閑話 ある掲示板住人のお話 十二人目
「ここに来るのは何年ぶりか……」
男が呟いた言葉は、駅の喧噪に紛れて消えた。
宇都宮から東北新幹線に乗って北へ。
乗り換えなしでわずか1時間ちょっと。
男がいま住んでいる宇都宮からは格段に行きやすい街だろう。
距離と、時間的には。
だがこれまで、男にとっては日本のどこよりも、いや、世界中のどこよりも行きづらい街だった。
出身地なのに。
「10年は超えているか。だが、変わらない……歩いてみるか」
駅の西口を出て、ペデストリアンデッキへ。
ひさしぶりの街に、男は予約したホテルまで歩いてみることにしたらしい。
荷物はリュック一つに収められている。
広いペデストリアンデッキを下りる。
「変わらない、な」
大通りに出て、まっすぐ先を見つめる男。
わずかに目を細めているのは、何か思い出でもあったのだろうか。
「離れてみるとわかるものだ。道は広く、街路樹が多い。杜の都、か」
立ち止まって青葉通りを眺めていた男が、また歩き出す。
独り言が多い、ちょっと危ない男である。
まあユージの掲示板の常連メンバーは、だいたいこんなものなのだが。
コテハン・物知りなニート。
ユージの話の掲示板に初期から常駐していた男である。
文明が未発達の異世界に行ったユージに役立つ知識を提供してきた男であり、数々のムダ知識を書き込んできた男である。
いまではユージのNPOで働く男は、ユージが異世界に行ってから8年目の春のキャンプオフを終えた。
大きなイベントが終わって落ち着いたのを見計らって、男は仙台に足を運んでいた。
出身地でありながら、10年以上戻らなかった仙台に。
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青葉通りを歩いて、国道4号へ。
奥州街道か、これを辿っていけば宇都宮に帰れるな、などと独りごちる男。
試してほしいものである。二週間ぐらいで帰れるのではなかろうか。googl○先生は直行で徒歩49時間だとおっしゃっている。休憩も宿泊もなしで。
キャンプオフを通じて多少はアウトドアの知識を得た男だが、体を使うことには実感がないようだ。
「む? こんな場所に酒屋が」
繁華街の交差点で見つけた小さな酒屋にふらりと立ち寄る男。
垢抜けない男は、小洒落た酒屋にそぐわない。
男がオシャレ感を楽しみたかったわけではない。
男は店員といくつか言葉を交わして、一本の日本酒を包んでもらうのだった。
手土産であるらしい。
ホテルにチェックインして、荷物を置いて。
ラウンジに飾るように置かれた本が気になりつつも、男はすぐにホテルを出る。
先ほど購入した日本酒をリュックにしまって。
懐かしむように、男は広瀬通りを西へ。
西公園を抜けて、さらに西へ。
のんびり40分ほど歩いて、男はようやくこの帰郷の目的地にたどり着く。
とある大学へ。
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「お久しぶりです先生」
「これは懐かしい顔だ。最後に会ったのは10年以上前じゃないか?」
「ご無沙汰しました」
「……理由は聞かんよ。まあ座りたまえ」
大学の研究棟の一室で男を迎えたのは、白髪の老教授だった。
シワだらけの顔で歳は重ねているのだが、目は少年のように好奇心で輝いている。
忘れないうちにと、男は先ほど買った日本酒を取り出す。
受け取った教授はためらうことなく栓を開けてコップに注ぐ。
「……あいかわらずですね、先生。以前に言いましたが、匂いは隠せませんよ」
「何を言う、これは水だ。そう言えるように無色透明の日本酒を買ってきたんだろう?」
「……本当に、お変わりなく」
「なんだ? 退職すると聞いて心配してたクチか?」
「ええ。……それと、一度はご挨拶をと思いまして。…………あれから、お会いしてませんでしたから。申し訳ありません」
「気にすることはない」
笑顔の老教授に、わずかに陰が差す。向かって座る男にも。
二人はただ無言で、狭い研究室でコップに口をつける。
やがて、男が口を開く。
「この部屋も変わりませんね」
「何を言っておる。本は何度も入れ替えておるよ」
「はあ……あいかわらず雑多なことで」
狭い研究室の壁は、左右とも天井まで続く本棚。
中にはずらりと書籍が並んでいる。本だけでなく、雑誌も。
男はしばし、背表紙を目で追っていた。
「宿泊はホテルだろう? どこに泊まってるか当ててやろうか」
ニヤニヤと男に話しかける老教授。
男の返事を待つことなく、推測を言葉にする。
「ライブラリ○ホテルだろう。それで、名前のクセに本が少ないと思った」
「……当たりです。さすが先生」
「はは、やはりな。10年以上経ってようが、教え子のことは覚えておるよ」
「そう、ですか」
「お前は印象深かったからな。一年のうちから研究室に入り浸って、全部読んでやるとばかりに片っ端からこの部屋の本を読んでおったな」
