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胡桃の中の蜃気楼 作者:萩尾滋

第二章

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  クリスマス・マーケット4

 土曜日の午後、ヘンリー・ソールスベリーは寮の自室でヘッドフォンを付けたままヴァイオリンの練習をしていた。だが、弓を構える度に、すぐに下してしまう。
 眉を顰めてはため息を付き、とうとうヘッドフォンを外してしまった。
「アスカ、音を出しても構わないかい?」
 と、再びヴァイオリンを構えた。ヘンリーがこの部屋で、演奏することは今までになかったので、飛鳥は少し驚いて頷いた。
「ああ、やっぱり、防音室に行ってくる」
 ヘンリーは憂鬱そうな顔で、締め切った窓にもたれた。
「僕も聴いてもいい?」
 飛鳥がおずおずと尋ねると、
「構わないけど、ヘタだよ」
 と、ヘンリーは、情けなさそうに笑った。



 寮の一階にある自習用の防音室で、ヘンリーは録音されたディスクをかけ、それに合わせて弾き始めた。

 どこがヘタなんだろう?

 いつもと変わらない滑らかな演奏に聴きほれながら、飛鳥は不思議に思う。
 普段のヘンリーは自分を卑下するようなことは決して言わないのに。
 だが、またもやヘンリーは、途中で止めてしまった。
「やっぱり、無理だ」
 ヘンリーは、飛鳥を見て苦笑し、言い訳するように言った。
「次のクリスマス・コンサート、ソリストに選ばれたんだけれど、僕は、オーケストラと合わせたことがないんだ」
 ヘンリーは、ディスクを止め、
「楽譜通りに弾くと、どうしても合わないんだ。オケのテンポはいつも遅れているし、指示通りに弾かないからバラバラで、どうしようもない」
 と、ため息をついた。
「もう、拷問だよ。うちの学校(ウイスタン)のオケは……。エリオットの時は断っていたんだけれど、さすがに今回は、音楽スカラーだし断れなくて」
 と、無伴奏で弾き始めた。

 ヘタって、オーケストラの方か! 

 確かに、一人だとなんて気持ち良さそうに弾くんだろう。楽器を演奏しているというよりも、陸に上がった魚が水中に戻って、自由に泳ぎ回っているみたいだ。
 だから、天使って、言われるのかな。ヴァイオリンを持っている時だけ、翼を取り戻して空に羽ばたき、束の間の自由を得る……。

 一楽章弾き終わったヘンリーに拍手して、
「気持ち良かった?」
 と、聞くと、ヘンリーは、嬉しそうに頷く。
「きみが音楽は言葉だっていう意味、少し判るような気がしたよ。発音や文法が間違えだらけだと、きみは、本当は、会話するのが嫌になるんだね」
「会話?」
 ヘンリーは、、オウム返しに繰り返し、そういえば、ヴィオッティ先生にも言われた、と、最初の授業を思い返した。
「きみは、僕が日本語から英語に翻訳するために必死に単語を探している間も待ってくれるし、文法や発音の間違いもさりげなく直してくれる。
 僕の拙い英語でもなんとか会話が成り立つのは、きみが辛抱強く、判ろうとしてくれていたからなんだね。僕が、きみと同じレベルで会話できる相手だったら、我慢しないで、一人の演奏の時みたいにもっと自由に話せるのに」
「僕は、我慢なんてしていないよ。発音や、文法と会話している訳じゃない。きみの意見を聞きたいんだもの」
「ありがとう、ヘンリー」
 飛鳥は、少し恥ずかしそうに笑った。
「もう一回、合わせてみるよ」
 ヘンリーは、ディスクのスタートボタンを押し、ヴァイオリンを奏で始める。

 そうか、間違えてもいいんだ。聴いているのはサラじゃない。ちゃんと相手の音を聴いて、テンポが遅いなら、僕もゆっくりと、弱すぎる時は、引っ張り上げて、走り過ぎる時は、引き締めて……、会話するんだ。でも、音を間違えるのだけは、勘弁してほしいな。

 ヘンリーは、弾きながらクスリと笑ってしまった。

 今まで一度だって、他人の音を聴こうとしたことがなかったなんて!

 先生と演奏した時でさえ、僕は先生の音を聴いていなかった。先生が僕に合わせてくれている事にさえ、気付いていなかったんだ。

「サラはすごく耳が良くてね」
 ヴァイオリンを置いたヘンリーは、愉快そうに言った。
「少しでも間違えると、ピッと眉を寄せるんだ。こんな風に」
 ヘンリーはしかめっ面を崩して笑い出した。
「僕はそれが怖くて怖くて、必死で練習したよ。間違えないように。サラが聴いている訳じゃないんだから、もっと気楽にやれば良かったんだ」
 ヘンリーは、椅子に座り込むと、頬杖を付いて深く深呼吸した。
「サラのためのヴァイオリンしか、知らなかったから。こんなめちゃくちゃな演奏を楽しんでいる自分が信じられない」
 ヘンリーは飛鳥に、柔らかな、優しい視線を向けて微笑んだ。

 “シューニヤ”が、サラが、ヘンリーの左腕の彼女なんだ……。

 ヘンリーが、全てを捧げて愛している人。
 今まで、自分とは無縁の、理解できない感情でしかなかったヘンリーの想いが、少し判った気がした。
 相手が、“シューニヤ”なら……。あんな人は、この世に二人といない。

 飛鳥は、ヘンリーから顔を逸らせて、ぎゅっと目を瞑った。
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