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胡桃の中の蜃気楼 作者:萩尾滋

第二章

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  波乱の幕開け2

 ちらちらと雪が舞い降りているガラス張りのドーム天井の下の、季節を忘れさせてくれる熱帯植物に囲まれたラタンソファーで、ヘンリーはサラと、午後のお茶を飲んでいた。
 この休暇中かかりっきりだった必要な調査を一旦終え、やっと一息付ける。
 明日にはもう、学校に戻らなければならない。今日中に、できうる限りの手筈を調えておかなくては……。
「サラ、アスカは、僕が『杜月』を買収するのも、融資することも喜ばないと思うんだ。アスカは、ああ見えても、プライドが高いし、借りを作るのをすごく嫌がる。それに何より、僕はアスカと対等でいたいんだ。
だから、考えたんだ。」
 ヘンリーは、サラに午前中にまとめていた書類を渡した。
「可能だと思う? 」
 サラは書類にざっと目を通し、瞳を輝かせた。
「できるわ。絶対に間に合わせる。」
「後のことは、スミスさんに任せていいかな? 僕から言うよりも、きちんとした手順を踏んだ方が、アスカも警戒しないと思うんだ。それに、アスカは“シューニヤ”の大ファンだからね。」
 ヘンリーは、サラの賛同を得て、ほっとして穏やかな笑みをこぼす。

「坊ちゃん。お客様です。」
 マーカスが困ったような顔をして立っている。こんな風に感情を表に出すことのないマーカスに、ヘンリーは怪訝そうに眉根を寄せた。
「キャロライン様です。応接間にお通ししています。」
「サラは、ここにいて。」
 ヘンリーが、慌てて立ち上がりその場を離れようと足を向けた時、大柄なマーカスの横をすり抜けるようにして、キャロラインが入って来た。
「ヘンリー! 」
 キャロラインは嬉しそうにヘンリーの名を呼び、すぐに顔をしかめて、
「どうして、ここにパキがいるの? 」
 と、マーカスの顔を睨み付け文句をつけた。

 ヘンリーは、ゆっくりと、無表情のままキャロラインの真正面まで行き、そこで立ち止まった。
 キャロラインは、嬉しそうに笑ってヘンリーを見上げる。
 ヘンリーの手が、大きく振り上げられた。
「ヘンリー、駄目! 」
 バシッ!
 サラは、驚いて叫んだが、ヘンリーの手はそのままキャロラインの頬に打ち下ろされた。よろめいて倒れ掛かるキャロラインを、マーカスが支える。
「マーカス、その女をつまみ出せ。」

 ヘンリーは吐き捨てるように言うと、サラの傍に戻り、その頬に手を当てて自分の方を向かせて真剣に目を見て謝った。
「サラ、ごめんよ。きみに不愉快な想いをさせてしまった。これだから、あいつらとは係り合いになりたくないんだ。礼儀を知らない野蛮人だ。」
「女の子に手を上げてはいけないわ、ヘンリー。」
「きみを侮辱する人間は、誰であっても許さないよ。」
「駄目よ、ヘンリー。約束して、もうこんなことはしないって。それにわたし、あんなこと気にしたりしないわ。」
 『パキ』は、南アジアの褐色の肌を持つ人達に対する蔑称だ。
ヘンリーは、子どものようにふくれっ面をしてサラから目を逸らす。
「ヘンリー。」
 サラはヘンリーの両頬を小さな手で包み込んだ。
「ヘンリー、お願い。」
 ヘンリーは、不承不承、頷いた。

「あいつのせいで、サラに嫌われた。」
「ヘンリーを嫌ったりしないわ。」
 サラは、ヘンリーの首に抱きついて言った。
「あの子も、ヘンリーのことが好きなんでしょう? もっと優しくしてあげて。」
「僕は、あいつが嫌いだ。僕の妹はきみだけだよ。僕ときみを引き離そうとする奴らは、みんな嫌いだ。」
「ヘンリー……。」
 サラは腕を緩めると、困ったようにヘンリーを見据える。
「子どものようなことを言わないで。」
「僕は、サラに初めて会った11の時から、まるで成長できていない。何一つ、変わっていないよ。きみがいないと、自分が本当に生きているのかさえ、判らなくなる。今だって、あいつらが、きみをどうにかするんじゃないかと、不安で仕方がないんだ。」
 ヘンリーは、ぎゅっと眉間に力を入れて、唇を引き結び、浅い呼吸を繰り返す。
「ヘンリー、心配しないで。わたしは、ずっとヘンリーの傍にいるし、何も悪いことは起こらない。」
 サラは、もう一度ヘンリーを抱きしめる。
「それに、ヘンリーはわたしがいないときも、ちゃんと生きているわ。
 すごく楽しそうに、アスカのことを話してくれるもの。学校のことも。アスカが来てから、ヘンリーはずっと生き生きとしている。不安な時が長かったから、今はまだ気付いていないだけ。ヘンリーはもう、無力な子どもじゃないわ。」

 サラだけが、僕にこの辛い世界を生き続ける勇気をくれる。
 サラは、僕が一生かかってもたどり着けないような高みにいるのに、サラがそこにいてくれるから、僕は未来を諦めずに済む。
 いつかは、サラみたいに、この世界を見ることができるかもしれない。
 いつかは、サラみたいに、この世界を愛せるかもしれない。
 それだけが、僕の夢。

「ごめん。ちゃんと、けじめを付けてくる。」
 ヘンリーは、いつもの穏やかな瞳に戻って、立ち上がり、サラはにっこりと頷いた。


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