「若気の至りです」
「本の虫、いや、知識の鬼か。……いまは何をしておる?」
「今は……友人が創ったNPOで働いています」
「おお、そうか。今も何もしてないのであれば、また講師でもどうかと思ったのだが」
男が働いている。
たったそれだけのことで、老教授は嬉しそうに笑う。
「ありがとうございます。ですが、必要ありません」
「うむ、何よりだ。どんなNPOなのだ? 何を目指してどんな活動をしておる?」
「先生こそ、知識欲はあいかわらずですね」
キラキラと目を輝かせて問いかける老教授に苦笑する男。
好奇心と知識欲、柔軟な思考。
男には柔軟さこそないが、知識欲と溜め込んだ知識は、たしかにこの研究室が原点だった。
「先生。ユージという男を知ってますか? 去年の秋に映画が公開された……異世界に行ったという男とその話を」
「もちろん知っておるとも! 学生から教えられてな、映画になる前から掲示板は追っておった。映画は家内と公開初日に見に行ったものだ。む、まさか!」
「そのまさかです。初期にユージの掲示板を見つけて、それからずっと追いかけてました。その流れで、ニートや引きニートの自立を支援するNPOで働いています」
「そうか、そうだったのか! 掲示板に物を知っているヤツがいると思っておったが、お前だったか!」
「先生に言われると恥ずかしいですね」
「そうか、うむ、そうか……」
何を思っているのか、引退間近の老教授の目に涙が光る。
「はい。ユージは、掲示板の友人たちは、広く浅くでしかない私の知識を、役に立つと言ってくれました。実際に私の知識が利用されているのを見て、何度も打ち震えたものです」
コップに目を落として男が言う。
その声は、わずかに震えていた。
「……あの日、あの時。私の知識は、なんの役にも立たなかったのに。家族を失って、逃げるように故郷を捨てて」
コップを見つめて、男は言う。
老教授は、黙って男の話を聞いていた。
「ずっと現実から逃げていました。そして、ユージの掲示板にたどり着いた」
男が握るコップの中。日本酒が波を打つ。
「文字だけを追っていました。書き込んだのは反射的にだったかもしれません。知っていることでしたから。書き込んだら、感謝されました」
老教授は静かに頷く。
10年以上前に、男が嬉々として本の内容を語っていた時のように。
「私はなんの役にも立たないと思ってました。なんの役にも立たないんだと思い知らされました。自分も、自分の知識も。でも……ユージは、掲示板の友人たちは。驚いて、喜んでくれました。私なんかの知識を」
恩師が退職するにあたって挨拶に来た。
そのはずなのに、男が語って、老教授はただ話を聞くのみである。
「まだ、まだ。こんな私でも、役に立つなら。そう思って、掲示板に張り付いてました。オフ会にも足を運んで」
テーブルを見つめたまま、男は涙を流していた。
嗚咽がはじまっても、老教授は静かに日本酒を飲む。
時には思いを吐き出して、感情のまま涙することも大事なことなのだ。
まあ研究室でやることではない。
それだけこの師弟に信頼関係があるのだろう。
しばらくして。
ようやく、男の涙が止まったようだ。
「すみません、先生」
「かまわんよ。……やっと、前に進めたようだな」
「はい。私は、薄情なのかもしれません」
「そんなことはない。街を見てきたんだろう? みんな、それぞれの思いを抱えながら前に進んでいる。もう10年以上だ。お前は、充分時間をかけた」
「そう、ですかね」
「研究室は今年度で出るが……今度は家に遊びに来るといい。ぜひユージさんの話を聞かせてくれ」
「……はい」
「そういえば、春と秋にキャンプをやるんだろう?」
「先生?」
「ということは次は秋か……ふむ」
「……お待ちしています」
顔を見合わせて、二人してふっと吹き出す。
男は、すっきりとした表情で。
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コテハン・物知りなニート。
仙台で生まれ育ち、かつて仙台で働いていた男。
男は、いまから10年以上前に関東で一人暮らしをはじめていた。
ユージが異世界に行く3〜4年ほど前からだろうか。
抜け殻になっていた男は、現実逃避した先でユージの掲示板を見つける。
知っているからと何気なく書き込んだレスは、ユージと掲示板住人たちに驚かれた。
男は、自分はなんの役にも立たないと思っていたのに。
以来、男は掲示板に常駐する。
こんな自分でも、誰かの役に立つのなら。
溜め込んだ知識が、ムダじゃないのなら。
やがて男は働き出す。
ニートと引きニートを支援する、ユージのNPO法人で、掲示板の友人たちと一緒に。
ユージが異世界に行ったことをきっかけに、わずかに自信を取り戻した男。
ある掲示板住人の、ちょっとした物語であった。
次話、明日18時投稿予定です。





