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胡桃の中の蜃気楼 作者:萩尾滋

第二章

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  廃墟の城跡6

 杜月飛鳥の一体何がサラを惹き付けたのか、一カ月経っても判らない。
 ヘンリー・ソールスベリーは、ベッドの上で、上掛けも被らず子どもの様に丸くなって眠っている飛鳥を、侮蔑の眼差しで眺めていた。

 飛鳥が持つという特許か? 
特殊ガラスという分野に、サラが関心があるとは聞いていない。直接聞けばいいのだが、飛鳥が英国にいることは、サラには隠している。

 もうじき、サラの論文がヘンリーとの共著の形で発表される。その論文を読めば、“シューニヤ”だとわかる者がいるはずだ。サラは、数学サイト内でその片鱗を残している。サラの名前は伏せての発表だが、念のためにサラはサイトから退会させた。飛鳥との接触は、それ以降ない。

 以前、サラは『サイト内に友達がいる』と嬉しそうに語っていた。最も、その頃の『友達』は、単に自分に好意的なコメントをくれる人、の意味で気にも留めていなかった。
 わずか二、三回のチャットだと言っていたが、サラが直接会話したのは、飛鳥だけだ。自分からは決して他人と接触しようとしないサラが、何故、飛鳥にエリオットを勧めたのか? 自分に逢わせるため。それしか考えられなかった。それなのに、その理由がどうしても、飛鳥本人から見つけられなかった。
 こんなことなら、ギャップイヤーを取って、大学入学までの一年間をサラと過ごせば良かった……。
 この学校に全く馴染もうとしない、プレップ生みたいに幼稚な、寝てばかりいる飛鳥にヘンリーはとっくに愛想が尽きていた。
 わざわざアーネストに頼んで、飛鳥のガーディアンを引き受けてもらって、この体たらく。面目丸つぶれも甚だしい。

 ヴィオッティ先生に出会えたことが、せめてもの救いだ。この恵まれた機会を、せいぜい自分のために使おう……。
 ヘンリーはもやもやとした気持を振り切って、ヴァイオリンを手に取った。



 十月に入っても、飛鳥は相変わらずだった。校内で見かけても、いつも一人だ。友達らしい者もいない。与えられた環境をどう過ごすかは、自分次第だ。ヘンリーは、取り立てて無視することもなかったが、あえて声を掛けることもしなかった。

 ただ、寝ている時間は減ったかもしれないな。相変わらず夜は早いが、机に向かっている時間は長くなった。当然だ。わざわざ日本から勉強に来ているのだから、それが普通だ。

 ハーフタームを一週間後に控えた土曜日の昼だった。
 遅れてカレッジ・スカラーの食堂に入ったヘンリーは、その不自然な雰囲気に眉をひそめた。

 ウイスタンは、同じスカラーとは言っても、三ツ星レストランのシェフが作った料理を、ボーイが給仕するエリオットとは全く違っていた。
 むき出しの長テーブルと、両サイドにベンチが並んでいるだけの簡素な食堂で、食事も、自分でトレイにのせていくセルフサービスだ。教師と共に食事することもない。
 昼食時には寮監が不在なことも珍しくなく、そんな時は、カレッジ・スカラーたちのだらしない様子ですぐにわかった。

 昼食時間も終わりに近い、まばらにスカラーの残るテーブルで、声を殺した忍び笑いが聞こえる。
 テーブルの傍らに飛鳥が立ち竦んで俯いている。
 近寄って初めて、何が起きているのか理解した。

 飛鳥の足元に、彼のものであろう上着とガウンが、残飯にまみれて無残に放り出されていた。
 テーブルにいる連中はヘンリーに気付くと、誇らしそうに笑った。
 ヘンリーは、表情を変えずにその場まで来ると、自分のトレイの中身をその上に滑り落とした。
 食器が大きな音を立てて崩れ落ち、スープが飛び散る。
 ヘンリーは、振り返って飛鳥の前に立った。

「すまない、トヅキ。きみの制服を不注意で汚してしまった。僕に弁償させて欲しい」
 飛鳥は目を見張り、ヘンリーを見つめた。ヘンリーの言ったことの意味が理解できなかった。
「今からなら間に合う。外出許可を貰いに行こう」
 やっとの思いで飛鳥は口を開いた。
「その必要はありません。洗濯すれば済むことです」
 ヘンリーは、口の端を上げて皮肉に笑い、飛鳥を睨み付けた。
「きみは、僕が、自分のしたことに責任を持たない男だと?」
「必要ありません」
「どうか、僕に、僕の責任を果たす許可をくれないか?」
ヘンリーは片眉を上げ、飛鳥に見下ろすような視線を向けて、イライラとした口調で続けた。
 プリーズと言われ、飛鳥は動揺し言葉に迷った。これ以上意地を張ると、逆にヘンリーに恥をかかすことになる。

 飛鳥の沈黙をイエスと受け取ったヘンリーは、冷たく見下した視線をテーブルの寮長に向けた。
「ウイリアムズ、すまないが、きみ、ここを片付けておいてくれるかい? それから、トヅキの制服は、洗濯に出して届けてくれたまえ」
 二人は、テーブルを挟んで睨み合った。
 しばらくして、ロバート・ウイリアムズが無表情のまま、
「OK、 ヘンリー」
 と、応じたことで視線を外し、ヘンリーは飛鳥の腕を掴んで食堂を後にした。

「どうして僕らが、ヘンリー・ソールスベリーの後始末をやらされなきゃいけないのさ?」
 下級生たちは、床を拭きながらそう不満そうに言い合い、ロバートをちらちらと見上げる。
「黙っていてやるから、落とし前を付けろってことさ」
 ロバートは憮然と答える。

 ヘンリーはアスカ・トヅキを嫌っていると思っていたのに! 
 何だってあんなやつ庇うんだ!

「あいつに人種差別だって騒がれたら面倒だろ。だから僕たちを庇ってくれたのさ」
 そんな訳がない。
 だが、それ以外に周囲を納得させる理由を思いつかなかった。
 ロバートは悔しさに唇を噛んで、吐き捨てるように言うほかはなかった。
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