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胡桃の中の蜃気楼 作者:萩尾滋

第二章

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クリスマス・マーケット

 「アスカ! もう戻ってきて平気なのか? 」
 学寮の玄関前でロレンツォ・ルベリーニは、杜月飛鳥に駆け寄って思いっきり抱きしめて、頬にキスをした。
 飛鳥は、上映会の夜から高熱を出し、医療棟の完全看護で過ごしていたので、寮に戻って来たのは一週間ぶりだった。
「ありがとう、ロレンツォ。すっかり元気だよ。」
 飛鳥はにっこりと微笑むと、ロレンツォの反対の頬に自分の頬を当てて挨拶を返した。さすがに、イタリア式に、ちゅっとするのは恥ずかしすぎて出来なかったが。
 肩を叩かれ振り返ると、ヘンリー・ソールスベリーが眉を顰め、怖い顔をして睨んでいた。
「ここが、どこだか判っているか? 無理にイタリアの流儀で挨拶を受ける必要性はない。きみもだ、ロレンツォ・ルベリーニ。いい加減に、英国式の礼儀マナーを覚えたらどうだい? 」
礼儀マナーに外れたことをしているとは、思っていないよ。」
 ロレンツォは、澄ました顔でうそぶいた。
「アスカ、行くぞ。」
 ヘンリーは、飛鳥の肩を抱くと急かすように歩き出した。
「相変わらず、冷たいなクラッシック・ビューティー!」
 ロレンツォは、ヘンリーの背中に、追いかけるように言葉を投げつけた。
 怪訝そうに振り返った飛鳥に、ロレンツォは笑ってウインクを投げ、手を振った。

「初めに言っておくけれど、僕はあいつが嫌いなんだ。」
 ヘンリーが渋い顔のまま呟くように言った。
「きみが彼と交友関係を築く分には、文句を言える立場じゃない。だけど、彼が、きみを介して僕に近付こうとするなら、容赦はしないよ。そのことを、判っておいて欲しい。」
「それって、きみと彼は前からの知り合いっていうこと? 」
 飛鳥はすぐ横を歩くヘンリーの顔を見上げた。青紫の瞳に影が差し、嫌悪感が満ち満ちている。
「知り合いって言えるほど、知らないけどね。」
 知らないのに嫌いって、何をしたんだよ、ロレンツォ!
「わかったよ、ヘンリー。」
 とりあえず、気にはなるけれど、人のややこしいプライバシーに首を突っ込む気にはなれない飛鳥は、承諾の返事をした。
 ヘンリーは、ふっと表情を和らげて微笑むと、飛鳥の頭を撫でた。

 拉致されたところを助けてもらったり、医療棟まで担いで運んでもらったりで、情けない姿ばかり見せてしまい、ヘンリーはすっかり僕のことを子ども扱いするようになった気がする。
 口にホースを突っ込まれるわ、腹を殴られるわで、痛い思いをしたのに、ドクターからは、適切な処置で大事に至らずに良かったと、褒められた。それだって、ヘンリーが、睡眠薬を栄養剤と間違えて飲んだと、うまくごまかしてくれたおかげで、問題にならずに済んだし。

 今回の件で、宗教問題は僕みたいな部外者が、単なる感傷で触れていい事じゃないって、よく判った。
 医療棟から寮に戻ってから見た動画サイトのコメント欄も、SNSも、完全に炎上していた。
 僕たちの映画は、人気投票で他寮を押さえて最高の投票数を得たのに、問題あり、とされて受賞を逃した。
 僕が寝込んでいる間にも、ラストシーンの内容のことで、学校側や生徒会と悶着あったらしい。だけど、全部、ヘンリーとロレンツォが矢面に立って処理してくれた。言い出しっぺは僕なのに。
 二人とも、何も言わないから、お見舞いに来てくれた下級生から聞くまで、僕はそのことさえ知らなかった。
 ヘンリーに借りを作りたくないのに、借りばかりが溜まっていく……。

 回廊に囲まれた中庭の真ん中に一本だけ植えられたケヤキは、すっかりと葉が落ち切って冬枯れていた。
 飛鳥は立ち止まり、どんよりと曇った灰色の空を見上げてため息をついた。
「早く、大人になりたい……。」
見た目が幼いことが飛鳥のコンプレックスだったが、今はそれ以上に、自身の思慮のなさ、愚かさが恥ずかしかった。
「どうした? 」
ヘンリーが振り返って、怪訝そうに立ち止まった。
 負けたくないのに……。スタートラインにすら立てていない。
「きみって、意外に苦労しているのかな? とても、貴族のお坊ちゃんとは思えないよ。見た目は、そうとしか見えないのに。」
 ヘンリーは、ニヤッと口の端を上げて笑うと、顎をしゃくって、
「急がないと遅れるよ。」
と、優しく飛鳥を促した。



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