていることが口に出てしまう。
「ふむ、この精霊は見たまんまの水の精霊か」
オキシの悪態は放っておいて、キセノンはロゲンハイドを満たす属性を見ていた。
精霊は基本的には己の性質にのっとった容姿をとるが、人が様々な服を着こなすように見た目と反する属性の外見を好んでとる精霊も時々いるのだ。
それは風の精霊に多い気質なのだが、いわゆるおしゃれ好きな精霊になると、呼び出すたびに見かけが大きく変わっていたりするのだ。しかし、どんなに姿が変わったとしても、本質は変わらないので、慣れてしまえば惑うこともなくなる。
「水を操れるんだって、すごいよね。これで風呂とか洗濯の手間要らずになったわけだ。もう泥だらけになっても、見つかる前にどうにかすれば、誰にも文句は言われまい?」
オキシはにこやかに口走る。
「おう、おいらは汚れを落として、乾かすよ!」
ロゲンハイドは、小さな腕で胸たたく動作をした。
「これからよろしく頼んだ」
「まかせとけ!」
オキシとロゲンハイドは、手のひらと手のひらを合わせた。
「お、おまえらなぁ」
まるで長い付き合いの友人のような息ぴったりの様子に、キセノンは呆れてため息しか出てこなかった。
「それにしても、キセノンも精霊と契約しているのか。風の精霊ということは、さっき使った乾かす魔法は精霊が?」
キセノンが風の魔法を使っていたのをオキシは思い出した。その時、精霊の姿は見えなかったが、精霊は契約者の魔力を使い、自分の属性の魔法を使うと聞いたので、オキシはそう思ったのだ。
「いや、あれはオレ自身の魔法だ。オレの精霊はなんと言うのか攻撃専門なんだ。まぁ、機会があれば紹介する。あれは、町中で呼ぶにはちょっと危険すぎるやつだしな」
「危険なんだ」
「呼び出してすぐ口にするのが『どいつが相手だ』だからな。何よりも爆風と共にやってくる」
しかも、それは好んで火の精霊に擬態しようとする、激しい性質を持つ風の精霊である。
「そ、それじゃあ、町で呼ぶのは難しいね」
「おいらも、あいさつ代わりに小規模だけど爆ぜれるよ!」
ロゲンハイドは手を天高く掲げた。手のひらに小規模ではあるが、何かが集まっていくのが見えた。
オキシは思わずロゲンハイドの手を握り、下へ降ろした。するとその不穏な気配は急速に大気に散っていく。どうやらそれが発動する前に拡散させることは成功したらしい。
「ロゲンハイドちゃんは、マネしなくていいから」
「ちぇ、この程度なら、町中でも大丈夫だったのに」
ロゲンハイドは残念そうに舌を鳴らした。
「まぁとにかく、ほら飲み物だ」
キセノンはオキシに買ってきた飲み物を手渡した。
「ありがとう」
オキシはキセノンから飲み物を受け取った。
紙製の器に入った飲み物は澄んだ黄色をしていて、何の茎か分からないが麦稈のような中空の細い筒状の道具がささっている。これはどう見てもストローである。
異なる世界であっても似たような生活様式を持つ文化があれば、生活用品も近似した形質になっていくのだろうか。そういえば、先ほど食べた食堂の食器も地球と変わらない物であった。世界は違えど、同じ用途に使う道具は似通った形に洗練されていくのだろうと、オキシは考察した。
ストロー代わりの茎。
このように茎を、使い捨てのストローとして流通させることができるということは、穀物か何かを育てている田畑があるのだろう。食肉も普通に流通しているようなので、干し草を食べるような家畜を飼ってい可能性も高い。
そうであれば、畑の一角に長期保存可能な飼料にするための飼料貯蔵庫があるだろうか。それがあれば草を発酵させている微生物を見つけるのに最高な場所になる。
