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胡桃の中の蜃気楼 作者:萩尾滋

第二章

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  クリスマス・マーケット9

 「回り道をしてハイストリートのツリーを見てから帰ろう。」
 ヘンリーはそれだけ言うと、後は一言も口をきかずに飛鳥と肩を並べて歩きだした。
 夜空には、満月がぽっかりと浮かび、大聖堂の上方彼方から冴え冴えとした月光を降り注いでいる。
 人通りもまばらになり、辺りを煌々と照らしていた店舗の明かりも絶え、ハイストリートの中央に置かれたツリーだけが、人々を見守るように華やかな小さな光を瞬かせている。
 その下で、わずかに残る観客を前にクリスマス・キャロルが演奏されていた。
 飛鳥は足を止めて、少し離れた場所でその歌声に耳を傾ける。
 ヘンリーは、飛鳥の後方で、すでに閉店している店の壁にもたれて脱力していた。

 そのとき、向いのパブの扉が開かれ、店内の喧噪が流れ出てきた。と、同時に強い明かりが、ロールスクリーンの下ろされたウインドウにくっきりと飛鳥の漆黒の影を刻んだ。
 身じろぎもせず、淋し気に立ち竦むその繊細な影に、ヘンリーはそっと身を傾げて唇を落とした。
 唇に冷たい窓ガラスが当たり、影は消え、辺りはまた薄ぼんやりとした闇に戻る。

 ヘンリーは狂おしい衝動に駆られて、ツリーの前での演奏を終え、片付けようとしている男の前に歩み出た。
「リクエストを。『荒野のはてに』。」
 そして、ポケットから50ポンド札を取り出し差し出した。
 その男は、首を振るとヘンリーの手を押し返し、自分のヴァイオリンを突きだした。
 ヘンリーはそれを受け取って、クリスマス・キャロルを奏で始めた。
 その、月光のように冴えた、それでいて柔らかく暖かい音色に合わせて、その場にいた数人が歌い出す。帰り道を急ぐ人々も足を止め、その歌声に加わっていく。パブからも、バラバラと人が出てきて、合唱に加わった。通りに、神を称える歌声が満ち溢れ、さざ波のように広がっていった。

 ヘンリーは2度演奏し、人々の称賛と抱擁を微笑んで受け入れた。

「ありがとう。こいつからこんな音色が聴けるとは、思わなかった。」
 男は自分のヴァイオリンを受け取りながら、恥ずかしそうに言った。
「いいヴァイオリンだ。英国製だね。僕のも英国製だよ。」
「イタリア製じゃないのか? あんたのなら、てっきりストラディバリウスかなんかかと……。 」
「まさか。イタリアのものは神経質で好きじゃないんだ。気心知れている相手が一番さ。」
 ヘンリーは、折りたたんだ50ポンド札を男の胸ポケットに差し入れ、
「どうもありがとう。神のご加護を。」
 と、微笑んで、その場を後にした。

「今までで、一番感動したよ。」
 群衆の抱擁から解放されたヘンリーに、飛鳥はやっと笑顔で告げる。
「ヘンリー、今日は本当にごめん。僕は、どうかしていたんだ。きみに不愉快な想いをさせて本当に申し訳なかった。」
「いいんだ。僕は、返って嬉しかったよ。やっときみの友人として認めてもらえた。」
 ヘンリーは、いつもと変わらない柔らかい優しい笑顔で答え、飛鳥の髪を梳き上げるようにして頭を撫でた。
「大丈夫だよ。そんなにしょっちゅう熱を出したりしないよ。」
 飛鳥は口を尖らせてヘンリーを見上げた。
「じゃ、早く帰ろう。僕はまたお腹がすいてきたよ。寮まで競争するかい? 」
 ヘンリーはクスクス笑いながら駆け出し、振り向いて、掌を上に向けひらひらと誘うように促した。
「敵うわけないじゃないか! 」
 飛鳥も、笑いながら、ヘンリーの後を追って走り出した。


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