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胡桃の中の蜃気楼 作者:萩尾滋

第二章

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  春の訪れ2

 時計の針が午後9時を差した。
パソコンから目を離し、ほっと息を継ぐ。
「そろそろ、落ち着きそうだな。」
ロレンツォは、取引時間を終え、動かなくなったパソコン上のNYダウ指数チャートにちらりと目をやり、疲れきって肩で息をした。
「マーレイは、11月からもう、20%以上下落している。まだ、やるのか? 」
「まだ序の口だ。」
 ヘンリーは、煙草を銜えたままソファーにもたれ、面倒くさそうに答える。
「いつまで? 」
「マーレイ銀行が破綻するまで。」
「いくら俺でも、そこまでは面倒みきれないぞ。」
ロレンツォは、真剣な表情でヘンリーをじっと見つめた。
「ルベリーニは、意外に堅実だな。賭け事好きのアーネストは、マーレイ銀行のCDSを買いまくっているっていうのに。」
ヘンリーは、ロレンツォを揶揄するように口の端を上げて嗤う。
「それにきみ、誤解しているよ。別に、僕やきみがマーレイを潰す訳じゃない。マーレイがその種を自ら仕込み、僕たちは、花が咲くのを待っているだけ。自然の摂理だ。」

 去年の夏、突然顕在化したアメリカ発の金融危機は、英国や欧州の金融機関に少なからぬダメージを与えた。半年たち、やっと落ち着きを見せてきたとはいえ、世間は漠然とした不安に包まれたままだ。
 金融に深く係るルベリーニの一族も、当然、無傷とは言えず、早々に世界中の投資先から資金を引き揚げ、様子見に徹している。

 ヘンリーは、ガイ・フォークスの行事の後、マーレイ銀行に空売りを仕掛け、株価は23%下落した。
 ロレンツォには、嫌がらせに対する私怨としか思えない執拗な売り仕掛けも、マーレイ銀行の抱える膨大な不良債権と脆弱な財務体質ゆえだと言われると返す言葉もない。
 石塀に囲まれ、世間から隔絶した寮生活を送っていると、世の中の動きを肌で感じる感覚が鈍ってくる。
 ヘンリーの行動が、憎しみに起因するのか、それとも世界の流れに沿ったビジネスなのか、ロレンツォには、判断がつかない。
 どちらにしても、ヘンリーのすることには、容赦がなかった。

 これ以上は、僕の一存では無理だ。
その一言を口にしたらきっと、役立たずとか、能無しとか、ありとあらゆる罵詈雑言にも勝る冷ややかな目で、見られるんだろうな。
ロレンツォは、自分の想像に苦笑しながら、全身を満たす高揚感に身震いした。
悪魔に魅入られた気分だ。
「きっかけが欲しい。長期戦になると古参を押さえきれなくなる。」
「なら、夏だな。入るのは、夏からでいい。」
ヘンリーは、煙草を揉み消すと、そのまま気怠そうに深くソファーに凭れ掛かった。

「そういえば、一人部屋に空きが出たんだったな。そっちに移ろうかな。アスカと一緒じゃ、自由に喫えない。」
「そういえば、なんであんたのところだけ二人部屋なんだ? 最終学年なのに。」
「お目付け役。」
「どっちが? 」
「僕に決まっているだろう。」
馬鹿なことを言うな、とばかりに、また冷たい視線に晒される。
「ああ、そうか。」
 保護者からアジア人留学生の余りの多さに苦情が出て、去年からアジア地区からの留学生の募集を制限しているとか言っていた。要は、いじめ対策か。

「なら、俺が替わってやろうか? 」
ロレンツォは、まんざらでもなさそうな顔をして言った。
ヘンリーは露骨に嫌そうな視線を向ける。
「アスカは放っておいたら、食べない、寝ないですぐ倒れるぞ。ガイ・フォークスの時だって……。」
ロレンツォは、言いかけて瞳を泳がせ、口を噤む。
「何だって? 」
険のある瞳で睨まれ、ロレンツォは口ごもりながら、
「青い顔してふらっと、まぁ、2~3回は……。その、倒れると言うよりは、いきなり死んだように寝ていた。」
「ああ、あれは、驚くな。睡眠不足が続くと、立ったままでも寝ているし、なかなか目を覚まさないし。初めは病気じゃないかと思ったくらいだよ。」
ヘンリーは、思い出したようにクスクス笑った。
「暫く、煙草は我慢するよ。きみの言う通りだ。コンクールが済むまではアスカは放っておけない。」
「あんた、意外に世話焼きだな。」
「そう見えるかい? 」
先ほどまでとは打って変わって表情を和らげたヘンリーを、ロレンツォは鼻で笑い、
「大事な投資先だものな。」
と、付け加えた。

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