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胡桃の中の蜃気楼 作者:萩尾滋

第二章

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  クリスマス・マーケット8

 「ヘンリー、ツリーまで競争しよう。」
 広場のライトアップされたスケートリンクで、飛鳥は快活に呼び掛けると、リンク向こう側に設置された大きなクリスマス・ツリーを目指して、あっと言う間に駆け出した。
 横幅はそんなに広くはないが、縦に細長くかなりの距離を滑ることができる。 
 久しぶりだ。こんなの。
 すれ違う人をぶつからないようによけながら、周囲に目を配る。電飾に飾られた街路樹や、立ち並ぶストール。滑っている人よりも、見物客の方が多いかな。
「アスカ、よそ見していると置いていくぞ。」
 リード出来ていると思っていたのに、前方でヘンリーが笑いながら手を振っている。飛鳥は慌ててスピードを上げて、追いかける。
 もう少しで追いつける、と、ピッチをあげた途端、後ろから思い切り誰かがぶつかってきた。
「ヘンリー、よけて! 」
 押し出されるように体勢を崩した飛鳥は、ヘンリーにぶつかり、支えられて、かろうじて氷上に激突せずにすんだ。

「ごめん。助かった。スケートなら勝てるかと思ったのに。やっぱり、きみには敵わないな。」
 飛鳥が息を弾ませながら言うと、
「いい勝負だったよ。」
 と、ヘンリーは微笑んだ。
「お祖父ちゃんがスケートが好きで、子どもの頃、よく連れられて滑りに行っていたんだ。
 もう一回、勝負しよう。次は、負けないよ。」
 飛鳥は息を調えながら、今来たばかりの方向を指さした。

 制限時間の一時間いっぱい滑った後、スケートリンクに併設されたカフェに座って、温かいミルクティーを頼む。
「そういえば、きみを待っていた間に、ロレンツォに会ったよ。すごく喜んでいた。これで、彼とも友達だね。」
「友達? 彼と僕は友達じゃないよ。」
「え? 」
 飛鳥は、訝し気な瞳をヘンリーに向ける。
「きみは、友達に膝まずいたりしないだろう? 彼は僕に花を渡し、僕は受け取った。これは契約だよ。」
 ヘンリーは感情の読み取れない平坦な口調で、淡々と続けた。
「それに、彼は、友達になりたいとは思っていなかったようだよ。僕は、どちらでもよかったのに。彼は僕に忠誠を誓い、僕はその見返りを渡さなければならない。きみには判り難いかもしれないけれど、欧州は、キリスト教社会は、契約社会だからね。」

「契約社会? どこが? 強者が弱者を支配する階級社会だろ? 」
 飛鳥は肩をすくめ、あざ笑うかのように唇を歪めた。
「力ずくで簡単に破棄できる契約が、契約って言えるの? 契約書を交わした後から、受注を盾にした値下げ要求、特許侵害、不当なリベートの要求、なんだってやるじゃないか。日本の国家予算規模の大企業が、たかだか数千万円の正当な報酬の支払いを惜しんで、技術を盗んでいく。植民地支配そのものじゃないか。」
 ヘンリーは、契約という単語に過敏に反応し、怒りをぶつけてくる飛鳥に驚いて目を見張った。

「どうしたんだ? アスカ。」
「きみの妹、キャロライン・フェイラー=ソールスベリー、前に雑誌で見たことあるよ。お母さんと御祖父さんと、一緒に写っていた。
 きみの御祖父さん、ベンジャミン・フェイラーは、ガン・エデン社の大株主だって知っていた? 」
 ヘンリーは、首を振って、飛鳥の唐突な質問の意味を推し量る。
「知らない。そうだとしても、数ある投資先のひとつにすぎないよ。」
「ガン・エデン社がうちの主要な取引先になってから、うちは3回倒産寸前まで追い込まれているんだ。2回は、特許を安くで買い叩かれて、それでも、なんとか持ちこたえた。3回目は……。3回目は、祖父が首を吊って保険金で支払った。
 社員20名たらずの小さな会社でも、祖父にとっても、僕にとっても家族と同じなんだ。家族を守るためなら、何だってする。」
 ヘンリーは眉をひそめて目を伏せた。
 飛鳥は唇を噛み締めて、そして何もかも吐き出すように続けた。
「それでも、あいつらの下請けを止めることができないんだ。騙されて、生産ラインを拡大した直後に受注量を半分以下に落とされた。膨大な借金だけが残ったよ。
 ヘンリー、僕みたいな子どもが特許を取っていることを、変に思わなかったの? 
 これだって、あいつらに、根こそぎ奪われないようにするためだよ。今はまだ、実用化が見えないうちは、狙われることもないけれどね。でも、最初に、きみがフェイラーだって知っていたら、特許の話はしなかったよ。ヘンリー・ベンジャミン・フェイラー=ソールスベリー。」
 飛鳥にフルネームで呼ばれ、ヘンリーは一瞬、嫌悪感を目に宿した。
「僕は、ソールスベリーだ。フェイラーの一族とは違う。アメリカ式の、そんな汚いやり方はしない。家名にかけて誓ってもいい。」

「きみはいい奴だよ。ちゃんと判っている。でも、怖いんだ、きみを見ていると。」
 飛鳥は、両手で顔を覆い隠すようにしてテーブルに頬杖をついた。
「きみは、支配階級だもの。ロレンツォがきみの手に接吻キスした時、きみは、アーサー王そのものの顔をしていた。常に高みにいて、搾取する側の人間だ。」
「僕を決めつけるな、アスカ。」
 ヘンリーは両手を伸ばし、顔を覆う飛鳥の両手を引き剥がすように握りしめた。
「僕は彼らとは違う。信じてくれ。どうすればいい? どうすれば、信じてくれる?」
 飛鳥は悲しそうに頭を振った。
「僕にも、判らないよ。」
「きみは、僕の友人だろう? きみは僕に跪いたりしない。僕を支配しようとしない。僕に媚びることも、要求することも、何か頼むことすらしない。きみと僕は、いつだって対等だっただろう? 
 僕の、友人でいてくれるかい? アスカ、それとも、僕がフェイラーの血縁だから、もう友人ではいられないのかい? 」
 ヘンリーの真剣な、それでいて哀しそうな瞳に見つめられて、飛鳥は自分の言葉を後悔せずにはいられなかった。
 いつもそうだ。自分では何もできないから、目の前にいるヘンリーにぶつけているんだ。
「ごめん、ヘンリー。本当はきみには関係ないことなのに。ただの八つ当たりだよ。きみは、僕の大切な友人だ。」
 飛鳥は泣きそうな顔で笑った。
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