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Cloud or Spider
 てん,りゅう…?
 そんな国名を,香乃は聞いたことがなかった。いや,ドラゴンが実在するなんてどこの人間も口に出したことなんてない。なのに,そのドラゴンがここでは他にも多かれ少なかれ住んでいるという。


「待って…待ってよ。ドラゴンがいるなんて,聞いたことない!」
「あなたの世界にはいないんでしょ。でも,この世界にはいるのが普通だよ」
「今,世界って言った!? じゃあここは地球じゃないの!?」
「違うよ。そんな世界の名前は初めて聞いた」
「そん,な…」
 香乃は眩暈で倒れそうになった。
 いきなり拉致されたと思えば,地球でないどこかに連れてこられている。
「なんで…なんでよ………帰してよ…!」
 ドラゴンがいる世界であれば,香乃が拉致された理由なんか一つしかない。自分を食べるつもりなのだろう。映画ではよくある話だ。その時がいつなのかは分からない。分かったところで恐怖が募るだけだが,知らないでいてもじわじわと恐怖が募ってくる。
 一体,自分はどうなってしまうのだろうか。どれだけのドラゴンに囲まれて,この身を引き裂かれるのだろうか。
 本当は帰るはずだった自分の部屋が恋しい。嫌,願わくは,あの人の部屋に戻りたい。自分から頭を下げてもいいから,いくらでも謝るから,こんな訳の分からない世界から元の場所へ帰りたい。
 香乃はほんの少しまで自分から遠ざけた場所を切望していた。


「いきなり世界まで違う場所まで連れてこられて混乱したくなるのはしょうがないけど,安全は守られるだろうから安心していいと思うよ」
 ドラゴンは言った。
 そんなどでかい体をしておいて,何を根拠に言っているのか,香乃は理解できなかった。
「いい加減なこと言わないで! どうせ私を食べるつもりで連れてきたんでしょ! そんな言葉なんかに惑わされたりなんかしないんだから!」
「やっぱりそう思ってたんだ…。そんなことしないよ?」
「嘘だ! 騙されるもんか!」
 今のうちに甘言で安心させておいて,後になれば襲うつもりなのだと香乃は策謀を読んでいた。相手に流されまいと,すでに覚悟していた。


「食べるつもりなら,もう食べてるでしょーに。あと勘違いしてると思うけど,僕たちは生き物を食べないの」
 そう自白したドラゴンは,一つ溜息をついた。
 香乃は,意表を突かれたというか,考えもしなかったことを表明されたような,手加減してあげるって言っていたのにラインぎりぎりのスピンサーブでサービスエースを食らったような気分になった。
「…ちなみに,何を食べてるの?」
 思わず香乃は訊いた。
 質問に対して,ドラゴンの返事は,
「雲」
 たった一単語だった。
「あのわきわきしてる,例のアレ?」
 ドラゴンは少し黙考して,
「いや,違う。小さいのじゃなくて,空に浮かんでるほうの,例のアレ」
 別のほうを差した。異綴同音異義語というのは本当に誤解の種だ。


「…なんでそんなの食べてるのよ?」
 不思議なものを見たような気がして,香乃は再び質問していた。
「なんでって言われても,そういうものだから仕方ないよ。あなただって,どうして自分にとっての食べ物を食べると栄養になるのか,ちゃんと理解しているの?」
「それは…」
 聞き返されて,香乃は返答できなかった。
 冷静に考えれば,自分が食べた物がどうやって栄養になるのかなんて,今まで気にしたことなんかなかった。カロリーとかタンパク質とかなら,ダイエット(現在進行形)の経験上気にしてはいる。しかし,それ以前の体のメカニズムを知ろうとはしなかった。どうして自分は穀類やら肉類やら野菜類やらその他いろいろな食べ物を食べないといけないのか。しかもバランスよく食べないと体を悪くしてしまう。
 ちゃんと,その手の専門家や知っている人がいれば答えられるのだろうが,生憎と今は香乃しかいない。その香乃は,今までそんなことに興味を示さなかったから知ろうとも思わなかった。
「この世界の僕たちにとって,雲が食料。だから,あなたを食べたりなんかしない」
 ドラゴンは真剣な眼差しで断言した。


