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胡桃の中の蜃気楼 作者:萩尾滋

第二章

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  ガイ・フォークス・ナイト5

「珍しいね。きみが部屋にいるなんて。」
 自室に戻った飛鳥は、くつろいだ格好でベッドに足を伸ばし、壁に寄りかかってノートを開いているヘンリーに声を掛けた。ヘンリーはヘッドフォンをしているせいか、返事がない。
 飛鳥が目の前まで来てやっと顔を上げ、ヘッドフォンを外す。
「お疲れさま。進んでいるかい? 」
「うん。今日は、3学年が二人、手伝ってくれたよ。それにデヴィッドも。」
「そう、それは良かった。」
 ヘンリーは、また、ノートに視線を落としペンを走らせる。暫くして、飛鳥がそれ以上話かけてこないからか、再びヘッドフォンを付けた。

 飛鳥は自分の机について、横向きに腰かけ、じっと俯いたまま顔を上げることのないヘンリーを、安心して眺めた。
 どうしてみんな、こんなにもこの人に夢中なんだろう?
 デヴィッドにしろ、アーネストにしろ、寮のみんなも。寮長のロバート・ウイリアムズなんか、ヘンリーに認められたくて、キリキリしている。いつも人の輪の中心にいて、みんなの視線を集めることが当たり前のような人。

 ヘンリーは、その長い指でベッドをトントンと叩いてリズムを取ったり、人差し指を立てて指揮棒を振るように動かしたりしながら、熱心にヘッドフォンから流れる曲に聞き入っている。そして、時折、曲を止めてノートに何か書き綴っている。

 綺麗な人だってことは、確かなんだ。こうやって見ていても、見飽きることがない。ちょっとした動作で揺れる金色の髪や、伏せられたけぶる睫毛、上品な仕草、それにあの瞳。
 そのセレスト・ブルーの瞳が、いきなり飛鳥を捕らえた。
「何? 」
 と、ヘンリーはヘッドフォンを外して首を傾げた。
「えっと、その、何しているのかなって。」
「オケ用の曲をヴァイオリン独奏に編曲しているんだ。」
 と、ノートに挟んである楽譜と五線譜を飛鳥に向ける。
「すごいなぁ、そんなことまでできるの!」
 多才なのは聞いていたが、弾くだけじゃないのか!
「3歳から習っているからね。このくらい普通だよ。」
「ヘンリーの普通の基準って、どんななの? 」
「うーん、難しい質問だね。僕の場合は、まず伯爵家嫡男って階級クラスで8割判断されるだろ。そこから商家ってことで1割引。残ったうちの2割が学歴や成績、交友関係、あとの1割が僕自身。楽器の演奏ができるのは、上流階級アッパークラスでは、普通だな。編曲や作曲になると、自分の中での、できて当然のことかな。好きでやっていることだから。」
 面倒くさい!ヘンリーの? 英国人の? 思考法ってどうしてこう回りくどいんだろう……。
「自分自身が1割しかないって……。じゃ、ヘンリーにとっては、1割の自分よりも9割の肩書が大切ってこと? 」
「そうだよ。当然だろう? それが僕の階級だもの。僕が受け継ぐ土地に住む何千人もの村人は、僕が何かヘマをやらかして土地を売らなくちゃいけなくなったら、先祖代々住んでいた場所から追い出されることになる。今はもう、昔みたいに領地を統治しているわけじゃないけど、彼らにとって、僕は未だに領主さまの坊ちゃんなんだ。僕は、受け継ぐものに見合う人間に、彼らにとって、恥ずかしくない尊敬されるべき人間になりたい。それが僕の普通の基準かな。」

「きみって、いつもそんな事を考えて行動しているの? 」
「まあね。でも、よく失敗もするよ。一度、エリオットで盛大に切れちゃったよ。」
 ヘンリーは、遠くを見るように目を細めて懐かしそうな顔をした。
「そのたった一回で、今まで築き上げてきたものを全てぶち壊して、エリオットを敵に回してしまった。」
「本当は、転校したくなかったの? 」
 飛鳥はヘンリーの、どう受け取ればいいのか判らない、複雑な表情に質問を重ねた。
 ヘンリーは穏やかに笑って、首を振った。
「ここに来て良かったよ。きみに会えた。それに……。」
 思い出すかのように、天井に目をやり晴れ晴れと笑う。
「後悔はしていないよ。階級や、肩書、僕自身、全てを捨ててもいいくらい大切なひとがいるって再確認できた。」

 それがきっと、みんながヘンリーに憧れる理由。
 人の上に立つ人間としての矜持、公平さ、そのための努力……。そして、人としての理想を追いながらも、その全てを捨ててもいいほどに、誰かを愛している。その誰かに、みんな、なりたいんだ。ヘンリーの特別な一人に……。
 飛鳥は、やっと納得がいったような気がした。そして、今までずっと感じていて自分の中で説明の付かなかったヘンリーに対する嫌悪感の理由を漠然と理解した。 

「きみは、残酷なひとだね。」
 ヘンリーは唖然とした顔で飛鳥を凝視し、ゆっくりとその瞳を怒りで満たしていく。
「どういう意味だ? 」
「普通は、自分の100%で誰かを想ったりしない。
 きみにとって、その誰か以外は、塵ほどの価値もないってことでしょ? 
 毎日、そんなに頑張って築き上げていっている自分すら捨ててしまえるんなら、そんなきみを好きになることは、自虐的じゃないか。」
 デヴィッドもアーネストもそれを判っていて、でも認めたくないからあんなに不安を抱えている。
 一瞬、驚いて目を見張ったヘンリーの瞳から怒りの影がすっと消え、笑みが浮かぶ。
 今度は、飛鳥が驚く番だった。
 また、余計な事を言った、と口から出た言葉をすぐに後悔していたのに……。
「そうだよ! やっと判って貰えた。」
 嬉しそうなヘンリーを、飛鳥は全く理解できず、若干の恐怖を感じながら眺める。
「彼女は、僕の全てなんだ。初めからそう言っているのに、誰もが僕を支配したがるんだ。きみが、判ってくれて嬉しいよ。」

『ヘンリーに好きって言っちゃ、駄目だよ。彼が、最も嫌がる感情だからね。』
 デヴィッドの言葉が蘇る。友情であれ、恋愛感情であれ、受け取る気は端からない。
 ヘンリーにとって、愛は支配だ。そして、彼は支配者に全てを捧げて、他に回す情愛はないということらしい。
 こうもあけすけに言われて、飛鳥は返ってすっきりしていた。

「僕は、支配するのも、されるのも嫌いだ。自由でいたい。」

 ヘンリーは、また、驚いたような顔をしたが、すぐさま嬉しそうな笑顔で頷いた。


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