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胡桃の中の蜃気楼 作者:萩尾滋

第二章

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  寮室内の蛍5

 あれ? 今日はやたら同じ雑誌を持っている人が多いな……。
それに、いつもにも増して視線が痛い。赤い表紙の雑誌と突き刺さる視線の因果関係が判らなかった。飛鳥は、売店に積み上げられた『マスマティカル・サイエンス』を見てやっと理解する。
 ヘンリーの論文? 
手に取って、買うかどうしようかと迷う。
10ポンド、高いなぁ。買えない値段じゃないけど……。
 図書室においてあるかも……。
ともかく中身を読んでから、と飛鳥は、まずは図書室に向かう。


 「それ、わざわざ買ったの? 読むのならあげたのに。」
部屋に戻ってきたヘンリーが、雑誌を読みふけっていた飛鳥に声をかけた。
「これ、共同論文ってあるけれど、“シューニヤ”が書いたの?」
飛鳥は紙面に目を走らせながら、自分の口から、何気なく出たことに後から気付いて、はっと顔を上げた。
「やっぱり、きみには判るんだね。前から、知っていたの?」
ヘンリーは悪戯が見つかった子どもみたいに笑っている。
「知っていたっていうか……。“シューニヤ”っぽくて。
普通は、まず、いくつかの条件があって、その下で成り立つ結論に行きつく。
“シューニヤ”は、初めに結論を知っていて、それが内包する条件を後から指示していく、としか思えない飛躍をするんだ。最後まで進んで、初めて、何から始まったかが判る。」
「確かにそんなところがあるよ。全てを知っているようなね。普通の論文に見えるように、頑張って書いたのにな。」
ヘンリーはベッドに腰を下ろし、ごろりと寝ころがった。
飛鳥は驚いて、ヘンリーを見つめる。
「書いたのは僕だよ。定理を見つけたのは彼女だけれど。」
ヘンリーは腕を組んで顔を隠すように目の上にのせた。
「やっぱり駄目だな。簡単に見つかってしまう。コズモスもそうだって、気付いているんだろう? 」
ヘンリーは腕をどけて、飛鳥に顔を向けた。
「きみは簡単にサラを見つけてしまうんだね。サラがきみを見つけたみたいに。」
「サラ……。」
それが、“シューニヤ”の本当の名前……。
「サラに会いたい? 」
ヘンリーは、寝返りを打って横向きになった。サラリと黄金色の髪が流れる。そして感情を映さない、なのになぜか艶っぽい瞳で飛鳥をじっと見つめた。
飛鳥はどぎまぎしながら、真面目な顔で頷いた。
「駄目だよ。誰にも会わさない。彼女は、プロメテウスの火だ。それでいて、塩のように大切な人なんだ。」
それだけ言うと、ヘンリーは、「疲れた、寝る。」と、そのまま目を閉じてしまった。

飛鳥は狐につままれた面持ちで、あっという間に眠りに落ちたヘンリーをしげしげと眺めた。
 この人も大概判らないよ。
いつも几帳面で、潔癖なほどなのに、今はガウンも脱がずに着の身着のまま眠っている。て、言うよりも、ヘンリーの寝顔を見るのって、初めてなんじゃないか? こんな夕食前から寝ているのも……。
 眠っていると、本当に大天使みたいだ。起きていると恐いのに……。
 あ、でも、友達といる時のヘンリーは別人みたいに優しそうだった……。

「塩のように大切って、どういう意味なんだろう? 。」
飛鳥は、一人呟いた。
 プロメテウスの火は、化学技術のことだと思う。
でも、塩って?
『ヘンリーの宝物さ』
 ふと、去年のアーネストとの会話を思い出した。
“シューニヤ”は、お姫さまで、宝物で、塩のように大切な人……。
アーネストは知っているんだ。訊ねたら教えてくれるかもしれない。だけど、他の人に聞いてはいけないような気がした。ヘンリーの大切な人のことを簡単に口にしてはいけない。何故だか、そう確信できた。
 そして、眠れる大天使の謎かけに苦笑するほかはなかった。




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