そういう施設が存在せずに、ただ土に埋めて肥料にしているだけだとしても、そういうところにはそれらを分解する微生物がたくさんいる。
あるいは、手間と労力はかかるが、収穫後の田畑に置いてあるような円筒状の牧草ロールくらいは自力で作れないこともない。
(乳酸発酵やアルコール発酵といった有益そうな発酵をあえてしないで、普通にカビを生やして腐敗せたりするのも、また別な面白い一面を見ることができそうだから、それはそれで一興かもしれない)
そんなまだ見ぬ微生物のことを思いながら、オキシは管に口をつけて液体を吸い上げる。甘さと、さっぱりとしたほのかな酸味の香りがした。
「うまいか?」
キセノンが尋ねる。
「ん、不思議な後味だけれど、甘くておいしいよ」
「星の実ベースだからな。子供に大人気なんだ」
「子供に人気、ねぇ」
この甘くて飲みやすい味は、確かに子供向けのようにも思える。おいしいのは認める。しかし、ささやかに子ども扱いされてるような気がするのは、やはり嫌であった。
「それにしても、案外おとなしく待っていたな。また話にならないような状態かと思ったぞ」
精霊と契約するという出来事はあったが、思っていた以上に普通の状態だったのだ。最悪の場合、あの草原で見かけた時のように『何か』をじっと見ていると思ったのだ。
「まぁ、いろいろあったしね。あと、こんな人の多いところでは、あんな風にはならないよ。たぶん、基本的には……」
オキシの声が小さくなっていく。
ロゲンハイドが話しかけてこなかったら、危うくまたどうしようもできないくらい、のめり込んでいたかもしれないことを思い出す。
今回はロゲンハイドが頭の中に話しかけてきたので、それが気色悪くて思ったように観察できなかっただけなのだ。気になることがあれば人目がある場所だろうと無かろうと、本当に些細なきっかけで気持ちが高ぶり我を忘れてしまうとも限らないのだ。
「あぁ……すごく気になることがあったら、駄目かもしれない」
「だろうな」
まだ出会ってから間もないが、それだけははっきりと分かるような気がするのだった。
オキシが飲み物をこくこくと飲んでいた。すると、ロゲンハイドが静かに寄ってきた。
「ねぇ、なんかさっきから奇妙な視線を感じるんだ」
精霊は気配に敏感である。ロゲンハイドが感じたその視線はオキシに向いており、何かを確かめるような、そして不安や危惧の感情を含んでいて、居心地が悪かったのだ。
オキシは顔を上げて、ロゲンハイドが指差す方向を見た。契約した者同士の感覚は多少共有にすることができる。詳しい説明など無くても、見ているものの方向や距離は狂い無くわかるのだ。
人の通りは途切れることなく流れていたが、その合間を縫ってこちらを伺うように見ている人物がいた。
彼は一言で言うと赤い人であった。羽織っている外套は控えめの色であるが、髪はもちろん、その下に見える身体は赤褐色の甲殻を身につけているのだ。鉤のある尻尾がなければカニかエビを思い起こすほどに、つやのある渋い赤を印象づけている。
その男とオキシは目が合った。その瞳までも赤い瞳をしている。
それまでは不確定さを確かめるような顔つきが表に出ていたが、視線がぶつかった事によってそれが確信に変わり、彼は動揺した様子で慌てて逃げていった、ようにオキシには見えた。
「行っちゃったね。なんかすっごい驚いていたけど」
ロゲンハイドは、口を開いた。
「今のは知り合いか?」