 香乃はその目を見て,相手は嘘を言っていないのだと思っ…
 いけない!
 さっき騙されないって決めたばっかじゃんか!
 危ういところで香乃は思いとどまり,警戒の態度を直した。
「ああもう! だからそんなこと言われたって信じられるわけないでしょ! 早く帰してよ!」
 香乃が罵倒するようにドラゴンへ要求すると,ドラゴンは一瞬びっくりして,見る見るうちにひどく悲しい目になった。
「…信じられなくたっていいけどさ,僕には関係ないし………」
 そう言って,いじけたように背中を向けてしまった。
 香乃はすごく悪いことをした気持ちになった。慌てて弁明の態度へと変える。
「あ,あのさ! そんな深い意味で言ったんじゃないんだよ! 私もちょっと混乱してたっていうか,どうかしてたっていうか!」
 香乃は手を上下左右に振り回して本人にもよく分かっていないジェスチャーをいろいろと表現した。この表現がドラゴンに伝わることはもちろんない。
「………いいよ,慣れてるし」
 呟くように返事をしたドラゴンは,今度は哀愁を含んだ溜息を一つ突いた。
 最初から控えめの態度といい,今のネガティブな言動といい,香乃はドラゴンの状態がどこか変だと思った。個性や性格だと言われればそれまでだが,同じような態度を取られたことが過去にあったことを思い出す。


「あの,さっきはひどいこと言ってごめんね? 悪気はなかったんだよ?」
 香乃は遅すぎると思いながらも,詭弁じみたフォローを伝えた。
「………もう気にしてないから,大丈夫。…その出入り口から集会場へ行けるから,訊きたいことがあるならそっちにいる誰かに訊けばいいよ」
 …充分気にしているじゃないかと突っ込みたくなった気持ちを香乃は押しとどめた。
 背中を向けたままの投げやりな雰囲気で,ドラゴンは部屋の先を四本指の手で器用に指差した。
 香乃は考えていた。ドラゴンの言われたとおり,集会場と呼ばれる部屋へ行ってもいい。どうやら本当に敵意はないようなので,そこへ行けば自分を案内したり質問に答えたりするドラゴンがいるのだろう。
 だが,それでいいのだろうか。
 この目の前にいるドラゴンを傷つけたまま,この場所を離れてもいいのだろうか。
 思い返せば,香乃は今まで相手を悪いようにしか見ていなかった。自分を食べるつもりだとか,信用できないだとか,そんなことばっかり言っていたような気がする。
 しかし,ドラゴンは私を親切に接してくれた。訊けば答えてくれたし,怖がらないように余計に近づいてこなかったような気がしないでもない。それに,気を失っている私の体を焚き火で温めてくれてもいた。
 これだけ手厚くしてもらっていたのに,今の自分は恩を仇で返しているようにしか思えなかった。


