悪魔の子供
私は何度でも繰り返して言います。一度で理解できるような話でもないし、信じてもらえるとも思っていません。しかし、私が体験した身の毛もよだつ忌まわしき恐怖については紛れもない事実であり、心の奥底まで凍てついた狂気は目を背けようもない真実であります。だから信じてもらうまで、何度でも言います。そして刑務所だろうとどこだろうと連れていって、常軌を逸した恐ろしい悪魔から匿って欲しいのです。
私は人を殺しました。
相手は私と交際していた女性で、暴漢に襲われているところをたまたま通りがかった私が助けたことがきっかけで交際を始めました。
私たちは半年前までアパートで同棲していましたが、私の出張が決定し、半年間彼女の元を離れることになりました。彼女をひとり置いていくことに不安を覚えましたが、そんな私に彼女は「大丈夫だから安心して」という力強い言葉をかけてくれました。
離れている間は正直彼女のことが気になって気が気ではありませんでした。世間慣れしていない彼女のことだから、怪しい勧誘や変な男に引っかかってやしないかと悶々とする毎日で、唯一の楽しみは毎夜にする彼女との電話でした。他愛もない世間話を彼女とできる時間が至福のひとときで極上の幸福でした。彼女の声を聞くだけで辛さのあまり目からこぼれる涙が止まったほどです。私は彼女を愛し、彼女は私を愛してくれているという実感が持てました。だから、私は出張から戻って彼女の待つアパートに帰ってきたとき、生涯を添い遂げようと告白するつもりでした。
そして昨日、ようやく長きにわたる別離から解放され、彼女の元へ帰還を果たすことができました。ところが、私を待っていたのは私が知る彼女ではありませんでした。私の目の前には異様に腹が膨れ、一挙一動に億劫さが紛れる彼女の姿がありました。その醜態は何だ、と問いただすと、案の定といいますか、妊娠したという返答が返ってきました。私の居ぬ間に不貞な行為を働いたことは論理的にみても明らかです。私は激昂し、手近にあった灰皿で思い切り殴りました。これは私とあなたの子供だ、という弁明を聞いた気がしましたが、何度も何度も何度も何度も殴り続け美しかった彼女の美しかった顔は無惨にも腫れ上がり頭が割れて赤い血が流れ鼻から赤黒い脳漿が垂れて私を写していた両目は眼かから飛び出て折れた奥歯がには内出血をおこして青い痣がいくつもありおりました。
彼女だったものを見下ろしているうちに、愛情を失った代わりに落ち着きを取り戻した私はこの汚らわしい物体を処分することにしました。死体を毛布にくるみ、飛び散った血液を雑巾で拭き取って袋へ詰めました。荷物を車へ運び、2時間かけて県境にある山へと移動しました。出張から帰ってきた当日、さらには人を殺害した直後の極限状態でしたが疲労はすでに緊張へと昇華し、一刻も早く作業を遂行しようとしました。目的の山中へ到着した時はもう深夜を周り、暗い中での作業を覚悟していましたが幸いにも不気味なほど明るい月光が手もとを照らしてくれたので、驚くほどスムーズに作業を進められました。
死体を埋める穴が完成し、ここでふとすべての元凶である赤子のことが気になりました。もう事切れているだろうけど、顔のひとつくらい拝んでから葬ってやろうと考えたのです。持ってきていた包丁を彼女の体に入れ、縦に開くと、臓物とともに赤ん坊出が出てきました。それを手に取り月明かりに照らしたところで私はぞっとしたのです。
その赤子は全身が短く黒い毛に覆われ、とてもヒトのものとは思えない太い尻尾がだらんと力なく垂れていたのです。黒く、前に突き出た鼻、胎児のはずなのに口からは肉食獣を思わせる鋭い犬歯が伸びていました。
あろうことかその赤子は突然ぴくりと身震いをし、薄く目を開いたのです。充血して真っ赤な目で見上げたのは月でした。短い腕を掲げて爪が異常に伸びた4本しかない指を掲折り曲げると、まるで満月を手中に収めたかのような格好となりました。月から目線がそれ、私と目が合うと、赤子は耳を塞ぎたくなるほどの名状しがたい声ではっきりと「ママ」と喋ったのです。
彼女を殺害して狂気に捕らわれていた私でしたが、その声を聞いてしまい細々と残っていた正気が失われ、どのように母子共々墓穴へと落として埋め戻し、自宅へと帰ってきたのか記憶が定かではありません。逃げきった今でもあの不気味な赤子の声がどこからか聞こえてくるような気がしてならないのです。だから私を逮捕して匿ってほしいのです。
彼女は私との間にできた子供だと言っていましたが、それは絶対にあり得ません。あれは悪魔の子供に違いないのです。
女同士で子供ができるはずなどないのですから。
(了)