キセノンは、遅れてオキシとロゲンハイドの見ている視線の先を見たが、去っていく直前の姿しか捉えることができなかった。
「知らない人」
オキシは首を振り即答する。蠍のような容姿をした知り合いはいないはずである。そもそも地球からこの場所へ来たばかりなので、知り合いはいないと言っていい。
「本当に知らないのか?」
キセノンがそういうのも仕方ないだろう。ちらりとしか見ることができなかったが、それでも普通ではない雰囲気を感じ取れたのだ。オキシはまったく気がついていないようだが、それはまるで化け物を見るような、そんな目だったのだ。
「はて?」
当のオキシは全く身に覚えが無いのか、まるで隙だらけの無防備な表情を見せていた。
「俺の知らないところで何かやらかしたんじゃないのか? そう、たとえばあの草原で会ったとか」
いくら人気が無い場所とはいえ、あの場所に少なくとも一昼夜いたのだ。自分以外にも話しかける人がいてもおかしくはない。
しかし、いくらオキシが奇妙な絵を描いていたり、意味不明な行動、言動をするとはいえ、それだけでああなるとは思えないのだ。あのうろたえぶりは、それほど尋常ではなかった。
「キセノン以外で会った人、ねぇ……」
オキシは記憶の糸をたどるように目を細め、低い声で唸っている。あの時のオキシは異常なまでに集中していたので、意識の外で起こった出来事は、ぼんやりとしか覚えていなかった。
「話しかけてきた人は何人かいたのは覚えているけれど。邪魔しないでって言ったら、そのままにしてくれた人が大半だったかな。僕もそっちの方見てないから、その人たちの顔はまったく分からない。
ただ、キセノンみたいにちょっとしつこかったのが一人いたような気がする。邪魔しないでって言ったら、邪魔しないって言っていた。よく覚えていないけれど。そういえば、その人は赤い色をしていたような気がする」
オキシの記憶はいまいちはっきりとしないようだ。しかし、何かあったことはその反応から確かである。
「詳しく聞かせてくれないか?」
「僕もよく分からないんだけれど。キセノンを無視してから、少し経った頃かな」
オキシの言う「少し」と言うのが数分後なのか数時間後なのかキセノンには判別がつかなかったが、指摘するのは野暮であるし、ややこしいことになりそうなので、水はささないでおいた。
「何かあったのか?」
キセノンのその問いにオキシは首を少しかしげる動作をして少し長めに思索し、たった一言だけキセノンに伝えた。
「……変な感じが、した?」
「は? 何を言っているんだ?」
状況が全くもって分からないので、キセノンは思わず聞き返してしまった。
オキシは記憶を脳内で再生するだけで、他人に伝えるための言葉に変換しての状況の説明は全くしていない。不意に思わず口に出してしまったオキシの第一声に、状況を理解できるはずのないキセノンは聞き返すことしかできなかったのである。
「え、ええと、状況を思い出すと……それがあったかどうかは定かじゃないんだけれども……ええと、あれは、確か……」
オキシは思い出せる記憶を、順に言葉にし始めた。オキシは思い出す、あの時のことを――
――月が空に輝いている。
それは大きな、大きな満月であった。
あたりは暗くなり始め、世界は徐々に夜へと移行していく。
その頃になると、オキシは描く作業もほどほどに、水中を漂う微生物たちをただひたすら眺めているだけになっていた。刻々と景色は移り変わっていくが、観察に夢中のオキシはその緩やかな変化に気がつく事は無かった。