 香乃はドラゴンへ近寄り,それの足下に丸くくるまれている太い尻尾に腰掛ける。ドラゴンはびっくりした様子で首から上だけをこっちへ向けてきた。
「私,鳥目なの」
「…え?」
 ドラゴンは驚いた様子を隠せないでいた。
 香乃は気まずい気持ちを抑えつけて,自分でも単純だと思えるような理由を並べた。
「だから! 暗い所だと目が見えないの! あんな明かりの届かない場所に放り込まれたって困るのよ!」
「じゃあ,誰かを呼ぶよ。それなら確実だし」
「い,いいから! いらないから! もうちょっと焚き火で温まりたいし!」
 香乃は半分ヤケクソの気分で言い訳を並べた。鳥目ではないが,暗い所を一人で行くのは怖いし,何より今はこのドラゴンともう少し話をしたいと思った。…決して言ってはやらないが。
「集会場のほうが暖かいよ。広々としてるし」
 ドラゴンはまだ突き返そうとしている。けっこう頑固か“鈍ちん”らしい。
 かと言って,言い訳を並べるにも限度があるし,並べるたびに疑われるのも目に見えている。ジリ貧が想定できるこのやりとりに終止符を打つには,やはりこれしかない。ドラゴン相手に通じるか分からないが,有効であることを香乃は祈った。
「…邪魔したりなんかしないから,ここにいさせてよ」
 香乃はここでドラゴンと視線を合わせる。
 そしてトドメの一撃。
「だめ?」
 身長差で自然と上目遣いになる。それが功を奏したのか,ねだられたドラゴンは気まずそうに視線を逸らした。
「駄目ってことは,ないけどさ…。だけど,その………」
 ドラゴンはなんだか恥ずかしげに視線をそわそわさせている。
「あーもういいや。好きにしなよ…」
 ドラゴンはとうとう折れてくれた。ふてくされたように完全に香乃に背を向けて,また溜息をつく。
 よし,よくやった私。伊達に今の恋人を落としただけのことはある。
 ドラゴンも,人間と同じような感情を持っているのだとわかり,安心した。また,狙ってやったというのに思った通りの反応をするドラゴンがちょっとかわいく見えた。


 香乃は微笑みながら,会話のキャッチボールが完全に途切れないうちにと,別の話題でドラゴンを振り向かせようとする。その時点で,まだ香乃達がお互いの名前を紹介し合っていないことに気づいた。遅すぎる気もするが,しないよりは全然マシだろうと,香乃は話を切り出す。
「私,榎本香乃っていうの。人間っていう種族よ。君は?」
 問いかけると,ドラゴンは煩わしそうに首を動かし,顔半分だけ振り向いた状態で答えた。
「…僕はイズトリカム・ベルバーセン。天竜族だ」
 名前を知っただけだが,それだけで相手に一歩近づくことができた気がした。ここにいる間は世話になるだろうし,仲良くなっておいて越したことはないだろうと香乃は踏んだ。
「変わった名前ねー。あと長いし」
「…どうせ見た目も名前も変ですよ」
「あのね! 今の“変わってる”っていうは“個性的だね”っていう意味の言い回しだから! 分かりにくかったなら謝るけど,立派な褒め言葉だから!」
 文化が違うとはいえ,つくづくやりづらい性格だと香乃は思った。
「えっと…念のため訊くけど,名前はどっち? イズトリカム? ベルバーセン?」
「どっちって…どっちも名前だよ」
「名前にも,なんか区別があるでしょ? その人を差す名前と,家族とかを差す名前とか。私の場合,『榎本』が苗字…っていう家族を差す名前で,『香乃』が私自身の名前なの。そんな感じで,私はあなたの,あなた自身を差す名前がどっちなのかを知りたいの」
「その区別だと,『イズトリカム』が僕自身の名前だよ」
 ようやく通じた。時々変化球が飛んでくるが,少しずつやっていけば疎通も問題なさそうだと香乃は思った。
「じゃあ,ちょっと長いから君のことは『イズ』って呼ぶね。私は『香乃』でいいよ」
「…まぁ,いいけど」
 香乃は尻尾から降りて,イズのできるだけ正面まで移動する。
「じゃあ改めて。長くはない間だろうけど,よろしくね,イズ」
 イズに向かって,右手を伸ばした。
「…何,それ」
 イズは不思議そうに香乃の差し伸ばされてある右手を眺めている。
「握手よ。私の世界じゃ,親しみを込めてこういう挨拶をするの。ちょっとノっといて」
 香乃は開き直って笑っておいた。笑顔を見せるのも親睦の一つだが,愛想笑いでも苦手ではない。
 香乃の開示的な態度に,イズはおずおずと自分の右手を伸ばした。
「よろしく,カノ」
 イズが香乃に倣った。
 遅い出発のような気がしたが,香乃はひとまず腰を落ち着けられそうだと思った。
 部屋の中央で燃え盛る焚き火は衰えることなく部屋を暖め続けている。炎の明かりで照らされた人間と竜のシルエットが,重なった。




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