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胡桃の中の蜃気楼 作者:萩尾滋

第二章

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  波乱の幕開け3

 「すまなかった」
 応接間のソファーに座って、頬を冷やしていたキャロラインに、ヘンリーは開口一番に謝った。
 キャロラインは、つんと澄ましてそっぽを向く。ヘンリーは、用事は済んだ、とばかりに踵を返し部屋から出て行こうとした。
 キャロラインは、慌ててヘンリーを呼び止める。
「アレンが、エリオットを受けるの」
「そう」
「ヘンリーがアメリカに来てくれなくなって淋しいって」
「小さな子どもの頃とは違うんだ。そんな暇はない」
 ヘンリーは、ポケットに手を突っ込んで、面倒くさそうに答える。
「さっきの、パ……。じゃなくて、女の子は何なの? どうしてここにいるの?」
 キャロラインは、ヘンリーと同じセレスト・ブルーの瞳を怒りに燃やしながら訊ねた。自分よりもずっと幼く見えるあんな小さな女の子が、ヘンリーの傍に並んで座っているなんて!自分で見たものが、信じられなかった!
「スミスさんの養女。出張の間、ここで預かっているんだ」
 表向きサラの扱いはそういう事にしてある。ヘンリーはキャロラインの高慢な物言いに、ひたすら我慢しながら答えていた。
「ママに、言うわ。関係ない子がこの屋敷にいるって」
「それって、お前のことだろ?」
 キャロラインは、大きく目を見開いて押し黙った。
「それで、何の用? どうでもいい話はいいから、さっさと要件を言えよ」
 ヘンリーは、暖炉の傍の壁にもたれて煙草に火をつける。
 キャロラインは、ぐっと奥歯を噛み締めてヘンリーを睨み付けていたが、脱力して、
「ヘンリー、ここに座って」
 と、悲しそうに自分の隣を掌で示した。
「レイシストとは同席しない主義なんだ」
 ヘンリーは、キャロラインの方を見ようともせず、窓から覗く灰色の空にぼんやりとした視線を向けたまま答えた。さらさらとした粉雪が、細かく、絶え間なく、降りしきっている。
「動画を見たの。お祖父さまが、ストラディバリウスを貸してやるから、アメリカで弾けって」
 キャロラインは、俯いて、泣きそうになるのを堪えながら、やっと小さな声でそれだけ伝えた。
「僕に、広告塔になれって?」
 ヘンリーは、吸い殻を暖炉に投げ入れ、すぐ傍に置いてある電話横のメモ用紙に、走り書きをする
「母に渡して」
 メモをロー・テーブルに置くと、そっと顔を上げ、涙の溜まった睫毛を瞬かせて上目使いでヘンリーを見つめるキャロラインに一瞥をくれることすらなく背中を向け、内線ボタンを押した。
 そして、ノックの音と共に現れたマーカスに、
「御客様のお帰りだ」
 と一言告げると、そのまま部屋を後にした。

 ロンドンに向かうハイヤーの中で、キャロラインは、茫然自失して、力なく背もたれにもたれかかっていた。何も考えたくない。それなのに意思に反して空ろな頭で、記憶の中の兄を探している。

 年に一度、クリスマスに会う二つ年上の兄は、映画やアニメに出てくるどんな王子さまよりも綺麗で、優雅で、キャロラインの言うことを何でも聞いてくれる優しい兄だった。
 その兄が、パブリックスクールに入学した年を最後に、アメリカに来ることがなくなった。母に聞いても、勉強が大変だから仕方ないというだけで、取り合ってくれない。
 そのうち、動画サイトに兄がヴァイオリンを弾いている姿がアップされた。二年ぶりに目にした兄は、変わらず優雅なキャロラインの自慢の王子さまだった。
 やっと、叔母の英国旅行のおまけで、兄に会いに行くことを許してもらえたのに。
 演奏会で、失敗した。叔母にも、それは、あなたがいけないわ。と、叱られた。
 何が悪かったのか、未だに判らない。兄の屋敷でも、何故叩かれるほど兄を怒らせたのか、何故あんなに冷たくされたのか、まるで判らない……。
 キャロラインの目から大粒の涙がこぼれ落ちた。涙に邪魔されて曇った視線を、兄から受け取ったメモに落とす。

 約束をお忘れですか?

 そこに書かれていたのはそれだけ。
 母に聞けば、兄が何故怒っているのか教えて貰える?
 久しぶりに会った兄は、誰よりも美しくて、傍にいるだけで緊張して震えがくるほど威厳があって、今まで出会ったどんなセレブよりも素敵だった。
 クラスメイトの誰もが羨ましがる自慢の兄。
 どうして、昔みたいにわたしを見て、笑いかけてくれないの?

 キャロラインはこれ以上我慢できずに嗚咽し始めた。
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