電子顕微鏡と同等の視覚を持つという能力があるオキシの眼は、電磁波(可視光線)の範囲が強化されたのはもちろん、粒子線(電子線)の波長まで知覚することができるようになっている。眼の能力を使用すれば、たとえ闇に覆われる夜になっても、別の波長で補って世界を認識できるのだ。太陽から放たれる光線が減った程度では、視界に大きな変化は起きず、見えなくなって困るということはないのである。
そのようなこともあり、夜になったことさえ気がつかず、時間が過ぎるのも忘れて、オキシは夜を徹する勢いで観察をしていた。
空を覆う満月は、天頂に輝きはじめた。
花はしぼみ、草木は露にしなり、そのたゆとう闇に鳴く虫たちが曇りのない静寂を奏でている。世界はもうすっかり夜の様相で、皓々と月明に包まれていた。
そんな時である、背後から男の声が聞こえたのだ。
「何か探し物かい? 俺も手伝おうか?」
「邪魔しないで」
オキシは今までそうしてきたように機械的に返答した。
「……そうか、それはすまなかった」
彼はそう言った。それが彼の発した最後の言葉だったことを、オキシは記憶している。本来なら何の変哲も無いやり取りなのだが、その違和感はすぐにやってきたのだ。それは一瞬のように感じたが、血の気が引くような、ぞわりとした痺れが次第に感覚を奪っていってのだ。
聞こえていた虫の音が無くなった。意識はぼんやりとある、自我と体の主導権はない、目の前から思考が消えていく。世界の色が失われていく。
ふわりと眠気に襲われたように朦朧としたまどろむ感覚に、オキシはこのままこの心地のいい世界を感じているのも悪くないかなと思い、この「眠気」を受け入れてしまった。
どこからが夢であったのかは定かではないが、その意識が落ちる前、闇の中で確かに蠍の尾のようなものを見たのだ。そう、まるで、さきほど見た広場から去っていく彼のような、赤い赤い甲殻を身にまとった人の形を。
それは心地よく全てがおぼろであったため、それらすべてが夢の中での出来事かとオキシは思っていた。
そして。
気がつくと、もう誰もいなかった。
少し眠気を感じ、意識が落ちていたのかもしれない、オキシはその程度に思っていた。いくら様々な耐性を得たとはいえ、気を緩めてしまっては意味がないのだ。
オキシは起き上がり体についた砂を払う。水たまりのある周辺以外は土は乾燥しているとはいえ、地に伏していたので大分砂にまみれてしまったのだ。
土を払っていると、ふと、なんとなく右腕に違和感があった。見てみと袖をまくった覚えがないのに、まくられていた。心なしか肘の辺りから先の腕がほんのり白いような気がした。そしてすぐそこに落ちているのは、人間の腕らしき物体であるような気がした。
「……まぁいいか」
深く考えないことにした。そしてすぐさま観察する作業に戻り、愛しの微生物たちが動き回るのを眺め始めた。
水たまりにいる微生物は、自由に泳いでいる。これはおそらく小型甲殻類の一種だろうか。滑らかな流線型の体がすばらしい。
吻の横に生えた櫛のような第一触覚は、水中の植物微小生物を掻きこむために、せわしく動いている。体が透明であるので、体内を移動する様子がよくわかる。食べると同時に排出する、なんとも簡単な消化器系だが、口、消化管、肛門までどのように流れていくのかがよく観察できた。
第一触覚の隣から生えている第二触覚、それは左右に一本づつあり、四つの関節を持っている。その第一関節からは三本の繊毛に分かれ、その繊毛と繊毛の間は膜で覆われている。それを使って水をかき移動していた。
泳ぐための遊泳肢、動物性微生物の腕、泳ぐためにそう進化した腕。
……腕。
……腕、腕、腕!
