怪談:地獄行
死ぬのは、誰だって怖いと思う。当然、私だって怖い。
しかし、何故怖いのだろうか。死する際の痛みが恐ろしいのだろうか? いや、痛みの無い死、痛みを感じる間すら無い死はたくさんある。だが、そんな死も恐ろしい事には変わらない。
ならば、生きている事が出来なくなる事が怖いのだろうか。生きている内にやりたいこと、見たいもの、話したい人、そんなものは色いろあるだろう。それら全てが出来なくなるというのは、確かに怖い。
だが、一番怖いのは、未知ではないだろうかと私は思う。死んだ後は、どうなってしまうのか分からない。古から空想されるような、苦痛の極みである地獄のような場所があるのか。或いは、ただ単に空虚が有るだけなのか。
何年か前の、夏の話である。
私は友人達数人とキャンプに来ていた。大して何が有るわけでもない山だが、友人達と来ればそれなり以上に楽しむことは出来る。
昼食はバーベキューの予定だった。皆で、河原に道具や食材を並べて準備をしていた。そんな時の事だった。
「きゃっ」
女性の友人が被っていた麦わら帽子が、風に飛ばされて川に落ちた。
「取りに行ってくるよ」
そう言って、サンダルを脱いで私は川に入っていった。実は麦わら帽子の友人に良い所を見せたかったのだが、今となってはどうでもいいことだ。
「ごめんねー」「おい、気をつけろよ!」「なんかここらへん、事故多いみたいだから」「結構前にも子供が溺れて死んでるんだってさ!」
そんな声を背に、私は水音を立てながら麦わら帽子に近寄っていった。注意は受けていたが、川は浅い。何の心配もないと思っていた。
そうして、後一歩で麦わら帽子に手が届くという所まで来た時だった。ずるり、と私の身体が滑った。まるで、怪談を踏み外したかのように。急激に、川が深くなっていたのだ。
私は川の中へと沈んでいった。泳げないわけではない。むしろ泳ぎは得意な方だ。しかし、服が水を吸うことと、急に足を取られたことが合わさって、溺れてしまった。
水を飲みながら、一面に広がる青の中で私は藻掻いた。上へ、上へ。とにかく顔さえ出せばなんとかなる。
しかし、いくら身体を動かしても上へと移動することは出来ない。むしろ、川底へと引きずり込まれるような感覚があった。
何かが脚に絡んでいる! そう思った私は、口から泡を吐きながらも視線を下にした。そうして、驚愕した。
そこに居たのは、小学生に上がったかどうかという男の子だった。その子供が、両手で私の脚に縋り付いているのだ。
しかし、私が驚いた理由は男の子の姿にあった。眼窩には眼球が残っておらず、代わりに川魚が住み着いている。身体からは肉がところどころこそげ落ち、水草が絡みついている。そんな状態で有るにもかかわらず、男の子は笑っていたのだ。
禍々しさの欠片もない。迎えに来た母親の元へ走って行く時のような、無邪気な笑顔で。
男の子の、粘膜を食い荒らされたぼろぼろの口が動く。
こっちにおいで、と。
その笑顔を見た瞬間、私の意識は途切れた。その際に、私は確かに感じた。鎖から解き放たれるような感覚を、重力すら振り切って浮遊するような快感を。
私が意識を取り戻した時は、病院の上だった。溺れて意識を失った私を、友人達が助けてくれたらしい。そこで、あそこは事故死者が毎年出ている危険なところだと、警察に注意された。毎年、あの男の子は人を溺れさせているのだろう。
私はあれから、何度もあの時のことを思い出す。あの、男の子の表情を。
あの男の子は、何故あんなにも無邪気な笑顔を浮かべたのだろうか。何故私を引き摺り込もうとしたのだろうか。
もしかして、あの男の子は完全に善意で私の事を、そして今まで溺れた人達を引き摺り込もうとしたのではないだろうか。
死後の世界の事は分からない。だから、もしかしたらあの男の子が引き摺り込みたくなるぐらいいい場所である可能性だってある。あの、気を失う寸前に感じた恍惚は、それが事実ではないかと感じさせる程だった。
だが、もしそうだとするなら。死後の世界がそんな楽園だとするなら。地獄とは何処に有るのだろうか。
そんな事を思いながら、私はまだ生きている。