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胡桃の中の蜃気楼 作者:萩尾滋

第二章

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  ガイ・フォークス・ナイト8

「何もございません。陛下」
「何も?」
「何もないところからは何も生まれぬ。もう一度、申してみよ」

 あ、ここだ。デヴィッドに教えて貰った塩のように、の場面……。
 リア王は、三人の娘に自分をどれほど愛しているか尋ね、上の二人は美辞麗句を並べて、リア王が一番愛しんでいた末娘のコーディリアだけが、見え透いたお世辞を言わないんだ。

 リア王の元になったイギリスの昔話だよ。
 昔話では、ここで、「塩のように愛しています」って、言うんだ。最後に、王様は塩抜きの料理を出されて、その味気なさを知り、『塩』が、日常に欠かせないもの、そして生きていくためにも不可欠なものだと気付くんだよ。
 だから、僕たちは、情熱的な愛情ではなくて、家族の情愛的な意味で、この言葉を使っているんだ。
 リア王は、末娘の真意に気付いた時には遅すぎたって、悲劇だけどね。

「若くして、これほどつれないのか?」
「若いからこそ、陛下、真実です」

 すごいな、デヴィッド。可愛い女の子にしか見えないよ。それに、なんてよく通る声。

 舞台上のデヴィッドは、清楚なドレスを身に着け、優雅でたおやかなお姫様そのものだ。
 シェイクスピアどころか、演劇すら鑑賞したことのない飛鳥は、本格的な豪華な衣装やセットに圧倒され、堂々としたデヴィッド達の演技に只々見惚れていた。
 午前中の発表も、かなりのレベルだった。大がかりなモニュメントや、コンサート、この劇にしてもとても2週間ででき上ったとは思えない。新学期と同時にスタートは切られているっていうのは、本当だったんだ。
 だとしても、仕方がない。ベストをつくすだけだ。


「トヅキ先輩?」
 劇が終盤に差し掛かったところで、下級生が声をかけてきた。
「何か、変更があるそうです。僕らと一緒に戻って来て下さい、て、ルベリーニ先輩から言付かってきました」
「わかった。すぐに行くよ」
 飛鳥は、下級生たちと連れ立って劇場を後にした。

「アスカが席を立った」
 後部座席から飛鳥を見守っていたヘンリーとエドワードも、急いでその後を追いかける。大した時間差はないのに、劇場前広場には、それらしい姿はもうすでにない。
「車か!」

 どこだ、今日の市街地は交通規制が敷かれていて、車で移動できる場所は限られているはず。犯罪すれすれでも、見つかったときに、問題にならない場所は……?
 学校内なら、礼拝堂、厩舎……。ヘンリーは思考をフル回転させて学内地図を思い描いた。そうか、厩舎だ!

「エド、車を呼んでくれ。厩舎だ!」
「あれの方が早いだろう?」
 エドが指さした場所には、ウイスタン校がイベントサービスの為に用意した二頭立ての4輪馬車があった。御者役の生徒はのんびりと観光客の女の子とおしゃべりしている。

「エド、きみは会場で待機していてくれ」
 ヘンリーは、ちらりとエドワードを見てそれだけ言うと馬車に走り寄り、
「すまない、一頭貸してくれ」
 素早くハーネスを外し、裸馬に跨った。
「ハッ!」
 長すぎる手綱をムチのようにしならせて、馬を叩き走らせる。

「ヘンリー・ソールスベリーですよね? 今の人」
「さぁ、どうだったかな?」
 エドワードは、呆れ顔で見送りながら、
「この馬車、これから1時間俺が貸切るよ、幾らだ?」
 と、あっけに取られている御者の方に顔を向けた。

 ウイスタン校の馬場と厩舎は、校舎からは2~3マイル離れた小高い丘の上にある。だが、市街地を迂回して、ここまでもう10分も掛かっている。
 厩舎にたどり着いたヘンリーは、柵に馬を繋ぐと、大声で飛鳥の名を連呼する。
「アスカ! アスカ!」
 馬の出払った空っぽの厩舎内を、一つ一つ見て廻る。
「アスカ!」
 干し草の陰から覗く足先を見つけ、ヘンリーは駆け寄って抱き起し、名前を呼んだ。
「ん……」
 意識はあるようだ。軽く頬を叩いたが起きない。
「薬か……」
 ヘンリーは、飛鳥に顔を寄せて臭いを嗅いでみた。
「麻薬系じゃないとすれば、トリアゾラム? フルニトラゼパム?」
 睡眠薬なら、なんとかなる。
 ヘンリーは飛鳥を担ぎ上げて表に出た。


 壁にもたれさせ、襟首を掴んで1,2発、頬を張った。
「起きろ、アスカ!」
 ヘンリーは、すぐ傍の蛇口を捻ると、ホースの先を飛鳥の口に突っ込んだ。
「飲め」
 いきなり水を流し込まれ、さすがに飛鳥も目を開けてむせ返した。
「もっと飲んで、吐くんだ」
 飛鳥は眉をしかめてぼーとしたままだ。
「ちょっと、待って」
「時間がない」
 飛鳥は、言われた通り、ホースに片手をあてて、水を飲む。
「もっと?」
 と、顔を上げた飛鳥の後頭部を押さえると、ヘンリーはいきなり指を口の中に突っ込んで舌の根元を押さえた。
「吐くんだ。全部出せ」
「……! ちょ……」
 飛鳥は身をよじってヘンリーの手から逃れると、
「無理だよ、そんな……」
「そうか」
 ヘンリーは、飛鳥を立たせて、みぞおちに一発、拳を入れた。
「う……」
 飛鳥は前のめりに倒れ、今度こそ、胃の中を空にした。
 飛鳥の背中を擦るヘンリーに、飛鳥は口を拭い、肩で息をしながら真っ青な顔を向けた。
「きみって、本当に容赦ないよね」

 ヘンリーは、地面に流しっ放しのホースを拾い上げた。
「顔ぐらい洗っておけ」
 飛鳥はその水を梳くって、口を漱ぎ、顔を洗う。
「また、制服がドロドロだよ。やっとクリーニングから戻ってきたのに」
「急げば、着替える時間くらいあるよ」
 ヘンリーはもう、馬の手綱を手に取っていて、飛鳥を促した。
 飛鳥の憎まれ口に、やっと安心したのか、いつもの柔らかな口調に戻っている。

「これに乗るの? 馬具もないのに」
 ヘンリーは、先に馬に跨ると飛鳥を引っ張り上げ、
「怖いなら、しがみ付いているといい」
 と、飛鳥をしっかりと抱え込んだ。

 未だに半分夢心地で、何がなんだか判らない。
無理やり叩き起こされたせいか、頭がズキズキする。
でも、暖かい。
 西洋人って、本当に体温高いんだ。
飛鳥は回らない頭で、そんなことをぼんやり考えていた。
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