「腕が何でこんなところに落ちているんだよ! 気になって仕方が無い。本当に観察の邪魔だな」
その落ちている腕らしきものが気になって、集中力がすぐに切れてしまった。こんなものが、近くにあるのが悪い。気味が悪い。
落ちているのは人間の腕だ。詳しく確認してみたところ、これは間違いなく自分の右腕であった。見覚えのある位置にほくろがあったのだ。
「……にしても、僕の体は再生までするみたいだ、まるでプラナリア。すごいな」
プラナリアとは非常に再生能力の高い生き物である。頭を失えば頭が生え、尻尾を失えば尻尾が生えてくる。切り離さずに半分ほど縦に裂いた場合は、その傷口どうしがくっつき合ってふさがるという再生はせず、頭側ならば双頭になり、尾側ならば双尾というように再生する。
嘘か本当かは分からないが、50ほどの断片に切り刻んだとしても、再生できる栄養環境さえあれば、そのそれぞれからプラナリアが再生し50頭になるという逸話まであるほどだ。
たいていの場合は正しく再生するが、ごくたまに再生させる方向を間違えて頭から頭が生えて両先端が頭になってしまったり、両方がしっぽになってしまったりする、かわいいやつでもある。とにかくプラナリアとは失った部分を再生しようとする生き物なのだ。
落ちている腕が再生しないままであると言うことは、プラナリアとは異なり、全ての断片からは再生することはないのかもしれない。この腕からも自分が再生してもう一人増えると言うことはなさそうである。その点では安心した。
「自分の切れ端が片っ端から再生していたら恐ろしいものな。しかし再生する体とは……ちょっとそれは、我ながら不気味だ」
もしも微塵のばらばらになった場合は再生するのか、するとしたらどれがするのか、気にはなるが実際に試してみる気にはなれない。
「微生物には再生すると若返るやつがいるけれども……」
自身の体は環境への耐性もある。それで再生する能力もあるということは、不死に近い体質になった可能性がある。さらに言えば、最善の状態に再生し続けるならば、もしかすると細胞死関連も変更されており、簡単な不老のようにもなっているかもしれない。
しかし世界に完全はありはしない。不老や不死に近いというだけで、その時がきたら案外簡単に地に還ることになるかもしれない。
人間は時間に限りがあるから毎日を生きている。永遠を手に入れれば、いつかできると何もしなくなってしまう怠惰な生き物だ。少なくとも自分は限りある人生だから、その制限された中でやりたいように自由に生きるそういう人種だ。
(僕は何歳まで生きるんだろう? 死んでみるまで分からないか。何歳まで生きるのか、楽しみに生きてみよう)
「今はとにかく、あれをどうにかしなくちゃ、近くに置いておくにはちょっと気持ち悪い」
地面に残された腕という人体の部品を見てつぶやいた。もともと自分の右腕だったとしても、やはり、切り離された部位というものは、生理的に不気味さを覚えるのである。
「それにしても……腕が取れるなんて、結構な怪我のはずなのに、こんなに出血が少ないと心臓仕事して! って、ちょっとだけ思うよ」
この右腕さえなくなってしまえば、ここで犯行が行われたとは思わないだろう。それほど血に染まった草や真っ赤な水たまりがないのだ。
「さて、どうしたものか」
夜もあけそうな時間、ほんのりと青い太陽が月明かりの陰から顔を覗かせ空を染め始める、そんな時間。オキシは「ていっ」と空高く放り投げる。青い太陽に照らされた大地の向こうへ、きれいな放物線を描いて飛んでいく右腕。
この世界にとっては異世界産の異物ではあるが、きっと野生の動物や昆虫や微生物が食べ、分解し、いつしかこの大地に還し、この世界の一部として扱ってくれるだろう。
右腕を見送り満足したオキシは微生物の観察を再開したのだった――
(しかしまぁ、熱中している時は本当に全てが些細なことになるんだな)
オキシは、過去の出来事を脳内で再認識する。
夜になったのも、空が明るんだのも、思い出してみればなんとなく感じていた。そのはずなのだが、まったく意識の中に入ってなかった。
