虚無PDFで表示縦書き表示RDF


文学を盛り上げようという趣旨の元に企画された、文学ジャンルへの一斉投稿に属している作品になります。

他の作家さんの作品も、よろしくお願いします。
虚無
作:弥生 祐


 乾燥した幾重にも踊る風が震い舞い、乱立するビルの間を抜けていく――

 強さとしたたかさを増した旋風は、せわしい街に風の子等(こら)を生み落とす。そして子供たちは、本来あるべきはずの季節の暖気を散らせていくのだ。

 暦の上では立春を過ぎ、数週間が経過していた。しかし駅前の通りを歩く装いから見ても、人々は身にまとわりつく肌寒さを防ぐ上着の一枚を、箪笥の奥にしまい込んではいない。
 行き場を求める野良犬の泣き声が、夜の都会に飲み込まれ、無視されて、吹き(すさ)ぶビル風にかき消されていく。

 男は一人、外套の襟を正すと、雑多な群れの渦中に混ざり、駅中へと続く階段を降りていった。

 円柱が立ち並ぶ地下通路には、段ボールを束ねた家に住まうホームレスたちが、静かに存在を主張している。

 誰も一瞥(いちべつ)などしない。彼等は敗残者であり、歩く者たちとて気を向けるほど、明日に余裕があるわけではないのだ。

 家路へと急ぐ人々の中、急に男は立ち止まった。

 遠くを見つめるように視線を中空に投げる。だがその先にあった映像は今の時ではなく、十時間ほど(さかのぼ)った景色。辞令に伴う、早期退職希望者を募ったリスト。それを手渡された今朝の光景。薄っぺらなA4サイズの紙切れに載っていたのは、自身の社員番号だった。

 ――これまで生きてきた自分は、何だったのだろう……

 去来した想いは、しかし少ない。仕事だけに生きてきたと誇れるほど、厚みある成果が何も無かったからだ。

 男は再び歩き出した。

 無意識の内に動いた両の足は、壁際(かべぎわ)に巣くうホームレスと(みずか)らの違いが、帰る家がある一点のみしか存在しないことを、知っているかのようだった。

 男が帰宅したリビングでは、女が何かのカタログを眺めていた。

(……どうやって報告しようか)

 十数年、夫婦として一緒に暮らしてきた二人だったが、些細なことの積み重ねから、ここ数年はおざなりの会話だけに終始している。

 女は何と応えるだろう。それより何と切り出せば良いのか。そちらの方が難しい問題のように思われた。

『――痛っ!』

 唐突に女が小さな悲鳴を上げた。

 どうやら見ていたカタログの端で指を切ったらしい。傷は深いようだが血は少なく、大したことは無い。しかし、声をかける良い機会だと、男は近寄った。

 憎々しさと恨めしさが入り交じった目つきで、女が切った指を睨みつける。丹念に傷口を舐めて、舐めて、まだ眉間に皺を寄せている。

 ――たった数歩分の距離が、やけに遠い。

 ――言葉が見当たらない。どう唇を開けばよいか分からない。

 そういえば最後に言葉を交わしたのは、いつだっただろう。

 結局、男は何も伝えずに背広を脱ぎ、すでに用意されていた冷たい夕食に手をつけた。

 いつもと変わらない風景―― 同じ毎日は生活に()ける彩りや、豊かな質感を持つ意味すら分からなくさせていた。

 翌日、自分の机を整理しながら、男は不思議な感覚に捕らわれた。

 長年勤め上げ、慣れ親しんだ会社を去る。数日の内には事務机そのものも片され、男がいた痕跡は何も無くなるだろう。

 昨日まで本当に自分は、この会社に存在していたんだろうか…… 男は苦笑した。疲れている。早く帰宅して休もう。そうすれば馬鹿な想像もしなくなる。

 そんな時間に身を任せていた男に、自分宛の電話がかかってきた。妻が事故に()ったという、警察からの連絡だった。

 急いで駆け付けたものの、すでに女は冷たい(むくろ)と成り果てていた。目立った外傷は少ないようで、妻だった女は昨日、男が見たままの姿で動かなくなっている。

 堅く閉ざされた(まぶた)。もうその下に男が宿ることは無いのだろう。

 愛の無くなったこの結婚は失敗だったと、ずっと悔やんでいた男だったが、不意に目頭に熱いものを感じて、心が揺れた。

『奥さんで間違いありませんか?』

 傍らにいた警察官に、男は黙って(うなず)いた。

 ――どうして昨日、話さなかったんだろう。どうして何年も、すれ違いで過ごしてきたんだろう。

 男は強い後悔の念に(おか)された。退職をきっかけに再出発だって、出来たかも知れない。そんな思いを胸に頭を上げられずにいた男の目が、女の手に止まった。

 細く美しい指だった。傷一つ無い、良く知っている指先……

 輝きを失いかけ始めた手のひらを、男は優しくさすった。

(……無い。あの傷はどうしたんだ)

 ふと男が思い出したのは、昨晩、付いたはずの傷。逆の手を取り、調べる。やはり見当たらない。

(何故だ。どうして見つからない)

 改めて女の顔を確認した男だったが、女は間違いなく自分が愛した妻だった。

 それなのに何故か、傷が見当たらない。

 ――もしかしたら昨晩の女は、妻じゃなかったんだろうか?

 男の頭は混乱の淵で答えを探し、更なる深みへと潜っていった。

 ――どうして自分は横たわる女を、確たる自信を持って妻と言えないのか。

 ――それとも自分と思っていた自分が、もしかしたら違う人間なのだろうか。

 急激に男の視界から色が無くなり、世界が(しぼ)んでいく。


 ――今まで何を見て、自分は生きてきたんだろう。

 ――自分は……自分は何だったんだろう。

『どうかしましたか?』

 警察官が男に声をかけた。

 その声は立ち尽くす男を素通りして、反対側の壁に(むな)しく消えていった。



公開しておいて何ですけど、今ひとつの出来ですかね。
締め切りあったので仕方ありませんけど。













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