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胡桃の中の蜃気楼 作者:萩尾滋

第二章

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  春の訪れ6

「グラスフィールド社の粉飾会計の速報が流れたぞ!」
 ロレンツォは、扉を開けたヘンリーの耳元で早口で囁いた。
 やっとだ!
 ロレンツォの部屋で二人は、付けっ放しのパソコンを食い入るように見つめる。
「時間外取引で17%ダウンだ。」
 ロレンツォが振り返ると、ヘンリーは唇を歪めて酷薄な笑いを浮かべている。
 そして、ソファーに身を沈め、頭をのけ反らせて、くっくと笑い声を立てると、
「こんなものじゃ、済まないよ。」
 と、さも可笑しそうに呟いた。

「どうやって、このネタ掴んだんだ? 」
 ロレンツォは2カ月前、自分で調べろ、と言われたが、どうひっくり返してみても、何も出てこなかった。
 業績面では、市場の信頼の厚い優良企業だ。
 影で汚いマネをしている噂はあったが、確証は掴めなかった。『杜月』の提訴でやっと一石投じることができた程度だ。
「普通に、決算書だよ。」
 ヘンリーは皮肉な笑みを浮かべたまま、勝ち誇ったようにしゃべり続ける。
「数字に、ゆがみがあったんだ。ゆがみは必ず是正される。」
「俺は、アスカの件以外、判らなかったぞ。」
「そりゃそうだろう。会計事務所もグルだからな。表向きは、完璧だよ。」
 ヘンリーは凄みのある笑みを浮かべて答える。
 ロレンツォは、参りましたとばかりに両手を広げた。

 冷蔵庫から冷えたシャンパンを取り出し、ロレンツォは、勢いよく栓を抜いた。
グラスを二つ手にして、ヘンリーに差し出す。
「祝杯をあげよう。」
「僕はいいよ。外じゃ、飲まないことにしている。」
「外って……。ああ、噂は聞いている。」
 ロレンツォは、自分のグラスに並々とシャンパンを注ぐと、
「じゃあ、グラスは一つ。これならいいだろう? 」
 グラスを高く捧げ持ち、
「乾杯。俺たちの勝利に!」
 と、先にごくごくと飲んで見せ、もう一度注ぎ直す。
「きみの忍耐に。」
 ヘンリーは、グラスを受け取ると一気に飲み干した。

「いつ買い戻す? 」
「今、あがっているのは、不正会計だけだ。これから、証券取引委員会(SEC)の調査が入る。特別目的事業体(SPE)を使った巨額損失隠しがでてくるのは、まだ、これからだ。倒産寸前まで、待つんだ。」
「巨額損失? 」
「さすがに、学校の内部まで、政治家のガキどもまで使って圧力を掛けてくる様な会社だよ。経営自体がまともじゃない。」
「アスカのことか。」
「他にもいろいろね。私怨があるんだ。」

 グラスフィールド社は、ガン・エデン社の主力商品のパソコンやスマートフォンのディスプレイシェア6割を担っている。このシェアを保つために、かなりの汚い仕事も請け負っていた。
「昔、ガン・エデンが中途半端な業務用パソコンを出したことがある。うちの、コズモスのひな型を盗まれたんだ。当時はどういうルートでやられたのか、全く判らなかった。今となっては単純な話で、うちもグラスフィールド社のディスプレイを使っていたんだ。こんな会社とは知らずにね。」
 ヘンリーは、憎々し気に、セレスト・ブルーの瞳を冷たく燃え立たせた。
「その時、優秀なエンジニアを一人殺された。やっと、弔いができる。」

 ロレンツォは、背筋の凍る思いでヘンリーから目を逸らせた。その憎悪が自分に向けられたものではないと判っているのに、目を逸らさずにはいられなかった。
 グラスフィールド社は、悪魔を怒らせたのか……。
 そう、思わずにはいられなかった。

「じき点呼だ。一旦戻るよ。」
 ヘンリーは、立ち上がると部屋を出て行った。
 ロレンツォは軽く頷き目を瞑る。
 身体から一気に力が抜けた。じっとりと冷や汗をかいている。

 いつも辛辣で、皮肉屋で、冷ややかな男。
 だが、誰よりも責任感が強く、情が厚く、優雅で、気高く、美しい男。
 ロレンツォは、ヘンリーをそう評価していた、はずだった。今日までは。
 今、ここにいたのは誰なんだ?
 荒涼としたヘンリーの内側を、初めて目にした気がした。
 自らの炎で全てを焼き尽くす地獄の業火のようだ。

 ロレンツォは、ヘンリーに初めて会った日のことを思い出す。
 あの瞳に魅了された。あの燃え立つような瞳に。
 今まで自分が味わったことのない、激しい感情を湛えた瞳に、一瞬のうちに制圧された。
 あの瞳の炎が意味していたものが、これほどの憎悪だとは思いもせずに。

 今度こそ本当に、悪魔に魂をわしづかみにされた。
 ずぶりと、心臓にその爪がくいこむのがわかった。

 胸の前で十字を切り、頭を垂れて神に許しを請う。
 神よ、悪魔にかしずく私をお許しください……。
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