「多分、僕はあの人に斬られたんじゃないかな? そう思うと彼があわてて逃げた理由に納得がいく。斬ったはずの人間がこんなにぴんぴんしているのだもの……というのか、彼も平然としていれば誰もまったく気がつかなかったのに、彼は案外ドジだねぇ」
自分の腕が落ちていたという状況から推理した結果、それしか思い当たることはが無い。自身に起きた事柄なのに、オキシはまるで他人事のように涼しい顔で言う。
「やつは、最近町でうわさになっている通り魔なのか?」
最近、夜の町を一人で歩いていると突然襲われる事件が発生しているのだ。同じような事件は周辺の町でも起こっていたが、いまだ尻尾をつかめておらず、人々は姿の見えない通り魔の姿におびえていた。夜にしか現れないこともあって、今となっては夜に一人での外出を控えるほどになっている。
犠牲になるのは子供やかよわい女性、時にはあまり争いごとが得意ではなさそうな男性といった、いわゆる楽にねじ伏せられるであろう者たちが多かったが、ひとりで見回っていた警備の者も襲われたことがあるので、犯人はかなりの実力者だと考えられた。
「通り魔なんて本当にいたんだね。物騒だ」
オキシはやはりそっけない言葉を放つ。
「よくお前は無事だったなぁ……ちょっと待て、斬られったって? 怪我は大丈夫なのか?」
あまりに呑気に話すので、キセノンは重要な情報を見逃してしまうところだった。
「もう治ったから大丈夫だよ」
右腕が再生したばかりの朝方の頃は少し色が異なっていたが時間が経ち、今はすっかり馴染んでいた。切り離された跡さえ残っておらず、見慣れたホクロは無くなってしまったが、すっかり元通りになっていた。
「治った? 話はよく分からんが、問題はないようだな」
オキシの性格からして、治ってなくとも、治ったと言いそうだが、元気そのものなので、さほどひどい怪我ではなかったのだろう。
オキシに再生の能力があることを知らされていないキセノンだったが、とにかく怪我をしていないことにすっかり安心し、安堵の息とともに様々な疑問はどこかへいってしまった。
「ん……通り魔? 通り魔は人殺しだよね?」
何をいまさら思い出したのか、オキシは当たり前のことを言い出す。
「そうだが?」
キセノンは現状を理解しようとがんばっていたが、オキシからは何があったのか経過が分かるような情報をあまり得ていない。困惑するキセノンを放置して、オキシは言った。
「あ、そうか、あの人は人殺しだったんだ。僕はそれに遭って……」
あの時は、と言うよりも、今の今まであんまり深く考えなかったので思い至らなかった。
少なくとも右腕が無くなった事は状況から確かだ。それが起こったことは全くもって自覚がなく、見事に恐怖や苦痛がなかった。しかし今改めて状況を思い出すと、再生という不思議な力が宿っているから助かったに過ぎず、もしかするとあの時に死んでいたのかもしれないのだ。
「うわぁ、痛い、怖い、殺されちゃう。いや、死んでないからいいのか?」
混乱しかかっているオキシは、次第に落ち着きがなくなる。
「大丈夫か? 傷が痛むのか?」
「大丈夫、僕は平気だよ、怪我はない……うん、だいじょうぶ、へいき」
心なしかオキシの声が震えている。今頃になって、あの時に起きたことは恐ろしいことだったのではないかと実感しだしたのだ。
「……いやぁ、本当に。……通り魔、なんて……いるんだ、ねぇ」
「オキシ?」
「だいじょうぶ……だいじょうぶだよ?」
オキシは目を伏せた。その視線の先にある、空になった紙コップが小刻みに震動している。ふるふるとわずかに揺れている。
(確かに夜は危険が多い。分かってはいたけれど、自分が住んでいた田舎では物騒事は皆無だったからな。街灯の無い畦道を日付が過ぎたばかりの時間帯に歩くことなんてざらにあったし。
しかしこれは、危機管理どうこう以前の問題だな。夜に不審な人物がいたにもかかわらず、しかも気がついていれば逃げる機会もあったかもしれないのに、まるでその危険に関心が無かった。念頭にさえなかった……完全に平和ボケしすぎだ)
いまさら悔いても仕方ないのだが、もしもこれが地球での出来事だったら? もしも、再生する能力が無かったら? そう仮定すると、抑えきれない背筋の寒気は途切れることを知らないのだ。
今までどこかに追いやっていた「勝手の異なる世界に来てしまった不安と緊張」も手伝って、生きた心地がしないほど恐ろしい深い虚無に襲われる。
