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胡桃の中の蜃気楼 作者:萩尾滋

第二章

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  クリスマス・マーケット5

 十二月に入ると、ウイスタン市街地のハイストリートは、イルミネーションに彩られ、通りの中央に大きなツリーが飾られる。
 月の半ばまで、大聖堂の周辺でクリスマス・マーケットが開かれるので、普段なら、とっくに人通りの絶える六、七時になっても、多くの人々が行き交い、華やかで、浮き立つような喧噪に包まれ、クリスマスムード一色となる。

「コンサートが終わったら、マーケットへ行こう。 ウイスタンのクリスマス・マーケットは規模の大きさや、催し物の多彩さで、国内でも有数の人気観光スポットなんだよ」

 夕方からのコンサート本番を控え、詰めのリハーサルに向かう準備をしながら、ヘンリー・ソールスベリーは、杜月飛鳥に声をかけた。
 ベッドに腰かけたまま、難しい顔をして考え込んでいた飛鳥は、それには答えずに、ヘンリーに質問した。
「コンサート、花束でも、持っていった方がいいのかな?」
「僕に?」
 ヘンリーは、嬉しそうに笑った。
「それは、どうもありがとう」
 機嫌の良さそうなヘンリーに勇気付けられ、飛鳥は、言いにくそうに、頼まれていた事を口にしてみた。
「もしも……。もしもだよ、カーテンコールで、ロレンツォがきみに花束を渡したら、きみは受け取る?」
 ヘンリーはクスッと笑って、
「受け取るよ。もしかして、前に言ったこと、気にしていた? 僕も、昔のことを根に持ちすぎだった、て反省しているんだ。今はもう、同じ寮の仲間なんだし、気持ちを改めたよ」
 思いがけないヘンリーの返答に、飛鳥はほっとしたように笑って、
「良かった。えっと、どうしたらいい? コンサートが済んだら……」
「楽屋口で待っていて」
 飛鳥が頷くと、ヘンリーは、じゃ、また後で、と部屋を後にした。

 『彼が、きみを介して僕に近付こうとするなら、容赦はしないよ』と言うほど、ロレンツォのことを毛嫌いしていたのに、意外なほどまともな返事が貰えて、飛鳥は心底ほっとしていた。
 ヘンリーが彼を嫌う理由も、なんでそこまで? て思うような些細な事だったし、ロレンツォ自身も、明るくて気さくで社交的ないい奴なのに、ヘンリーの、自分と、ロレンツォに向ける視線が違いすぎて、いつも彼に申し訳なく感じていた。

『迷惑ならしないから』と、花を渡してもいいか訊いて欲しいと、ロレンツォに頼まれた時、これは、僕を介して近付こうとする、の範疇に入るのかどうか、随分と迷ってしまった。だけど、やっぱり訊いて良かった。
 飛鳥は、さっぱりした顔で授業に向かう。
 ヘンリーたち音楽クラスは、朝から授業を抜けてのリハーサルだけれど、一般の生徒は、課外授業はカットになるが、後は普段通りだ。

 数学で、会えるかな。

 飛鳥は、ロレンツォの喜ぶ顔を想像して、階段を飛ぶように掛けて行った。



「舞台と役者が揃ったよ」
 音楽クラスの面々がそれぞれの楽器を抱えて市街地にある劇場に移動する途中、学舎の門前ゲートの中で、すれ違いざま、ヘンリーはエドワードに早口で告げた。
「今日?」
 エドワードの問いにヘンリーは無言で頷き、皆の後を追って足早に通り過ぎた。



「アスカ、本当にありがとう」
 ロレンツォは、顔を紅潮させて隣に座る飛鳥に何度もお礼を言った。
「あれ? 花は持ってこなかったの?」
 手ぶらで座るロレンツォに、飛鳥はきょとんとした顔で訊ねた。
「ここ、暑いだろ。傷むと嫌だから、外で持たせているんだ」

 持たせているって、誰に?

 怪訝そうな飛鳥に、ロレンツォはニコニコと笑って言った。
「心配しなくても、今回は失敗しないように色々考えたんだ。赤い薔薇は止めたよ。プロポーズするわけじゃないしね。ヘタなことをしたら、また受け取ってもらえなくなる」
「大丈夫だよ」
「すごく、緊張しているんだ」
 ロレンツォは、じっと手を組み合わせて、未だ幕の上がらない舞台を凝視している。
 好きっていうよりも、憧れ? 尊敬? ちょっと違うかな……。
 飛鳥は、ロレンツォの真剣な眼差しに、恋だの愛だのとは違う一種のストイックさを感じて、心の中で、ロレンツォ、頑張れ! と呟いた。

 開演のブザーが鳴る。
 会場は、満席で立ち見客までいる。
 燕尾服姿のヘンリーの登場に、会場から一斉に拍手が上がる。
『ベートーヴェン、ヴァイオリン協奏曲二長調作品61』

 ははっ、ヘンリー絶好調だ。
 あんなに悩んでいたのが嘘みたいだ。一人で弾くときと同じように、いや、それ以上に楽しんでいる。
 そんなににやにや笑いながら弾いていたら可笑しいよ、て注意したのに、「そう?」と言っただけで、やっぱり笑いながら弾いている。
 だけど、このオーケストラは、ヘンリーが引っ張っているんだ。視線で、僅かな所作で、全体を統制している。ヘンリーだから、みんな安心してついていける。
 やっぱり、すごいな、ヘンリー。
 隣に座るロレンツォは、始まった時と同じ姿勢のまま、長い上品な指を、固く組み合わせて祈るように身じろぎもせず舞台に見入っている。

 四十分を超える曲を終え、劇場が拍手と歓声で沸き返る中、ロレンツォは席から立ち上がり、正礼装の燕尾服の上からカレッジ・スカラーのガウンを羽織った。
 飛鳥は、ロレンツォを見上げ、その手を一瞬だけ、ぎゅっと握った。振り向いたロレンツォは、真剣な瞳で頷くと、急ぎ足で舞台に向かう。その後ろを花束を抱えた黒ずくめの男が追従した。

 舞台上では、袖から出て来た菫色のワンピースを着た女の子が、ヘンリーに花束を渡していた。




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