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胡桃の中の蜃気楼 作者:萩尾滋

第二章

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  波乱の幕開け4

 クリスマス休暇を終え、寮の自室へ戻ってきたヘンリーは、まだ日も暮れていないのに、ベッドで昏々と眠る杜月飛鳥をみて、苦笑した。
 ヘンリーはベッドに腰かけ、その長い指でさらさらした飛鳥の黒髪を梳いて、声を掛ける。
「アスカ、起きろ。話があるんだ。」
「ジェームズ、もう少し寝かせて。もう、いいだろ?」
「何が、いいんだ? 」

 頭上で響くイラついた声に、飛鳥は寝ぼけ眼を擦って目を開ける。
「お帰り、ヘンリー。新年おめでとう。」
 飛鳥はだるそうに身を起こすと、そのまま壁にもたれ、眩しそうに目を細めた。
「顔色が悪いな。」
 ヘンリーの言葉に飛鳥は頷いて、眠気を覚ますように、顔をごしごしと擦った。
「三日間、徹夜だったんだ。」
「デヴィッドとゲームでもしていた? 」
 プレップの頃、よく徹夜で付き合わされたことを思い出し、ヘンリーは尋ねる。
 飛鳥は首を振って、
「デヴィッドの家には、挨拶だけして、友達のフラットに泊めて貰っていたんだ。」
「友達? イギリス人の? 」
「ジェームズは、取引先の日本支社に出向していたエンジニアなんだけどね。クリスマス休暇で戻って来ていて、僕が日本を出る前から、こっちで会おうって、約束していたんだ。
 だけど、彼の担当しているスクリプト開発が遅れていて、イギリスの本社はもう休暇中だったし、スカイプで日本支社と繋いで、正月明けまで掛かりっきりで、僕も通訳とか、手伝っていたんだ。おまけに、最後の最後でバグが出て……。」
 飛鳥はすっかり眠気も覚めたようで、瞳を輝かせて話込む。
「それで、他人の手伝いで寝ていないのか? 」
 ヘンリーが呆れたように言うと、
「楽しすぎて眠れなかった。本当に、すごかったよ。世界に名だたるインド人エンジニアの実力を見せつけられた完璧なバグフィックスだった。ジェームズは、インド育ちで、イギリス人とのハーフなんだ。それに、家族で過ごすクリスマスにラザフォード家にお邪魔するのは気がひけていたから、助かったよ。」
 飛鳥は、さっぱりとした顔で微笑んだ。

 ヘンリーは無表情のまま立ち上がった。
「まだ門限まで時間がある。外に食事に行こう。どうせ、また、ろくに食べていないんだろう?」
 飛鳥は、上目使いにヘンリーを見上げる。
「まだ眠いなんて言うなよ。ちゃんと食事を済ませたら、シューニヤからの預かりものを渡してあげるよ。」
 ヘンリーは澄ました顔で微笑んでいる。
「シューニヤから、僕に? 見せて! 」
 飛鳥はベッドから飛び降りると急いでくしゃくしゃの衣服を整え始めた。
「食事が先だよ。」

 今日のヘンリーは意地悪だ。いつもは、どうでもいいふうに、無表情で機械的に口に運ぶだけなのに、わざとゆっくりと楽しそうに食事している。
 時間もまだ早いせいか、学校から少し離れた場所にある小さなパブは、客もまばらで静かに食事することができた。
 飛鳥はテーブルに置かれたマッシュルームとチキンのパイを切り分けながら、ヘンリーを恨みがましく一瞥した。ナイフを入れた箇所からハーブの香りが広がり食欲を刺激する。別添えのグレイビーソースをたっぷりとかける。諦めて、一口、口にする。

 身体に活力が戻って来る。
 そういえば、こんなまともな食事久しぶりだ。
 飛鳥は、ほっと、ため息を付いた。
 僕は、まだ日常に戻れていなかったんだ。

 ヘンリーは、寝る事にも食べる事にも無頓着で、何もかもがつまらなそうな顔をして毎日を過ごしている。周りからの称賛も、先生方の期待も、張り付いたような笑顔で、7割の愛想の良さと3割の冷淡さで受け流す。
 普段はそうなのに、時折こんなふうに、飛鳥をパブでの食事や、アフタヌーン・ティーに誘った。
 そんな時、飛鳥は、これが本来のヘンリーなんだろうな、と漠然と感じていた。
 ティーバッグで入れる慌ただしい紅茶とは違う、ゆったりと丁寧に入れられたお茶を楽しむ時間や、胃を満たすためではなく、楽しむための食事。
 ヘンリーにとって、自分を見失わないための大切な儀式。

 でも、今日は、僕のためだ。
 僕はすぐに流されてしまうんだな。
 飛鳥は自嘲的に唇の端を上げて笑った。忙しいと何もかも忘れて没頭して、終わると、また何もかも忘れて呆けてしまう。その繰り返しだ。

「ありがとう。」
 ヘンリーは、微笑んで、何が? というふうに眉を少し上げた。
「誘ってくれて。」
「どういたしまして。」
 飛鳥は、今まで残っていた緊張をやっと解きほぐして、眼前の料理に集中した。

 寮に戻り、やっとシューニヤからのプレゼントを渡して貰えた。飛鳥は、箱を開けて、怪訝そうな視線をヘンリーに向ける。
「これって……。」
 箱の中には、飛鳥がヘンリーにあげたクリスマス・プレゼントが入っていた。
「スイッチを入れて。」
 箱から取り出し、言われた通りにする。
「……。! 」

 違う! 僕が作ったものとは違う!
 飛鳥が、長い間探し求めていたものがそこにはあった。
 明るい電気の下で、はっきりと識別できる映像。透けては見えるけれど、まるで精巧な色ガラスで作られたようなヘンリーのミニチュアが台座に立っている。

「どうして? 」
 飛鳥は唇を震わせ、今にも泣きそうな顔で呟いた。
「どうして、こんなものが作れるの? こんな短期間で……。」
 がっくりと肩を落とし、崩れ落ちそうな飛鳥に、ヘンリーは困って言いよどんだ。
「つまり、きみだけじゃないってことだよ。この分野の研究をしているのは。」
 飛鳥は涙の溜まった目をいっぱいに見開いた。
「でも、使ってあるのは、きみのガラスだよ。
 きみのガラスがなければ、作れなかった。」
 飛鳥は眉をしかめてぎゅっと目を閉じる。涙がこぼれ落ちた。
 ヘンリーは、飛鳥の涙を優雅な指先で拭き取り、その頭を掻き抱いた。
「僕たちと一緒に作ろう。」

 飛鳥は、肩を震わせてむせび泣き始めた。
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