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胡桃の中の蜃気楼 作者:萩尾滋

第二章

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  春の訪れ4

 「アスカ、起きている? 」
 この一週間、消灯直前にヘンリーが部屋に戻ってきた時は大抵、飛鳥はベッドに胡坐をかいて座ったまま空を見つめていた。余りにもじっと動かないままなので、目を開けたまま寝ているのかと、つい疑ってしまう。
「おかえり、ヘンリー。」
飛鳥は、同じ姿勢のまま顔だけヘンリーの方へ向けた。そして、ちょっと小首を傾げて考えた後、
「きみ、絵は得意? 」
と、ベッドからもそもそと下りて、傍に置いてあったスケッチブックをヘンリーの前に広げた。

 そこに描かれた絵を見て、ヘンリーは思わず長い指で口を押え、肩を震わせて笑いを噛み殺す。
「可愛い、犬だね。」
「これ、馬のつもりなんだけど。」
 ヘンリーの反応に、飛鳥は、残念そうに苦笑いする。
「馬なら、こんな感じじゃないかな。」
 ヘンリーは、飛鳥から鉛筆を借りると、サラサラとその横に馬の絵を描いていった。
「すごいなぁ。きみ、絵も上手いんだね。」
 飛鳥は、どすんとベッドに腰を下ろすと、大きくため息をついた。
「コンクール用のアイデア、決まったんだけど、僕のこの絵の不味さがネックでさ。」
「どんなことをするの? 」

 トントン、とドアがノックされる。
「点呼です。ヘンリー、アスカ。」
「はい! 」
 飛鳥は急いでドアを開けた。

 消灯後の、窓からの月明りに照らされた薄暗い部屋で、
「明日、試作品のデモテストを手伝ってくれる? 」
 飛鳥はベッドに腰かけ、遠慮がちに恐る恐る聞いてみた。
「いいよ。明日は、早めに戻って来る。」
 ヘンリーは、窓辺でバインダーの中身をぱらぱらと確認しながら返事をすると、ノートパソコンを持ち、飛鳥の前を横切って行く。
ドアを開け、廊下の常夜灯の照らすわずかの明かりの中で、ふと、振り返って微笑み、
「おやすみ、アスカ。」
と、部屋を後にした。

 避けられているわけじゃないんだ。
 飛鳥はほっとして、ベッドに寝転び伸びをした。
 ヘンリーが、この部屋にいることは、ほとんどなくなった。
 いつも、どこに行っているのかもわからない。
 前に、デヴィッドが言っていたみたいに、僕と同室だと神経が休まらないんだろうか?
 話をすることすら、ずっと減ってしまった。自分の何がいけなかったのだろうか、と、色々と思いを巡らせてみる。が、これといって思い当たることは見つからなかった。
 校内で会ったり、食事の時には、今までと何も変わらないような気がする。
 もっとも、そんな時、ヘンリーはいつも大勢に囲まれていてゆっくり話なんかできなかったけれど。
 幾ら考えたって、判らないものは判らない。明日、聞いてみよう……。
 飛鳥は、再びベッドに胡坐をかいて座り直し、薄明りの中、部屋の空間をじっと仰視した。



「日本市場が開くまで、少し寝ておきたい。始まったら、起こしてくれ。」
 ヘンリーは、ロレンツォの部屋の一人掛けソファーに座り、身体を深くもたせ掛けると目を瞑る。
「OK。」
 ロレンツォは、ちらりと時計に目をやった。
 もう、2時間もないじゃないか……。
 ヘンリーは、あっという間に微動だもせず、静かに寝息を立てていた。
 せめて、ネクタイくらい外せばいいのに。この英国人め!
 ロレンツォは、頬杖をついたままそっとヘンリーを眺める。
 午後9時にNY市場が終わり、午前1時に日本市場が開くまでのわずかな間に仮眠を取る。
 こんな生活がここ暫く続いていた。
 予想より、住宅市場の崩壊のスピードが速い。前倒しで空売りを入れていく。
 ヘンリーにそう言われて、5月になってからの二人は、ほとんど一晩中株価を睨み続けている。
 ロンドン、NY,東京の主要市場の指数先物に分割して空売りを入れ、オプションを買う。
 だが、未だに、株式市場には、崩壊の兆しは見えなかった。

 ヘンリーのロレンツォに対する物言いは、相変わらず冷たく、辛辣だ。
それでも、こうして自分の前で無防備な姿を晒してくれるほどには、信頼してもらえるようになったのだろうか?
 ロレンツォは、ヘンリーの寝顔を眺めながら、つらつらと思考を巡らせる。
 大体、ヘンリーはコンピューターの自動売買取引アルゴリズムをしているのだから、夜中に起きて市場を監視する必要なんてないじゃないか。
 これは、俺のテストだな……。
 どこまで、従えるか。ついていけるか。
 それから、どれだけ金に翻弄されずにいられるか。
 それから……。
 それとも、これだけ稼いでもまだ足りないほどの巨額の資金がいるのだろうか?

 ロレンツォには、未だにヘンリーの考えることが読めなかった。


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