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胡桃の中の蜃気楼 作者:萩尾滋

第二章

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寮室内の蛍

 ヘンリーは、土曜の夜からまる一日半戻って来なかった。 
月曜日の朝、いつもと変わりないその姿を見て飛鳥は心底ほっとした。
「おはよう、アスカ」
 もう制服に着替え終わって、ベッドに腰かけていたヘンリーが声を掛けた。
「おはよう」

 飛鳥は曖昧な笑顔で挨拶を返し、もそもそとベッドから抜け出して、洗面し、着替え始めた。さすがに、来たばかりの頃のように、人前での着替えを恥ずかしく思うこともなくなった。それに、気遣いの人であるヘンリーは相変わらず、顔を逸らせておいてくれる。そう思って、ヘンリーを見やると、ぼんやりと自分を見つめていた。
「何?」
 飛鳥はどぎまぎして、ヘンリーに問うた。
「ああ、髪を切ったんだなと思って」
 それだけで、特に似合うとも、変だとも、感想はなかった。
 飛鳥は、どうもいつもと違うヘンリーの様子に戸惑いはしたが、土曜日のことを特に怒っている風でもなかったので、取りあえず安堵した。

 部屋から出ようとすると、
「きみは、僕のものなんか嫌かもしれないけれど、今日は全体朝礼だ。せめて、ガウンは受け取ってくれないか? 着用なしだと懲罰を受けることになる。それに、その恰好では風邪をひくよ」
と、土曜と同じガウンを肩に掛けられた。くるぶし近くまであった丈が、短く詰めてある。
 僕は、あんなに失礼なことを言ったのに……。
 ヘンリーの、いつもの支配的な命令するような視線とは違う、心配げなどこか不安そうな瞳に、飛鳥は素直に従うことにした。
「ありがとう。お借りします」
 ヘンリーは、ほっとしたように微笑し、肩を並べて歩き出した。


 食堂でも、授業でも、何の問題もなく一日が過ぎていく。嫌がらせをしていた連中はすっかり成りを潜めていた。と、いうよりも、徹底して飛鳥を無視する方針に変えたらしい。
 まぁ、プリントを貰えなかったり、ノートを捨てられたりするよりそっちの方がずっとマシかな。
 やはり想像していた以上にヘンリーのガウンには効果があったようで、今日は、土曜日のことを知らないはずの他寮生からも、からまれる事がなかった。
 どうしてみんな、これがヘンリーのだってわかるんだろう?
 スカラーのトップに与えられる銀ボタンのことを、飛鳥は知らなかった。
 こういったシステムはエリオットも、ウイスタンも同じらしい。ヘンリーのガウンは、留め具が他とは異なって銀製なのだ。
 ともあれ、このガウンが凄まじい嫉妬と羨望を招いていることに気付きもせずに、飛鳥は、今日のカリキュラムを終えた。


 部屋に戻ると大きな、見覚えのある段ボール箱が幾つも置いてあった。
「やっと届いた!」
 日本を発つ前に自分で梱包して船便で送った荷物が、二カ月を経て到着していた。飛鳥は嬉しさに小躍りしながら、早速、ウキウキと梱包を解きにかかる。

「それは、何なのかな?」
 部屋に戻るなり、ヘンリーは様変わりした自室に目を見張り、唖然として立ち尽くした。
 飛鳥の机の上には、大きなモニターが置かれ、その周辺の床には、何なのか見当も付かない機材が処狭しと、置かれている。それらの機械の真ん中に飛鳥が座り込んで、嬉々としてケーブルを繋いでいた。

 サラの部屋みたいだ……。

 マナー・ハウスのサラの部屋も、増殖するパソコン機材と幾つものコードに占領されている。
 サラも同じように床に座り込んでは、お気に入りのノートパソコンを開いていた。

「あ、おかえり、ヘンリー。」
 額の中央で無造作に前髪を輪ゴムで括った、見るから奇妙な髪型をした飛鳥が、キラキラと瞳を輝かせ、満面の笑顔でヘンリーを見上げた。

 こんな風に笑うのか……。

 今まで見てきた、臆病そうな遠慮がちな笑顔とは違う、心からの嬉しそうな飛鳥の顔を目にして、ヘンリーはまた、自責の念に駆られていた。

 飛鳥は、サラと同じなんだ。
 僕とは別の世界に生きている。自分のルールに当てはめて、勝手に期待したり失望したりして、僕はつくづく愚か者だ……。

 ヘンリーは、眉根を寄せ唇を固く閉じると、踵を返して部屋を後にした。




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