「とにかく落ち着け。大丈夫だから」
キセノンはオキシの横に腰掛け、震えているオキシを安心させるように、そっと抱き寄せて背中を優しくさする。キセノンの手にも、その細やかな震動は伝わってくる。
(ずいぶん震えているな。よっぽど怖い思いをしたのだろう)
キセノンはキセノンで、オキシの記憶があやふやになっているのは、もしかしたらこのせいではないかと勘違いをしていた。
「話は落ちついてからでいい」
キセノンは震えるオキシの黒髪をなでながら、そう言った。
「……ありがとう」
オキシはキセノンに身をゆだねる。服の向こうからに聞こえる、キセノンの穏やかな心音に耳を傾ける。目をつぶって、その生命の鼓動を感じ取る。キセノンは変温動物なのだろうか、頬に伝わるほんのり温い体温がなんだか心地がよかった。
「……落ち着いたか?」
「だいぶ。寒くないのに震えるなんて、そんなこと本当にあるんだと、それにびっくりした」
伏しているので表情は分からなかったが、呑気なその声を聞く限り平静を取り戻したようだ。
「本当に無事でよかったよ」
ロゲンハイドは、オキシに頬ずる。もしも、その時に万が一のことがあれば、ロゲンハイドはオキシに出会えず、退屈な日々から抜け出せないでいただろう。
「ありがとう、ロゲンハイドちゃん」
しかし、通り魔が捕まらない限り安心できない。犯人が逮捕され刑務所に収容されれば、この不安も恐怖も少しは和らぐだろうか。オキシは、この一刻も早い犯人の逮捕を強く願う。
「犯人を捕まえる? そうだ、こういう時は!」
オキシはそうつぶやくと伏せるのをやめ、顔を上げた。先ほどまで血の気が引いて少し青かった顔色もずいぶんよくなったように見える。
オキシはポケットからチラシで作ったメモ帳を取り出した。その中から、できるだけ余計なものが印字されていないものを探し出す。
「これかな」
オキシは紙を引き抜き、本を下敷き代わりにして何かを描き始めた。対象が目の前におらず、思い出しながらの作業だったので、描き終えるまで、少し時間がかかってしまった。
オキシは完成したものをキセノンとロゲンハイドに見せる。その紙には、先ほどの男の特徴を捉えている顔が、しっかりと描かれていた。
「さっきのやつって、こんな感じだったかな」
彼の顔をはっきりと見たものの、異世界人の顔は見慣れていないうえ、じっくり見て記憶したわけでもない。もしかすると全く似ていないかもしれないのだ。
「あ、似てる似てる。うまいうまい!」
ロゲンハイドは、液体の表面を緩やかに揺らしながら頷いている。
「俺ははっきり見たわけではないが、まぁ似ていると思うぞ」
キセノンも同意した。
こういう犯罪者を描いた似顔絵というものは、少しあいまいな方が良いということを、オキシは聞いたことがあった。人は足りないものを勝手に補完するのだ。二人の反応を見ても、十分に機能を果たしているように思えるので、似顔絵はこれで良しとした。
「この紙を通り魔の捜査している人に渡そうと思う。通り魔らしい怪しい人を目撃した、こんな感じの人だったと、犯人の手がかりのひとつの情報として提供することにする。
仮に通り魔ではないにしても、あの人は後ろ暗い何かがありそうだし。それに白か黒かは、より確実な犯罪の証拠を見つけるのは彼らの仕事。僕ができるのは、不審者の情報の提供くらい」
「これ、よく描けているものね」
ロゲンハイドは頷いた。確かにこれを渡せば、捜査の役に立つことは間違いないだろう。
「ところで、これはどこに持って行けばいいのかな?」
この国の治安の仕組みについて全く知らないので、オキシは尋ねた。
「それなら組合へ行くか」
組合内には職業紹介所はもちろん、捜査機関や警備等の治安施設といった公共施設も入っているのだ。組合は、公的な機関の集合した場所と言っていいだろう。
「どのみち休憩が終わったら組合へ行く予定だったしな。身の振り方を考える前にそこへ寄ろうか」
「よし、善は急げだ。さっさと行こう、行きましょう!」
オキシは立ち上がる。立ち直るのが早いのか、切り替えが早いのか、先ほどまで震えていた人物とは思えないほど、元気な声でオキシはそう催促した。