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胡桃の中の蜃気楼 作者:萩尾滋

第二章

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  廃墟の城跡8

 ヘンリーが正しくフェアであろうとすればするほど、惨めになる。
 手を差し伸べられる度に、心に見えない傷が付いていくみたいだ。
 優しさや思いやりとは違う、義務感、彼の公正さの底に、支配階級の傲慢さが見え隠れするようで、憐れみを施されている気分になる。
 だけど、ここではそれが当然の正しい、尊敬されるべき行為なんだ。
 ヘンリーが悪いんじゃない。それが英国人というもので、折り合いの付けられない自分が悪い。
 ヘンリーは、エリオットからライバル校のウイスタンに転校してきて一カ月で、能力の差を見せつけ、他を圧倒し、あっという間に自分の地位を確立した。つまり、それが彼のやり方だ。支配する側とされる側がいること、そして、どうやって支配するかを彼は誰よりも熟知している。
 僕は、そのどちらにもなれない。なりたくない……。

 けれど、自分を助けてくれようとしたヘンリーに、ろくにお礼を言わなかったばかりか、生意気な口をきいて彼を怒らせた。恩を仇で返すとは、まさにこのことだ。例え、好意からではなくても、僕はそれで助かったのに。
 制服代さえまともに払えない僕に、恥を掻かせないために、あんな提案をしてくれたのに。まともに受け取って、余計なことまで言って、輪をかけて彼を不快にさせた。これでは、嫌われて当然だ。
 英語は得意なつもりだったが、所詮、母国語じゃない。どうしても表現が直接的になってしまって、本当に言いたいことの半分も伝えられない。

 杜月飛鳥は消灯時間を過ぎても戻って来ない、ヘンリーの空っぽのベッドを眺めて枕に顔を埋めた。

 寝起きに人と会話するものじゃない。
 飛鳥は、つくづく後悔していた。


 ヘンリー・ソールスベリーは、大司教の城跡の崩れかかった石塀にもたれて、夜空を眺めていた。この時期には珍しく厚い雲の切れ間から、星空が覗いている。月が、空の高みからあざ笑うかのように、こちらを見下ろしている。
何百年も前に権政を誇った権力者の、崩れ落ちた今がここにはあった。

僕は、権力闘争には関わらない、僕は、こいつらとは違う。
そう思っていたのに、別の形で僕もその世界に組み込まれていた。
今日、思い知らされるまで、その事実に気付きもしなかった……。

「ほら、温まれ」
 砂利を踏む音と同時に、エドワード・グレイが現れウイスキーの小瓶を投げてよこした。
「グラスは?」
「あるわけないだろ」
 エドワードは、ヘンリーの横に腰を下ろしながら答える。
「変な薬入りじゃないだろうな?」
「貸せよ」
 エドワードはヘンリーの手から瓶を奪い取ると、蓋を開けてぐびぐびと飲んで見せる。ヘンリーも今度は受け取って、一口、二口と飲み下した。
「どうしたんだ? 珍しくしおらしいじゃないか?」
「自己嫌悪にどっぷり浸っているんだ」
「お前がそんな単語を知っているとはな!」
「エド、僕は傲慢かい?」
 ヘンリーは、エドワードの肩に頭を預け、もたれかかって囁くように訊いた。
「自信と傲慢は紙一重だな。だが、お前はちゃんとその境界線を心得ていると、俺は思うよ」
 エドワードは子どもにするように、ヘンリーの頭をガシガシ撫でてやった。
「誰かにそんなことを言われたのか?」
「僕の、友達のフリはできない、と」
 エドワードは唖然としてヘンリーの顔を覗き込んだ。
「なかなかの強者だな……」

 ヘンリーが、他人に言われたことで傷ついている。そっちの方が驚きだ!
 パブリックスクールに上がってから、どんな目に遭わされようと、炎のような瞳で相手を叩きのめしてきたのに!

「自己満足の親切はいらない、と。僕の無配慮な行動のせいで不快な思いをさせたのに、僕は、償うことすら許して貰えなかった」
 ヘンリーは苦しそうに眉をひそめた。エドワードは、ヘンリーの頭を掻き抱いて、
「友達のフリができないのなら、本当の友達になればいいんじゃないのか?」
 と、慰めるように背中を擦る。
「僕の傲慢さを許して貰える自信がない」

 重症だな……。今まで全く他人に興味も関心も無かったこいつが、初めて他人から手ひどく拒絶された、ってとこか。まぁ、可哀想だが、いい薬だ。

「なら、諦めろ」
 ヘンリーは、エドワードに擦りつけるように首を振った。
「じゃあ、許して貰えるまで耐えるしかないな」
 エドワードはヘンリーを引っ張り上げて立たせると、
「パブにでも行こう。酒が足りない」
と、ヘンリーの背中をバシッと叩いた。
「この恰好で?」
 ヘンリーは、胸元にエンブレムが赤で刺繍された紺のシャツに、紺のスラックスのスカッシュのユニフォームを着たままだ。
「制服よりましだろう? 」
「そういえば、お腹がすいた。昼食も夕食も食べ損ねた」
 ヘンリーは、ぽつりと呟いた。

「行くぞ」
 エドワードはヘンリーの背中を押して言った。
「次からは、外に出るときくらい私服で来いよ」
 返事がない。
「まさか、持ってないのか?」
「カレッジ・スカラーは外出時も制服着用だ」 
「おい、冗談だろ?」
 エドワードは腹を抱えて笑い、ヘンリーも釣られて苦笑する。
「次までに、買っておくよ」
そうだ、次までには……。次が、許される機会がある限り、諦めない。
ヘンリーは力を込めて、自分の拳をぎゅっと握りしめた。

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